ヴィルメ

     *


「シャニカ、そっちは駄目よ。こっちにいて……そう、いい子ね」

 火鉢に興味津々の娘を急いで遠ざけ、ヴィルメはほっと息をついて室内を見回した。華美に過ぎないよう適度に飾り、落ち着きのある香を焚いて、酒肴もほどほどに調えた。媚びていると思わせず、よそよそしさを感じさせない程度のもてなし。

 一通り点検して、ヴィルメは両手を腰に当てた。村にいる時は、自分がこんなことに気を配るようになるとは夢にも思わなかった。誰かのもとに嫁入りし、慣習と姑に従ってひたすら下働きに徹する生活を、当然として受け入れていただろう。

 それにしても、夫が来るのは久しぶりだ。旱魃の対策とかでずっと忙しくしていて、娘の顔を見に来る余裕さえない様子だった。

(少しは落ち着いたのかしら。アルハーシュ様のお加減は相変わらずあまり良くないようだけど……)

 ヴィルメは不安に騒ぐ胸を静めようと手で押さえた。夏からずっと、耳に入るのは悪い噂ばかりだ。向こう数年は旱になる、王が衰えてきたせいだ、儀式は失敗……

(これからどうなるのかしら。わたしとシャニカは)

 見えない未来にあれこれと思いを巡らせ、ジョルハイの忠告を思い出して唇を噛む。そこへ、召使が世嗣の来訪を告げた。ヴィルメは恭しく跪いて夫を迎える。帳をくぐって現れた夫は、記憶にあるよりも大人びており、かつ憔悴して見えた。

「ようこそお渡りくださいました、我が君」

 優雅に出迎えたヴィルメにも、うなずきだけでろくに反応を示さない。それどころか、

「とーしゃま!」

「ああシャニカ、元気にしてたか?」

 娘の歓迎もどこか上の空で適当に相手をして、じきに長椅子に腰を下ろした。どうやら訪問の目的は何か愉しからぬ事柄らしい。察したヴィルメはシャニカを侍女に預け、形ばかり葡萄酒の壺を手にして夫の横に座ると、そっとささやきで尋ねた。

「どうなさいました、我が君? 可愛いシャニカも目に入らないほど、ひどく気にかかることがおありですか」

 シェイダールは杯に一瞥もくれず、眉間を揉んで、唸るように問い返した。

「ヴィルメ。出入りの祭司がジョルハイ以外に変わったら、不安か」

「……?」

 何を訊きたいのか。ヴィルメは眉を寄せてしばし続きを待ったが、それ以上の説明はなかった。彼女は小さくため息をつき、酒壺を卓に置いた。

「あなたはそうやって、いつも大事なことを隠しておこうとするのね。いいえ、それがあなたの思いやりだというのは承知しています。わたしを傷つけまい、怖がらせまいという優しさなのよね。でもそれだけでは、何も判断できやしないわ」

 静かな指摘にシェイダールが怯む。ヴィルメは一言一言ゆっくりと続けた。

「充分な説明を与えられずに、まともな判断を下せると思う? わたしがまだシャニカの母親として必要であるのなら、情はなくとも味方の一人に数えてくれるのなら。何が起こっているのか、きちんと教えて頂戴」

 毅然とした要求。シェイダールは目をしばたたき、夢から覚めたばかりのような気分で妻を見つめた。己の知っているヴィルメは、こんなことを言う女だったろうか。

 彼が迷っている間に、彼女はもう一押しした。

「何があったの? アルハーシュ様のお加減が良くないとか、雨が降らないとか、いろいろ聞こえてはくるけど、ジョルハイ様にどう関係があるの」

「……ちょっと前に神殿に行った時、神官の一人が……俺を脅した。優れた力を持つのだから早く王になれ、と。その時に持っていたのが、宝物庫にあるはずの短刀だったんだ。以前からジョルハイは俺に、早く王位に即けと催促していたし、宝物庫の鍵はあいつしか持っていない。本人は術で眠らされたと言っていて、実際、残響もあった。だがその場にいた神殿兵士の証言がどうも食い違う」

