夜明けの歌、日没の祈り

一章 春

祭司と魔女


  一章 春



 奇蹟――というものが、あるならば。

 祭司タスハにとってのそれは、人の姿をして東より訪れた。

 陽射しにきらめく金茶色の髪、あどけなさの残る鳶色の瞳をした乙女。ひなげしの可憐と柳の優美をかねそなえた佇まいに、彼は目を奪われた。

 広場に集められた住民の頭越しに見える、数十人のよそ者。その全員が、長旅の後にもかかわらず、町の誰よりも身ぎれいで生彩に溢れている。率いてきたのは剣を帯びた黒髪の青年だ。集団の端に慎ましく立つ乙女は、広場の全員と同じく、彼が口を開くのをじっと待っていた。

 青年が演壇に立つ。一呼吸の静寂。そして、よく通る声が新たな時を刻んだ。

「布告する! 今日よりここ、カトナの町は正式にワシュアール王国領となった!」

 ――彼らは征服者であった。


   *


「いやはや、連中には驚かされたなぁ。顎が閉まらなくなるかと思った」

 ハドゥンは何度目になるか、つくづくと感嘆して首を振った。絨毯に胡坐をかき、手にした茶をすする。向かいに座るタスハも、しばらく気の利いた言葉が出ず、ただうなずいていた。

 カトナの顔役である郷士カウファ家には、大勢の客が集っていた。ハドゥンの妻の実家など、郷士に次ぐ富農の当主たち。町を通るリーニ河の水運で財を成した新興名士。誰もが興奮と不安を目に宿し、今しがたの出来事と今後について、盛んに話し合っていた。

 皆、押し出しの良い壮年の男ばかりだ。中でもハドゥンはいかにも郷士らしく、がっちりした体格に黒々とした髭もたくわえ、まだ三十三歳というのに貫禄充分。上質の貫頭衣に華やかな模様織の帯、羽織った上衣は、襟と袖、裾に豪華な刺繍が施されている。

 タスハはいつものことながら自分一人がしょぼくれているように感じられ、肩をすぼめた。町にただ一人の祭司で、歳も三十路は越えているのだから、この場に加わる資格はある。だがいかんせん風采が上がらない。

 着ている祭服は清潔だが質素で、それを補えるほど恰幅が良くもない。黄土色の髪はへたり気味だし、髭も剃っている。伸ばすと貫禄どころか老人めいてしまうのだ。態度は控えめ、声も話し方もいたって静かで、友人たるハドゥンが相手をしてくれなければ、どこの会話にも加われないだろう。

 彼は祭司のしるしの角帽をいじって直し、室内をぼんやり見回しながら広場でのことを思い返した。

 東から来た征服者。二世代ほど昔、急激に力をつけ拡大してきたワシュアール王国は、魔法の国だと噂されている。民は神々を崇めず、かわりに不可思議な魔術を使うのだと。それを悪魔のわざと罵るか神の奇蹟と崇めるかは立場によるが、ともあれその力の前に、カトナを含む西方一帯の支配者ハムリ王国はあえなく敗れた。

 大きな戦ではなかった。カトナからも幾人か徴兵されたが、敵の姿を見るまでもなく、後ろの方を歩いている間に終わってしまったらしい。結果、カトナからハムリの長官が去り、入れ代わりにワシュアールの総督がやって来た――先ほどの黒髪の青年がそうだ。

 まだ若い、二十代の半ばだろう。漆黒の巻毛を短く整えて、身だしなみもこざっぱりして、感じの良い見た目だった。それは彼だけに限ったことではない。従う兵士や役人、それにあの乙女も。皆、とても清潔で健康そうだった。

 今朝は春らしい柔らかな霧雨が降って、町は煙るように濡れていた。広場の土には小さな水溜まりが残っていたが、にもかかわらず、演壇に上った青年の靴はさして汚れていなかった。薄石板の屋根がまだ乾かず黒々としているのに、彼らの髪はそよ風に戯れていた……あの金茶色の髪。さらさらと柔らかそうな。

