不穏の兆し

     *


 麦の収穫を前に、初穂を神々に捧げる祭礼が行われたが、例によって世嗣は神殿から拒絶された。参列どころか、観覧にさえも来るなと言われたのだ。

 シェイダールも対抗声明を出し、このように祭礼を駆け引きの道具にする思い上がりこそ不信心である、神罰が下るならそちらにこそだ、と非難した。村にいる頃なら、祭から締め出されようと一切構わず神など知るかと無視できたが、公人としての立場がある現在、同じ対応はできない。だからこそ、敵も嫌がらせを仕掛けてくるのだ。

(国も民も関係ない、お互い自分の権威を守るのに必死なだけじゃないか)

 下らない、虚しくて何の実もない戦いだ。げんなりする。鬱憤を晴らすように、シェイダールは一層ウルヴェーユに傾注した。


「準備はいいか」

 砂を踏みしめ、シェイダールはヤドゥカと間合いを取って対峙した。鍛錬所に居合わせた兵士らが遠巻きに見物している。奇妙な試合だった。シェイダールが色鮮やかな紐を、ヤドゥカが華奢な鉦の一組を、それぞれ手にしているだけで、武器も防具も一切ない。

 シェイダールが両手で紐をピンと張った。白、赤、緑、青、黄、紫。鮮やかな六色の糸を縒り合わせた、華やかな彩りの長い紐だ。片端を握り、残りはゆったりと三重四重の輪にして左腕にかけている。向かいでヤドゥカが鉦を構える。両者は共に、内なる路に色の流れを満たし、《詞》をいつでも紡げるよう備えていた。

「《疾風よ撃て》」

 シェイダールが紐を握った手に唇をつけて声を込め、すぐさま大きく振って、ヤドゥカ目がけて投げる。柔らかいはずの紐は鞭のようにしなり、矢よりも鋭く飛んだ。反射的にヤドゥカは手でそれを防ごうとしてしまい、慌てて飛びすさると鉦を鳴らす。

「《出でよ赤土の壁》」

 詞に応じて赤い音の盾が生じ、飛来した紐の先端を弾き返した。生き物のような動きで紐がしなり、シェイダールの手に戻る。それを追ってヤドゥカが三音鳴らした。

「《眩ませ 縛めよ 倒せ》!」

 白い光の波が奔馬のごとく襲いかかる。シェイダールは再び紐に一言二言込め、身体の前面で回した。回転する紐が白光を捉えて封じ込め、粉砕する。ヤドゥカは舌打ちし、追撃せんと強く一音を鳴らす。直後、

「《茨よ 足を取れ》!」

「――っ!?」

 シェイダールが音を奪った。ヤドゥカが愕然とした隙に、地を這う茨と化した紐がその足に絡みつき、引き倒す。

「うわ……っく!」

 まともに引っくり返されるのは防いだが、立っていられず膝をつく。シェイダールが得意満面で軽く紐を引き、手元に呼び戻した。

「油断したな。おまえは武器を使ったまともな戦いが本領だから、どうにもやりにくいだろうけどな。せっかく優れた資質を持つんだから、今後はこっちも使いこなしてくれよ」

 一応敗者の顔を立てながらも、あからさまに鼻高々である。ヤドゥカは渋面になった。

「私が発した音を使うとは……炙り肉を口に入れる直前で鳶にかっ攫われた気分だ」

「はははっ! 俺もできるとは思わなかった」

 シェイダールは笑い、ヤドゥカに歩み寄って足元にしゃがんだ。紐が絡みついた跡が素足に赤く残っている。ぷつぷつとまさに棘が刺さったように小さな血の玉が並んでいるのを見て、彼は眉をひそめた。

