迫る恐怖

    *


 学究派の監禁が始まって五日目、シェイダールは一人の男を伴って『柘榴の宮』を訪れた。出迎えたヴィルメは、前回の毅然とした態度からすると不自然なほどに緊張していたが、シェイダールは気付かなかった。近頃は誰も彼も神経を尖らせているからだ。

「ようこそお渡りくださいました、我が君。……そちらの方は?」

 見覚えはあるのだが、とヴィルメは首を傾げる。男は一礼し、深緑の声で答えた。

「ヴァルカと申します。以前に一度、世嗣様の故郷まで使いを仰せつかりました」

「ああ、あの時の! 今日はどうして?」

 記憶に合致したらしたで、やはり疑問が浮かぶ。ヴィルメの不審顔を受け、シェイダールは極力感情を抑えて言った。

「最近、神殿で騒ぎが起こったのは聞いているか? 以前ジョルハイの奴が、危なくなったら逃げて来いと言ったらしいが、とてもそんな状況じゃなくなった。だから、俺がいざという時の手配をしておこうと思ったんだ」

「待って、そんなに悪いことになっているの?」

「何も今すぐ逃げろと言うんじゃない。もしもの用心だ、怖がらなくていい。実際今は、下手に動くより王宮にじっとしているほうが絶対に安全だしな。ただ、その……」

 そこまで来て言い淀み、シェイダールは怒ったように顔を背ける。当惑したヴィルメの前で、彼はぼそりと唸った。

「悔しいだろ。俺が何も備えてないうちに、ジョルハイに先を越されたとか」

 ぽかん、とヴィルメは夫の横顔を見つめた。あまりにも久しぶりに、まともな情の通った態度を取られて、すぐには理解できず呆気にとられる。次いで彼女は失笑し、慌てて袖で口元を隠した。シェイダールがふてくされた目つきをくれ、言い訳がましく一言。

「約束しただろ」

「ええ、……ええ、そうね。そうだけど」

 堪え切れず、ヴィルメはくすくす笑いだした。頬を染め、嬉しそうに。小さく何度かうなずき、彼女は目を潤ませた。

「ありがとう」

 万感の思いがこもったささやきに、シェイダールは答える言葉を持たず、うん、とごまかすようにうなずいて咳払いした。

「ヴァルカは『王の耳目』として各地を旅しているんだが、これから当分は王宮に留まって、都の中や近場に限って情報収集することになった。もしも情勢が急激に悪くなって王宮にいても危ないほどになったら、その時はおまえとシャニカを連れて、村まで逃がしてくれるように頼んでおいた」

 深刻な話に戻り、ヴィルメはまた顔をこわばらせて件の使者を見た。ヴァルカは胸に手を当てて頭を下げ、謹厳に保証する。

「誓いを立て、必要な金子もお預かりしております。危急の折には私がお迎えに参りますゆえ、お含み置きください」

「信用して大丈夫だ。村へ帰るのがつらければ、適当な町に身を隠してもいい」

 シェイダールは実務的な態度を装ったが、そんな程度ではごまかせなかった。ヴィルメは見る見る青ざめ、唇を震わせる。

「ま、待って、待って! そんな……ことに、なったら、あなたは」

「俺のことは構わなくていい。とにかくおまえは自分とシャニカの安全を考えろ。どうにか切り抜けられたら迎えに行くさ。待っていられなかったら、今度はもっといい男を捕まえて結婚しろよ」

