水乞い

     *


 暦の上では秋になっているのに、いつまで待っても雨の気配がやって来ない。

 なお悪いことに、長引く暑熱でアルハーシュ王は明らかに消耗していた。昨年はやり遂げた水乞いの儀式も、長時間ただ立っていることさえ危ういのでは、とても無理だ。

 儀式は延期され続けたが、それも限度がある。王の体力が回復するまで待ってはいられない。と言って無理をさせて途中で倒れられでもしたら大変だ。神殿内部でも揉めに揉めたが、最終的には世嗣シェイダールが代理王としてつとめを果たすと決まった。


 大神殿の一階、普段は大勢の一般人が訪れて供物と祈りを捧げる祭壇。

 今、広間は掃き清められ、しわぶきひとつ聞かれない厳粛な静寂に支配されていた。限られた神官と貴族官僚、街の名士らが整列し、祭壇前で行われる儀式に注目している。

 祭司イシュイが屈辱と怒りに顔を歪め、燈明を捧げ持って先導する。後に続くのは神官らに囲まれた、簡素な麻服一枚の世嗣。祭壇前に進み出ると、シェイダールは教わった通り壇上の炉に香をくべ、煙の立ちのぼる先へ向けて声を張り上げた。

「我、王の位を継ぐ者なり。天なる神々よ、これよりつかのま、我に御力を授けたまえ」

 続けて祭司長が煙を扇ぎ、代理王の身体と、祭壇に置いた冠に浴びせながら唱える。

「王国の守護者、輝く翼と万の目を持つ偉大なるアシャよ、この者に王権を授けたまえ」

 さらに神と王を讃える言葉を長々と連ね、しっかり香を移してから冠を恭しく両手で捧げ持つ。麦藁や月桂樹の枝で編んだ、偽物の王冠だ。

 跪いたシェイダールの頭に祭司長が冠を載せる。『鍵の祭司』ジョルハイが、新たな王を祝福しながら進み出て、絢爛な刺繍を施した王の上衣を着せかけた。

(重いな)

 ずしりと背にかかるのは、厚い布地と金糸銀糸の重みだけではない。人々の祈り、雨を呼び実りをもたらしてくれる王への願い。連綿と続く歴史と共に、この衣装に染み込んできた王国の『命』の重みだ。儀式をこなす間だけにすぎなくとも、紛れもなく今この瞬間から己は真に『王』なのだ。でなければ儀式は意味を持たない。

(……重い。くそっ)

 神に祈るなど、馬鹿げた無意味な行為だ。神などいない、いるとしても人の声など聞いていない。

 幼い頃から拠り所としてきた、己にとっての事実。だが今ほどそれが無力に感じられたことはなかった。ゆっくりと、圧し潰されないように慎重に立ち上がる。顔がこわばっているのが自覚できた。

 所詮は作りごと、上辺の演技。儀式の結果が出ようと出まいと責任はない、自然の運行は誰にも変えられないのだから――醒めた理性でそう割り切っているつもりだった。

 だがそれは結局、彼もまたアルハーシュ一人に任せていたにすぎなかったのだ。大勢の祈りを、願いを、何よりも「民を守らねばならない」という王のつとめを、すべて。

 彼の表情の変化を祭司長はじっと観察し、おもむろに朗々たる声で宣った。

「これなるは王シェイダール。天空神アシャよりワシュアールの地を預けられし、民の守護者なり。神々の祝福あれ!」

「祝福あれ!」

 祭司神官、官僚ら、参列した人々が一斉に唱和する。シェイダールはぞくりと寒気に震えたのを隠し、右手を掲げて声に応えた。

 仮の王の即位が済むと、そのまま儀式は水乞いへと移る。豪華な上衣が取り除けられ、悪魔のもとから水を盗み出した英雄を表す古めかしい衣装が与えられた。顔にも化粧が施され、神話の英雄へと変身させられてゆく。

 神官らも新たな役目に合わせて衣装小道具を替え、参列者はぞろぞろ外へ出ていった。例によって儀式は、大通りと広場に面した、正門上の壇で執り行われるのだ。

(大丈夫だ、手順は忘れてない。しっかりしろ、決まりきった形をこなすだけだ)

 シェイダールは自分に言い聞かせ、頭の中で儀式の動きをおさらいした。

 祭司長に導かれ、神官らの唱える無言歌に囲まれて神殿の正面扉に向かう。一歩外に出た途端、全身にすさまじい圧力が襲いかかるのを感じた。

 目、目、目。何百何千の目が彼を見ている。シェイダールは怯むまいと、己の役割だけを強く意識した。今の己は田舎村の少年でも、不信心の世嗣でも、仮の王ですらもない。地上に水をもたらす英雄アイヴァだ。

 一足、もう一足。この歩みは己のものではない。今現在のものでもない。時を超えて現れた英雄の歩み。ゆっくりと深く呼吸する。静かに路が満たされてゆく。顔を上げると、聳え立つ光の柱が見えた。彼は動じない。揺らめく色が進む先を示し、どこからともなく響く声が時をはかる。

