真の祭壇
*
細く勢いのない雨が地面を湿らせ、芽吹いた麦が緑を増してゆく。
シェイダールは庭園の一角にある圃場に立っていた。どの葉も、微かに色と音の星屑を帯びている。ここにある大麦小麦はすべて、事前の発芽試験に合格したものばかりだ。
「一の畝と四、五の畝は実るであろうな。あとは残念ながら、葉だけで終わる」
横から判定を下したのはアルハーシュだった。ようやく王宮内を散歩できるほどになったが、見るからにげっそりやつれている。今も杖に寄りかかるようにして立っていた。
「一と四、五ですか。……良かった、村に送ったのは役立ちそうです」
シェイダールはほっと息をつき、アルハーシュに寄り添って四阿へ促した。長椅子から落ち葉を払って腰を下ろす。柘榴の葉の鮮やかな黄金色が、雨の下でも眩しい。
並んで座る王と世嗣、そばに控える従者。三人はしばし無言で雨のささやきに耳を傾けていた。ややあって王がつぶやく。
「状況は、あまり良くないな」
「……はい」
シェイダールはうつむき、唇を噛んだ。遅れに遅れた秋がようやく到来し、こうして雨も降るようにはなったが、例年に比べるとやはり格段に少ない。世嗣による儀式の冒涜はまだ公にされていないが、何かがまずかったらしいという噂が広まりつつある。
雨が降ったは良いが、急激に寒くなったのも一因だ。落差が酷く身に堪え、作物の育ちも悪く、人々に強い不安と悲観を抱かせた。
アルハーシュはただ黙って庭園を見渡し、ほうっと深い息をついた。
「美しい庭だ。……これが見納めであろうかな」
穏やかな一言に、シェイダールとリッダーシュが揃って悲痛な顔をする。二人の正直な反応に、王は温かい苦笑をこぼした。
「次の夏を越えられる気がせぬよ。そなたらもさすがに、このざまを見ておりながら空々しい慰めは言うまい。余は幸いだ。安心してすべてを譲り渡せる優れた跡継ぎがおり、眠りにつく場も用意が整っておる」
シェイダールはもどかしく言葉を探し、上手く紡げぬ悔しさをまなざしに込めて、非難するように王を見つめる。アルハーシュはそれを察しながら、わざと取り違えた。
「おお、そうか。大事なことをまだ話しておらなんだな。王の墓は即位と同時に着工するのだ。余の場所も既に、代々の王と並び用意されておる。そなたも旱魃対策に追われて忘れぬよう、早々に手配するのだぞ。まだ諸王の岩屋には充分場所が空いておるが、そなたのことだ、新たに独創的な墓を造るのも良かろう」
「やめてください、そんな話は」
「なんと頼りない。そなた、余の葬儀をまともに執り行ってくれぬのか」
アルハーシュはわざとらしく袖を目元に当てて嘆く。シェイダールは笑うどころか本当に泣きそうな顔になった。困ったものだ、と王は苦笑する。立ったままのリッダーシュを空いた側の隣に座らせて、彼は両腕で若者二人の肩をしっかと抱いた。
「シェイダール、リッダーシュ。我が息子らよ。……恐れるな、余は常にそなたらを見守っている。この身が滅ぼうと、死者の霊魂に何の力もなかろうと、そなたらがこの世に生きてある限り、余もまた共に在ろう。ゆえに恐れるな。死の影に怯え立ち竦むことなく、顔を上げ、若さと力をもって前へ進むのだ」
優しく励まし、アルハーシュは二人の肩を離すと、頭をくしゃくしゃ撫でてやる。さすがにシェイダールは赤くなって身を離した。十八歳にもなって子供扱いはつらい。彼は目元を乱暴に拭って背筋を伸ばした。
「アルハーシュ様、俺はまだ諦めません。ウルヴェーユを探れば、体力を取り戻す方法ぐらいあるはずです。種籾にかける術は目処が立ったし、冬の間になんとかします。こんな話をしたのが恥ずかしくなるぐらい、長生きさせて差し上げますよ」
「つくづく負けず嫌いだな。しかし己を過信して無茶をするでないぞ。そなた、近頃はろくに寝ておらぬそうではないか」