「やめて!」

 悲痛な声を上げてヴィルメは耳を塞ぐ。ぎゅっと瞑った瞼の下から、光る雫が一粒、二粒。シェイダールが立ち尽くす傍ら、使者はそっと目礼して密かに出て行った。

 二人きりになり、シェイダールは苦笑をこぼしてヴィルメの髪に触れた。

「泣くなよ。王宮を逃げ出すはめになると決まったわけじゃない。どっちかと言えば、王宮の兵士が神殿に討ち入ってやり合うことになるだろう。ここまで害は及ばないさ」

 返事はない。ヴィルメは両手で顔を覆ってすすり泣き、肩を震わせている。シェイダールは何度も優しく髪を撫で、それからやっと、ぎこちなく妻を抱き寄せた。

「俺はおまえを泣かせてばかりだな。……悪い。だが今は正直ちょっと驚いてるよ。まだ俺の身を心配してくれるとは思ってなかった」

「やっと……やっと、また、わたしを見てくれた、のに」

 涙声で言い、ヴィルメは夫の背に手を回してぎゅっとしがみつく。

「わたし、いっぱい、あなたを傷つけたわ。でも、だけど」

 それ以上は続けられなかった。夫の肩に顔を埋め、ヴィルメはほとんど聞き取れない声でつぶやいた。愛してる。死なないで。

 彼女がこうも過剰な反応をするのが、衣装櫃の底に隠された物のせいだと知る由もないシェイダールは、照れくさそうに苦笑して妻の額に唇をつけた。

「大丈夫だ。おまえに見せたことはないが、俺だって随分鍛錬したんだぞ。自分の身ぐらい守れる。武器の扱いはまぁ、ずっと訓練してきたリッダーシュみたいな奴らには勝てないが、俺にはウルヴェーユがあるからな。自惚れているわけじゃないが、《詞》の扱いで俺より優れている奴はいない。だからもう泣くな。あくまでも万一の備えだよ」

 安心させようとしたのに、ヴィルメはぎくりと竦み、より強く抱きついてきた。

 だから怖がらせたくなかったのにな――シェイダールは震える背に手を添えて思った。だがさすがに、何も知らせずにおいて本当に王宮が混乱に陥った時、一度会っただけの使者がいきなり彼女を連れ出そうとしたら、とても信用されないだろう。

(穏便に伝えたつもりだったんだが)

 やはり自分はこういうことが下手らしい。彼は気を落とし、ただじっと妻の嗚咽がおさまるのを待っていた。


 その翌日、ジョルハイが王宮にやって来た。謁見殿に連れてこられた『鍵の祭司』を、王と世嗣が厳しい面持ちで迎える。近衛兵が周囲を固めた。

 玉座の前に恭しくひざまずいて頭を垂れたジョルハイに対し、アルハーシュはひとまず穏当に問いかけた。

「神殿の内部はどうなっておる」

「いまだ混乱が続いております。祭司長の陣営につく者、『燈明の祭司』につく者、決めかねている者もおりますが……神殿兵士は全員、イシュイ殿に従っているようです。まことにお恥ずかしい限り」

「そなたが詫びる筋ではあるまい。和解は難しいか」

「道を模索しているところでございます、王よ。イシュイ殿さえ排除できたなら、一派の残りに彼ほど強硬な者はおりませぬし、彼らを結びつけているのは何よりも……浅ましいことでございますが、金、なのです。世嗣殿を快く思わぬ町の富裕家から流れ込む資金。そちらの方面からも切り崩してゆけないか、楔を打ち込む場所を探っております」

 ジョルハイは理性的に答えて顔を上げ、真摯に誠実に続けた。

「万の目を持つアシャに誓って、必ずや事態を収拾して見せます。具体的な詳細についてはどうかご容赦ください、神殿の恥部を明かすことは神官の一人として良心が許しませぬ。しかしながら手段の見通しは立っておりますゆえ、今しばしの猶予を賜りませ。機が熟した暁には、お知らせいたします。必要ならば王宮の全兵士を神殿に差し向け、存分に力をふるって頂いて結構。……それまでは何卒、短気を起こされませぬよう」

