終章

終章

 



 先王崩御の隙を狙ったドゥスガルを撃退し、不穏な動きを見せていた貴族を素早く牽制した新王は、戦勝祝賀を上乗せした即位の儀式を厳粛かつ盛大に執り行った。

 それから二ヶ月。

 陽射しに温もりが戻り、草木の若芽がいっせいに萌え出で広がり、鮮やかな緑が眩しく輝く季節がやって来た。まだ各地の領主や隣国の動向は気を緩められないものがあるが、王宮の政務も軌道に乗り、神殿の再編も着々と進んで、少なくとも都の近隣一帯では人々も日常を取り戻しつつあった。


「ああもう、いちいちこんな事まで俺に訊くな!」

 いつものごとく癇癪を起こしたシェイダールが、執務机に両手を叩きつける。リッダーシュが苦笑しつつ、書記の手から粘土板を取ってあるじの前に置いた。

「あと一通だけご辛抱ください、我が君」

「これで最後か? ……そんなわけないか」

「効率よく片付けるには、適度な休憩が必要でございますゆえ」

「ああ、そうだな。やれやれ」

 シェイダールは嘆息し、例によって地方官吏が工事の賃金を払ってくれないとかいう訴えを読み、叱責と具体的な命令をしたためさせると、印章を捺した。

「ちょっと姫の顔を見てくる。おまえたちも適当に一息入れろ」

 居並ぶ書記に言い置き、シェイダールは従者を伴って部屋を出ると、うんと大きく伸びをした。穏やかな風が心地良い。小鳥のさえずりが庭園のあちこちから聞こえてくる。ピピピ、チィチィ、緑や黄のきらめきを連れて。

 私宮殿に向かいながら、シェイダールは疲れた顔で首を回した。

「やっぱり読み書きの普及が大問題だな。法令を出しても大半読めないんじゃ、まともに運用されない。地方の役人はろくに勉強してない奴もいる……過去の王の裁きや法令を事例別にまとめて、広く使えるような法令集を作って、それを誰もが読めるようにすれば、どこに暮らしていてもまともな裁きが行われるようになるだろう。俺も楽になる」

 大真面目にそんなことを言ったあるじに、リッダーシュがふきだした。

「おぬし、それがどれだけ大事業か承知で言っているのか? いつか楽をするために、今の百倍は苦労せねばならぬぞ。実現する前に倒れては元も子もない」

「わかってる。だが放っておいたらますます面倒になるだけだ。どのみちウルヴェーユに関連して新しい法もあれこれ定めなければならないんだし、避けては通れないさ。幸い、旱魃対策は邪魔する奴らがいなくなって順調だから余裕もあるしな」

 言葉尻でシェイダールは辛辣な笑みを浮かべた。その痛みを拭うように、暖かい風が頬を撫でる。短い春を逃すまいと咲き誇る花々の香が運ばれてきて、彼はほっと和んだ。

 私宮殿に入ると、シェイダールは窓際に置かれた子供用の寝台へ歩み寄った。あの日以来一度も目を覚まさない娘が、今もすやすやと安らかな寝息を立てている。

 横からリッダーシュも遠慮がちに覗き込み、曖昧な声でつぶやいた。

「また大きくなったようだな」

 シェイダールは無言でうなずき、柔らかい頬にそっと指を走らせた。シャニカの身体は微かな色と音に包まれ、もう五歳ほどに見える。本来なら歳月をかけて育ててゆくはずだった路と標に、身体のほうが追いつこうとしているのだろう。