 余計なことを考えそうになり、タスハは慌てて小さく首を振った。ハドゥンが眉を上げたので、ごまかすようにつぶやく。

「彼らが魔術を使うというのは、本当かもしれないな」

 すると幼馴染の気安さで、ハドゥンが舌打ちと共に汚い呪詛を吐き捨てた。

「頼むぜ祭司様。連中が不信心なだけで、わしらは何も変わっちゃいません、って神々にとりなしてくれよ。巻き添えで罰せられちゃ堪らん」

「ああ、もちろん。だがその祈りを許してくれたのは、当の彼らだってことを忘れないでくれよ。随分寛容なことじゃないか」

 穏便なタスハの言にも、ハドゥンは眉間の皺を消そうとしない。

「当たり前だ、こっちはあいつらに何もしてねえ。西と東が頭越しに喧嘩して、勝手にこの町を受け渡しすることに決めたんだ。本当に寛容なら卜占を禁止するか? あいつら自身は魔術を使うくせに、わけがわからん」

 むっつり唸ってハドゥンはぐいと茶を呷る。妻のシャスパがやって来て、空になった茶碗にお代わりを注ぎながら同意した。

「ええ本当、怪しげな連中ですよ。祭司様が何でも占ってくださるから、あたしら皆、安心して暮らせるっていうのに」

「心配なさらずとも、日々の事柄や吉凶を占うぐらいは構わないと思いますよ。卜占を禁じられたのは裁判です。ワシュアールの法で裁くから、神託で決めてはいけないと。まさか婚儀の日取りや赤子の命名まで、法で定められているわけはないでしょう。おなかの三人目の子も、良い名を神々に伺いますよ」

 タスハは尖った空気を和らげようと、喜ばしい話題へ水を向けた。すぐにシャスパは誇らしげな笑みを広げ、まだ兆しの見えぬ腹をさする。ハドゥンが「そりゃそうだが」と曖昧に応じ、諦め気味の表情で言った。

「卜占の禁止を除けば、他はまぁ文句を言うようなこともないからな。ちょっとした揉め事なら寄合で解決してもいいって話だし。土地も以前の王領がそのまんまワシュアールのものになっただけで、わしら地主のぶんは今まで通り。税を納める先が変わるぐらいだ。ああ、あと役所は総督府って大仰な名前になるんだっけか。あそこに勤める人間も……ありゃちょっと驚いたな、兵士とそれ以外、全部合わせても二十人ぐらいしかいないんじゃないか? 前の長官が出てった時なんか、結局百人ぐらいいたろう。反乱を起こされるとは思ってないのかね」

「あるいは魔術が使えるから、それだけの人数でも事足りるのか。いずれにしても、大勢の兵で私たちを威圧するよりは、平和的に運ぼうという考えの表れだと思うよ」

 タスハが丸く収まる結論を出したが、シャスパはまた不満顔に戻った。

「わかりゃしませんよ。最初だけ甘くしておいて、後からどんどん要求してくるに決まってます。若い女なんか連れてきて、たらしこもうって魂胆が見え透いてるわ」

 忌々しげにぶつくさ言う声に女の嫉妬を嗅ぎ取り、ハドゥンとタスハは目配せを交わして、おお怖、とばかり首を竦めた。二人の反応にシャスパは気を悪くしたらしく、ふんと鼻を鳴らして立ち去る。これだから男は、と口の中で毒づいたのが聞こえたが、実際いささか疚しい気持ちのあるタスハとしては、否定もできない。

 ハドゥンも同様なのか、白々しい口調でいまさら不思議がった。

「そもそもあの娘、何者なんだろうな。使用人じゃなさそうだし、総督の女房って雰囲気でもなかったな。あの国じゃ女の役人もいるって噂だから、もしかしてそれか?」

「ああ、そうかもしれないな。どことなく……知的な人だという印象だったから。二十歳ぐらいに見えたし、役人として一人前なんだろう。ハムリ王国側の一行だったら、従軍祭司だと思うんだが」

