十章
隣国の大使
十章
リィー……ン チリリ・リリ…… コーン……
青い光が瞬きながら、深い水の底で揺れる。その横をくぐって浮かび上がる白い光。
ロロ……ポーン……
まろやかな音。色が浮かび、沈み、路の標を照らす。彩りを手繰り、標に刻まれた詞を少しずつほどき、こだまに耳を澄ませて。
《――露ヲ……ニ、――葉……》
深淵から水を汲み上げ標を洗い、さらに手がかりを探って降りてゆく。
そこへ、きらきらと細やかな黄金の粉が降ってきた。控えめに慎ましく、しかし注意を引くように。彼は潜るのをやめて浮遊し、黄金のやってくるほうを振り仰いだ。
「……ダール、我が君」
遠慮がちな呼びかけが声として届くと同時に、肩に触れる感覚が意識を呼び戻した。急速に浮上し、理の源から遠ざかって、軽く薄い地上の大気へと飛び出す。
ぱちぱち、と瞬きし、シェイダールは肩に置かれた手の主を見上げた。
「リッダーシュ」
「大事ないか? そろそろ時間だ、支度をせねば」
気遣う従者に、ああ、と答えてシェイダールは胡坐を解き、立ち上がる。うんと伸びをしながら深呼吸。肺の中まで満ちていた深淵の水がきれいに乾いてゆく。
リッダーシュと召使が、着替えや櫛、装飾品を手に集まって身支度に取り掛かった。シェイダールは部屋着を脱ぎながら問いかける。
「ドゥスガルの大使ってどんな奴か、おまえは知ってるか?」
「直に話したことはないが、肝の据わった御仁のようだぞ。いつ人質に取られるかもしれぬ異国の王の膝元で暮らしているのだから、当然と言えば当然だが」
「手強いだろうってのは承知だ。いけ好かない奴か、それとも道理を通せる相手か」
「それは交渉内容によるだろう」
リッダーシュは苦笑し、礼装用の貫頭衣を差し出した。
隣国の大使はこの街に館を有しており、両国のつなぎとなるべく住み暮らしている。ワシュアール側からも同様だ。両国が大使を互いに受け入れたのは、ラファーリィが第一の王妃となった後のこと。それまでは公然と情報収集することなど不可能な関係だった。
シェイダールも大使の存在を聞き知ってはいるが、協議の場に同席したことも、姿を見かけたこともない。近年はそれだけ平和だったのである。
「今日の会談はそれほど難しいものにはならぬだろうから、おぬしもゆっくり相手を観察できると思うぞ。ラファーリィ様も同席されるし、土地や兵のやりとりではなく穀物の輸入だからな。過去にもあったことだ……つまり何度も我が国は旱魃に見舞われてきたということだが」
「毎度お馴染みになるぐらい頼ってばかりじゃ、足元を見られるだろうな」
シェイダールは渋い顔で唸った。ドゥスガルも降雨量など気候はワシュアールと大差ないが、山岳地帯に近く湧水に恵まれているため、旱魃の被害が少ないのだ。
「そう一方的でもない。こちらの領土にはドゥスガルに乏しい瀝青の産地があるからな。我が故郷ウルビもそうだ。さあ、これで良し」
リッダーシュが一歩離れて検分し、満足げにうなずく。召使らもそれぞれ仕事を終えて引き下がった。シェイダールは己の仰々しい格好を見下ろし、ややこしい顔になる。
既に暑い時季のこととて、冬のように大きな袖と長い裾の上衣までは着ていないが、それでも煌びやかだ。半袖の貫頭衣は襟と袖に金糸で刺繍、薄い麻布の肩掛けには細かいビーズの房飾り。手首には六色の宝石をあしらった金細工の腕輪。冠は被らないが、長い髪が乱れないよう細い金環を着けて押さえている。
「俺が大使の相手をするわけじゃないだろうに……置物代わりの飾りになれってことか」
「飾りに徹してくれるなら私も少しは気楽だが。くれぐれも言動は慎重になされますように、我が君」
「わかってる。大人しく傍で眺めて交渉の手並みを学ぶつもりだ」
シェイダールは置物扱いを受け入れ、促されて部屋を出た。
会談は謁見殿の隣の迎賓館でおこなわれた。気分を寛がせ、警戒と財布の紐を緩めさせるため、贅沢な食事でもてなすのである。ただし、話がまとまるまで酒は抜きで。
ドゥスガル大使は縮れた黒髪と大きな目をした、にこやかな男だ。王と王妃に恭しく臣従の礼をとり、二人の共に健勝なることを言祝ぎ、ドゥスガル王からの信頼と親愛を贈る、等と挨拶した。財務長官リヒトと世嗣シェイダールも簡単な挨拶を済ませ、王と大使が絨毯に腰を下ろした後、端の方に座った。
