神意

     *


 シェイダールのことで折り入って相談したい、との言伝を受け、アルハーシュはしばし悩んだものの、予定をやりくりして昼下がりの『柘榴の宮』へと足を運んだ。

 仕事は山積みなのだが、まさにあらゆる事態の中心、大渦の目にいる当人に関する相談とあらば、放っておくわけにもいかない。ついでに叶うなら愛くるしい姫と少しばかり戯れて、心癒されたいものだ――そんな願いもあったのだが。

「ようこそお渡りくださいました、偉大なる王アルハーシュ様」

「そなた……これは」

 出迎えたヴィルメと室内の様子に、王は驚き困惑した。美しく整えられた部屋に幼子の存在を匂わせるものは一切なく、若々しい清楚な華やぎが演出され、同時に女の色を感じさせる仄かな香が焚かれていたのだ。明らかに、男を迎える支度である。王の前に跪くヴィルメ自身も、今までにない特別に美しい装いで目を伏せている。

 アルハーシュは眉を寄せ、「立つが良い」と促した。おずおずと立つ仕草も、些細な手指の動きも、すべてが女の儚さを醸して誘惑する。しかしこの宮で何人もの妃を相手にしてきた王には、ヴィルメの用いる手管など、既に見飽きたものにすぎなかった。

「何があったのだ。このような回りくどいことをせず、率直に話すが良い。そなたは我が娘も同然だと言ったではないか」

 厳しく、しかし温情をもって諭した王に、ヴィルメは潤んだ目をみはり、一瞬確かに安堵の表情を見せた。だがすぐに彼女は顔を伏せて感情を隠す。

「どうぞそのお言葉は、このひと時だけでもお忘れくださいませ。今のわたくしは寛大なる王の情けを乞う、一人の憐れな女にございます。……アルハーシュ様、わたくしは恐ろしいのです。あらゆることが、今ある世界の終わりを示しているようで……心細く頼りなく、冷たい風に吹かれる枯れた葦の心地でおります」

 声が震え、ほろりと一滴の涙が落ちた。アルハーシュは眉をひそめたが、その場を動かなかった。ヴィルメはきゅっと唇を噛み、涙を指で拭って顔を上げた。

「シェイダールのことで、と申し上げたのは偽りではございません。王よ、彼は怯え震えるわたくしをそのままに打ち捨て、顧みてくれないのです」

「シェイダールは先日、そなたの元で過ごしたのではないのか」

「いいえ。いいえ、王よ。彼はただわたくしに、警告に訪れただけでした。励ましも慰めもなく、状況の厳しさを説き、娘を守れと」

 疑わしげに質した王に、ヴィルメは首を振った。嗚咽を堪えるように、しばし両手で口元を覆って瞑目する。ゆっくりと静かに一呼吸した後、彼女は切々と訴えかけた。

「彼の愛を失ったのはわたくしの身から出た錆であるとは、承知しております。けれどあまりにも……つらいのでございます。独り寝の夜、明日を無事に迎えられるのかと恐れ、床の冷たさに震え……お願いでございます、王よ。どうかわたくしに、せめてつかのま、人肌の温もりをお恵みくださいませ。女の幸福を思い出させて頂きたいのです」

 涙に濡れた瞳で、ヴィルメはひたと王を見つめた。思慮深い鳶色の双眸には明らかに同情が浮かんでいる。もう一押し。最後に取っておいた言葉を、ささやき声で投げかけた。

「ラファーリィ様が、わたくしの夫によって喜びを得たように」

 アルハーシュが息を飲み、身じろぎした。確実な手応えを得て、ヴィルメはそれ以上無用の言葉を連ねず、揺れるまなざしと唇だけで王を求め、待った。

 長い沈黙の末、とうとう王が動いた。ゆっくりと歩み寄り、ヴィルメの頬に手を添えて涙を拭う。沈痛な表情に浮かぶのはただひたすらに憐れみと罪悪感のみで、愛欲など片鱗さえもなかったが、それで充分だった。

 初めて夫以外の男に触れられ、ヴィルメの身体は予期せぬ快楽に舞い上がり、溺れ、蕩けていった。押し寄せる歓喜の波に呑まれながら、しかし、心の片隅は凍ったまま溶けることがなかった。疲れ果てて眠りに落ちたその瞬間でさえも。


 一方シェイダールは密かな逢瀬を知る由もなく、リッダーシュと共に果樹や麦畑の経過を観察していた。順調に育っている麦を見て、あの畑も荒らされなければ今頃は、と悔しさが胸をよぎる。だが悔やんでも元には戻らない。彼はさらに術を改良できないか、現在の生育具合に上手く適合しているか、微かな色と音に耳を澄ませた。

