毒蛇の囁き



 同じ頃、『柘榴の宮』ではジョルハイがシャニカの健康を願う祈祷を済ませ、ささやかなもてなしを受けていた。定期的な訪問のおかげで、ヴィルメは以前よりも心穏やかに毎日を過ごしていた。彼は王宮の外との唯一のつながりだし、村から旅を共にした間柄ゆえ、気の置けない接し方をしてくれる。何より親切で同情的だ。

「シャニカ姫も大きくなったねぇ。ついこの間まで、ひっくり返ったまま泣くばかりだったかと思えば、もう匙で自分の粥を食べているんだから驚くよ。君がしっかり育てているからだろうな、いや母親というのはたいしたものだよ」

「祭司様の祝福のおかげです」

「いやいや、君のお手柄だとも。だからこそ君も、少しは楽しむ権利があるさ。今日はこんなものを持ってきた」

 言って彼は杯を置き、ごそごそと袖から土産を取り出した。折り畳み式の小さな盤と駒だ。いつぞやシェイダールが「何が出てきても不思議じゃない」と言ったが、ジョルハイはそんな調子でいろいろな物をヴィルメの部屋に持ち込んでいた。

「これは何ですか? 双六のようですけど」

「簡単な遊びだよ。いいかい、互いの陣にこうして駒を並べて……」

 ジョルハイは盤を広げて用意を整え、遊び方を説明する。難しすぎない単純な遊戯だ。三回ほど対戦して、最後の一回でジョルハイは上手に負けて見せた。

「そうそう、いい手だ! どうだい、面白くなってきただろう」

 勝てるとなると遊戯は楽しいものである。ヴィルメは久しぶりの興奮に顔を輝かせ、手を叩いて喜んだ。彼女のはしゃぎように、ジョルハイもにこにこする。

「そんなに喜んでもらえて何よりだ。ではこれは置いていくから、召使にでも教えて退屈を紛らすといい。次に来た時にまたお相手するよ」

「まあ、でも、こんな……」

「私の手元にあっても、なかなか遊べないから勿体ない。何しろ相手をしてくれる仲良しの同僚があまりいないものでね。そんなわけだから、君が預かってくれるほうが、毎回持って来なくて済むし助かるよ」

「わかりました。そういうことでしたら、お預かりします」

 実際には返却を想定していないわけだが、ヴィルメはそれで納得してうなずいた。双六の盤を見つめ、そっと指で升目の線をなぞる。伏せた睫毛が震え、唇が微かに動いた。

 ジョルハイは痛ましげな表情になり、用心深くささやいた。

「御夫君を相手に誘うのは、あまりお勧めしないな。彼は聡いし負けず嫌いだ。君を徹底的にやっつけて、遊戯をつまらなくしてしまうぞ」

「ふふっ……きっとそうでしょうね」

 ヴィルメは小さく苦笑したが、そのまま顔を上げず物思いに沈む。ジョルハイは葡萄酒の杯を呷り、顔をしかめて首を振った。

「まったく、シェイダールには困ったものだね! 何でも一人で勝手に思い決めて、絶対に譲ろうとしない。善かれと信じて、黙ってどんどん先に行ってしまう」

「ええ。でも、そういうあの人を好きになったんですもの。お心遣いには感謝しますけれど、この状況はわたし自ら招いたこと。今はただ、母としてしっかり努めるだけです」

 寂しげに微笑んだヴィルメに、ジョルハイは「健気だねぇ」と降参の仕草をする。敬服を装った笑みに小さな黒い棘が覗いたのを、咳払いでごまかして続けた。

「まぁ少なくとも、世嗣殿の子の母、という地位は安泰のようだから、そこは安心して良いのじゃないかね」

 思わせぶりな言葉に、ヴィルメは怪訝な顔をする。ジョルハイは蜜菓子をつまんで口に入れ、何気ない態度で告げた。

「シェイダールは他の女のもとへは行っていないそうだよ。宮の中のことは君も知っているだろうが、外でも誰も相手にしていないとか。ひたすら仕事漬けらしい」

 ヴィルメは思いがけないことに相槌さえ打てず、呆然とした。王妃たちにウルヴェーユの手ほどきをしているとは聞いていたから、てっきりそのまま誰かの部屋に招かれて過ごしているのだろうと思っていたのに。

「……誰も?」

 無意識に繰り返し、その意味をどう理解すべきか困惑する。

(わたしはまだあの人の妻でいられるの? 単なる『娘の世話をする女』じゃなく)

 そう考えた途端、じんわりと胸が熱くなる。己の反応に彼女は笑いだしたくなった。

(馬鹿みたい。あの人はいつでも自分の信念に夢中で、わたしが何をどう思っているかなんて気にもしなかったじゃない。村を出る時からして、こっちから言い出さなければ当然のように置き去りにしたに決まってる。わたしがみすぼらしい資質しか持たないとわかったら、もう見向きもしない。……必要とされていやしないわ。それなのに)

 まだ彼のことが好きなのだ。他の女と通じていないと聞いただけで、希望を持ってしまうほどには。

(馬鹿みたい。本当に、……あたし、馬鹿だ)

 独りきり、何ひとつ持たず荒野に裸足で踏み出して、誰も登ろうとしない険しい山の頂を目指すがごとき生き方に憧れた。人を寄せ付けない背中に刻まれた深い傷を見て、血を拭ってやりたいと思った。

