人心を宥める

     *


 陽射しは灼けるように熱く、空気は痛いほどに乾いてゆく。

 都では旱魃の予想が人の噂にのぼるようになったが、幸いまだそれほど深刻に受け止められていなかった。一年を通じて決して涸れることのない大河を囲んでいるからだ。

 やれやれ、パンも肉も値上がりするだろうな、財布の紐を締めないと……そんな程度の憂鬱が都を覆う傍ら、王宮の面々はそれぞれの仕事に打ち込んだ。

 水路の補修改良や浚渫、備蓄の確保と分配。各長官が休む間もなく各地を飛び回り、シェイダールは昼夜を分かたずウルヴェーユに取り組む。麦の種籾への取り組みに先駆け、発芽の早い野菜の種子を用いての予備実験。他にも庭園の果樹を何本か犠牲にする覚悟で配水を控え、編み上げたウルヴェーユを施した。

 何より大切なのは、備蓄は充分あるし、長官はじめ役人らがきちんと対策を立て実行していると、人々に知らせて安心させることだ。そのためにシェイダールも、時間を作ってザヴァイの工房を訪ねていた。


「……それで、この紐には単純な《詞》を込められるし、音を組み合わせたら効果を強められる。簡単に解けたら困るものを結ぶのに便利だし、こうやって張り渡しておけば簡単な泥棒避けぐらいにはなるぞ。子供に悪戯されたら困る物を囲んでおいてもいい」

 シェイダールは六色の組紐を手に、生活に即した使途を挙げて、必要な《詞》の組み合わせを教える。家内を取り仕切る奥方が熱心に聞き入っているが、ザヴァイのほうは気もそぞろだ。一段落すると、彼は待ちかねたように小声で話しかけた。

「世嗣様、旱は今年だけで終わらないって本当ですか」

 不安を隠せずおろおろする彼の後ろで、見物していた近隣住民も一様に顔を曇らせる。シェイダールは平静に彼らを見回し、うなずいた。

「これまでの記録に照らして、恐らく二、三年は水不足になるだろうと予想されている。この世の終わりみたいな顔をするなよ、旱は初めてじゃないだろう?」

「ええ、はい、……そうなんですが」

 ザヴァイは応じたものの、相変わらず途方に暮れた顔で、言い出しにくそうにもじもじする。シェイダールは冷ややかに先回りしてやった。

「まさか、今年は俺が儀式に加わったからとか、ウルヴェーユを使う人間が増えたからとか、益体もない心配をしてるんじゃないだろうな」

 びくっ、とザヴァイが縮み上がる。わかりやすすぎて、シェイダールは怒る気も失せてしまった。客間から続きの工房を振り返ると、集まっていた人々はうつむいたり目を逸らしたり。街に混乱は生じていないが、人心が動揺しているのは間違いなかった。

「俺は故郷で五年間、村の人間の行いと天候に関係があるか記録していた。結論から言えば、何も関係ない。祭儀を手抜きしようが、供物をけちろうが奮発しようが、罰当たりな言葉を吐こうが悪事をはたらこうが、雨の降り方や作物の出来や、家畜の生き死にに一切影響はなかった。あんたたちは細かい記録をつけていないから、ちょっとした偶然があるとすぐに因果を結び付けようとするんだ。実際には何も起きないことのほうが多いのに、それは忘れてしまう」

 シェイダールの論に、何人かが明らかに不満顔をした。でも、だって、あの時は確かに――そう考えているのだろう。彼は声に力を込めた。

「王宮にはもっと長い年月にわたる記録がある。早い時期に旱を予測し、対策を立てられたのもそのおかげだ。祈ったり占ったりしたからじゃない。勘とか、なんとなくの経験則とかでもない。しっかりした正しい記録の積み重ねこそが、次に来るだろう未来と取るべき行動を教えてくれるんだ。先行きが不安だと色々な噂が飛び交うだろうが、惑わされないでくれ。王も長官たちも、力を尽くしている。もちろん俺もだ」