「茨はまずかったな。ただ捕えるだけを考えて詞にしたからこの程度で済んだが、傷を負わせるほうを強く意識していたらどうなったか。悪かった」

「この程度、負傷の内にも入らぬ。だが次からは防具を着けたほうが良いだろうな」

 そこへ、見物人の間から誰かが拍手しながら進み出た。

「お見事でございました、世嗣殿」

 癇に障る気取った物言いはジョルハイだ。顔を見て確かめるまでもなく、シェイダールは不機嫌になる。何しに来た、と言うつもりで振り向き、

「……?」

 舌先まで出かかったそれを飲み込んだ。実際、そこにいたのはジョルハイだったが、妙な違和感があったのだ。青年祭司が恭しく臣従の礼をとる。下げた頭越しに随伴者の姿が見え、シェイダールは違和感の理由に気付いた。神殿兵士が二人、従っている。のみならずジョルハイ自身も、帯に小さな短刀を差していた。今までにはなかったことだ。

「何か変事でもあったのか」

 声を低めて問いかける。ジョルハイはいつもの澄ました微笑で応じた。

「まことに恐悦至極なれど、お心を煩わせるほどにはございませぬ。『柘榴の宮』よりお召しがありましたゆえ、先にご挨拶に参った次第にございます」

 答えになっていないが、追及もしづらい。シェイダールは眉間の皺を険しくし、ひとまず見物していた兵士らに向き直って言った。

「今やって見せたようなわざを、いずれ皆にも修めてもらう。むろん資質の有無や得手不得手を考慮して、ウルヴェーユを主にする者と、今まで通りの武器を使う者とに振り分けるつもりだ。実際におこなうのは当分先になる。この場は解散し、持ち場に戻ってくれ」

 説明を兼ねた命令に、兵士たちは各々一礼して解散する。誰もが敬意と服従を示しているが、程度は様々だ。期待と憧れに目を輝かせてぴしりと気合の入った礼をする者、新体制についていけるかどうか不安げな者。名残惜しげな最後の一人までがいなくなると、シェイダールは青年祭司を顎で呼びつけて木陰へ移動した。

 ジョルハイは苦笑しながら従い、横柄な世嗣様の隣に腰を下ろそうとする。

「待たれよ」

 鋭く制したのはリッダーシュだ。慇懃に一礼してから、すっと手を差し出す。

「念のため、武器は預からせて頂く」

「真面目だねぇ」

 ジョルハイはほとんどわからないほどに怯んだが、すぐに言われた通り短刀を渡した。シェイダールは複雑な顔になる。

「そこまでする必要があるのか? 他の祭司ならともかく、こいつだぞ」

 リッダーシュはジョルハイに再度低頭してから、対話の邪魔にならず、かつ主人を守れる位置に立った。

「個人に対する信用の問題ではない。長く親しんだ相手であっても、境遇の変化あるいはやむにやまれぬ事情によって、予想外の行動に出る可能性はある。不測の事態を防ぐには例外を作らぬことしかない。不自由に感じる時もあろうが、おぬしの命を守るためだ」

「それが賢明だな」

 珍しくジョルハイが実直な声音で同意する。シェイダールは改めて問うた。

「神殿の状況が不穏なのか。『鍵の祭司』でさえ脅かされるほどに?」

「私は世嗣一派の筆頭だとみなされているからね。鍵といえども安泰ではないのさ。祭司長は、第二の御付だったイシュイ殿を『燈明の祭司』に任じられた。祭儀において重要な役目を司る位だよ。他方、前の鍵殿は学究派の領袖として自ら『六彩の司』を名乗り、着実に勢力を増している」

 ジョルハイは淡々と説明し、ふと遠い目で彼方を見やった。無意識に手が何度も帯の辺りへ動く。身を守る重みがないと落ち着かないのだろう。

「近頃は神殿の中で、声を荒らげて激論を戦わせる神官がよく見られる。頼むから外ではやるなよと諭すのだが、分裂はもう一般市民に嗅ぎつけられているようだ。今まで折々の祭儀祝福を受け持っていた家から、別の祭司を寄越してほしいと言われる例も出てきた。私も、すれ違いざまに火のようなまなざしで射られることが増えてきたものでね。いささか身辺に気を使うべきかと判断したのさ。我ながら大層出世したものだよ」

