ドゥスガル侵攻

     *


「神殿のてっぺんからウルヴェーユを使って『今日から俺が王だ』って宣言するだけじゃ駄目か?」

 面倒臭そうなシェイダールの言葉に、『六彩の司』は眉を動かしもせず、穏やかな微笑のまま無言を返した。うっかり失笑した従者が明後日のほうを向き、警護隊長は歯痛を堪えるがごとく瞑目する。いたたまれない沈黙が『白の宮』に降りた。

 それぞれなりの否定を全方位から浴びせられ、シェイダールはため息をついた。

「はぁ……駄目か」

「シェイダール殿。神殿が生まれ変わった今、即位の儀式も旧来のやり方とは変えるべきであるとのお考えには、我々もなんら異を唱えるものではございません。しかしながらこういった事柄には、信心の有無にかかわらず、明確でそうそう簡単に覆したりやり直したりはできない『けじめ』が必要なのでございますよ」

 あくまでも丁寧にやんわりと、しかし逃がす隙を作らず包囲してくる。シェイダールは胡乱げな目を『六彩の司』に向けてから、もう一度ため息をついた。

「わかってる。王への忠誠を確かめる必要もあるしな」

 言いながら彼は、なにげなく窓の外を見やった。今のところ、公然と反旗を翻した貴族官僚はいない。とりわけ三人の重鎮はそれどころでないとばかり、各々の仕事に駆け回っていた。

 大勢の神官が死んだので、その所有していた土地財産が国庫に転がり込んだのである。大方は無一文同然だったが、少し位階の高い者は内密の寄進やあれこれで、競うように財産をつくっていた。一部は今後の改革と運営に必要であるとして神殿に残されたが、そんなわけで土地管理長官と財務長官は、それらを調べ上げ台帳につけ移動できるものは移動し……と、休む間もない。

 水利長官は祭司長とのつながりから離反を懸念されていたが、幸か不幸か、旱魃対策に改修したばかりの水路で不正による手抜き工事が発覚し、頭から湯気を立てて自ら現場へすっ飛んで行った。息子のツォルエンも今は父の仕事を学び手伝うことに夢中らしく、使者に弔辞を言付けはしたものの、王宮に顔を見せていない。

 三大名家がそんな調子であるし、加えてバルマク・ヤドゥカ親子のショナグ家は既に新王の第一の臣と言える立場である。彼らの力なしで新王に対抗する者が現れるとは思えなかった。ただ、若干の不安もなくはない。

「アルハーシュ様のイリシュ家とは結局ちゃんとした挨拶を交わしていないし、ドゥスガル大使もいまだ行方不明……まぁこっちは国へ逃げ帰ったんだろうが」

 シェイダールが唸り、ヤドゥカがうむとうなずいた。

「まずは儀式の日取りを決めて各地に知らせ、当主あるいは少なくとも代理人が参列するよう求めねばなるまい。儀式の内容については六彩殿にお任せしてはどうだ」

 途端にシェイダールがひどい渋面をしたもので、『六彩の司』は苦笑した。

「ご案じ召されますな。旧来のように、神々の威光を頼り、神の名と力を王に被せるような内容にはいたしませぬ。儀式から神々を排除することはかないませぬが……それは御身も納得されておいででしょう。人は人のみの誓いで自らを律することができぬ生き物です。神の存在を信ずればこそ、謙虚さを知り誓いを守り、罪を恐れる。いずれはウルヴェーユによって理知の時代が到来するでありましょうが、それでも神々は消えず、人の心に在り続けるでしょう。いわんや現在においてをや」

 だからわがままを言わないでくださいね、と露骨にたしなめる笑みを見せられ、シェイダールはますます不機嫌になる。だが、言い返して議論を続けることはできなかった。切迫した声が外から告げたのだ。

「シェイダール様、恐れ入ります、火急の報にございます」

「入れ」

 すぐさまシェイダールは気を引き締めて応じる。現れたのは、王の耳目たるヴァルカに連れられた、見知らぬ男だった。

「お初にお目もじいたします、シェイダール様。先日まで大使としてドゥスガルにおりました、ヒリムと申します」

 臣従の礼を取った大使の横で、ヴァルカが一礼して簡潔に説明した。

「ドゥスガル方面の情勢を調べに行く途上で出会いましたゆえ、そのまま保護して連れ戻りました。かの王は『ドゥスガルの至宝』ラファーリィ様の死に激怒し、兵を送り出したとのこと」