 人々がざわつく。世嗣様のお言葉はもっともだ、いやしかし。疑念と戸惑いの間から、誰かが黒い棘のある声を上げた。

「捧げものも充分してなさるんですかね」

 見えない棘に引っかかれ、シェイダールは片頬をひきつらせた。怒りと侮蔑がせり上がるのをぐっと堪えて飲み込む。これだ。自分の不安を他人のせいにする典型的な言葉。

「先日の儀式には大勢がやって来たが、あんたは見ていなかったのか」

 我慢しきれず刺し返し、一呼吸置いて語気を鎮める。

「ああもちろん、王も神殿も日々欠かさず祈って山ほど供物を捧げているさ、安心しろ」

 じろりと睨み付けてやると、発言者は不満と羞恥の半ばする顔で他人の背後に隠れた。

 雨を乞うのは降りそうな時。無理な時にはどうやっても無駄。不信心者でなくとも皆、そうと承知しているはずなのに、それでも同時に、旱が続けば原因を強引にでも見付けようとする。供物が足りないのでは、誰かが冒瀆したせいでは。

 いささか不穏な雰囲気が漂う中、ザヴァイの妻が申し出た。

「でしたら、世嗣様……私にも何かお手伝いができますか? こうしてウルヴェーユを教わって、世界のありようを見る目も変わり、拙いながらも術を使って少し楽ができるようにもなりました。私ごときでは世嗣様のお邪魔になるだけでしょうが、もし、できることがあるのなら、どうぞ仰せつけ下さい」

 前向きで落ち着いた態度に、シェイダールは目元を和らげる。その姿勢だけで大いに助けになる、と言いたいところだが、彼はふむと考えた。

「そうだな……ちょっと見てみよう。手を」

 改めて向かい合うと、掌を上に向けて差し出す。ザヴァイの妻が手を重ね、シェイダールは目を閉じて意識を内に向けた。路を満たす豊かな水、たゆたう色と澄んだ音の柔らかい響き。じきに彼女の路が共鳴するのが感じ取れた。

 毎日のように触れている標を意識し、そっと解いて《詞》を紡ぐ。同じものがあれば響き合うはずだが、幸か不幸か反応はなかった。ひとつ、別の収穫はあったが。シェイダールは小さく息を吐いて路から抜け、外界に意識を戻して目を開いた。

「残念だが、今取り組んでいる術に関して手伝ってもらえることはなさそうだ。ただ、もし何か役に立ちそうな手がかりを見付けたらいつでも教えてくれ。些細なことでもいい。露を集める詞だとか、水にかかわりそうなら何でも」

「畏まりました」

 神妙に頭を下げつつも、奥方は正直に落胆した顔をする。シェイダールは微苦笑した。

「新たな術を探るよりも、普段通りに暮らして、ウルヴェーユも当たり前の顔で使ってくれたら、それが一番助けになる。俺とのかかわりがどうだとか、ウルヴェーユの影響がどうだとか、そんなことは一切気にしないという態度を貫いてくれ。ザヴァイ、あんたもだぞ。それに……ここにいる全員もだ」

 彼は近隣住民を見回し、真顔になって続けた。

「あんたたちが変な噂に惑わされて、ザヴァイの一家を避けたり除け者にしたりすれば、傍で見ている連中は都合よく解釈して、勝手な憶測と悪意を広めるだろう。だから今まで通りに行動してほしい。むきになって俺や王や長官達を弁護しなくてもいい、大丈夫だという信頼を態度で示してくれ。それが結局、あんたたち自身を守ることにもなる」

 規模は違えど、かつて村で起きたのも似たようなことだった。父を死に追いやった直接の元凶は祭司だが、それを認め後押しした空気は、飢えの不安に翻弄された村人が醸成したものだ。一人一人の不安、さほどの意図も考えもなしに口にされた言葉。疑り深い目つきひとつ。些細なことが重なり、誰にも止められない勢いで膨れ上がってゆく。