 最後の一言は世嗣に向けたものだ。半ば揶揄、だが半ばは真剣な警告。シェイダールが渋面でうなずくと、ジョルハイはいつもの澄まし顔になって王に目を戻した。

「畏れながら、お尋ねになりたいことが他になければ、これにて御前失礼いたしたく存じます。名目上とは言え『柘榴の宮』にも参らねばなりませぬ」

「うむ……よかろう。だがこちらも、ただ手をつかねてそなたの報を待ってはおらぬぞ。あまり時間をかけるな」

 アルハーシュが許可すると、ジョルハイは再度深く臣従の礼をとった。そのまま立ち上がって退出しようとした彼に、シェイダールが鋭く呼びかける。

「ジョルハイ」

「はい、何か」

 足を止めて向き直った青年祭司に、シェイダールは厳しい目を据えて警告した。

「余計なことは言うなよ。不穏な状況が続いているせいで、ヴィルメも怯えている。不安を煽るようなことは絶対に言うな」

 おや、とジョルハイは目をみはり、なぜか薄笑いを浮かべた。怪しんだシェイダールは険しい顔で一歩踏み出す。だがすぐにジョルハイはおどけた笑みになって言った。

「これはこれは。世嗣殿は奥方様とよりを戻されたようで、まことに喜ばしい」

 瞬く間にシェイダールは耳まで赤くなる。ジョルハイがさらにからかった。

「ではこの後、さぞかし惚気を聞かされるでありましょうな。楽しみでございます」

「うるさいっ! さっさと行け!」

「御命とあらば」

 大仰に一礼し、わざとらしく小走りで出ていく。最後までふざけた態度を取られ、シェイダールは舌打ちした。いたたまれなくて王のほうを振り向けない。だが同時に、脳裏にはつかのまの薄笑いがこびりついて苛立ちを煽るのだった。


 ジョルハイの約束とは裏腹に、事態は収束の兆しが見えなかった。神殿では学究派を除いた神官らで日常のつとめを回し、一般人の参拝も変わりなく受け入れているが、剣呑な空気を察した市民の足は遠のいている。何より、このままでは火祭りも行えないだろう。

 ただでさえ日増しに寒さが厳しくなっているのに、こんなことで冬を乗り切れるのか。

 様々な不安の声は、王宮の奥、『柘榴の宮』にも断片的に届いた。神殿内の対立はまだ続いているらしい。燈明の一派は世嗣のみならず、その用いるわざに一度でも手を染めた者は冒涜者だと弾劾している。王は別の世継ぎを検討なさっているそうだ……

 あれこれの噂は不確かで尾ひれが付き、ヴィルメの焦燥を募らせるばかりだった。だが本当のところを確かめたくても、シェイダールはあれ以来顔を見せてくれない。頭の中でジョルハイから聞いた話が、不機嫌な狼のように低く唸りながらぐるぐると歩き回って、心の休まる時がなかった。

 ――悪いが、君には言うなと口止めされていてね。……そうか。目隠しされたまま歩かされるほうが怖いか。……祭司長は別の世嗣を立てるように求めているし、燈明殿はウルヴェーユそのものを否定している。王もシェイダール本人も、新たな世嗣を立てたらひとまず和解できると考えているようだ……だがその先は? ウルヴェーユを使えない者が次の王になれば、その王は自分にない力を持つ者をどう扱うか、想像がつくだろうに……つまりシャニカ姫もだ。だから早く王になってもらいたかったのに……――

 実際の言葉は違ったかもしれない。他にも色々話したかもしれない。だが、「愛する者が脅かされる」との考えに憑かれたヴィルメにとって、目にする光景、耳にする話、すべてが不吉な警告であり、それ以外は記憶に残らなかった。

 こめかみを揉み、せめて少しは気分を変えようと、シャニカを遊ばせるついでに庭園へ出る。真冬のこととて花も緑もろくにないが、幼い姫はお構いなく走り回ってご機嫌だ。ヴィルメの唇にも笑みが浮かんだ。

「かーしゃま!」

 こっちこっち、と呼んだかと思えば、自分から駆け寄って来たり、また遠くへ走ったりと忙しい。土をいじり、小枝を拾い、水路に手を突っ込んで。遊びまわっている本人は良いが、見守っているヴィルメはだんだん寒くて耐えられなくなってきた。