「百名ほどの先遣隊がウルビを目指しております」大使が補足する。「都を出る部隊をこの目で確認いたしました。続けて兵を召集する様子は、私が見聞きした限りではありませんでした。恐らく今回の目的はただの脅しでありましょうが、それをもってウルビの帰属を和平交渉の材料にしようというのでしょう」

 故郷の名にリッダーシュがさっと青ざめる。一方シェイダールはしかめ面になって「わかりやす過ぎだろう」と唸った。

 ウルビはドゥスガルに最も近い町というわけではない。ワシュアールが従える都市の内、ドゥスガル領の都市と近接しているものは他にいくつもある。だがそれらを狙わず、ウルビに兵を差し向けた。

 リッダーシュが地理を思い出して呻いた。

「瀝青が目当てか」

「他に理由があるとは思えないな。葬儀にも使者一人よこさなかったくせに、ラファーリィ様を死なせた詫びを入れろだとか白々しい。まったく、つくづく嫌な世界だよ」

 吐き捨てるように言ったシェイダールに、ヤドゥカが至って平静に応じた。

「一番良い肉を奪える時に、わざわざ硬い筋だけを取る馬鹿はおらぬだろう。しかし、どうしたものか……今この都から兵を動かすのはいかにもまずい」

 神殿も王宮も混乱を収拾できていないし、人心は些細なことでたやすく再び動揺するだろう。誰かが火をつけて煽れば簡単に燃え上がるだろうし、どさくさ紛れに空位の玉座にのし上がろうとする者がいないとも限らない。

 そんな状況で都から兵と司令官が出て行くのは、あまりに危険だ。といって道中にある町やウルビの兵を借りようにも、シェイダールの王権は確立されていないのだからすんなりとはいくまい。

 だが当の新王は鼻を鳴らし、特段の気負いもなく立ち上がった。

「それこそ奴らの狙いなんだろう。今この隙を突けば大軍を動かさなくても、ちょっと脅して交渉に持ち込める、こっちが対応にもたつくようならどさくさに奪ってしまえ、ってな。いいさ、兵は要らない。俺ひとりで片付ける」

「――は?」

 ぽかん、と間の抜けた声が居合わせた全員の口から漏れた。シェイダールは気にせず、リッダーシュに向かって命じた。

「外出の段取りをつけてくれ。ああ、おまえは一緒に来てくれよ。道案内がいなくて迷子になったら笑うに笑えないからな。宿や食事の手配なんかも、さすがに一人じゃよくわからないし」

「は……、いや、ちょっと待ておぬし、何を言って」

「百人程度なんだろ? そのぐらいならウルヴェーユで追い返せる。当分ちょっかい出す気をなくすぐらい、派手にやってやるさ。今から兵士を揃えて武器と糧秣を準備してぞろぞろ歩いて行くより、二人で馬を出してさっさと行ってぱぱっと片付けてしまおう」

 ちょっとそこまで買い物に、というような調子で話を進められ、リッダーシュもヤドゥカも完全に呆気にとられた。反応の鈍い二人に苛立ったシェイダールは、大きくひとつ手を打ち鳴らす。

「そら、目が覚めたか? 寝ぼけてないで支度にかかれ! ヤドゥカ、留守番は任せるぞ」

「待て! 本気で言っているのか!? 今おぬしの身に何かあったら」

「こんな時に冗談なんか言わないし、かすり傷一つ負う気もない。だがどうしても心配だと言うなら、もう一人、ヴァルカを連れて行く。旅慣れているから安心だろう」

「それでも、戦になれば名高い英雄さえ流れ矢一本で命を落とすのだぞ!」

「勝手に殺すなよ。戦にはならない、させない。そうなる前に片付ける。これだけ言っても信用ならないなら、今からおまえの部下と近衛兵から選りすぐり百人を集めろよ。まとめてこてんぱんにして、おまえの面目とそいつらの自尊心を粉々にしてやるから」