 人間の集団とはそうしたものだと、シェイダールは身に染みていた。だから、ザヴァイがいつもの弱気で、

「もちろん承知してます。でも、アルハーシュ様は近頃お加減がよろしくないとか……」

 などとこぼした時には蹴飛ばしてやりたくなった。

 既に住民らも噂を耳にしていたらしい。うなずきながら顔を見合わせ、やっぱりそうなのか、らしいぞ、などと確かめ合っている。シェイダールは眉間を押さえて唸った。

「王が暑気あたりでお疲れなのは本当だ。だがこの暑さに参ってるのは皆、同じだろう。俺だって正直、今すぐどこか冷たい地面を見付けて、猫よろしく伸びてしまいたいよ」

 うんざりと言って聴衆の失笑を誘い、彼は明るい口調になって続けた。

「アルハーシュ様は俺みたいに怠けたことはおっしゃらない。去年の夏に比べたらずっとお元気だし、精力的に政務を執られているから、安心しろ。あんたが王の健康を気遣っていたというのは伝えておくよ。なんなら見舞いの品を届けようか?」

「滅相もない! 王に献上するような品物など、とても」

 あわわ、とザヴァイが大慌てし、今度こそ場は笑いに包まれる。シェイダールも笑顔で立ち上がった。

「そろそろお暇するよ。奥方を大事にな、ザヴァイ」

 何気なく添えた一言に、当の奥方が赤面し、ザヴァイが面食らって目をぱちぱちさせた。

「あ、はい……え?」

 その反応に、あれっ、とシェイダールは奥方を見る。

「なんだ、言ってないのか?」

「確かかどうかわからなくて……まだ、その」

「俺は医師じゃないから断言はできないが、路の感じでは大丈夫だと思うぞ。悪い影響が出ているようには視えなかった」

 二人のやりとりを聞くうち、次第にザヴァイが口と目を大きく開いていく。言葉もなく口をぱくぱくさせる間抜けな夫に、シェイダールはにやりと笑って告げた。

「奥方はご懐妊だ、おめでとう」

「ほ、本当ですか!?」

「さっき共鳴させた時に新しい路の存在が感じ取れた。小さいが間違いないだろう」

「……っ」

 ザヴァイは声を詰まらせ涙ぐみ、ひしっと妻を抱きしめる。近隣住民もやれめでたいと一気に盛り上がり、不安もどこへやら、祝い支度に忙しくなった。祭司を呼んで安産祈願をしなければ、供物と産着の用意もだ。わいわいと賑やかになったのに紛れ、シェイダールはそっと工房を離れた。

 通りに出ると、待っていた警護兵が前後左右を取り囲む。ものものしさにシェイダールは顔をしかめたが、文句は言わなかった。横でリッダーシュが嬉しそうに声を弾ませる。

「吉報を授けられて良うございました、我が君」

「ああ。あれで気を逸らせておけたらいいんだがな」

 応じたシェイダールは既に沈痛な表情だ。リッダーシュも鼻白み、口をつぐんだ。

 この暑さでアルハーシュ王はまた体調を崩していた。それでも去年と違い、休んではおられぬと無理を押しているのがわかる。日中は極力宮殿から出ず安静に過ごし、謁見や会議も日が暮れてから。食事も、料理人の工夫の甲斐なく随分と量が減った。

 去年より元気と言ったのも、今年はまだ寝込んでおらぬだろうが、という本人のおどけた言を容れてのことだ。確かに昨夏は長らく面会を絶って臥せっていたが、裏で画策を進めるための偽装でもあった。どこまでが嘘で、どれほど本当に寝込んでいたのか、本人も身近に仕える者も、決して漏らさない。

 うっかりすると、子供のような不安と心細さに襲われそうになる。他人を落ち着かせるどころでなく、自分のほうが泣き出したくなってしまう。しっかりしろ、とシェイダールは己の頭を小突いた。

 神を信じない君には厳しく難しいことかもしれないな――いつぞやのジョルハイの声が薄い空色を伴ってよみがえる。彼はこっそり舌打ちした。

(馬鹿馬鹿しい、神が何の助けになるんだ。覚悟を決められるのは己だけ。信じようが信じまいが、現実は変わらない。人は皆いずれ死ぬ。喪われる。誰も逃れられはしない)

 そこでふと疑問が胸をよぎった。

(……本当に?)