壁際に並ぶ楽士らが笛や五弦琴を控えめに奏ではじめる。会話の邪魔にならない穏やかな曲に合わせるように、次々と料理が運ばれてきた。
仔羊の柔らかい肉に香辛料を擦り込んで焼いたもの、ひよこ豆と野菜と干し果物の煮込み。蜂蜜をかけた揚げパン。詰め物をした鶏の丸焼き。御馳走の一品ごとに、大使はほうと感嘆し称賛するものの、その目は油断なくすべてを観察し、そつのない態度を崩さず隙を見せない。また旱魃年が来るようだと聞かされた時にも、さして驚きはせず、いとも同情的に慨嘆して見せた。
「旱の魔物が力を増しつつあるとは、恐るべき知らせでございますな。むろん我があるじは、兄弟たるあなた様に援助を惜しむものではございません」
交渉は滞りなく進んだ。滑らかな言葉と態度の裏で、お互いどれほど神経を削っているとしても、表面上は障害などほとんどなく、いくつかの事柄を確認し合い円満に妥当なところへ落着した。
簡易な証文が取り交わされ、ようやく葡萄酒が運ばれてくると、大使は嬉しそうに杯を取った。一口飲んでほっと息をつき、いくらか打ち解けた態度になる。
「して王よ、水乞いの儀式は近々催されるので?」
「いや、ひとまず例年通り旱を弱める祭儀を執り行い、そちらの援助を確実に取り付けてからと考えておる。水を乞うても降らず援助もまだとなれば、民に不安が広まるのでな」
アルハーシュの言を聞いて、シェイダールはこっそり皮肉な笑みを浮かべた。雨乞いを成功させる秘訣は、降るまで儀式を続けること。はなから見込みのない時には乞うても無駄と、内心では皆、承知しているのだ。
それでも神に縋るしか手がない時、雨乞いは命がけになる。飲まず食わずで祈ったり踊ったりを続けた結果、死に至るのだ。村の祭司が交代したのはそれが理由だと、幼い頃に聞いた覚えがある。
(祭司が威張り散らして好き勝手にするのは業腹だが……奴らもそれ相応の代償は負っているんだよな。支払う気がなくて他人に負わせるろくでなしもいるが)
忌々しい顔を思い出して不機嫌になり、彼は杯をぐっと呷った。
(どんなに声を張り上げて神々に呼びかけても、降らない時季には降らない。……ウルヴェーユでもそれは無理なんだ)
何か方法を、と探ったあの時、最初に考えたのは水をどうにかすることだった。雨を降らせる、どこかから水の流れを引いて来る。だが何も反応しなかった。いかなウルヴェーユでも、自然の運行を捻じ曲げられはしないのだろう。
(それとも俺の持っている『知恵』にその方法がないだけで、他の誰かの路には、そのわざが眠っているんだろうか。標を読み解いてゆけば何かが見付かるんだろうか)
見渡す限りの晴れ空に雷雲を呼び、嵐を引き起こすことさえも可能だろうか。『最初の人々』は天の動きまでも支配していたのだろうか。
考え込み、自覚せぬまま意識を内に向けて己の路に降りる。静かな白。沸き立つ赤。ゆっくりと色が巡る。世界の根より出づる流れが、路を通りやがてまた深淵へと沈んでゆく。
「世嗣殿、如何なされた」
不意に呼びかけられ、シェイダールははっと瞬きして顔を上げた。大使のぎょろりとした目とまともに視線がぶつかり、一瞬怯む。彼は微笑を装ってごまかした。
「ああ失礼、考え事をしていました」
「あなた様のお立場では、心煩わせる事が多うございましょうな」
お察ししますぞ、と言わんばかりの訳知り顔で大使がうなずく。軽い突きだ。シェイダールは仄めかしに気付かなかったふりで受け流した。
「いえ、私などは気楽なものです。いにしえのわざに耽溺していられるのですから……それが王の力となり民を守ることに役立つならば、何の煩いがありましょう。時に、聞くところによればドゥスガルには大変興味深い聖域や神具があるとか。一度お国を訪れ、いろいろと学びたいと願っております」
彼がラファーリィに目配せすると、相変わらずの艶やかな笑みが返された。
「シェイダール殿はまことに勉学熱心でいらっしゃる。いずれドゥスガルの王宮に客人としてお迎えできたなら、互いに学ぶところがおおいにありましょうね」
ワシュアールの王妃として、かつ同時にドゥスガルの元王女として言い、大使に向かって「叔父上に宜しくお伝え下さいな」と添える。現ドゥスガル王のことだ。前王すなわちラファーリィの父は既に他界しているが、叔父もまた姪を溺愛していたので、王の交代による外交姿勢の変化もなく、両国の友好が続いている――今のところは。