 シェイダールはもう明らかに苛立っていた。動き出したい時に邪魔されるのが一番嫌いなのだ。ヤドゥカがたじろぐと、彼は眉間を揉んで語気を静めた。

「色々心配するのはわかるが、危険がどうとか言っていたら対処が遅れる。これが一番いいんだ。……俺を信じろ。俺が受け継いだ、アルハーシュ様の知恵と直観を」

 こうまで言われては引き止められない。だがヤドゥカはもう一度だけ、念を押した。

「確実に勝てるわざが、おぬしにはわかっているのだな?」

「おまえを安心させるために、本当に味方を百人殺さなきゃならないか」

「いや、すまぬ。ただ、私ならば持てる標をすべて読み解いてもそれだけのことができるものか、どうにも確信が持てぬゆえ……心配が過ぎた。御無礼お赦しを、我が君」

「わかればいい。それより、帰ってきたら俺の居場所がなくなってた、なんてことにならないように頼むぞ」

 シェイダールはあっさり応じて、ほら解散、と手を振る。『六彩の司』が低頭し、

「お帰りになるまでに、儀式の案を固めておきましょう。即位の儀式に戦勝の報せを添えられたなら、民もおおいに喜ぶでありましょうな」

「土産は期待するなよ」

 苦笑いで釘を刺し、シェイダールは出発前に娘の様子を見ようと部屋を出て行った。


 三人だけの道中は実際、早かった。シェイダールは相変わらず乗馬については今ひとつだったが、ヴァルカの力が大きかったのだ。

 身軽な少人数であるのを活かし、街道以外の近道を通り、どう見ても獣道であろう藪の隙間を抜け、それでいて日没にはちゃんとまともな村や町に着くのである。そしてまたどこの町でも、ヴァルカの持つ『王の耳目』の通行証が面倒を省略してくれた。アルハーシュ王の印章が捺されているため厳密には失効しているのだが、新王の即位と新たな印章の布告がまだなので信用は保たれている。

 四軒目の宿に辿り着き、玄関先で足を洗いながらシェイダールはつくづく感嘆した。

「どんな暮らしをしたら、ここまでの知識と勘が身につくんだ?」

「どんな、と申し上げるほどでも。ただ、物心ついた頃から旅暮らしでございましたゆえ。経験の積み重ねでございますよ」

 ヴァルカは日焼けした顔に穏やかな笑みを浮かべ、謙虚に応じた。迂闊なことを言われなくて、リッダーシュはほっと胸を撫で下ろす。例によって「教えろ」だとか始められたら、ドゥスガル兵を追い返したまま帰らず、放浪の旅に出かねない。

「おいリッダーシュ、今何か失敬なことを考えただろう」

「まさか」

 あるじに鋭く指摘され、リッダーシュは慌てて否定した。

「出発前のことを思い出していただけだ。百人を撃退する方法とは、私ならばどのような手を使うだろうかと」

 白々しく嘘をついた彼に、シェイダールはお見通しだぞと言わんばかりの目つきをしたものの、追及はしなかった。視線を落として足を拭きながら、独白のように言う。

「今はまだ俺が一人で百人を追い払うことだってできるが、ゆくゆくはウルヴェーユの悪用を防ぐ方法も考えないとな。何かあった時に相手のわざを完全に封じ込められるか、少なくとも確実に対抗できる手段を備えた……守護者のような役割が必要になるだろう。多くの標を宿し、大きな力と高度なわざを扱える者が、悪事を働き弱者を虐げることがないように」

 あるじの言葉に、リッダーシュは眩しそうに目を細めた。

 神にも近い、と言われたほどの力を持ちながら、それを権力のために独占しようとせず、溺れず驕らず、自分一人のことよりも未来の人々を視野に入れて考えを巡らせる。彼がそういう人間であること、それ自体によって、どれだけの者が救われていることか。きっと当人はまったく気付いていないのだろう。

 彼のまわりでは大きな痛みを伴う出来事が相次いだ。だがその向こうには、彼が皆にもたらしたいと願った明るい光が満ちている。

 つい感傷的になったリッダーシュは、己を叱咤するように、強い意志を込めて言った。

「先のことを考えるのは、ウルビを救ってからだ。新たなる王のお手並み、とくと拝見するぞ」

 彼の想いを受けてシェイダールもまた、表情をひきしめて「ああ」とうなずいたのだった。

 ウルビの町が見えてきたのは、それから二日後だった。

 前日泊まった村を出てから例によって最短距離を近道し、郊外の岩山から街道を見下ろす位置に出る。貧相な潅木がまばらに生える荒れ地の先に、山を背にして城壁に囲まれた都市がうずくまっていた。