 忘れ去られたいにしえの時代、繁栄を築いた『最初の人々』はどこへ消えたのだろう。なす術もなく死の腕に抱かれ、一人また一人と世界の根に沈んでいったのか。それともあるいは、色と音と詞を操り、時と死をも超えて、遙かな宇宙へ昇っていったのだろうか。

 無意識に足を止め、空を仰ぐ。暗いほど青く深い天の底、微かに届く響き。

「シェイダール? どうしたんだ」

 リッダーシュがささやく。彼は答えず、ただ小さく首を振って、また歩きだした。


 白の宮に戻る前に、王の私宮殿へ報告がてら見舞いに行くと、先客がいた。水利長官とその息子である。構わぬとの声で通されたシェイダールだが、やりづらい相手と居合わせてしまい、困惑気味に立ち尽くした。

「どうしたシェイダール、近う寄れ」

 アルハーシュ王が寝椅子に楽な姿勢でくつろいだまま、手招きする。以前はなかったその家具は、臥せらず、しかし玉座についているよりは楽にできるように、と運び込まれたものだ。その枕元で水利長官父子が畏まっていたが、シェイダールが進み出ると退いて場所を空けた。

「ただいま戻りました。元第四候補ザヴァイを訪ね、街の様子を見て参りました」

「大事なかったか?」

「はい。目立った混乱は起きていません。ただ、水面下で不安や動揺が広まってはいるようです。王ご自身はもちろん水利長官や下級の役人一人一人まで怠りなく備えている、と説いておきました。幸いザヴァイの奥方が身ごもっていることがわかりましたので、居合わせた者の気の持ちようは上向いたかと思います」

「ほう、それはめでたいことだ。無事に産まれると良いが……」

「大丈夫です。路を共鳴させた時に感じられた様子では、何も問題ありませんでした。悪い影響があるのだとしたら、視えるはずですから」

「そうか、そなたが言うのならば間違いなかろう。ラウタシュ、そなたの労を民に伝えてくれた我が世継ぎに、かいつまんで報告してやるが良い」

 アルハーシュが穏やかに促す。悪い知らせではなさそうだ。シェイダールが向き直ると、長官はいつもの陰気な顔で淡々と告げた。

「東部一帯の水路の補修がおおむね終了した」

 続けて村や町の名を挙げ、どのような対策を取ったか簡潔にまとめる。シェイダールは己の故郷の名にぴくりと反応した。元々水路の恩恵からは遠い村だが、ラウタシュは井戸の水位を確認し、近くの――シェイダールが毎日水を汲みに行った川の状態を見て、農業用水の引き込み工事ができないか村長らと協議したという。

 思わずシェイダールは深い息を吐いていた。気付かぬ間に張りつめていた糸が緩んだように、肩から力が抜ける。アルハーシュが思いやりのこもった微笑を浮かべた。

 と、それまでしきりに父親の様子を窺っていたツォルエンが、報告が終わったと見るや身を乗り出してきた。

「世嗣殿、次に祭司ジョルハイに会ったら謝辞を伝えてくれ。あの計測器は実に役に立った。おかげで視察の日程を随分短縮できて、これまで地方役人任せだった土地にも足を伸ばすことができたのだ」

 勝ち誇るがごとき声音で言い、事実だから文句はないでしょう、さあ認めろ、と挑むような目を父親に向ける。反抗的な息子に相対する父は眉ひとすじ動かさず、「確かに」と肯定した。

「実用に堪えるいにしえの道具が手に入ったことは僥倖であった。こうした技術によってより高度な土木工事を可能にするには、優秀な人材の育成が欠かせぬがな。優れた者が利器を得てこそ、目覚ましい結果を生む。便利な拾い物に満足するようでは……」