「まさか、ジョルハイ様が武器を渡して、あなたを脅すように命令したって言うの?」

「誰が嘘をついているのか、取り調べにもうしばらくかかるらしい。そんなわけだから、事実がはっきりするまでは、あいつをここに入れたくないんだ」

 シェイダールは険しい顔で唸る。ヴィルメは難しそうに眉を寄せ、考えながら言った。

「ジョルハイ様があなたを傷つけるとは思えない。わたしとシャニカを心配して、何かあったら神殿に逃げてくればいい、とまで言ってくれたもの。悪い人じゃないわ」

 予想されたことだが、シェイダールはあからさまに不機嫌になり、棘のある沈黙の殻に引きこもった。ヴィルメは静かな口調で続けた。

「ジョルハイ様はあなたのことを、高潔すぎて卑怯な人間のふるまいを予想できない、とおっしゃったの。あなたから見るとジョルハイ様はなんとなく怪しいだろうけど、それはあの人が、あなたが想像できない世の中の暗い部分から気を配ってくれているからよ」

「やけにあいつの肩を持つんだな。言っておくが、シャニカはあいつに渡さないぞ」

「随分な言い草ね。自分が守れないものを他人に守ってもらうぐらいなら、巻き添えにして一緒に死ぬほうがいいとでも?」

「そんなことは! ……くそっ」

 大声を上げかけ、シェイダールは舌打ちして堪える。シャニカが心配そうにこちらを振り向いたのだ。彼は両手で顔をこすってから、妻を見ないようにして唸った。

「……わかった。おまえがそうまで言うなら、これまで通りあいつの出入りを許す。だが用心しろ。あいつの話を鵜呑みにするな。あいつの言葉がすべて善意に基づいているなんて信じるな。優しく親切にされたとしても、必ず裏があると思え」

「そこまで言うのはあんまりじゃない?」ヴィルメは呆れて頭を振った。「ジョルハイ様が信用ならないのなら、利用されないぐらい強くなればいいじゃない。力があることを示して皆を従えて、神様もお祀りして……そんな簡単な話じゃない、って顔してるわね。でもシェイダール、あなたはそうやって新しい未来を拓くために頑張っているんでしょう? 旱や寒さで飢えに苦しむことのない国、女だって長官になれる国をつくるために」

 ヴィルメは言って、強い瞳で夫を見つめた。かつてのような、憧れ称賛し、従属して縋る目ではない。突き放しつつも同じ高さにあるまなざしだ。

「わたしはそんな国が実現するまで、どんなことをしてでもシャニカを守る。あなたが目指す高いところは、わたしにはよくわからないし、一緒には行けないけれど」

「ヴィルメ、……変わったな」

 シェイダールはつくづくと言った。己が変化したように、彼女もまた田舎の素朴な村娘ではなくなったのだ。ヴィルメは灰色の目を伏せて、わずかに頭を下げた。

「わたしはあなたにとって良い妻じゃなかった。謝るわ。でも今はシャニカがいる。あの子を愛しているのは、あなただけじゃないのよ」

「ああ。よくわかった」

 シェイダールはうなずくと、立ち上がって娘のそばへ行った。玩具で遊びながら、ちらちら両親を見ていたシャニカは、ぱっと笑顔になって父に駆け寄る。

 どしっ、と足に体当たりされて、シェイダールは笑いながら娘を抱き上げた。

「シャニカ、おまえは幸せだなぁ。おまえが大人になる頃には、もっといい国にしておいてやるからな。母様と一緒に、毎日笑って暮らせるように……だからあんまり駄々をこねて母様を困らせるんじゃないぞ」

「ないない? とーしゃま、めっ」

 何を言いたいのかよくわからないが、めっ、された父様は眉を下げて萎れ、うなだれる。ヴィルメがふきだし、くすくす笑いだした。

 シェイダールは娘を抱いたまま妻を振り返り、ふと目を細める。

(きれいだな)

 両脇を品良く結い上げた波打つ髪に、若葉色のきらめきがちらちら踊りながらまとわりつく。顔を上げ、こちらを見つめる澄んだ灰色の瞳。その姿はかつての幼馴染みではない。彼の知らない強さを備えた一人の女だ。

(こんなに美人だったのか)