 城門の手前には、既にドゥスガル兵が野営地を築いている。寒くてたまらぬのだろう、真昼間から大きな火を焚いて集まっているのが見えた。

「他人の家の前で図々しい連中だな。さっさと蹴散らさないと、この辺りのたきぎを根こそぎにされてしまうぞ。ウルビの王はどう出るか……あの程度を相手にする兵力が、ないわけじゃないだろう?」

 シェイダールが問うと、リッダーシュは眉を寄せて考えながら応じた。

「むろん兵はいるが、せいぜい歩兵が千人というところだからな。見る限り先遣隊が先に攻撃した様子はないから、白々しくも『訪問』の体裁を取っているのだろう。王妃の件で新王と交渉するための根回しだとかなんとか……それを追い返せばドゥスガルに大規模な侵攻の口実を与えてしまう。迅速な救援が期待できないのに、自前の兵力だけでことを構えるのは無謀だ」

「既に交渉の使者は王の元まで上がりこんでいるか」

「恐らく」

 短い肯定を受け、シェイダールはふむと思案する。太陽の位置を仰ぎ、城壁を端から端までじっくり眺めて首を傾げる。

「なら、一人は確実に生き残るか」

 不穏なつぶやきを漏らし、彼はヴァルカを振り向いた。

「正面の連中に見付からないように、別の門から中に入るぞ。ヴァルカの通行証とリッダーシュの名前があれば、少なくとも追い返されることはないだろう」

「私の名前がどれほど効果があるかはわからぬぞ。もう十年以上帰っていないのだから、兵士の中には王に三男がいたことさえ知らぬ者も多かろう」

 苦笑気味になったリッダーシュに、シェイダールは口をひん曲げて応じた。

「何の証も持たない俺よりは信用されるだろうさ。やれやれ、なぁおい、誰が王だって?」

 ふてくされた新王に、お供二人が失笑する。ヴァルカが咳払いしてごまかした。

「では、こちらへ。ドゥスガル兵の目に付かないよう、迂回して東門の方へ下りましょう」



 都市国家ウルビの王、ファルタシュは窮地に立たされていた。

 小国が乱立するこの地において、ウルビは数代前から東のワシュアールの属国である。そのワシュアールの王が急逝した途端、新王の権威権力が磐石にならぬうちにと、西のドゥスガルがちょっかいを出してきたのだ。

「なにが、御意向を確認するための平和的な訪問、だ。図々しい火事場泥棒め」

 交渉に訪れた使者の慇懃無礼な態度を思い出し、ファルタシュは腹立ちを抑えかねて居室内をぐるぐる歩き回る。そこへ、取次ぎの召使が慌てた様子でやって来た。

「ファルタシュ様、急ぎ謁見殿へお越しください」

「どうした、使者が返事をせっついてきおったのか」

「いいえ。あの……ワシュアールの使者が、東門から密かに」

 召使はひどく動転していた。自分でも何を言っているのかわからない、という顔で、詳細を補足する。

「一人は『王の耳目』ヴァルカ様、確かに通行証をお持ちです。もう一人は御令息リッダーシュ様」

「なんと! 十年来ではないか、王宮にいるはずであろう。間違いないのか?」

 子供の頃に出仕させて以来、一度も帰郷したことがない三男の名を聞き、ファルタシュは目を丸くする。ドゥスガルの動きが王宮に知らされ、故郷の危機に馳せ参じたにしては、早過ぎないか。ワシュアールの新王が対応を決めなければ、動けまいに。

 その疑問は、続く言葉で解消された。

「そのお二方と共に、新王……いえ、即位はまだだから次期王だ、と仰せですが、シェイダール様御自らお越しです」

「――なんだと!?」

 目玉どころか顎まで落としそうになり、ファルタシュは絶句した。身支度もそこそこに、大急ぎで謁見殿へ向かう。

(なんという型破りか)

 驚きのあまり思考がまとまらない。様々な噂が聞こえてはいたが、ここまでとは。いったいどんな人物なのか、興味と警戒が相半ばする目で行く手を見る。玉座の前に、件の三人が待っていた。真っ先に、己と同じ金茶の髪をした若者がこちらに気付き、ぱっと笑顔になる。