 パキン、とどこか遠くで何かが砕ける音がしたのは、その時だった。


 まどろみから目覚めたヴィルメは、慎重に身体を動かした。すぐそばに寄り添う人の温もりに、我知らず涙ぐむ。静かに上下を繰り返す胸にそっと手を当てたが、アルハーシュ王は目を覚まさなかった。そのまましばし、ヴィルメは安らかな寝息に耳を傾け、瞑目する。それからするりと寝台を抜け出した。火鉢を焚いているとは言え、部屋は寒い。だがヴィルメは感覚が麻痺したように、裸のまま衣装櫃のほうへ歩いていった。

(ごめんなさい)

 謝罪が浮かび、泡沫のように消える。蓋を開けた微かな音が聞こえたのか、王が寝返りを打った。ヴィルメは自分でも意外なほど平静に振り返り、目覚めたのか否か、続く反応を待つ。……再び寝息が深くなった。

 ヴィルメは儀式の短刀を両手で持ち、天を仰いで最後の祈りを捧げた。

 すべては神意を問う賭けだった。

 呼びかけに応じて王が宮を訪れるか否か。己を『娘』ではなく『女』とみなすか。女を満足させるだけの力がまだ王にあるだろうか。目が覚めるのは己が先か、王が先か――

 ――答えは得られた。

 王は宮を訪れ、ヴィルメを抱き、今なお眠っている。もはや『父娘』でないのだから、親殺しの大罪は免れる。そして、女一人の相手をしただけで疲れ果て、その女が起き出しても目を覚まさないのは、王が若さと力を失った証拠。衰えた王を廃するのは、自然の摂理に基づくこと、神意に沿うことだ。

 むろん、さりとて己の行いはやはり罪である。間違いなく死刑に処せられるだろう。

(でもその時は、あなたがわたしの魂を引き受けてくれるわね。わたしが奪った力と一緒に。そうして誰よりも強い王となって、この国とシャニカを守ってくれるでしょう)

 夫の顔を思い浮かべ、彼女はうっすらと微笑んだ。

 さようなら、愛しい人。

 

「――っ!?」

 全身を打ち砕くかのごとき轟音が響き、シェイダールは大きくよろけて膝をついた。次いですぐに、それが現実の音ではなく路に響いているのだと気付く。

 いったい何の天変地異か。彼は青ざめ、地面に手をついたまま音の源を振り返った。

「あれは……」

 建物の屋根越しに、乱舞する色彩の渦が見えた。音が狂乱し、全身に地鳴りとなって伝わる。横でリッダーシュも同様に愕然としていた。

 シェイダールは歯を食いしばり、矢のように走りだした。脇目もふらず異変の中心へと向かう。すれ違う王宮の人々も皆、割れ鐘のような《音》を感じ取り、慄き竦んでいた。『柘榴の宮』に駆け込むと、溺れそうな渦巻く色の海を掻き分けてゆく。絶叫が《音》の厚みを貫いて耳に届いた。

「ヴィルメ!」

 部屋に飛び込んだ彼が見たのは、どんな悪夢よりも酷い光景だった。

 だらりと力を失って寝台に横たわる王。その首から溢れた血が、敷布を伝って床につくる真紅の池。部屋の中央では、妻が裸身に赤い花を散らし、獣のように叫びながら踊り狂っていた。両目と鼻、口から血を流して。

 衝撃のあまりシェイダールは気を失いそうになった。膝が抜けて倒れ込み、床に転がる短刀に気付く。鞘から抜かれ、刃を紅く染めたままの『継承の刀』。

「どうして」

 嗚咽まじりに、何の役にも立たない声をこぼす。どうしてこれがここにあるんだ。絶望と動転で涙が溢れ、視界が揺らめく。よろよろと立ち上がり、彼は吸い寄せられるように妻のもとへ向かった。

「ヴィルメ……っ、しっかりしろ! 今助ける、助けるから、頼む死ぬな!」

 差し伸べた手が、箍の外れた凶暴な力で振り払われる。抱きしめたいのに、暴れる妻は一瞬も止まらない。

「シェイダール! 殺せ!!」

 黄金の槍が無慈悲に彼を貫いた。言葉の意味を理解するより先に、駆けつけたリッダーシュが宝刀の柄を押し付ける。森緑の目をぎらつかせ、一切を圧する声で怒鳴った。

「助ける方法はない、早く殺せ! 王の力が失われるぞ!」

「……っ」

「このまま狂い死なせて良いのか!? 眠らせてやれ!」

 叱咤に押され、シェイダールは宝刀を握った。

 リィン……澄んだ一音が響き渡る。無秩序に渦巻き荒れ狂っていた色と音が、大きな流れへと収束してゆく。暴れていたヴィルメがはたと動きを止め、魅入られたように光を仰ぎ見た。無防備に晒された白い喉に、一筋の線が走る。