「……外はいい陽気だぞ、シャニカ。聞こえるか?」

 シェイダールは優しくささやきかける。菫色の瞳を閉ざしたままの娘には妻の面影があって、見る度に胸が詰まった。

 チィー……ッ

 窓外で鳥が一声、長く鳴く。風がそよぎ、窓に掛けた薄布がふわりと大きく膨らんだ。彼は庭園を見やり、目を細める。

「またおまえと一緒に、散歩したいなぁ」

 小さくつぶやいた声が、ひるがえる薄布に巻き取られる。リッダーシュが小さく息を飲んだ。振り返ったシェイダールの耳に、愛らしい杏色が触れる。

「とうさま?」

「――……!」

 目と目が合った。途端、シェイダールの視界が揺れる。自覚する間もなく大粒の涙をこぼし、彼は娘の上に屈み込んだ。

「シャニカ!」

「おとうさま、おはよう」

 あどけなく笑って、姫は手を伸ばす。シェイダールは姫を抱き上げ、しっかりと両腕で包み込んだ。路と路が触れ合い、共鳴する。確かに彼女は彼の娘であり、同時に少しだけ知らない少女にもなっていた。それでも構わなかった。シャニカは優しい笑みを広げ、父の頬に口づけを返した後、ぎゅっと首に抱きついた。

「ずっと、聞いていたの。きれいな音、たくさん」

「……そうか」

 涙声で言ったきり、シェイダールは言葉を詰まらせる。シャニカは父の肩越しに目を上げ、こちらを見守る他の大人たちを捉えた。

「おはよう、タナ、……リッダーシュ」

 明らかに、後者への呼びかけは込められた感情が違う。彼女は真面目な顔つきになり、父から離れるとリッダーシュにまっすぐ向かい合った。

「あなたの声も、聞こえていたの。ずっと伝えたかった。……泣かないで。ありがとう」

 不意打ちを受け、リッダーシュが森緑の目をみはる。手で口元を覆うなり、一言もなく逃げ出した。宮殿の外まで。

「泣かないで、って言ったのに」

 シャニカがしょんぼり眉を下げたので、シェイダールは複雑な苦笑をこぼした。

「悲しくて泣いてるんじゃないから、放っておいてやれ」

「おとうさまも、もう悲しくない?」

 丸い紫水晶の双眸が、じっと心を見透かすように見つめてくる。深淵の響きを載せて。シェイダールは瞑目し、ゆっくりひとつ呼吸してから、自身に対するようにうなずいた。

「ああ。もう大丈夫だ」


 意識を取り戻したシャニカ姫は、長らく眠っていたとは思われないほど、健康そのものだった。よく笑い、駆けまわり、出会う者すべてに喜びをもたらした。

 身体だけでなく、知恵とわざの成長ぶりも驚くべきものだった。目覚めた翌日には言葉遣いからたどたどしさが消え、さらには、呼吸するように自然に《詞》を操って見せたのだ。あまりの上達ぶりにシェイダールが「俺もしばらく寝込もうかな」などと、半分本気で羨んだほどだった。

 情緒面でも一足飛びに、幼児から少女へ変化していた。言動も表情も幼いと同時に大人びていて、微笑ましくも末恐ろしくもあり、父をやきもきさせた。早い話が、姫はすっかりリッダーシュに夢中だったのである。