やんわり諫められて、シェイダールは渋い顔になる。告げ口しやがったな、と従者を睨んだが、彼はまだうつむいて涙を拭いている最中だった。
「ご心配なく。夜更かしが続くと頭も働きませんから、必要なだけは寝ています。ですからちゃんと理解していますよ。ドゥスガルからたっぷり穀物をせしめるまで、あなたに生きていて頂かなくては困る、とね」
シェイダールは自分の頭をつついて、冷静に計算してもいるのだと示した。アルハーシュが揶揄するように眉を上げたが、構わず続ける。
「さあ、戻りましょう。いつまでも濡れたままでいて、また寝込むはめになったら大変です。おいリッダーシュ、いい加減にめそめそするのはやめろ。外に出る前にはしゃきっとしろよ」
立ち上がって従者を急かしていると、遠くに控えていた近衛隊長がやって来た。アルハーシュはバルマクにうなずきかけてから、シェイダールに問う。
「では、余は部屋に戻って休むとしよう。そなたらは外へ……大神殿へ行くのか」
「はい。一番の種籾は俺が術をかけたものですが、四、五はあっちの連中が用意したんです。アルハーシュ様のお言葉を伝えて、他の作物にも応用を広げるように指示してきますよ。大丈夫です、力を合わせれば不作だって乗り切れます。帰ってきたらすぐに、体力を取り戻す術や、寒さ暑さをしのぐ術に取りかかりますから、くれぐれも大事になさっていてください」
やるべきことが具体的に決まっていると、俄然気力が湧いてくる。溌剌とした彼の様子に、王もつられて表情を明るくした。
「そなたの活力こそ、何よりの薬だ」
言ってからふと、妙な予感でもしたか、眉を曇らせる。どうしたのかとシェイダールが訝ると、王は真顔で忠告した。
「余のことはさて置き、そなたも重々警戒するのだぞ。民の不安が増し、神官らの敵意も厳しくなっておる。リッダーシュ、くれぐれも油断するでないぞ」
「御意。この命に代えても我が君をお守りいたします」
リッダーシュもぴしりと引き締まった姿勢で一礼する。シェイダールは苦笑いした。
「大袈裟な。おまえを盾にしなくても、俺だって自分の身ぐらい守れるさ。ではアルハーシュ様、御前失礼いたします。また後ほど結果を報告に参りますので」
「うむ、楽しみにしていよう。蜂蜜入りの葡萄酒を用意させておこうぞ」
「すぐ戻ります」
おどけた王にシェイダールも調子を合わせる。リッダーシュが笑い、バルマクさえも謹厳な顔つきを緩ませた。
「お気をつけて」
バルマクの忠告に送り出され、世嗣と従者は庭園を後にする。近頃、堅苦しいばかりだった近衛隊長の態度が少し柔らかくなったが、それが去り行くあるじへのせめてもの手向けのようで、シェイダールはいたたまれず早足になった。
ほとんど窓のない神殿の中は昼間でも暗がりが多く、室内で作業をするには明かりが欠かせない。ジョルハイは小さな燭台の火を頼りに文字を刻み終え、ふうっと息を吐いた。
夏の暑熱も冬の酷寒も、神殿の奥にこもっていればしのぎやすいとは言え、暗いし空気は淀むし、どうにも気分が悪い。いっそ誰ぞが提案したように、神殿を基礎から掘り返して崩してしまえばどうか、と皮肉なことを思う。もっと明るくて風通しの良い神殿に建て直すのだ……
そんなことを考えていると、見透かしたように件の人物の声がした。
「ジョルハイ様、いらっしゃいますか」
驚いて彼は背筋を伸ばし、身構えた。
「ナムトゥルか。入りなさい」
「失礼します」
半分上げたままの帳をくぐり、少年が入ってくる。激しやすいとの噂だが今は落ち着いた様子で、畏まって一礼してから告げた。
「六彩様のところへ王宮から使いが参りました。世嗣様がこの後、お見えになるそうです」
「ふむ? 何の用かは聞いているかい」
「種籾に施した術に関するお話だとか。……ジョルハイ様、お願いがございます。どうか世嗣様に取りなしては頂けませんか」