「ああ、もう良いではありませんか父上! 王の御前ですよ!」

 驚いたことに、ツォルエンは父の小言を遮って声を上げた。目を丸くしたシェイダールにつかつかと歩み寄り、有無を言わさず腕を取る。

「それより、久方ぶりに王宮に戻れたのだから、世嗣殿とウルヴェーユについて語らいたく存じます。アルハーシュ様、世嗣殿。私のためにお時間を頂けませぬか」

「ふむ。シェイダール、余の耳に入れておくべき事柄がもうないのであれば、共に白の宮へ戻るが良いぞ」

 面白そうに王が言い、シェイダールは当惑しつつうなずいた。

「畏まりました。ではお言葉に甘えて御前失礼いたします。……アルハーシュ様、何卒御身お大事に」

「むろん心得ておるとも。衷情、しかと頂戴した」

 王は真面目を装って胸に手を当て、会釈ほどに頭を下げる。シェイダールは相手の冗談に合わせて笑う気になれず、複雑な顔のまま深く一礼して私宮殿を後にした。

 道すがら、シェイダールは驚きを隠せず訊いた。

「いったい何があったんだ? おまえが親父に口答えするなんて」

 ちらりと後ろを見ると、急いで追いついてきたリッダーシュもやはり面食らった様子である。当のツォルエンだけが意気揚々としていた。

「あの計測器は本当に使い勝手が良いし精確なのだ。現場の熟練技師らも認めたのだぞ。路を開きウルヴェーユに習熟せねば扱えぬと教えたら、悔しがる者が何人もいた」

 闊達な口調は、以前とは別人のようだ。いつも僻みと苛立ちに満ちていた灰紫の瞳が、今や尊大なまでの自信に輝いている。実力を証明する機会を得て、実際の場で働く人々に尊敬と驚嘆を寄せられたことで、自己と人生に対し肯定感が大きく増したのだろう。

 シェイダールは何やらむず痒いような、不可解な気持ちになった。その理由に思い当たると、今度は羞恥に頬が熱くなる。

(ちょっと前の俺か……!)

 村で意固地になってひねくれていたのが、王の資質を見出され、王宮でその才能を開花させ次々と発揮して、万能感と希望に舞い上がって。

 唐突な自覚にうちのめされ、堪らず彼は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んでしまった。慌てて従者が駆け寄り、先へ行っていたツォルエンが驚いて振り返る。

「どうされた、世嗣殿」

「何でもない。色々いたたまれなくなっただけだ」

 シェイダールはうずくまったまま答え、ああ、と呻く。顔だけ上げて年下の少年を見やると、自然と口元がほころんで苦笑をつくった。

「まあ、なんだ……うん、良かったな」

「何やら引っかかる言い方だな」

 ツォルエンが眉を寄せて疑ったので、シェイダールは気を取り直して立ち上がった。

「他意はないさ。あの忌々しい水利長官をへこませてやれるようになったのは、本当に良かったじゃないか」

 取り繕うように言ってからふと、彼は眉を寄せて渋面になった。

「と言うか、悔しいぞ。俺のほうがウルヴェーユに関しては詳しい筈なのに、あの道具の使い道を突き止めたのも、それを実際に使いこなしているのも、おまえじゃないか」

 予期せぬ賛辞を受けたツォルエンは、有頂天になったのを隠そうとして挙動不審になる。ややこしい顔で視線を泳がせているが、内心鼻高々なのはあきらかだ。いよいよ機嫌を損ねたシェイダールを宥めたのは、例によってリッダーシュだった。

「致し方あるまい。おぬしは測量や土木工事の知識はまるでないのだから、どれほどウルヴェーユに長けていようと、実用の場面に考えをつなげられなくて当然だ。王宮に来てからの勉学は文書の読み書きと地理が主だったのだし」