「父上! お久しゅうございます」

 胸に手を当てて一礼したものの、挨拶は短くとどめ、傍らの若者に何事かささやく。彼のあるじ、ワシュアールの次期王シェイダールその人に違いあるまい。

 やや線の細い身体に、真っ直ぐな黒髪。飾り気のない簡素な旅装束は庶民と大差ない。にもかかわらず、彼が振り向きこちらを見据えた瞬間、ファルタシュは息が詰まりそうになった。

 ――深い。果てしない深淵の底を覗くような、宇宙を宿す紫の双眸。

 整った顔立ちには常人離れした強靭な意志の力が感じられ、正体を疑う気は微塵も起きなかった。ファルタシュは我知らず足を止め、両手を長衣の袖に入れて頭を下げる臣従者の礼をとっていた。

「光栄にもお初にお目にかかる、ワシュアールの世継ぎシェイダール様。かよう危急の折に御自ら御来駕賜るとは……」

「ああ、もういい」

 恭しい口上を素っ気なく遮られ、ファルタシュは当惑して顔を上げる。不敬不遜と巷で評される若者は、さっさと立て、と手振りで促しながら続けた。

「だらだら挨拶している場合じゃないんだろう。状況を確認させてくれ。ドゥスガル側から既に使者が来てるんだってな。何を言ってきた? 兵は城門前にいる連中で全部か」

 よく言えば実務的、悪く言えば人の話を聞かない。ファルタシュはさすがにむっとした。いくらワシュアール王のほうが立場が上でも、年齢は親子ほど離れているし、属国とはいえ一都市の君主である。相応の礼儀というものがあろうに。

 彼の不満顔を受け、三男坊リッダーシュが、昔の面影を残す苦笑を見せた。

「申し訳ありません、父上。我が君は大変せっかちな御方なのです。ドゥスガルが兵を動かしたと聞き、その狙いを看破されるや、すぐさま行動を起こされました」

「百人ぐらいなら俺一人で追い払える。当分ちょっかい出す気をなくすように、徹底的にやってやるつもりだ。構わないか?」

 せっかちな若者は、さも当然とばかり言い放った。驕りの片鱗すらなく、本当になんでもないことのように。ファルタシュは話についてゆけず、ぽかんとなってしまった。

 百人を追い払う? 一人で? 構わないか、とはどういう意味だ。

 混乱している彼に、横からリッダーシュが親切な通訳をしてくれる。

「父上、我が君には真実その力がおありです。しかし、使者の申し出た条件なり何なり、父上が無下にすべきでないとお考えの内容があったのなら、交渉しても良いと」

「いや、それは……ないが」

 ファルタシュは曖昧に答えた。ドゥスガルの使者が告げた内容とは、要するにワシュアールを見限ってこちらにつけ、というものだ。ウルビの有する瀝青湖が欲しいだけなのは明らかで、宗主国のあるじがもうここに来てしまった以上、検討するに値しない。

「よし。それならいい」シェイダールがうなずいた。「明朝、始める。使者が中にいるなら、俺がこっそり入り込んだことも知られるだろう。外に出すなよ」

「は……、すぐに身柄を押さえます。しかし、その、本当におひとりで?」

 うっかり露骨に疑惑の声が出た。神話の英雄のごとく筋骨隆々の大男というならともかく、まだ二十歳にも届かぬ細身の若者である。百人を相手にどんな立ち回りを演じるつもりでいるのか。

 聞いたシェイダールが、初めてにやりとした。

「まあ見てろ」

 大して面白くもなさそうな、辛辣で冷ややかな笑み。ファルタシュを怯ませたそれは、しかし一瞬で消えた。代わってばつの悪そうな表情があらわれる。

 何を言い出す気かと身構えたファルタシュに、若い新王は歳相応の要求をよこした。

「とりあえず、何か食べさせてくれないか?」


 かくして、ドゥスガルの兵士らはこの世の神秘と残虐を思い知ることになった。

 夜明けの凍てつく寒さがまだ緩まぬ早朝。一面に降りた霜に降り注いだ陽光が奏でるきらめきに載せて、微かな音が野営地に滑り込んでいた。

 震えながら白い息を吐いて起き出し、火を熾して食事の支度をしようと動き回る兵士たちは、それに気付かなかった。霜柱を踏む足音、仲間の声、かじかんだ手をこすり合わせ息を吐きかける音。様々な物音の隙間に、どこからか澄んだ小さな音が忍び込む。