「なら、きっと魔女だ」

 ハドゥンがにやりとし、声を低めてささやいた。

「気を付けろよ、祭司様。悪魔の手先が堕落させようと狙ってくるぞ」


 それからしばらく、新たな支配者たちは環境を整えるのに忙しく過ごした。総督府での業務に要する資材を整え調達し、前の住人の置き土産を片付けて。

 物品を運び込む業者のほかは、直接ワシュアール人と接触する機会がない。住民の多くは彼らの動きを気にしながらも、通りすがりにちらちらと様子を窺うしかなかった。

 タスハもまた落ち着かない気持ちを抱えたまま、日常のつとめをおこなっていた。町の守護神、火の神アータルに捧げる聖火を絶やさぬよう薪をくべ、弟子と一緒に神殿を隅々まで掃き清め。手と身体を動かしながら心を静めて、仕草ひとつひとつに祈りを込める。息にあわせて己の魂を呼び、神々とのつながりを結びながら。

 そうした暮らしが自分には合っていると、彼は実感していた。むろん、男が独りで身を立てる道は、意欲さえあればほかにも選べるだろう。カトナは田舎町だが、商売の世界に新たに割り込んで取引を開拓できるほどの賑わいはある。どうにかして金を貯めて、狭くとも自分の農地を買い、他者とは異なる作物で勝負していく手もある。

 だが彼はそうした生き方を選ばなかった。与えられた環境を受け入れ、人と争わず、己の内へ内へと深く潜ってゆく方を選んだのだ。

(この生活が壊されなくて良かった)

 今後も寛容な施策が続くよう祈りつつ、彼は意識してこれまでと変わらぬ暮らしぶりを保った。祭司である自分が動揺して浮き足立てば、町の人々も不安になる。

 今日もタスハは、平常の態度で町へ降りた。食料品や日用品は弟子がまとめて買い出しをするのだが、タスハ自身でも時々商店を覗きに行く。人々が礼拝に来るのをただ待つばかりでなく、自ら赴き、小さく弱い声を拾い上げるためだ。神殿は、町の中とはいえ高台に建っているので、足が遠のいてしまう者も少なくないのである。

 ゆっくり散歩がてら広場へ向かったタスハは、そこで妙な光景を目にして足を止めた。

「あれは……?」

 つぶやきが漏れる。視線の先では例の〝魔女〟が、町の者に話しかけようとしては逃げられていた。兵士の供もなく一人だ。道でも尋ねたいのだろうか、と訝りながら様子を見ていると、どうやらそうでもないらしい。

 彼女が選ぶのは、決まって若い女か子供だった。誰でもいいから質問したい、というのではないようだ。よそに行きたいわけでもなく、話すこと自体が目的のように見える。

 だが人見知りの少女や子供は呼びかけただけて走り去るし、そうでなくとも親が引っ掴んで逃げる。なにしろ相手は異国から来た支配者で、迂闊な言葉を耳に入れたらどんな対応をされるか知れたものではない。会合において大勢と一緒であればともかく、個人的に関り合いになるにはまだ、警戒が必要な相手だ。

 やがて近隣住民に警報が行き届いたのか、ぱったり人通りが絶えてしまった。がらんとした広場に取り残された〝魔女〟が、遠目にもわかるほどがっくりうなだれる。タスハは青空に目をやって神々に祈ってから、思い切ってそちらへ歩み寄った。

「何かお困りですか」

 声をかけると、ぱっと彼女は振り向いた。鳶色の瞳にまっすぐ捉えられ、タスハはどきりとしたのを隠そうと反射的に会釈する。

「アータル神殿の祭司、タスハと申します。どうぞお見知りおきを」

「はじめまして、祭司様。わたしはジェハナ、ワシュアールの導師です」

 ジェハナも軽く右手を胸に当てて一礼した。愛想の良い微笑に口元がほころんでいる。話しやすく信頼できそうな相手、という印象を与える完璧な表情だ。タスハは内心で彼女の位置付けを改めた。