「じゃあ、俺にも教えろ」

 据わった目で不穏なことを言い出したあるじに、従者がたじろぐ。

「教えろとは、何を」

「だから、土木工事とか測量とかに必要な知識だ! こいつがもう修めているんだから、俺だって学べば身につくだろう」

「待て、落ち着け、現実的に考えろ。おぬし既に毎日ほとんど休む間もなかろうに、この上どうやって時間を割くつもりだ」

 慌ててリッダーシュが止めにかかり、横からツォルエンも呆れて水を差す。

「そもそも貴殿が代数や幾何学や、土壌や鉱物について学んだところで、それを役立てる場面などあるまいに」

 だがこれは失敗だった。リッダーシュが天を仰ぐと同時に、シェイダールはツォルエンに詰め寄って威圧した。

「役立てる場面がないだとか、どうしてわかる。現に俺は今、おまえがどうやってあの道具を使いこなしているのか、実は大嘘をぶち上げているだけなのか、さっぱりまったく判断できないんだぞ。ウルヴェーユとそのなんとかいう学問を結び付けたら、どんな新しいわざが生み出されるか、知りもしないで役立たないだとか決められるもんか!」

「だから、それは私や専門の技師らに任せておけば良いと……」

「うるさい! 丁度いい、今から白の宮で基礎を手短にまとめて教えろ」

「いきなり無茶を言うな!」

「おまえの知ってることを教えるだけだ、さあ早く行くぞ!」

「それが教えを乞う態度か!」

 ぎゃんぎゃん喚きながらツォルエンが引きずられてゆく。リッダーシュは諦め顔で頭を振り、後について行った。

 しばらくツォルエンは抵抗を続けたが、一度決めたら譲らないのはシェイダールが上手だ。しまいに根負けして、宮の手前で適当な地面を見付けて止まった。

「ここにしよう。図形や数式を書く場所が要るからな。棒か小枝はあるか?」

「探して参ります」

 しばしお待ちを、とリッダーシュが急ぎ足に宮へ入る。外で待ちながらツォルエンはしゃがみ込み、何からどう教えたら良いのか、指先で薄く地面にあれこれ書いて悩む。シェイダールはもう早速横から覗き込んで興味津々だ。一切の邪念を含まない真摯さを横顔に見て取り、ツォルエンはため息をついた。

「まったく……貴殿はどうしてそうなのだ」

 どことなく悔しそうな響きのぼやき。シェイダールが眉を上げ、どういう意味かと視線で問う。ツォルエンは直接には答えず、地面の記号や数字を眺めてつぶやいた。

「東部辺境を訪れたのは初めてだったが……本当に、絶句するほど何もないのだな。領地の畑や農民たちの暮らしが頭にあって、田舎とはああいうものだと思っていたが。同じ農村と言っても、こうまで格差があるとは予想だにしていなかった」

 ジャヌム家の領地は大河沿いの豊かな土地だ。都の賑わいには遠く及ばないが、それでも屋敷のまわりには商店や市場や鍛冶工房があり、神殿には祭司だけでなく平神官や見習いが何人もいた。村人はあまり読み書きはできないが、神殿に集って様々な話を聞き知っていた。神話だけでなく、ワシュアール王国の成り立ちと歴史、過去の偉大な王の業績や滑稽な出来事を集めた物語、子供にもわかりやすい寓話。

 だがこの世嗣の生まれ育った村には、それらがほとんどまったくなかった。

 集落にあるのは商店と言うのも憚られる、季節営業の肉屋ぐらい。まともな鍛冶屋は隣村まで行かなければおらず、農具の修理や建具の取り付けができる大工の親子が一組いるだけ。つましい祠と祭壇を守るのは、位階の低い祭司一人。

 村人のほとんどは、都では常識とされる詩歌の題名ひとつ知らない。水利についての話し合いも、状況や具体的な数字がなかなか理解されず、ひどくまどろっこしかった。

「あんな村で、どうして貴殿のような者が育ったのだろうな」

 疑問はもっともだったが、シェイダールは鼻を鳴らして応じた。

「理由なんかあるか。俺は生まれつきこうだっただけだ。他の連中だって、きっかけさえあれば俺と同じように考え、学ぼうとしただろうさ。ただ、村では簡単に知識を得られないし、大概の奴らは独りでじっくり考えを深める時間もない。その点では、爪弾きにされていた俺はむしろ幸運だったのかもな」