 うう寒い……チィン……はぁっ……リン、リ……飯はまだか、おい……コーン……

 密やかに絶え間なく、微かな音は兵の足元をすり抜け、一帯を覆ってゆく。

 ――そして不意に、一方的な宣告が響き渡った。

「《聞け、ドゥスガルの兵士らよ》」

 耳だけでなく全身を打つ声に呼びかけられ、誰もがぎょっとなって竦んだ。手にした物を取り落し、座っていた者は反射的に立ち上がり、不寝番が終わって眠りについたばかりの兵も飛び起きる。

「《我はシェイダール、先王アルハーシュの後継、ワシュアールの守護者なり。ウルビは我が同盟者にして庇護下にある》」

 どこだ、どこから、と探していた兵が城壁の一点を指さして叫んだ。

「あれだ、あそこにいるぞ!」

 城壁にはいつの間にか、大勢が並んでいた。ウルビの王、将兵あるいは市民、使者として出向いたドゥスガル兵もウルビ兵に挟まれている。だが野営地の兵は一人残らず、城門の上に立つ若者に目を吸い寄せられていた。

 まだ少年のような外見にもかかわらず、巨樹のごとき威厳がその身を包み、異様な迫力を感じさせる。遠目にも不思議とその姿や仕草がはっきりと見えた。妙なことに、鉦らしき短い金属棒を掲げ、彼が口を開いた。

「《一度だけ警告する。命が惜しい者は今すぐ逃げろ》」

 はっ、と誰かが失笑のような吐息を漏らした。何人かは近くの仲間の顔色を窺ったが、誰も逃走はしなかった。神業めいた投げ槍あるいは矢の狙撃があったとか、何かしら武威を見せつけられたならともかく、ただ声がするだけなのだ。得体の知れない脅威を感じはしても、一滴の血も流れぬうちに尻尾を巻いて逃げ出すなどという怯惰は、戦士の誇りが許さない。兵らが皆、踏みとどまって戦う意志を表すと、部隊を率いる指揮官が高々と槍を天に掲げ、怒鳴った。

「腰抜けの若造が! 下りてこい臆病者、相手をしてやる!」

 おおっ、と兵もまた叫ぶ。拳を突き上げ、盾を叩き足を踏み鳴らす。

 城壁の若者が瞑目し、天を仰いだ。一呼吸置いて、手にした鉦を打ち鳴らす。

 コォーン……

 澄んだ音が響き渡る。同時に、静かな地鳴りが始まった。意気を上げていた兵もじきに狼狽し、何の兆しかとびくつきながら身構える。だがどんな備えも無意味だった。

「《天なる炎よ 降り来れ》」

 詞と同時に、城壁の上空に鮮やかな緋色の炎が巨大な翼を広げる。あまりに予想外の光景に、兵らがぽかんと口を開けて立ち尽くした。

 炎は生き物のように躍り歌いながら見る見る天を覆ってゆく。ドゥスガル兵の頭上も真っ赤に染まり、深紅と紫、黄金の輝きが渦を巻く。早くも兵たちは恐慌に陥った。悲鳴を上げて我先に逃げ出すが、容赦なく次の音と詞が発せられる。

「《沸き立ち滴れ 地を染めよ》」

 応じて空一面の炎が波打ち騒ぎ、雨滴のようにぽとりぽとりと滴り始めた。燃える尾を引いて最初の火の玉が天幕のひとつに落ちた途端、閃光を放って炸裂する。炎の雨は一気に勢いを増し、無数の火矢となって地に降り注いだ。

 直撃を受けた兵士が絶叫し、炎に包まれて踊り狂う。近くにいた者は道連れにされまいと、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 阿鼻叫喚と轟音と閃光が地上に悪夢を描き出す。ドゥスガル兵は一人残らず、己がどこに向かっているかもわからぬまま闇雲に走っていた。頭上を覆う炎の雲の切れるところまで、とにかく遠くへと。