 オォォ……アァ――……

 砂を踏みしめ、岩山を登る。旱の悪魔の住処を目指して雲の階を駆け上がり、ぎらつく光の槍を避け、陽炎の罠を跳び越えて。

 鉦が響く。彼に力を与える六色の音。ダン、と音に合わせて足を踏み鳴らす。

 泉の精霊がなけなしの雫で織った霧の紗幕を身に纏い、密やかに忍び込む。抜き足、差し足、悪魔が隠した水を奪って逃げる。ひた走り、霧の紗幕を脱ぎ捨てて投げ、悪魔の目をくらまして降りてゆく。天から地へ、降り積もる世界の理。羽毛のようなひとひらに乗って、彼は悪魔の手を逃れゆく。

(水だ! 皆、水だぞ!)

 英雄は高く両手を掲げ、帰りを待ちわびていた人々に――

「っ!」

 不意に顔を打たれ、彼は目を覚ました。己は誰だ。今はいつ、ここはどこで、何をしていたのか。無意識に顔を拭い、愕然とする。

「……まさか」

 空を仰ぎ、彼は絶句した。彼だけでなく、この時、屋外にいた誰もが畏怖に打たれ声を失っていた。静寂の中、微かな音だけがつぶやく。ポツ、ポツン、パラパラ……

 群衆がみじろぎし、ざわめき、そして怒濤となった。

「うわああぁぁ!」

「雨だ! 雨が降ったぞ!!」

「王の力だ、彼こそ真の王だ!」

 口々におめき叫び、拳を振り上げ歓呼し、その場にくずおれて伏し拝む。渦巻く興奮が神殿前の広場を呑んで暴れ、もはや誰にも止められない。

 シェイダールは立ち尽くしたまま、放心して空を見上げていた。雨雲などない。乾ききった地面にほんのわずかついた丸い染みも、薄れて消えようとしている。だがそれでも、確かに雨が降ったという事実が人々を熱狂させていた。

(いったいどうして)

 目元を濡らした雨滴がまぼろしだったような気がして、シェイダールは手の甲で頬を拭う。わずかにまだ湿り気が残っていた。

(祈って踊って、それで雨が降るなら旱魃なんて起きやしない。この雨はほんの……その場しのぎ、見せかけだけだ)

 考え込んでいると袖を引かれた。ジョルハイだ。

「惚けてないで、中へ引っ込むぞ」

 ささやかれて我に返ると、シェイダールは周囲を見回した。祭司長が祭壇の向こう、広場に面した側に出て、儀式の成功を祝い終了を告げている。

「早く!」

 苛立った声で急かされて、シェイダールはもう一度だけ神殿の頂上を仰ぎ見てから、ジョルハイの後に続いた。光の柱はもう、薄れてほとんど見えなくなっていた。


 控えの間に入ると、リッダーシュが化粧を落とす水を用意した。ジョルハイは大事な衣装を傷めないよう慎重に脱がせ、広げて吊るす。ようやくシェイダールは椅子に座って一息つき、顔を洗った。

「雨を降らせるとは大したものだね、ウルヴェーユにここまでできるとは驚いたよ」

 ジョルハイは衣装を点検しながら、抑えた声で感想を述べた。洗顔の水音が止んでも一向に返事がないので、眉を上げて振り返り、疑わしげに訊く。

「まさか、偶然だ、と言うのかい? 神々が君の祈りに応えてくれたと?」

「そんなわけないだろう。術を使った覚えはないが、あれは……確かに何かのわざだ。神殿に通っている光が強まったし、音も聞こえた」

 眉間を揉みながら説明しようとして、シェイダールはぎくりと竦んだ。

(おい待て、この状況はまずい)

 儀式の余韻が醒めて理性が働きだすと同時に、顔から血の気が引いた。彼が青ざめたのを見て、リッダーシュが不審げに眉を寄せる。しかし気遣いの言葉をかけるよりわずかに早く、祭司長と『燈明の祭司』イシュイがやって来た。

 反射的にシェイダールは立ち上がって臨戦態勢になる。だが祭司らは共に神妙な面持ちで、両手を袖に入れる臣従の礼をとっていた。そして――そのまま頭を下げ、祭司長ディルエンが沈痛に謝罪した。

「シェイダール様、我らの不明をお赦しくだされ。神々は真に貴殿を祝福したもうた」

「はっ」

 皆まで言わせず、シェイダールは嘲笑をこぼした。彼が尊大なのはいつものことだが、それでも今までは、下手に出た相手を辱めたことなどない。真意を探ろうとした祭司長の目に、歪んだ笑みが映った。

「簡単に騙されてくれたものだな。本気で神のしるしだと思ったのか? ウルヴェーユで小細工したんだよ。降らなきゃそちらも困るだろう。儀式が全部嘘っぱちで何の効果もないと、ばれてしまうんだからな。だから助けてやったんだ、感謝しろ」