 言葉尻でにやりとしたものの、表情に以前の余裕はなく、代わって憔悴が覗きはじめている。シェイダールは眉を寄せて確かめた。

「物騒だな。俺に対する攻撃があれば大問題だが、神殿内でも刃傷沙汰になれば醜聞なんてものじゃないだろ。日和見して間を取り持つ祭司がいそうなもんだが」

「さすがにまだ暗殺騒ぎにはなっていないよ。祭司長も、内紛にかまけていたら君と王に出し抜かれるとわかっているようだ。喚き立てているのは主にイシュイ殿のほうでね。声と態度は大きいが、虚仮威しだけの御仁だ。ただ、つまらないことで火種に風を送るのはごめんだから、お供を連れて牽制しているわけさ。まったく、ヴィルメを訪ねるのが唯一安らげる時間だよ。危ない連中は誰一人いない、何の心配もいらない」

 やれやれ、と伸びをしてから、ジョルハイは探る目つきになって問うた。

「ずっと彼女をあのままにしておくつもりかい」

 ささやきに被せるように、ざわ、と梢が騒いだ。シェイダールは晴れた空を見上げ、動揺の欠片もなく静かに応じる。

「あんたに不平や不満を聞かせるのか」

「いいや、あの子は何も言わない。今の君と同じだ。諦めて、醒め切って、心に何の波風も立てないまま、シャニカのことだけを考えているよ。健気じゃないか」

「あいつが何か希望を漏らすことがあれば、教えてくれ。できるだけ叶えるようにする」

「そうじゃないだろう! まったく、君には呆れたな!」

「どうしろって言うんだ?」シェイダールは失笑した。「あんたがそんなに他人を気にかけるとは思わなかったな。次はあいつを利用するつもりなのか」

「……やれやれ。見くびらないでもらいたいね。これでも私は、彼女を都へ連れてきた責任を感じているんだよ。それに、私にだって人並の情はある。君を気に入っているのと同じぐらい、彼女にも好意を持っているさ。なんだい、突き放しておいて夫面かい?」

「挑発のつもりなら白けるからやめろ。あいつがシャニカを捨てて別の男と一緒になりたいと言うなら、離婚してやるさ。だがそうじゃないなら、余計なちょっかいは出すな」

 シェイダールは厳しく命じ、ジョルハイを睨み据えた。妻への愛情はない。だが娘は己がきちんと導いてやらなければならないし、母親と引き離すのも憐れだ。妻を憎んでいるわけではないのだから、現状のまま平穏に暮らさせてやれば一番いい。

 そんな彼の内心を見透かしてか、ジョルハイが鼻を鳴らした。

「それで君は他の王妃様とよろしくやってるわけかい。あんまりじゃないか?」

「女の所には行ってない」

 シェイダールは素っ気なく応じ、話は終わりだ、と立ち上がった。

「もしヴィルメが気にしているのなら、教えてやって構わないぞ。他に用がなければ『柘榴の宮』へ行けよ。こっちもこの後、アルハーシュ様に呼ばれているんだ」

「おい待ちたまえよ、嘘だろう」

 当惑したようにジョルハイが引き留めたが、シェイダールは無視し、リッダーシュとヤドゥカを連れて立ち去った。

 ジョルハイに言ったのは嘘ではない。女を抱きたくなる時もあるが、『柘榴の宮』へ行くことを考えただけで気が萎える。外から娼婦を呼ぶのも感覚が馴染まない。

 結局、そんな暇があるなら少しでもウルヴェーユをと励み、彼は他の一切を意識から締め出すほどの忙しさに自らを追い込んでいた。厳しく思い詰めた様子ではなく、普通に笑いもするし冗談も言う。だが身近にいる者の目には、彼の心のどこか一部だけが硬く凍っているような不自然さが見えていた。