懇願する声が震え、頬に朱が差した。興奮の兆しだ。ジョルハイは答える前に、戸口の外で立哨についている神殿兵士を一瞥する。同時に向こうも中の様子を窺い、目が合った。呼べばすぐに止めに来るだろうと確認し、問題児に向き直る。
「君は前回、世嗣殿を相当怒らせたようだからね。私も後からかなり厳しく文句を言われたよ。そもそも私自身、あまり彼には好かれていないのだし、取りなそうにも逆効果じゃないかな。あちらの機嫌が直るか、あるいは何か大喜びさせること間違いなしの言葉を用意できるまで、諦めて待つのが賢明だろう」
肩を竦めて、お手上げだ、と仕草で示す。だが当然ナムトゥルは引き下がらなかった。
「あなたは見えていないから、そんな風に軽々しく言えるのです! あの方が帯びた神々しいまでの輝き、深淵の響き……あの方こそこの世界の救いなのですよ。断じて、有象無象どもに侮辱されて良い御方ではない!」
うっとりと陶酔したかと思えば、一転、激しい憤りの焔を噴き上げる。
「なぜあなたは放置しておくのです。世嗣様の覚えもめでたく、王宮への出入りも許されている身でありながら、かの君を冒瀆者だの思い上がりだの、聞くに堪えぬ言葉で悪しざまに罵る者どもを!」
「君の知ったことではない」
ジョルハイは疎ましげに応じた。確かに神殿内で世嗣を非難する者は少なくないが、実際のところ、ナムトゥルが怒るほどの侮辱はめったに聞かれない。世嗣一派、すなわち学究派の地位と影響力は着実に高まっているのだ。長らく死蔵されていた遺物の使途を解明し実用に役立てた功績に加え、色鮮やかな宝石や美しい鉦の音を用いて術をおこなうさまは、憧れを抱かせずにはおかない。
だから、よほど悪意が強く害をなすほどの噂でなければ、放っておくほうが良いのだ。シェイダール自身が王を守るために決めたことであるし、下手にやめさせようとすれば、それこそ後ろ暗いからだと、火に油を注ぐ結果になってしまう。
しかしそんな実際的な判断など、ナムトゥルにとっては一片の価値もなかった。ギリッ、と音がするほど強く歯を食いしばり、獣のように唸る。
「結局あなたも、我欲にまみれ真の信仰を見失った一人か」
「君はあれこれ見えすぎて、のぼせているだけだ。シェイダールは確かに逸材だが、決して神ではない」
ジョルハイはため息をつき、退出を促すように出口を示した。
「そんなに彼に気に入られたいなら、ウルヴェーユの研鑽につとめることだ。新しい術でも見付けて報告すれば、骨をもらった犬よろしく飛びつくぞ」
「……例えばこんな術を?」
低く、聞き取れないほどの声。不穏を察知したジョルハイは素早く立ち上がろうとしたが、遅かった。目の前に紫水晶が突きつけられる。
「《眠れ》」
詞が色と共鳴し、音を響かせる。ジョルハイの耳はそれを捉えることなく、ただ不意にすべての意思が失われ、がくりと机に突っ伏してしまった。
静まり返った室内に、ゆっくりと深い呼吸の音だけが続く。しばらく様子を確かめてから、ナムトゥルは相手の懐に遠慮なく手を突っ込んだ。その位階の証たる鍵束を帯紐から取り、首にかけられた細い鎖を引っ張り出してもうひとつの鍵も奪う。それだけしても、ジョルハイは目を覚まさない。
「蒙昧の徒め」
侮蔑を吐きかけ、ナムトゥルは部屋を出た。兵士は目配せを交わしただけで何も言わず、直立したまま動きもしなかった。
そんな出来事があったと知る由もないシェイダールは、学究派神官らとの会談を終えて『六彩の司』の部屋を退出し、大きく伸びをしていた。随伴するのはいつも通り、リッダーシュとヤドゥカだ。彼は晴れやかな表情で二人を振り返った。
「面白いもんだな」
いきなり何だ、とリッダーシュが目をしばたたく。シェイダールは楽しげに続けた。
「学究派なんて言い出した時はどうなるかと思ったが、面白くなってきた。六彩殿なんか元は鍵まで位階を昇った重鎮だろう、それが正真正銘の平神官やら、若いのも爺さんも一緒に、隔たりなく話し合って同じ問題に取り組んで。上手くいった術があれば一緒に喜んで、駄目だったほうは原因を話し合ってさ」