 だが、一度警告を拒んだ後の撤退は許されなかった。

「《大地よ牙を剥け 汝が腹を満たせ》」

 直後、逃げる兵士の足下がいきなり消え失せた。悲鳴を上げる間もなく大地に呑まれ、胴をまっぷたつに噛みちぎられる。横を走っていた兵は仲間を襲った惨劇に腰を抜かし、失禁しながら這いずって逃げようとする。その身体は大地に呑まれはしなかったが、真下から生えた巨大な岩の牙に突き上げられて宙を舞った。

 無造作に無慈悲に、天と地がその狭間にあるものを殲滅する。鮮やかな火炎が躍り、大地の咆哮が響き、殺戮の歌を奏でる。高く低くうねる波、猛々しい嵐が吹き荒れ――そして、立っている者がいなくなったと同時に、すべてが消え去った。

 青空に太陽が輝き、地面にはまだ所々で溶け残った霜がきらめいている。火の雨に焼かれた天幕も裂けた大地も、すべて元通り、何の変化もない。

 かろうじて生き残った一握りの兵士だけが、何もかもまぼろしであったことを悟った。にもかかわらず、明らかに焼け死んだ者、血反吐に塗れて絶命している者が一帯にごろごろと倒れている。

 冷たい風に乗って、どこからか細かな雨粒が飛んできた。

「《帰りてあるじに伝えよ。再び強欲な手を伸ばすならば、次は都に火の雨が降るぞ》」

 誰かの涙のように、雨はぱらぱらと少しだけ土を濡らした。


 城壁の上もまた、死のごとき静寂に包まれていた。

 あまりにも凄絶な殺戮に誰もが震え上がり、町を救われたと思うよりもただ恐れをなして、じりじりとその場を離れてゆく。無差別に滅びをもたらす神が降臨したかのように、注意を引かぬよう静かに、密かに。

 ファルタシュもまた逃げ出したい衝動に駆られながら、しかし、彼は王として踏みとどまっていた。無残な遺体と、その間でまだ動いている兵を見下ろし、埋葬と救護に誰を行かせようかと思案する。それから彼は、同じ景色を眺めているシェイダールをさりげなく観察した。

 神のごとき力をふるった若者は、どこまでも冷徹なまなざしをしていた。勝利の高揚もなく、敗者への侮蔑あるいは同情もなく。ただ、鉦を握り締めたまま胸壁の上に置いた手の甲には、白く骨が浮いていた。

 リッダーシュが従者というより友人の仕草で、あるじの肩を軽く叩く。拳の力が緩み、シェイダールは小さく息をついて、ようやく鉦を帯に挟んだ。

 そうした無言のやりとりを見て取ってから、ファルタシュは口を開いた。

「すべて、まぼろしだったのですな」

「当たり前だ」ふん、とシェイダールが鼻を鳴らす。「本当に焼け野原にしたり、大地を裂いたりしたら、後で羊を放すこともできなくなるじゃないか」

 急に話が生活の次元に下りてきたもので、ファルタシュは困惑する。対する若者は、眉を上げてぞんざいに言い添えた。

「噂ぐらい聞いてるだろう。俺は元々、田舎育ちの貧乏人だ。他人の畑を耕し、他人の羊の番をして、なんとか食いつないでいただけの」

「風聞は当てにならぬものですからな。しかし、事実でありましたか」

「これだけ無礼な態度を取られておいて、野蛮な田舎者めと内心罵倒しなかったって言うのなら、たいしたもんだ。さすがリッダーシュの父親だけはある」

 シェイダールは皮肉ってから、おのれの従者を振り向く。信頼の通う笑みを交わしてから、彼は再び荒野を見やった。

 乾いた風が吹きすさび、砂を巻き上げ、棘だらけの潅木の茂みを揺らす。街道は砂をかぶって所々見えず、往来が絶えればすぐにも消えてしまいそうだ。河川の近くか、人間が引いた灌漑水路のまわりにだけ植物が生い茂る、厳しい大地。

「……俺の育った村は、ここよりもっと何もなかった」

 ぽつり、とつぶやきがこぼれた。彼方を見つめる紫の瞳が映すのは、遠く去った過去のまぼろしか、それとも――。

 ファルタシュは無言で一礼し、後ろへ下がる。そうして彼は、孤独な背中をした新王のかたわらに息子が立っていることに、思わずそっと安堵の息をついたのだった。


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