大使が畏まって低頭し、話題は彼女の故国での思い出、親族の近況といったほうへ流れた。
やがて日暮れて宴が果てると、そのまま宿泊する大使を残して王宮の面々はそれぞれ場を辞した。シェイダールも立ち上がったが、用心したにもかかわらず酔いが少々回っており、体が傾ぐ。大使が悪気のない失笑をこぼしたので、シェイダールも苦笑した。
「どうも私はあまり酒に強くないようです。お見苦しい様を晒していなければ良いのですが。今宵はこれにて失礼いたします。良い夢をご覧になれますように」
「楽しい宴でございました。世嗣殿にも良き夢を」
大使も慇懃に礼を返し、それからさりげなく一歩寄ってささやいた。
「神殿との対立、聞き及んでおります。必要の折には我々も力をお貸ししましょう」
「……これは、痛み入ります」
シェイダールはどうとも取れるよう無難に応じ、ふらついたふりで離れる。靄のかかった頭で物騒な密談をしてはならない。作り笑いで言葉をつないだ。
「しかし、今は抵抗があろうともいずれウルヴェーユは広まっていきますよ。恐らくはあなたの国にも」
「ほう? ワシュアールの秘伝ではないと仰せですか」
大使はまた鎌をかけてきたが、シェイダールは敢えて率直に応じた。
「かつて『最初の人々』がどの辺りの土地まで住んでいたかによりますが、知識とわざは階級も国境も越えて広がっていくでしょう。誰にも止められはしません。『最初の人々』の血を引くならば皆、ウルヴェーユを扱う資質を持っているのだから」
「とはいえ、力を目覚めさせるのも、使い方を教えるのも、今はあなた様をはじめ限られた方にしかできないという話ですが」
美味しそうな果実を皆の前に高くぶら下げて、それをもぐための梯子は貸さないのでしょう……声音がそう語る。シェイダールは背筋を伸ばし、まっすぐに大使を見据えた。
「大使、俺はこのわざを駆け引きの道具にはしない。本来すべての人に恩恵を施すべき神殿が、自分達の都合で祝福や祈祷を渋り呪いさえする、あんな風にはさせない。……神が救わない人も、知識とわざがあれば守り助けることができる。あなたとあなたの王が、ウルヴェーユを値打ちのある交渉材料だと考えているのなら、早々に改めてくれ」
静かに力強く断言した世嗣に、大使は目を丸く見開いた。ぱちぱちと瞬きし、くっと小さくふきだすと、そのまま肩を震わせて笑いだす。
「失敬、いやまさに、噂通りの御方ですな」
「どうせろくでもない噂でしょう」
「さてどうでしょう。世嗣殿のお人柄については限られた方々しかご存じないとはいえ、その多くが同じことをおっしゃる。いわく、あなた様は火のような熱意をお持ちだと」
聞いたシェイダールは思わず辛辣な苦笑をこぼした。
「近寄ると焼かれるぞ、とでも警告されましたか」
「いいえ。あなた様の火は人を外から焼くものではありませぬ。しかし、触れ合った者の身の内に燃え移り、魂の炉に火を入れるのだと……言い方は様々ですが、皆様そのようなことをおっしゃるのです。わたくしめも確かに今、感じましたぞ。あなた様のその宇宙のごとき瞳に映る広い世界、遠い未来を、共に見たいという熱い願いを」
大使は言って己の胸に手を当て、恭しく一揖した。抑制された高揚が、声に赤い彩りを加える。しかし彼はすぐに平静を取り戻し、首を竦めた。
「さればこそ、危険だと言う者の心境もわかるというものです。あなた様と語らうと、己も何かができる、せねばならぬ、という気にさせられる。ことの理非や己の利得損失、能力の有無にかかわらずね。いやはや、まことに危ない。……あなた様が王となられた暁には、恐らく我があるじと何らかの摩擦あるいは衝突は避けられぬでしょうな」
「あなたが何を危惧しているのか今ひとつわからないが、利害がぶつかるならそれを調整するのがあなたの仕事だろう」
「さよう、ごもっとも。常に両国の関係改善と安定に力を尽くす所存ではございますが、叶うならばその時までにわたくしめは任を退き故国に帰りたいものです。……いささか口が過ぎましたな、平にご容赦を」
「いや……」
シェイダールは曖昧に答え、適当にごまかして迎賓館を後にした。
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