「導師、とおっしゃいますと……人々を教え導く立場でいらっしゃる?」

 それもかなり高度な教育や訓練を受けているに違いない。ひょっとしたら、タスハが物心ついた頃から神殿で受けてきたものを超えるほどの。

 彼の質問に潜む硬さを感じ取ったジェハナは、はっきりと外交向けの笑顔になった。

「祭司様に成り代わるつもりはございません、わたしは神々に仕える者ではありませんから。基礎教育と『ウルヴェーユ』を普及させる役目を負って、この町に参りました。わたしたちの国は、大きくふたつの目標を掲げております。すべての人が読み書き計算の基礎学力をつけ、さらなる学びの機会を得られるようにすること。またウルヴェーユによって生活を安全かつ豊かにし、傷病や飢餓による死者を減らすこと。わたしはその一端を担う者です」

 すらすらと淀みない言葉は、うかうかしていると理解の網に何も残さないまま、ただ流れ去ってしまいそうだ。祭司として種々の文書に親しんでいるタスハでさえ、慌てて手を上げ、流れを堰き止めなければならなかった。

 どうかしたか、と小首を傾げたジェハナに、彼はいささか困惑顔で忠告した。

「もしやあなたは、先ほどからそうやって皆に話しかけていらしたのですか? そんな風に、書物を読み上げるような話し方で。それでは逃げられるはずです」

 苦笑いになったタスハに対し、彼女は目をぱちくりさせている。

「おっしゃる意味が、よくわかりませんが……わたしの話し方は、どこかおかしいのでしょうか」

「いえ、おかしくはありません。むしろ正しい。それこそ、重大な命令や布告を記した文言のように。しかしこの町の人々のほとんどは、そうした正式なことばに接する機会がないのです。あなたの用いる言い回しを耳にしたら、もうそれだけで、すみません、わかりません、となって逃げ出してしまいますよ」

 タスハが説明してやると、ジェハナはやっと意図を察して愕然となった。そこへ彼はさらに駄目出しをする。

「ウルヴェーユ、とおっしゃったのも何のことかわかりません。ワシュアールの特別な学問ですか?」

「それをこれからご説明しようと……」

「残念ながら、聞く前にお手上げされるでしょう。なぜ、こんなやり方を? 先日のように人を集めて一度に聞かせたなら、逃げられる心配もないし、後で皆、理解が足りないなりに相談もできましょうに」

 タスハが言い終えると同時に、ジェハナは両手で頭を抱えてあからさまに落ち込んだ。正直すぎるその反応を見て、タスハの中にわずかに残っていた警戒も解け消えた。征服者の立場だとはいえ、あくまで彼女の国がそうであるというだけだ。初めての土地で見知らぬ人々相手に仕事に取り組む困難は、若い個人としてのもの。国が違えど変わらない。

 彼の雰囲気が親しみを増したのを受け、ジェハナも気負いのない柔らかな表情になる。はぁ、と息をついて両手を下ろすと、彼女は謙虚に問いかけた。

「少し相談に乗っていただけますか?」

「もちろん」

 タスハは即答した。こちらへ、と広場の隅の木陰へ促し、簡素な長椅子を示す。並べた石に板を渡しただけのものだが、彼はよくここで町の人々と語らっていた。

「多少は通りすがりの方の耳にも入りますが、よろしいですか」

「わたしは構いません。ありがとうございます」

 並んで腰を下ろし、ジェハナはしばし瞑目する。どう話すか思案しているのだろうと慮り、タスハは黙って相手が切り出すのを待った。あまりに近くにいるためか、胸の奥がざわつくような、不思議な感覚をおぼえる。己が不躾に若い女性の横顔を見つめていると気付き、彼は慌てて顔を背けた。

(何を意識しているんだ、十代の少年でもあるまいに。おまえはとっくに、人生の春を終えてしまったじゃないか。鏡を見ろ、馬鹿)