「なっ……! 神聖なる儀式を穢したのか、邪悪な不信心者めが!」

 イシュイが喚く。祭司長も髭を震わせ、痛苦に満ちた目でシェイダールを見据えた。

「貴殿は、己が何をしたか理解しておるのか。つかのまといえども真の王となり、神々に誠心誠意、心から慈悲をこいねがわねばならぬ儀式において、浅はかな小細工を弄し神々を欺いた。……己の行いの意味を、理解しておるのかッ!」

 激昂を抑えられず、ついに祭司長が怒鳴る。シェイダールは逆に冷徹な表情になった。

「あなた方こそ、自分たちの危機を理解しているのか。若くて健康な代理王を立てて儀式をしても、一切まったく何の変化もなかったら、あと考えられるのは儀式が間違っているか祭司が無能か、ということだ。事実、無能としか言いようがないがな」

 容赦ない侮辱に、場が凍り付く。リッダーシュもジョルハイもとりなすどころでなく、イシュイでさえ言葉を失った。息詰まる沈黙の後、祭司長が絞り出すように慨嘆した。

「貴殿を買いかぶっていたようだ。己は神を信じずとも、民人にその咎を及ぼすような真似はすまい、歴史ある信仰を土足で踏みにじりはすまいと……見込んでおったものを」

「俺もあなたを見損なった。神だのなんだの、不確実で曖昧な事柄は横に置いて、現実にある利益・不利益の計算ぐらいはできる人だと思っていたが、違ったようだな」

 怒りと失望の黒い炎が、永劫に溶けぬ氷壁に阻まれて散る。誰かが歯を食いしばる音が聞こえたが、他には一切の声もなく、無言の内に祭司長とイシュイは部屋を出ていった。

 足音がすっかり聞こえなくなるまで、シェイダールは微動だにしなかった。そして不意に、がくりと力を失ってくずおれる。リッダーシュがとっさに支えて椅子に座らせると、彼は両手で顔を覆って深い息をついた。

 ややあってジョルハイが用心深く尋ねた。

「なぜああまで露骨に侮辱した? 小細工だなんて嘘だろう、君自身が呆然としていたじゃないか」

「……かない」

「えっ?」

「こうするしかないんだ! 畜生っ!」

 いきなり叫び、シェイダールは両手を膝に叩きつけた。冷酷さの仮面が外れ、泣きだしそうな顔があらわになる。激しく頭を振ってから、彼は小さな声で呻いた。

「あの雨は確かにウルヴェーユによってもたらされた。だが、本当に季節を変えて雨を呼ぶものじゃないんだ。……まさに小細工だよ、祭りに必要な演出と同じだ。旱は弱まらないし、この秋も冬も、予想通り水不足になるだろう。そうなったら、世間はどう思う。代理王が行った儀式で雨が降ったのに、結局やっぱり水不足のままだったら!」

 シェイダールは顔を上げ、リッダーシュを食い入るように見つめた。事態を理解した彼もまた、息を飲んで青ざめる。

「……アルハーシュ様が」

「そうだ。旧い王がしつこく居座っているせいだ、とみなすだろう。俺が王になりさえすればいいはずだ、早く代われ、と騒ぎだすだろう。何も解決しやしないのに!」

 血を吐くような声。リッダーシュが天を仰いで「なんてことだ」とつぶやく。ジョルハイはこめかみを押さえて瞑目し、ため息をついた。

「ディルエン様に正直にそう言わなかったのは、燈明殿がいたからかい。私から内密にとりなしておこうか」

「やめろ。あいつらは俺が悪だと思っていればいい」

「意固地になるんじゃない、シェイダール!」

「言ってどうなる!? あの雨は俺が降らせようとして降らせたんじゃない、ウルヴェーユによるのは確かだが儀式に付随するものだ、と言ってあいつらが納得するか? 今までさんざん同じ儀式をやってきて、本当に雨が降ったためしがなかったのに、今回のことは何の不思議でも奇蹟でもない、だとか! ……あいつらは神を信じているんだ。そこに神の意志を見出さないわけがない。事実よりも神のほうが大事なんだ。そしてその神は、力を失った王を生かしてはおかない!」

 言い切ったシェイダールに、もはや反論はなかった。彼は手で顔をこすると、堪えた涙で熱くなった息を吐き、ぐっと顎を引いた。

「俺が儀式を駄目にしたと大っぴらに非難できるのは、本当にこのまま水不足の厳しい季節が続くとわかってからだ。いざ攻撃が始まっても、こっちだってやられっぱなしではいないさ。とにかくアルハーシュ様を守らないと。もし王に何かあれば、一番優先すべき旱魃対策が大混乱する」

 そこまで言い、彼はジョルハイをじっと見据えた。

「俺の個人的な感情もあるのは認める。あの方に頼っているのは確かだ。でも今は本当にそれどころじゃない。こんな情勢で王が交代すればむちゃくちゃになる。だから他の神官には誰にも、本当の話を言うな。俺が小細工をした、それでいい。そうすれば奴らも心の底から、アルハーシュ様の快復を願ってくれる。わかったな」

 彼の判断の基となる知識を与えたのは、そもそもジョルハイである。命令を拒めるはずもなく、沈黙を誓うしかなかった。

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