「ああ、彼らも楽しそうだったな。おぬしも加わりたくてうずうずしていたろう」
リッダーシュが同意して笑う。シェイダールは照れも拗ねもせず、素直にうなずいた。
「できるなら俺も一緒に、もっと話していたかったよ。だが早くやらなきゃならないことがある。それにしても、あんな光景が神殿の中で見られる日が来るなんて、ちょっと前まで誰も想像しなかったろうなぁ。これがジョルハイの奴が言っていた『新しい神殿の在り方』なんだな。……結構、悪くない」
「本人に言ってやるといい。喜ぶぞ」
からかい半分、真面目半分にリッダーシュが言い、シェイダールは思い切り顔をしかめる。あるじの酷い顔にヤドゥカが呆れて眉を上げ――はっ、と目つきを険しくした。
一瞬で警戒態勢になった彼につられ、シェイダールとリッダーシュも身構える。廊下の先から、人目を憚るようなこそこそした姿勢でナムトゥルが現れたのだ。
「世嗣様!」
こちらを見付けるなり、歓喜と感激に燃え盛るような声を上げて、両手を袖に隠したまま駆け寄ってくる。ヤドゥカが立ちふさがり、剣を抜いた。シェイダールはぎょっとなって警護隊長を止める。
「おい待て、そいつは」
問題児だが敵ではない、と言うより早く、ナムトゥルは転ぶようにして両膝をついた。床に額を擦りつけ、袖に入れたままの両手を頭上に掲げる。臣従の礼の最大級の形だ。
「世嗣様、どうかお慈悲をお恵みください! わたくしの愚かな発言がお怒りに触れたことは、この通り、幾重にもお詫び申し上げます。何卒、何卒」
涙まじりの声が上ずり、震えている。ヤドゥカは鼻白んで構えを解いたが、剣は抜いたままだ。シェイダールは早くも疲労を感じつつ、ナムトゥルに声をかけた。
「大騒ぎするな。失言を理解したのなら、もう咎めないから立て」
「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます」
繰り返しながら、ナムトゥルは顔を上げた。濡れた黒い目が感謝と崇敬に輝いて、見つめられるほうはいたたまれない。シェイダールは咳払いしてごまかした。
「わざわざ土下座するためだけに、俺を捜していたのか?」
「はい、いえ、あの」
肯定してから急いで否定し、さらに慌ててもう一度うなずこうとする。ややこしい反応をした自分に赤面し、ナムトゥルは恥ずかしそうに頭を垂れた。
「も、もちろんお赦しを乞うことを第一として……、ですが、世嗣様がおいでになると伺ってどうしてもお会いしたく、つまりその」
口ごもって一旦黙り、彼はゆっくりひとつ深呼吸してから続けた。
「あの光の柱のことで、世嗣様のお目にかけたい場所がございます。その上で、願わくばいささかなりとも語らって頂けませんでしょうか」
ようやく少し落ち着いたらしい。まともな物言いになったのを見て、ヤドゥカが剣を収める。さてどうしたものか、とシェイダールは思案した。何となく気が進まないのだが、振り切って帰ろうとしたらなお厄介な事態に陥りそうだ。ため息を堪えてうなずいた。
「……あまり長時間は付き合えないぞ」
途端にナムトゥルは、ぱあっと笑顔になった。呆れるほど無邪気で子供じみた表情。シェイダールは落ち着かない不気味さをごまかしながら、案内するよう手振りで促した。
こちらへ、といそいそ歩きだしたナムトゥルの後から、まずヤドゥカがついていく。
「どこへ行くつもりか、先に教えてもらおう」
凄みのある低く重い声で質したが、先導する少年には通じなかった。
「神殿の中心です。光の降り来る所、真の祭壇へ」
「真の祭壇?」シェイダールは聞き返した。「一階の広間にある祭壇じゃないのか。てっぺんの祭殿でもなく?」
ナムトゥルはちらりと振り返り、恐縮そうに肩をすぼめた。