 年頃の娘にいちいち胸をときめかせていては、祭司として公正な相談役を果たせない。ましてや今回の相手は、付き合いに慎重を期さねばならない立場である。

 彼が気を引き締めると、それを待っていたように、ジェハナが静かに切り出した。

「布告のような形を取らないのには、理由があります。少し迂遠な説明になりますが……ウルヴェーユというのは、我が国では誰もが扱うことのできる知識とわざなんです。かつて『最初の人々』がこの地に広大な国を築き繁栄した、という伝承は、ここカトナにもありますよね?」

 そこまで言い、彼女はタスハに確認する。彼はまともに目を合わせないよう注意しながら、ええ、と肯定した。

「偉大な文明を築いたものの、いつの間にかどこかへ――恐らく西の海の彼方へと、去ってしまった太古の人々ですね。神々から遣わされて私たちの先祖を人間らしい暮らしに導いた、特別な人々だと伝えられています」

「かの謎めいた人々がどうやってか生み出したわざが、ウルヴェーユ。『詞を彩る法』を意味する古語です」

「もしや、あなた方が魔術を使うと言われているのは、それが理由で?」

 はっと気付いてタスハが確かめると、ジェハナは面白がるような顔になった。

「ええ。まだこのわざが広まっていない地域の人からは、怪しげなまじないのように見られていますね。ですが奇蹟でも魔術でもありません。個人の魂にある路を開き、世界の根から力を汲み上げるわざ。資質さえあれば誰でも習得できるのです」

「魂の路、ですか」

 タスハは曖昧に繰り返す。なにやら神秘めいてきた。神と人の仲介役たる祭司として、彼女のもくろみを阻止すべきではないだろうか。

 つい眉を寄せて考え込んだ彼は、はたと我に返り、ジェハナにじっと観察されているのに気付いてたじろいだ。ばつの悪い顔になったタスハを彼女はなおしばし見つめ、ややあって納得した様子で言った。

「やはり、いきなりは難しいのでしょうね。ウルヴェーユの習得は精神の内面にかかわるため、非常に個人的なものになります。何十人も集めて一度に講義できるような性質のものではありませんので、導く者と学ぶ者との間に信頼がなければ難しい。ゆっくり、少しずつ、わたしたちを通じて知識とわざに触れて、馴染んでもらえるようにしなければ」

「なるほど。だからああして、一対一でつながりを持てるように声をかけていらしたわけですか」

「失敗してしまいましたけれど。祭司様、町の皆さんとわたしが親しくなれる機会はないでしょうか? 総督主催の親睦会だとか宴会だとか、政治的な方法では駄目なんです」

 ジェハナが問いかけで話を締めくくる。訊かれるまでもなく、タスハも同じことを考えていた。

 彼女がどうやって、どんなものを、人々に広めようとしているのか。ウルヴェーユという太古のわざが、果たして本当に神々の恵みを損なわないものだろうか。支配される側だからとて唯々諾々と受け入れてはならない、注意深く監視しなければ。

 そのためには――

「礼拝においでなさい」

 うん、とタスハはうなずいた。首を傾げたジェハナに、彼は続けて言う。

「神殿では季節の祭礼のほかに、毎日簡単な礼拝をおこなっています。日の出と正午、日没の三回。祭りとは異なり、来られる人だけが自由に参加するものですから、そう大勢はいません。あなたが神々に祈るのを見れば――あるいは祈らなくとも神殿においでになれば、我々の神をないがしろにするわけではないと、皆も安心するでしょう。礼拝の後で話しかけられたなら、先ほどのように逃げ出される心配はないと思いますよ」

 タスハはあくまでも穏やかに話したが、ジェハナははっと息を飲み、居住まいを正して頭を下げた。

「御挨拶にも参りませず、ご無礼お許しください」

「ああいや、責めているのではありません。あなた方が神々を崇めないという噂は耳にしておりましたし、勝者が敗者の神殿に詣でなくとも不思議はありませんから」

 慌ててタスハはとりなしたが、ジェハナは眉間に皺を寄せている。最初に地元の神殿に敬意を表しておけば、住民との接触も円滑に進んだろうに、失念していたのが悔しいようだ。生真面目だな、とタスハはまたひとつ彼女に関する認識を加えた。