 今日も一人で父の部屋へ遊びに来たかと思えば、もう従者に駆け寄っていく。シェイダールは諦めて深いため息をついた。

「すっかり懐かれたな、リッダーシュ。仕方ない、どうせ誰かに嫁がせざるを得ないのなら、おまえにやってもいいか」

「冗談はよせ、父親ほども歳の離れた相手に嫁がせるなど、姫が可哀想だろう」

 お言葉は大変光栄にございますが、とおどけて言い添え、リッダーシュは抱き上げていた姫を下ろした。父親と同じ菫色の瞳で、姫は二人をじっと見比べている。

「ほんの十六かそこらの差じゃないか。しかも数年分は飛ばして成長したし、シャニカを嫁にやれる頃には、おまえはまだ三十路を越えてもいないだろうさ」

「真面目に計算しないでくれ、よもや本気ではあるまいな」

 リッダーシュが正気を疑う声を出す。そこへ、シャニカが父の袖を引いて割り込んだ。

「お父さま、逆」

「うん?」

「わたしをやるのじゃなくて、わたしにリッダーシュをください」

 恥じらいも臆しもせず言い切った幼い姫に、父とその親友は目を丸くする。一呼吸の後、シェイダールが弾けるように笑いだした。

「ははっ、そうか、そうだな! よしわかった、おまえがこの男を受け取れるほどに成長するまで、せいぜい仕事漬けにして女が寄り付けないようにしておいてやろう」

「シェイダール!」

 さすがにリッダーシュが抗議の叫びを上げる。シェイダールは意地の悪い笑みを広げ、楽しげに言い返した。

「今だって大勢の女がよこす秋波をことごとく無視しているじゃないか。女の相手なんか面倒で、槍や剣を振り回しているほうが楽しいんだろう?」

「そういう問題ではない」

 リッダーシュは苦りきって唸ったが、シェイダールは涼しい顔だ。実際、以前リッダーシュは継承の儀式が無事に済むまで――すなわち中継ぎとして死なずに生き延びるまで、結婚は考えないと言っていたが、問題がなくなった今でもさっぱり女の気配がなかった。彼に想いを寄せる女は、それこそ王妃になりたがる女よりも大勢いるというのに。

 そこはかとなく腹が立つので、嫌がらせのひとつもしたくなるというものである。シェイダールは愛娘に向き直り、よしよしと頭を撫でてやる。

「楽しみにしているといい、シャニカ。だがな、もしこの朴念仁がうっかり他の女に心を奪われたなら、無理やりに仲を裂いては駄目だぞ」

 釘を刺された姫が露骨に不満顔をする。シェイダールは穏やかに諭した。

「おまえがリッダーシュを選んだように、リッダーシュにも選ぶ権利がある。それを尊重できないのならば、愛ではない」

 姫は「はい」と神妙にうなずき、小さな唇をきゅっと結んで決意をあらわす。そんな親子の姿に、リッダーシュがふと目を細めた。

「なあ、シェイダール。私は時々、おぬしの言葉やまなざしに、アルハーシュ様の面影を見るよ。あの方の魂は、おぬしが受け継いだのだな」

「まさか」

 シェイダールは吐息とも失笑ともつかない声を漏らした。まさか。もう一度口の中で繰り返し、わずかに首を振る。刀によって継承したのは知識とわざの標のみ。個人的な感情や経験は削ぎ落とされており、ましてや霊魂の宿る余地などない。仮にあるとしても、

「あの方はもういない」

 アルハーシュの魂は、ヴィルメに命を絶たれた時、既に肉体から飛び去ったのだ。常に共に在る、とかつて彼自身が約束したにもかかわらず。

「いるはずがないんだ」

 狂乱する妻から奪い取ったのは、色と音。誰の魂も、想いの欠片さえも、残ってはいなかった。王も、――妻も。誰も。

「どこにも」

 つぶやく唇がわななき、シェイダールは歯を食いしばる。隠すように目を覆った手の下から、雫が一滴、頬を伝った。

 リッダーシュがゆっくりと歩み寄り、肩に手を置いた。

「いいや。いらっしゃるとも」

 静かに、力強く断言する。さしものシェイダールも、今この時ばかりは友の純朴さを、揶揄も否定もできなかった。

 長い沈黙の末にこぼれ落ちたのは、弱々しく頼りない、しかしどこまでも澄んだ白い雪のひとひらだった。

「俺は、……信じても、いいのか……?」



 しばしの後、リッダーシュに「お送りします」と退室を促されたシャニカは、物思いに沈む父の姿をじっと見つめてから廊下に出た。当然のように手を差し伸べられたリッダーシュは、微苦笑を浮かべてそれを取る。軽く指先で手をつなぐと、ぎゅっと握り締められた。

 おや、と彼は姫君を見下ろした。単に甘えてきたのではないらしい。シャニカは目を伏せ、小さな唇をきつく引き結んでいた。

 しばし無言で歩み、庭園に出たところで姫は「あのね」と小声で切り出した。

「わたし、いっぱい学ぶわ。ひとつでも多くの知恵を読み解いて、賢くなって、いっぱい練習もして……」

 ふと足を止め、姫はいっそう強くリッダーシュの手を握った。うつむいたまま、ゆっくり深く息を吸う。そして。

「いつか、死なない術をみつける」

 小さな声で、しかし不動の決意を込めて、結晶した金銀の誓いを立てた。

 リッダーシュは目をみはり、

「姫、それは」

 言いさしたまま絶句する。真意を確かめるべきなのか、無謀を説いてたしなめるべきか。だが幼いはずの姫は、そんな彼の悩みをもとうに超えたところにいた。

「からだが死んでしまっても、魂を受け継げるようにするの。知恵を継承する刀があるのなら、きっと何か方法があるはず。魂そのものでなくても、記憶だけでも、……想いのひとかけらでも。もう一度、またどこかで巡り逢えるように」