 今さらそんなことを思い、彼は自分に呆れた。

「どうしたの?」

「ん……いや、何でもない」

 シェイダールはごまかしてシャニカを下ろし、表情を取り繕った。

「せっかくもてなしの準備をしてくれたのに悪いが、ゆっくりしていられないんだ。ジョルハイの件だけ確認したかったんだが」

 しゃがんで娘の頭を撫で、優しく額に口づけしてから立ち上がる。そのまま妻のそばへ行って髪に触れたくなったが、なんだかあまりに虫が良すぎるという気がして、彼はその場で拳を握った。

「あいつが本当に潔白だったとしても、やっぱり用心は忘れないでくれ。俺の信念も、おまえの身の安全も、あいつにとっては利用できるかできないかの問題でしかない。あいつにとって一番大事な目的は別にあるんだってことを忘れるな」

 あくまでも敵意を固持するシェイダールに、ヴィルメは処置なしと言いたげな顔をしたものの、反論はせず恭しく胸に手を当てて一礼した。

「畏まりました、我が君」

「冗談事じゃないんだぞ」

「だから真面目に言ったじゃないの。あなたも気を付けてね。外は物騒なようだから」

「ああ、わかってる。……ありがとう、ヴィルメ」

 抑えたつもりの情が最後の呼びかけに滲む。ヴィルメがはっとなったが、シェイダールはそれを見ていられず、そそくさと逃げるように部屋を出ていった。


 夫と話し合って自身の決意を確かめたヴィルメだったが、まさか数日後にもう早速ジョルハイが来るとは予想していなかった。

 本来ならヴィルメが呼んで初めて遣わされてくる段取りなので、宮の入口でジョルハイを足止めした女衛兵が困惑気味に、通しても良いかと尋ねてきた。

「大事なお話があるのでお会いしたいと仰せられて。切羽詰まったご様子でした。帯に短刀を差したまま通ろうとなさったので、とにかく一度お止めしたのですが」

 武器を帯びたまま入ろうとした、と聞いてヴィルメは本能的な恐怖を感じたが、一時も手放せないほど脅かされているのだとしたら、よほどの事態になったのだろう。身の潔白を証せなくて、シェイダールへのとりなしを頼みに来たのかもしれない。

「短刀はお預かりしたのね? それなら、お通しして」

「畏まりました」

 凛々しく一礼して兵士が去る。ヴィルメは召使らと手分けして、慌しく室内を整えた。

(あまり難しい状況になっていなければ良いのだけど)

 不安に胸が騒ぐ。シェイダールには釘を刺されたが、彼女はどうしても『お使者様』を敵や悪人だとは思えなかった。村から都までの旅では世話になったし、王宮に入ってからも何くれとなく親切にしてもらっている。その彼が困っているのなら助けになりたい――たとえ自分にはろくな力がなくとも。

 ややあって姿を現したジョルハイは、明らかに様子がおかしかった。緊張と疲労で神経が昂って極限状態に近いのが、一目でわかる。

 ヴィルメは驚き、次いで胸を痛めた。急いで駆け寄り、腕に手を添えて中へ促す。彼はくずおれるようにして絨毯に座りこんだ。

「いったい何事ですか、ジョルハイ様。ああ、まずお水を」

「ありがたい」

 ジョルハイは差し出された杯を受け取り、ぐいと呷ったものの、ちっとも落ち着かずにそわそわと室内を見回している。

「……タナも下がらせましょうか?」

 ヴィルメがそっと小声でささやくと、彼はうなずき、侍女を振り返った。

「すまないが、外してくれ。万の目を持つアシャに誓って、ヴィルメ殿に害を及ぼすことは決してしない。誓いを破ればその場で消し炭になっても構わない」

 大仰な誓いはかえって不安を抱かせたが、ヴィルメは彼の望みを容れた。溺れかかっている者を救わねば、との思いが勝ったのだ。二人きりになってもなおしばらく、ジョルハイは無言だった。ヴィルメは辛抱しきれなくなって切り出す。

「神殿でシェイダールが脅されたと聞きました。その疑いを晴らせないのですか」

「聞いたのかい。いや、無実の証は立てられたよ。立哨についていた神殿兵士が何人も、買収されたことを白状したんだ」

「買収?」

「うん。ナムトゥル……ああ、世嗣殿を襲った神官だが、彼は実家が裕福でね。金はいくらでも融通できたらしい。それで、私の部屋や宝物庫に配置されている兵に賄賂を渡し、目を瞑らせた。さすがに彼らも、『継承の刀』で世嗣殿を殺して力を奪うつもりだとまでは、知らなかったようだが」