 なだめようと彼が口を開いたところで、広場を横切って足音が近付いてきた。

「ごきげんよう、祭司殿。彼女が何かご迷惑をかけておりませんか」

 顔を上げると、黒髪の青年総督その人だった。怯んだタスハに代わり、ジェハナが憤慨して応酬する。

「失礼ね! あなたの方こそ神殿に一度もお参りに行かないまま、今頃こんな場所でいきなり話しかけて、しかも初対面の挨拶も飛ばすだなんて、よほどご迷惑でしょう」

 遠慮容赦のない物言いにタスハは目を丸くした。彼の驚きに構わず、青年は悪びれない笑顔で気安い会釈をする。

「これは失礼。祭司殿、改めてはじめまして。カトナ総督、ショナグ家のイムリダールでございます」

「ご丁寧に。祭司タスハにございます」

 慌ててタスハも立ち上がり、両袖に手を入れて頭を下げる。臣従者の礼を取られたイムリダールは苦笑いになった。

「堅苦しくしないでください。もうお気付きでしょうが、我々は宗教的な配慮にやや無頓着なきらいがあります。あまり厳格な対応を取られると、お互い窮屈な思いをするでしょう。我々としては、緩やかな友好関係を築きたいと願っております」

「寛大なお言葉に感謝いたします」

 タスハは用心深く応じる。胸の奥がまた、妙にざわついていた。嵐の予兆に騒ぐ梢、あるいは波立つ川面の気配。イムリダールとジェハナが顔を見合わせ、無言のやりとりをしたのが不安を煽る。

 雲行きの怪しさを察して、ジェハナが場を取り繕うように明るい口調になった。

「町の皆と親しくなるには礼拝に出るのが良いと、祭司様が助言してくださったの。どうかしら、あなたも一緒に」

「ああ、総督府の設営もじき終わりそうだし、確かに一度顔を出すべきだな。祭司殿、近日中に必ず、私も礼拝に参りますよ」

 イムリダールはジェハナに笑顔で応じ、タスハにも友好的な申し出をする。しかしあいにく、そつのない対応はかえってタスハの不信を招いただけだった。

「畏れながら総督、ただあなたの仕事を上手く進めるためであるなら、あえておいでくださらなくとも結構。礼拝は神々と向かい合うための場です。政治的な宣伝の場ではありません」

 硬い声音で、ぎりぎり攻撃的にならない無感情を保って謝絶する。次いでタスハは深く一礼してから、言い添えた。

「あなたが神殿を尊重してくださるというのなら、むろん願ってもないことです。その姿勢は皆も歓迎することでしょう。信じていないのに祈るふりなどなさるより、むしろ誠実であることを評価されるかと」

「率直なご忠告、かたじけない。肝に銘じます」

 イムリダールは笑みを若干こわばらせたが、平静に受け止めた。

 それから無難な言葉をいくつか交わし、またの機会に、との約束を残して二人が去っていくと、タスハはその場に佇んだままふうっと深く息をついた。寄り添って歩く仲睦まじい後ろ姿に、心が軋む。

(まぁ当然、そうだよな。あんな若い娘が単に仕事のためだけに、遠い異国まで来るわけがない)

 愛しい恋人を追いかけてきたのか、既にどこへ行くにも一緒だと認められている婚約者なのか。異国の事情はわからないが、どう見ても、たまたま同じ赴任先を命じられた仕事上の関係ではない。

(……だから、鏡を見ろと言ったんだ)

 ほんの一時でも浮ついた己が情けなくなり、ごつんと拳で額を小突く。だがとにかく、この場はしのいだ。無用の敵意反感を買うことなく、侮られすぎることもなく。

 空を仰ぎ、偉大なる天空神、正義と善の神アシャの加護を祈る。正しき神々の力が失われぬよう、征服者によって善が歪められぬように。

 供物と祈りを捧げて神々の力を増す必要を感じ、彼は急ぎ足に神殿へ帰っていった。

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