 声が震える。細く息を吐いて、少女はリッダーシュを見上げた。対の宇宙が揺らめき、光の雫がこぼれる。

「……そうしたら、お父さまも、さびしくないでしょう? もう逝ってしまった人の魂は、呼び戻せないけれど……亡くなられても、また会えるのなら……きっと、そばに戻ってきてくださる。わたし……独り、ぼっちに、ならな……でしょ?」

「シャニカ様」

 堪え切れずリッダーシュは膝をつくと、己の指を強く握る小さな手に口づけし、優しく両掌で包み込んだ。いつも明るく笑顔を振りまいているから、忘れていた。彼女もまた母を失った悲しみを覚えているのだ。

「私がおそばにおります。約束します、姫を独りにはしません」

「……でも」

「お父上の足元にも及ばぬ身ではありますが、私も姫の術を共に探して参ります。そしてこれぞという術を見出し、編み上げられたなら、どうぞこの身をもってお試し下さい」

 リッダーシュは真摯にそこまで言い、ふと冗談めかした笑みを見せた。

「さすがに、王の御身でもって試みるわけにはゆきませぬから」

「リッダーシュ……でも、それは」

 涙まじりの声を詰まらせ、シャニカはしきりに瞬きする。見る間に頬から耳まで朝焼け色に染めて、言ったことには。

「成功したら、あなた、本当にわたしのものになっちゃうわ」

「――っ」

 予想外の懸念を聞かされたリッダーシュは、一瞬ぽかんとし、次いで弾けるように笑いだした。幸福な黄金の波が広がり、憂いを洗い流してゆく。

「どうして笑うの! もう、リッダーシュったら!」

「あは、ははっ……! 失礼、まさか……そうくるとは。さすがは親子」

 リッダーシュは膝をついたまま、地面に額をくっつけそうなほど身体を折って笑う。シャニカは真っ赤になって、小さな両手でぺしぺしと彼の頭や肩を叩いた。

 しばらくかかってようやく笑い止むと、リッダーシュは目尻の涙を拭って姫君を見つめた。

 失敗したらどうなるか、ではなく、はなから成功させることしか考えていない辺り、父娘揃って自信家と言うか前向きと言うか。それだけ己の能力と努力を信じる強い心がありながら、孤独を恐れ死の影に震え、人を喪うことに涙する。その強さと脆さ、傲慢と健気が愛しくて、リッダーシュは幼い姫の額に口づけを落とした。

 いずれ彼女も成長し、父とその従者だけでなく、もっと多くの人々と出会い、かかわりを結び、やがて誰かと想い合う日も来るだろう。その頃には近しい者に先立たれる恐怖も薄れ、今日のこの会話など忘れているかもしれない。

 ――だが、それまでは。

「ずっとお供いたします、姫。ですから、もう泣かないで下さい」

 優しくささやいたリッダーシュに、姫は全身で抱きついた。決して二度と離れるまいとするように、しっかりと強く。



 シェイダール王の治世は十年を越えて続いた。

 その間、ウルヴェーユは目覚ましい発展を遂げ、大いなる恩恵をもたらした。神殿は祭儀院と大学とに分かれ、ウルヴェーユのみならず基礎教育の普及にも取り組んだ。

 一方で王は過去の法令を集大成し、かつ新たな法を次々と制定して、それらが確実に履行されるよう力を尽くした。あまねく者に知恵とわざを授け、強者が弱者を虐げることのないように――その理想と強い信念は後の王国の礎となり繁栄をもたらし、彼の名は史上最も偉大なる王として語り継がれることになる。