「――っ!?」

 ヴィルメは息を飲み、冷水を浴びせられたように竦んだ。脅されただけではなく、殺されかけたのか。それも、『王の力』を奪うために。

「そんな……そんなことが、できるのですか」

 恐怖に声が震えた。夫が危うく死ぬところだった、というだけではない。神聖にして冒すべからざる『王の力』を、力ずくで奪おうなどとは。

「なんて罰当たりな」

 無意識に指で禍避けをしたヴィルメに、ジョルハイはひきつった笑みを見せた。

「罰当たりの恐れ知らず、まさにそうだとも。だがこれからは、そんな輩がまた現れるかもしれない。なにしろ水不足に加えて、王の衰えもごまかせなくなってきたからね。早く新たな王を立てたい、世嗣がぐずぐずしているのなら力を奪ってしまえばいい、そう考える者は必ずいるだろう。だから」

 そこまで言い、彼は言葉を切ってごくりと唾を飲んだ。室内を見回し、物音に耳を澄ませ、息を潜める。ヴィルメのほうへ身を屈め、彼は祭服のたっぷりした袖に手を入れた。

「……君に、これを預かってもらいたい」

 極限まで抑えた声でささやき、ジョルハイはそれを取り出した。六色の宝石が彩る美しい鞘に収められた、『継承の刀』を。

 ヴィルメは目を零れ落ちそうなほど見開き、息もできず硬直した。教えられずとも宝刀の正体は明らかだ。その膝に、ジョルハイが強引に刀を押し付けた。

「これを使えば誰でも、王の力を奪い取れる。神殿に保管していたのでは、また狙われるだろう。ここなら部外者は入れないし、そもそもこんな所にあるとは誰も思わない」

「ま、待ってください! こんな……、わたしにはとても」

「シェイダールを守るためだ」

 怯えて逃げようとするヴィルメを、ジョルハイは強力な言葉の鉤で引き戻す。びくりと竦んだところへ、さらに網をかけて搦め捕ってゆく。

「この短刀は本来、儀式によって旧王の力を新王が受け継ぐための道具だ。しかし実際には儀式をせずとも、この刀で相手を殺せば『王の力』を奪い取ることができる。だからこそ、二本一対のこの刀の片割れは、王宮で保管され常に王の身近に置かれている。もしもの時に、居合わせた誰かが間に合わせで『王の力』を引き受けられるように」

「でも、資質がなければ王にはなれないのでしょう?」

「少し違う。資質が充分でなければ、器に入り切らなかった分は失われてしまうんだ。しかし部分的には引き継げる。しかも今は大勢がシェイダールによって、資質を目覚めさせられた。以前より遙かに簡単安全に、力を奪い取ってしまえるようになったんだよ」

 ジョルハイは険しい表情で宝刀を見下ろした。ヴィルメもつられて視線を落とし、宝石のきらめきに魅せられる。絡み合った蔦の意匠、繊細な金銀細工。薄く脆い路にも、優しく触れる微かな響き。感情を抑えたジョルハイのささやきが続ける。密やかに頭の芯まで染み込むように、まじないをかけるように。

「シェイダールは強い。この刀を神殿から盗み出したとしても、そう簡単に彼を殺せはしないだろう。だが、恐ろしいのはそれだけじゃない。……アルハーシュ様が狙われるかもしれないんだ。王に近付くのは容易じゃないが、そばに行けさえすれば、衰えた王は簡単に殺せる。そうして力を奪ってしまえば、世嗣を捻り潰すことも……」

「だめ!」

 ヴィルメはぶるっと震え、思わず短刀を両手でがっしと押さえつけていた。誰にも奪われまいとするように。ジョルハイはじっと彼女を見つめ、ゆっくりと深くうなずく。

「だから、君にそれを隠して欲しい。衣装櫃の底でも、寝台の裏でも構わない」

 声はない。宝刀を握り締めた手の甲の白さ、細い指のわななきが答えだった。


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