 辛辣な冷笑と共にそう言って、シェイダールは立ち上がりながら白の宮を振り返る。リッダーシュが自分の鉦を持って戻って来たところだった。

「おい、それを使うのか?」

「あとは花瓶に挿してある柘榴の枝ぐらいだが、せっかく花が咲いているのに散らすのは惜しくてな」

「だからって……」

 呆れたシェイダールに対し、リッダーシュはむしろ得意げに笑っておどけた。

「それにこれなら、おぬしが癇癪を起こして地面に投げつけても、折れたり曲がったりしないだろう?」

 うっかりツォルエンが失笑し、シェイダールは苦虫を噛み潰す。笑いを堪えて震える肩をじろりと睨み、彼は腰に結わえた六色の紐を解いた。

「鉦じゃ短いし、細かい文字は書けないだろう。最初からこうすれば良かった」

 むっつりしたまま、紐の片端と、全長の半分ほどの辺りを握る。左右の拳に軽く唇を触れ、開始と終わりの《詞》を込めてから腕を伸ばしてピンと張り、

「《糸杉の幹 溶けぬ氷柱 鋭い槍の穂先となれ》」

 抑揚をつけて詠うと、紐の一部がまっすぐな棒となって固まった。

「これで……うん、良さそうだ」

 端の房を握っていた手を開くと、詞の通り、槍の穂先のように鋭い形になっている。そちらを下にして立て、余った紐を適当に腕に巻いて、ガリガリと地面をひっかく。粘土板に楔の型を捺すように、細く鮮明な線が刻まれた。

「ほらツォルエン、これを使えよ」

 シェイダールは葦筆を渡すのと同じ気軽さで、さも当然とばかりに差し出す。だがツォルエンは、今し方の笑いも先刻の優越感もすっかり消し飛んだ顔をこわばらせ、微動だにしない。あるじのわざを見慣れているリッダーシュも声を失っていた。

「どうしたんだ、二人共」

 シェイダールだけが訝しげに、ほら早く、と六色の棒で軽く少年の腕に触れる。むろん尖った先端ではなく、柄の方を使ってだが、それでも相手はぎくりと怯んだ。用心深く立ち上がり、物騒なものを怖々受け取っていわく。

「つくづく貴殿は恐ろしいな。いきなりこれを投げつけられたら死ぬぞ。これからは武器を持っていないように見える相手にも、油断してはならぬのだな」

 ようやっとシェイダールは、しまった、という顔になった。筆記具としての用途しか頭になかったのだ。貴族や祭司長などがいる場であれば、大騒ぎになっていただろう。

「ああそうか、すまん。迂闊だった。今後は注意する」

 真面目に謝って頭を下げ、リッダーシュにも目顔で詫びる。忠義な従者は緊張を解き、苦笑した。

「私も今後はより慎重になろう。こうした可能性をまったく考えておらなんだと、今初めて気付かされてぞっとした」

「苦労かけるな」

 シェイダールは思わず殊勝な言葉を口にした。己がお守りの大変な主人だという自覚ぐらいはあるのだ。しかし返ってきたのは、まるで屈託のない大らかな笑みと、満開の金雀枝を思わせる声だった。

「おぬしを守ることを、苦労だなどと思うものか」

 よろけたシェイダールが眉間を押さえる。余波を浴びたツォルエンは六色の棒を支えにして踏ん張った。

「こいつ、声だけで充分、人を殺せるぞ……」

 うつむいたままシェイダールが唸り、ツォルエンも「同感だ」と呻く。二人をまとめて撃ち沈めた当人は、怪訝そうに森緑の目をしばたたき、首を傾げただけだった。

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