 ――かつて崇められた古き神々が廃れ、忘れられた後も、燦然と輝きを放つ一人の人間として。



     ***


 白茶けた大地、まばらに生える灌木の間を縫って、一人の少女が駆けてくる。十三歳ほどだろうか。黒髪をなびかせ、長い足で羚羊のように軽やかに。

「かあさーん!」

 納屋のそばで棗椰子の実を天日干しにしていた初老の女が、顔を上げて呆れたように苦笑した。目の前まで駆けてきた娘は、母の落ち着きようが気に入らなくて地団太を踏む。

「来たわよ、来た来た! そこまで来てるの、見えたのよ!」

「はいはい、聞いてるわよマティヤ。どうせ私たちはお呼びじゃないんだから、少し落ち着きなさい」

「もう! 都からのお使者様だっていうのに、気にならないの?」

 膨れ面をした娘に、母親は「初めてじゃないしね」と肩を竦めた。その表情が不自然にこわばっていることに、娘は気付かない。

「あたしだって王様がこの村から出たってのは知ってるけど、今度は違うんでしょ? なんか、この村に住むって話だよ?」

「そうなの? おふれの使者だって聞いたけど」

「ほらぁ、母さんだって知らないんじゃない! ほらほら、見に行こうよ!」

 気乗りしない様子の母を急き立て、腕を引っ張って、マティヤは村外れまで出て行く。荒野の彼方から、驢馬を引いた人影が歩いてきた。村人もよく知る地方役人が一人付き添っているだけで、お供もおらず大荷物もない。

 初老の女は目を細め、近付く人影を見極めようとした。ややあって、向こうも出迎えに気付いたらしく手を挙げた。その頃には母娘のまわりに、他の村人もわいわいと集まってきていた。

 やがて到着したのは、質素だが必要十分な旅装を整えた壮年の男だった。しっかりした足取りは力強く迷いない。案内してきた地方役人が一声「王の使いだ!」と告げてから村長に知らせに行き、男だけがその場に残った。

「これは皆さん、お出迎えかたじけない」

 嫌味なく笑って一礼し、彼は人垣を見渡して母娘に目を留めた。

「もしや、ナラヤ殿? 私です、シェイダール様の使者として訪れたことがありますが、憶えていらっしゃいますか」

 突然名を呼ばれて、女、すなわちナラヤは目を丸くした。困惑に眉を寄せ、記憶を手繰り寄せる。

「申し訳ありません、ええ、使いの方がおいでになったのは憶えておりますけれども」

「一度きりでしたからね、無理もない。あれからもう十年余り経ちますし……ああ、皆さん、私はヴァルカと申します。今後この村に留まり、皆さんに王から託されたわざを教え広めるために参りました。いくつかお知らせすることがあるので、集まれるだけの人を集めて下さい。男も女も、皆です」

 ざわつき、顔を見合わせながら村人たちはそれぞれ知己を呼びに散っていく。ナラヤはどうしようかと迷い、使者の近くに留まってそわそわした。あれこれ聞きたいことが山ほどある。

 この辺境にもたらされる知らせは少なく、遅い。

 シェイダールが出て行って、使者が一度だけ便りを持って来て、それから旱魃対策のために偉い役人が来て。用水路を引くとか、乾きに強い麦の種籾だとか、これまではなかった助けの手が差し伸べられたから、それがシェイダールのおかげだということは、皆もわかったけれど。肝心の当人がどうしているのか、その話はついぞもたらされなかった。

 ようやっと新王即位の布告が届いた時には、色々と真偽の怪しい噂がついてきた。新しい王はドゥスガルの軍勢をたった一人で撃退したとか、神官を皆殺しにしたとか。

 そして、それっきりだ。役人が入れ替わったり、人間の生贄を固く禁ずるおふれが出されたり、細かな変化はあった。気が付けば昔よりも少し、暮らしやすくなったようではある。しかし。

 ――あの子はどうしていますか。

 その一言を口から出せず、ナラヤは立ち尽くした。彼は王になったのだ、己とはすっかり違う世界に行ったのだ、彼を我が子と想うことはすまい……そう決めたのに、ひどく胸騒ぎがしてたまらない。