「わたくしが勝手にそう名付けているだけでございますが。何しろ、他の誰も……世嗣様を除いて誰も、あの光をしかと見ることはできませぬゆえ。しかしあなた様ならば、おわかりくださると確信しております」
そう言われては、シェイダールも黙ってついて行くしかない。他の者には見えぬものが見える、その苦しみも、同じ感覚を持つ誰かに出会えた喜びも、よく知っているから。
薄暗い廊下に灯された燭台の火が、ジジッ、と震える。最前までいた『六彩の司』の部屋は二階にあるのだが、ナムトゥルは一階の広間へ降りる階段を素通りし、人通りの少ない奥まった場所まで入り込んでいった。
廊下はさらに暗くなり、空気が淀んでいく。行く手に天から降りる光がなければ、ほとんど宵闇の世界だ。ヤドゥカが足下を一瞥し、ぼそりと唸った。
「一階広間の裏側だな」
そのぐらい歩いてきたということだろう。ナムトゥルが肯定した。
「さようでございます。参拝の方々や、わたくしども神官でさえ、ともすれば神殿の奥行きはそこで終わりだと考えがちな、天空神アシャの祭壇……その裏側でございます」
お足元にご注意を、と言って彼が導いたのは、狭い下り階段だった。シェイダールはそっと嘆息する。階段は光の柱に添うように造られていた。
「やはり世嗣様は、おわかりになられるのですね」
ナムトゥルが喜びと誇らしさのあいまった声でささやく。シェイダールは答えず、天を仰ぎ、それからゆっくり用心深く階段を下りていった。
段の尽きた所には踊り場程度の空間と、壁があった。左右に伸びた通路の向かう先は、闇に消えていてわからない。リッダーシュとヤドゥカは不穏な気配に警戒を強め、ぴりぴりした様子で剣に手をかけている。だがシェイダールはそれを見てもいなかった。
「ここが……そうか、真の中心はここだったのか」
吸い寄せられるように壁に近付き、両手をつく。黒い石を積み上げた壁は、内からの光で輝いていた。下へ、下へ。ゆっくりと絶え間なく、久遠の刻をかけて沈み続ける光。
コォ――ン……
彼方の宇宙から微かな音が響く。瞬間、世界の中心に立っていると確信した。
足は根となり、体は幹に、腕は枝となり、頭上遥かに梢が伸びてゆく。泥の世界の下、熱く輝き滾る理の力に根を張り、天の果てまで伸ばした枝で大気をとらえ、宇宙の星々を梢に飾る、黄金の大樹――
チリッ、と鈴が鳴るような音がした。
一瞬で幻視が消え、世界の感覚が閉ざされて一個の人間へと存在が縮む。シェイダールはよろけて壁に頭突きしそうになり、慌てて堪えた。
(……何だ?)
うなじで小さな星が疼く。壁から手を離して首筋を押さえながら、彼は連れを振り返った。リッダーシュとヤドゥカは顔をこわばらせ、畏怖を浮かべて彼を凝視していた。一方ナムトゥルは目を輝かせ、感激に打ち震えながらにじり寄ってくる。
「おお、世嗣様! あなた様こそ、世界のすべてを支配する神であらせられる!」
途端に凄まじい形相で睨まれ、ナムトゥルは首を竦めて半歩下がった。
「いえ、神々に最も近くあられる御方です! どうか御心を鎮め、せめてわたくしめに最後まで話すことをお許しください。御身はいかほど強大な力をお持ちか自覚がおありでない。今、あなた様は世界そのものとなられていた。そうでありましょう?」
潤んだ目でびくつきながら訴えかけられ、シェイダールは不愉快ながらも怒りを堪えて押し黙った。もしかしたらこの少年は誰よりも感覚が鋭く、路は狭くとも『視る』ことにかけては随一かもしれない。だとしたら、己が見落としている何かに気付いているのではあるまいか。そんな懸念もあったのだ。
シェイダールの無言を許可と取り、ナムトゥルは言葉をつないだ。