「シャニカ、もう中に入りましょう。風邪をひいちゃうわ」

「えぇー?」

「かえるわよ」

 一音一音区切ってゆっくり言い、手招きする。シャニカは不満そうに口を尖らせたが、冷たい風に吹かれてくしゃみをすると、おとなしく母のもとへ駆け戻ってきた。

「ほぉら、こんなにおててが冷たい」

 両手で小さな手をぎゅっと握り、笑って額をくっつけてから一緒に歩きだす。幸せな気分で宮に入ったヴィルメは、廊下で思わぬ人物と出くわして立ち竦んだ。

「ラファーリィ様」

 急いで廊下の端に避け、低頭する。相手は驚いた様子もなく優雅に会釈を返した。

「お久しゅう。シャニカ姫を遊ばせていたのですか。赤い頬をして、元気だこと」

 鷹揚に微笑む王妃の手には、小さな瓶があった。何だろうとヴィルメが疑問を抱くまでもなく、視線を追った王妃が先回りして答える。

「我が君への差し上げ物です。先頃ドゥスガルからわたくしに、若さを保つ妙薬だとかで届けられたのですけれど、摂っていると身体の調子が良いようだから」

 叔父の甘やかしぶりを思ったのか、女のための美容薬を王に渡すことの珍妙さゆえか、ラファーリィはおかしそうにくすくす笑った。ヴィルメも曖昧な笑みで調子を合わせる。

「アルハーシュ様のお加減は、まだ……?」

「夏の頃に比べたら、すっかりお元気になられましたよ。ですがやはり以前よりも疲れやすくおなりですから、この寒さに負けないよう、できる限りのことはしなければね」

 二人がそんな会話をしている間、シャニカは菫色の瞳でじっと王妃を見つめていた。その顔ではなく、腹の辺りを。凝視に気付いた王妃が屈んでシャニカと目を合わせた。

「どうしました、姫? 何が気になるのですか」

 問いかけにも反応せず、シャニカは小首を傾げて王妃の身体に手を伸ばした。

「りん、りーぁ、らー」

 たどたどしいが、明らかにそれは普段の話し言葉ではなかった。音を紡いでいるのだ。

 ヴィルメは視界に微かな光が踊るのを感じ、どきりとした。娘の声に色の星が瞬いている。ラファーリィも驚いたが、こちらはじきに納得と感嘆の表情になった。「まあ」と声を漏らし、幸福に弾けんばかりの笑みを広げてシャニカの頭を撫でる。

「そう、わかるのですか。この小さな音が聞こえるのですね」

 その声音、表情。直感的に理解したヴィルメは、衝撃を受けて無意識につぶやいた。

「赤ちゃん……?」

 自分の声で我に返ると同時に、ラファーリィが振り向いて誇らしげにうなずいた。

「ええ。今度は無事に産まれる予感がするのです。そうしたら、シャニカ姫の良い遊び相手になりましょうね。ふふっ。姫、仲良くしてあげてちょうだいね」

「あー、う? はぁい」

 シャニカは音の名残を歌ってから、何を言われたかわかっていない顔で、とりあえずうなずく。それでも王妃は嬉しそうに、柔らかな藤色の声で笑った。

 ヴィルメは悪夢に取り込まれた心地で、ほとんど無意識に祝福の言葉を吐き出した。

 おめでとうございます。アルハーシュ様にお伝えされたのですか? これから? さぞ喜ばれるでしょう、さ、シャニカ、お引き留めしてはいけませんよ。ごきげんよう……

 娘を連れて部屋に戻る道すがら、ヴィルメは恐怖の塊が喉までせり上がるのを懸命に飲み下していた。

(王の子が産まれる)

 動悸が速まり、冷たい汗がじっとりと背を湿らせる。

(シェイダールが殺されてしまう)

 仮定と条件、いくつもの段階をすべてなぎ倒し、ひとつの結論が巨大な隕石となって墜落した。飛躍を指摘する者も、杞憂だと笑う者もいないまま、結論は地に埋まり確定される。巣穴に逃げ込むように部屋へ入ると、ヴィルメは娘を侍女に預けて別室へ行かせた。

 一人になり、誰もいないことを何度も何度も確かめて、衣装櫃を開ける。ジョルハイの声が、ひそひそと噂する召使らの声が、頭の中で嵐となって吹き荒れた。

 王は弱っている。このままではひどいことになる。

 王の力は誰でも奪い取れる。力を手にした者はシェイダールを殺す。

 その次はシャニカ……

(守らないと。わたしが守らないと)

 ヴィルメは震える手で服を掻き分け、厳重に布でくるんで隠した宝刀を取り出した。ごくりと唾を飲み、布を剥ぐ。恐ろしい考えが浮かび、ぞくりと寒気に身震いした。

(できない。そんなこと、できない……でも、やらなければ。だけど)

 緊張と恐怖で歯がカチカチ鳴る。

(どうすれば……ああ、神様)

 ぎゅっと目を瞑って、思いつく神に片端から祈ってゆく。やがてゆっくりと動揺が静まっていった。そうだ、決断は神々に委ねよう。

(どうかお守りください。わたしはどうなってもいい、シェイダールとシャニカを)

 細く長く息を吐く。瞼を上げた時、灰色の瞳にもはや迷いはなかった。

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