 ヴァルカは彼女に労わるまなざしを向けたが、声に出しては何も言わなかった。

 やがて村の広場に集まれるだけの者が集まると、ヴァルカは中央に立って咳払いした。おもむろに荷物から薄い石板を取り出し、恭しく両手で捧げ持つ。深く息を吸って、

「布告する!」

 朗々たる声で使者としての口上を切り出した。

「先王シェイダール様が崩御され、第一の御息女シャニカ様が女王に即位された! ここに新たな王の御しるしを示すものである! 天と地の祝福あれ!」

 どよめき。ナラヤがふらつき、倒れかかる。娘に支えられ、かろうじて足に力を込めると、彼女は叫ぶように問いかけた。

「どうして!? そんな……まだ」

 ヴァルカは石板を村長に渡してから、ナラヤに向き直って一礼した。

「ええ、まだお若くていらっしゃいました。我々も皆、心から惜しみ、悼んでおります。かの君は常に人々の幸福を考えておいででした。一人でも多くが健やかに自由に生きられるようにと、日々努められて……己が人の身であることも忘れるほどに励まれた。それゆえに倒れてしまわれたのです」

「――……っ」

 ナラヤは顔を背け、娘に縋りついてすすり泣きはじめた。事情を知らされていないマティヤは当惑しながら、母の肩を抱く。その様子を見てヴァルカは目元を和らげた。

「ナラヤ殿の娘さんですか。なるほど、よく似ておいでだ」

 つぶやくように言ってから、彼は村人たちに向かって明るい声を上げた。

「早すぎる旅立ちではあられたが、かの君は多くの素晴らしいものを遺してくださった。その最たるものが『ウルヴェーユ』、かつて『王の力』とされていた神秘のわざです。もはや王だけのものではない、これからは誰もがその力を得られるのです!」

 そう前置きして彼が語ったことは、あまりにも新しく、あまりにも夢のようなことで、村人たちは誰もすぐには理解できなかった。だがヴァルカは平易な言葉でゆっくり丁寧に説明し、ひょっとして心当たりがあるのでは、と問いかけるように一人一人の顔を見ていった。案の定、マティヤが何か言いたそうに身を乗り出し、しかし遠慮して縮こまる。ヴァルカは微笑み、荷物から白い石を取り出した。

「これはかつて『選定の白石』と呼ばれていたものです。しかし今は違う」

 掲げられたそれに視線が集まる。マティヤはまだ涙を拭っている母の肩を抱いたまま、食い入るようにそれを見つめた。

「これは内なる路を開く鍵です。私はこれを使って、まず若い娘さんたちにウルヴェーユを手ほどきしていくつもりです」

 わざとおどけて言った彼に、怒りと困惑の気配が広まる。ヴァルカは笑って続けた。

「新王候補の選定とは逆ですね。理由はもちろんあります。私がいい思いをしたいというわけではありません。男だけが先に路を開かれた場合、妻は子を宿せなくなるのです。安全のために、これから子を産むであろう娘さんを最初にしなければならないのですよ。そう、たとえば……あなたのような」

 言って、彼はマティヤにまなざしを据え、白石を載せた手を差し出した。

 吸い寄せられるようにマティヤが進み出る。白石は既にちらちらと星を紡ぎ、小さな声で歌いはじめていた。

「いずれこの白石も必要なくなるでしょう」

 深緑の声が静かに予言した。

「誰もが生まれながらに色と音を感じ取り、詞に載せて詠う日がいずれ来る。新たな時代へと変わってゆくのです。さあ、手を」

 誘われるがままに、マティヤは白石に手を置いた。

 いっせいに色彩の星が踊りだす。雪の白、血潮の赤、草葉の緑。歌を紡ぎ天へと昇ってゆく。海の青、実りの黄金、果てなき宇宙の紫。

 陶然と星々を見上げるマティヤの唇が、音色を追って動く。導く者がにっこりと深くうなずいた。

「始めましょう。いざ――《開かれよ》」



(了)

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