「先日は言葉が足らず、ご不快にさせてしまいましたが、改めて申し上げます。世嗣様、どうか真なる王となられてください。アルハーシュ様は政務を司る王として、在位なされたままでも良いのです。いにしえの時代には、今のような継承を必要としない、この光のもとで行われる正しい儀式があったはず。それに則りあなた様が真なる王の位に即かれたなら、天の光はあまねく地を照らし、御心ひとつですべての歪みが正され、恵みがもたらされるでありましょう! あなた様こそが、世界を救う神となられるのです!」
次第に興奮が高まり、最後には絶叫になる。シェイダールは険しい顔で耐えていたが、ややあって続きがないとわかると、苦々しく唸った。
「妄想もここまでくれば神話だな」
突き放されたナムトゥルが失望をあらわにする。シェイダールは容赦なく続けた。
「確かにおまえは抜きん出て良い目と耳を持っているんだろう。だが視たものや聴いた音を理解する冷静な思考力がない。感覚だけで思い込むな。……この場所は恐らく、かつて『最初の人々』が大きな術を行うために築いたんだろう。ただ、なぜかはわからないが、今はこうして埋められてしまった」
言って彼は、黒い壁を拳で軽く叩いた。神殿の他の部分にはない独特な石の積み方や、中心部に隠されていることからして、特別古い構造だと推測される。
彼はナムトゥルに向き直ると、辛抱強く説得するように結論を述べた。
「今は忘れられた、王になるための特別な儀式があり、それがこの光の路と深いつながりがあっただろうという想像には、いくらか信憑性がある。だがおまえの妄想のように、それによって人が神になるなど、あり得ない。いいかナムトゥル、ウルヴェーユの本質は世界そのものだ。俺たちはそれを通じて世界の一端を知ることはできるが、世界を支配し造り変えることはできないんだ」
真摯なシェイダールの言葉を、しかし、ナムトゥルは表面的にしか捉えなかった。己の魂からの願いを否定された、絶対に信じられる望みを無下に退けられた――絶望に打ちのめされ、次いで憤怒に突き上げられる。全身がぶるぶる震えだした。
「あなた様は……あなた様はっ、あくまでも、王にならぬと仰せられるのか! 神々に並ぶ力を持ちながら、救ってくださらないのか!」
危険な兆候に、ヤドゥカが再び身構え、剣に手をかける。リッダーシュがあるじを庇って前に出ながら、護りの《詞》を紡ごうと口を開く。直後、
「《嵐よ散らせ》!」
割れ鐘のごとき騒音と共に《詞》が弾け、突風が三人を打ち倒した。木の葉のように吹き飛ばされ、壁や階段に叩きつけられる。
リィン……痺れるような音が響く。ナムトゥルが、ずっと袖に隠し持っていた短刀を抜いたのだ。『継承の儀式』に用いる宝刀を。
光が迸り、六色の揺らめきが一同を縛った。持ち主以外の動きが鈍る。
「御力、貰い受ける!」
床に倒れた世嗣めがけて短刀が振り下ろされた刹那、
「《ならぬ》」
短い一言と共に、もたげられた指がナムトゥルを差した。
ゴボッ、と水の逆流する音。ひどい、と微かな非難が聞こえたか否か。ぐしゃり、ぽきり、少年だったものが朽ち木のように崩れ落ち焼け焦げる。後には血臭すらなく、カサカサと落ち葉が風に動くような音だけが残った。
人ひとりを《詞》ひとつで消し炭に変えた当人は、放心してはいなかった。
倒れた時にぶつけた腕をさすりながら身を起こし、抜き身のまま落ちている短刀を取って素早く鞘に収める。先刻、鈴が鳴ったように感じたのは、これがあったからだ。
シェイダールはぐっと足に力を入れて立ち上がり、ヤドゥカとリッダーシュに謝罪や気遣いの隙を与えず命令した。
「ジョルハイを捜すぞ」
彼の言葉で、他の二人も短刀が間違いなく『継承の刀』であると理解した。王宮から持ち出せたはずはないから、神殿の宝物庫にあったものだ。そしてその鍵はジョルハイだけが持っている。彼の差し金か、そうでないなら……。
シェイダールは怒りと心配のどちらをより強く感じているのか、自分でもわからないまま、荒々しく階段を上がっていった。
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