 自分にそんな力はないのだと知らず、歩みを共にすれば己の足も血塗れになるとの覚悟もなく、備えもせず。身の程を思い知らされた今でさえ、諦めきれない。

 どうして彼を好きになってしまったのだろう。村の皆と同じように、罪人の家族を遠巻きにして近付かなければ、今頃は退屈で平凡な暮らしを送っていただろうに。

(でも、もう遅い。この気持ちを、今さら否定なんてできない)

 瞑目し、細く深く息を吸う。溢れ出しそうな想いを胸の奥へ引き戻して押し込める。痛いほど悲しく切ないのに、恋慕の情はたとえようもなく甘く心身を痺れさせる。

 そうしてヴィルメが葛藤しているさまを、ジョルハイはただ黙って見守っていた。ややあって彼女が落ち着くと、彼は平静に話を続けた。

「しかしそうなると、いささか心配もある。世嗣殿の子が一人だけなら、彼の行いの結果がすべて姫に降りかかるわけだ。良いことも、悪いことも」

 さらりと滑らかな口調での、不穏な警告。ヴィルメはどきりとして、目が覚めたようにジョルハイを見つめた。青年祭司は苦笑を返し、軽い世間話のように装う。

「いや、脅かすつもりはなかった、失敬失敬。ただ彼にはもうちょっと、君たち母子への影響を考えてもらいたいものだと思ってね。相変わらず頑固に祭司長とやりあって譲らないのは、まあ良いんだ。神殿の横暴を止めるのは彼の悲願だし、私としても、今の腐った上層部にはいい薬だと思うよ。だが、いつまでも王位を継ごうという気を見せないのは……」

 曖昧に言葉を切って、ジョルハイは杯を手に取る。中身が空なことに気付き、慌ててヴィルメは酌をした。酒を注いだ後、そのまま彼のそばに座り、声を低めてささやく。

「よくわからないんですけど……シェイダールは世継ぎに決まったのでしょう?」

「建前はそうだがね。どうも私には、ただの時間稼ぎに思えるんだ。そうこうする内にアルハーシュ様の御子が生まれたら、彼は玉座を譲ってしまうのじゃないかね。王位なんかよりウルヴェーユを究めたいのだろうが、少しは我々学究派のことも信頼して、任せてくれないものか……何もかも自分でやろうとして、まったく」

 あのままじゃいつか倒れるぞ。ぼやいてこぼした嘆息に偽りの気配はなく、ただ心から世嗣の健康を案じているようだった。彼はうっかり真情を漏らしたのを恥じるように、首を振ってごまかした。

「違った、話がそれたな。ええと……そうそう、うん、それで結局シェイダールが王位に即かなかったら、シャニカ姫の立場が難しいことになる。その辺りも、彼には考えて欲しいものだよ」

「つまり、わたしとシャニカが追い出されるかもしれない、という意味ですか」

 ヴィルメは小声で問いかけた。手が震え、酒壺を落とさないように急いで盆に置く。ジョルハイは優しく思いやりのこもった仕草で、ヴィルメの肩をさすってやった。

「追い出されるか、毒を盛られるか、あるいは婢女に落とされるかもしれないな。……そんなに怯えなくてもいい。いざとなったら姫君を連れて、神殿へ逃げて来たまえ。私がいる限り必ず保護しよう。村を出るよう勧めたのだからね、最後まで責任は持つとも」

「でも、そうなったら」

「決まったわけじゃないさ。ただ、心構えはしておいたほうがいい。大丈夫だろうとぼんやりしていたら、百戦錬磨の王妃たちにいいように餌食にされてしまうぞ。ことそういう方面に関しては、シェイダールは当てにならないだろうし」

 やんわりと夫を侮辱されたが、ヴィルメは反論できなかった。唇を噛んだ彼女に、ジョルハイはなだめる口調になって言い添えた。

「御夫君を無能呼ばわりするつもりではないよ。彼はただ、高潔すぎるんだ。強い心で、常に理想の高みを見上げている。だから想像がつかないのさ――心が弱くて浅ましい、欲深な人間がどういう振る舞いをするのか」

 静かに這い寄る毒蛇のようなささやき。ヴィルメは直感的にぞっとなり、身を退いた。

 弱く浅ましく欲深な、そう、我々のような人間がね……。

 口には出されなかったが、彼の声は確かにそう聞こえた。心の奥に巣くう醜悪さを愛撫されたようで、背筋が冷える。ヴィルメは青ざめて顔をこわばらせた。

 つかのま人でないかに見えた青年は、ふっと身に纏う気配を変え、いつもの飄々とした風情に戻った。杯を置いて立ち上がり、軽くふらついて、おっと、と姿勢を正す。

「失敬、ちょっと飲みすぎたようだね。長居してしまった、そろそろ失礼するよ。何かあったら相談に乗るから、いつでも呼んでくれたまえ。御身お大事に、奥方様」

 おどけて大仰に一礼し、ふわふわした足取りで部屋を出る。ヴィルメはかろうじて笑みを作り、礼儀にかなうよう見送ったが、すぐに帳を下ろして娘のもとへ駆け寄った。

「かーしゃ?」

 不器用に食事を終えて、汚した前掛けを侍女に取り替えられていたシャニカは、母を見上げてきょとんと瞬きする。ヴィルメは笑いかけてやりながら、ぎゅっと小さな体を抱きしめた。陽だまりのような柔らかい温もりと、幼子の不思議な匂い。両腕の中にそれらを大切に包み込んで、ヴィルメは何度も繰り返しささやいた。

「大丈夫よ、シャニカ。お母様が守るからね。大丈夫……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る