 最後の瞬間、血走った目に映ったのは美しい光か、それとも愛しい夫の顔だったのか。ヴィルメの唇が柔らかくほころび、小さな吐息を漏らした。妻をかき抱いたまま、共にシェイダールも床にくずおれる。光が、音が、色が、瀑布となって己の路に流れ込んだ。

 きらめく飛沫を上げて歌いながら深淵に落ちてゆく滝。新たな標が次々に刻まれ、既にあるものも共に輝きを放ち、花開いてゆく。どこまでも深く、深く降りてゆく螺旋。

 しろがねの雪、脈打つ血潮、萌ゆる草葉の緑。豊かな恵みの海原、陽光に輝く麦の穂、遙かな宇宙の星々。すべてが美しく、満ち満ちる生命を謳い上げる。かつて在りしもの、いにしえの詞、あらゆる知識が押し寄せて、彼自身をも渦の中へ崩しこまんとする。

《シズマレ》

 詞が響いた。無数の標、いにしえの叡智の中から、いくつもの小さな光が飛び出して詞を飾り、力を与える。

《継承ハ為サレタ》

 ゴゥン……

 低く厚い音が深淵から響き、あらゆる色と音を鎮める。その余韻が消えて、やっとシェイダールは我に返った。膝に妻を抱いて茫然と宙を見上げている己のざまを自覚する。重みすら感じられるほどに荒れ狂っていた色と音は、完全に静まっていた。

 顔を下ろした途端に涙がどっと溢れる。

「ヴィルメ……っ、アルハーシュ様、う……ぁ、ああ、あああ!」

 慟哭が、世界を真紅に染めていった。


 悲劇はそれだけでは終わらなかった。

 嵐が静まり、衝撃から立ち直った王妃ラファーリィは、無意識に己の路を探った。荒らされた流れを整えようとして、愕然と息を止める。

 ない。あの小さな路が、光の欠片と音のささやきが。

「ああ、そんな」

 今度こそはと思ったのに。やっと、ついに、長年の望みが叶うかと。

 ふらつく足取りで部屋を出る。何があったのか、彼女は既に察していた。

「殿……我が君」

 つぶやきながら、嵐の源であった部屋へと向かう。そこかしこで倒れ伏し嗚咽する召使や侍女も目に入らない。帳の手前に幼子の姿があった。シャニカ姫だ。リッダーシュが中に入れまいと阻んでいる。彼は王妃に気付くと、絶望に打ちひしがれた顔を歪めた。

「いけません、ラファーリィ様」

「通しなさい。わたくしはこの宮のあるじですよ」

 今の己はどんな顔をしているのだろう。彼と同じほどに酷いのか、それとも少しは威厳を保っているだろうか。他人事のような思考が頭の片隅をよぎる。リッダーシュが躊躇した隙にシャニカが押し入り、それを捕まえようとして空いた場所を王妃がすり抜けた。

「とーしゃま、かーしゃま!」

 幼子の悲鳴を背中で聞きながら、ラファーリィは夫のもとへ行く。女の寝所で無防備に裸身を晒したまま、威厳も名誉も損なわれた死に姿。せめてもと、彼女は遺体の姿勢を整えた。瞑目し、そっと息を吐く。振り向くと、王の命を奪った刃の、血を吸ってなお美しくきらめく六色の揺らぎが目に入った。

 誰もが悲しみと絶望に呑まれ、他人に注意を払っていない。王妃は静かに歩を進め、屈んで短刀を拾い上げた。こんな時でさえも魂を震わせる、甘美な響きが路を満たす。

「ラファーリィ様!」

 リッダーシュが叫び、短刀を奪おうと飛びかかる。つられて幼い姫も振り向いた。

「やめてください、あなたまで……っ」

 懇願の声を最後まで聞かず、王妃は己の喉に刃を立てた。膝からくずおれた身体をリッダーシュが抱きとめ、助けられるはずもないのに刀を抜いて血を止めようとする。彼の嘆きに引きずられたか、シャニカが両手を伸ばし、共に傷を押さえようとした。

 六色の旋律が渦を巻き、高らかに歌う。短刀に触れていたリッダーシュに向けて輝く流れが迸り、溢れた光は傍らの小さな路をも満たしてゆく。

「シャニカ!」

 我に返ったシェイダールが引き離そうとした時には、もう遅かった。まじろぎもせず虚空を仰いでいた幼い姫は、がくりと力を失って倒れ伏す。リッダーシュは継承の衝撃に震えながら、己が巻き添えにしてしまった姫をただ見ていることしかできなかった。

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