 さりとて、こうまで拗れた関係を第三者がどうすることもできない。リッダーシュは気遣わしげなまなざしをあるじに向け、すぐに気持ちを切り替えて懸念を払った。

「ラウタシュ様がしばらく前に視察から戻られて、アルハーシュ様と随分長く話し合われたそうだ。今日はその結果に関することだろうな」

「ああ、俺もそう思う。……なんとなく悪い予感がするな」

 シェイダールは前を向いたまま、低く唸った。


 王に呼ばれて出向いたのは、これまでにも何度か使った会議の間だった。

 謁見殿の一画に造られた部屋は、二十人ほどが着席できるよう、段差をつけた半円状の長椅子が設えられ、向かい合う奥の壁際には玉座が据えられている。三層の壇上にある玉座の足元には、議長の椅子が置かれていた。

 今はアルハーシュ王が玉座につき、長椅子の前列中央付近に三人の長官がそれぞれ秘書官を連れて、適当な間隔を空けて座っていた。誰の顔も一様に険しい。シェイダールは予感が当たったかと気を引き締める。同時に王が振り向き、いつもの温かい微笑を見せた。

「来たか、シェイダール」

「遅参、まことに申し訳ございません」

「さしたる遅れではない、鍛錬に励んでいたのであろう? 後ほど成果を聞かせてもらおう。楽しみが控えていると思えば、難しい議題にも辛抱がなるというものだ」

 王はおどけて言いつつ、手振りで着席を促す。シェイダールが腰を下ろすと、王は真顔になって切り出した。

「では始めよう。先般、水利長官が北部視察を終えてもたらした報告については、各長官に伝えた通りだ。調べを進めるよう命じておいたが、各々の結論を聞かせてもらいたい。しかる後に対策を立てよう。まずはラウタシュ、改めて今一度、視察の結果を」

 指名を受けてラウタシュが起立、一礼する。彼は常から険しい顔つきに陰鬱さを加え、重々しく口を開いた。

「誉れある王、ならびに諸長官、世嗣殿にご報告申し上げる。北部一帯の水路や河川について視察の結果、今年は水不足になる可能性が高いと判断された。この時期にしては水位水量ともに前年を下回り、充分な雪解け水が届いておらぬ様子。過去の記録に鑑み、これより数年は旱が続くでありましょう」

 告げられた内容に、シェイダールはぎょっとなって息を飲む。父が殺された年、その前後数年の気候がすぐさま脳裏に浮かんだ。

 ワシュアールは大河の流域を除いて乾燥した土地が多い。そして、数年おきに降雨量が変わる。適切な水源管理を行えば余裕をもって作物も家畜も人も生き延びられる年から、限界まで切り詰めてなお多くが失われる旱魃年へと。それは周期的な自然の変動であり、気候を数字で記録しておらずとも、畑を耕し野に羊を放って暮らす者なら経験的に知っている。

 父が殺された年の不作は、旱魃よりも低温が原因だった。だがその前の数年間は水不足が続いており、蓄えに余裕がなかったため、決定的な打撃になったのだ。

 またあの飢饉が来るのか。

 絶望に竦むシェイダールの前で、ラウタシュが各地の現状と近い未来の予測を述べ、続いて土地管理長官ハディシュおよび財務長官リヒトが、それぞれの管轄における数字を比較検討した結果を述べる。指標となる農作物の収量、漁獲高、それらに連動する商品の流通量と税収の変化。様々な情報を総合して、やはり旱魃の傾向は明らかであるとの結論に達した。

 不穏な予測を確認し、アルハーシュ王はため息をつく。だが何もせずただ嘆いてはいられない。すぐに彼は声に力を込めて言った。

「既にドゥスガル大使のもとへ使いをやった。近日中に穀類の緊急輸入について条件の見直しと確認を行うゆえ、リヒト、準備をぬかりなく整えよ」

「御意、承りました」

「ラウタシュ。揚水機の建造計画を前倒しにできぬか。候補地は今回の視察で選定したのであろう。ハディシュと共に土地の整備を急ぎ進めよ」

「畏れながら、そちらはむしろ後回しにすべきではないかと存じます。揚水機の建造は充分に時間をかけて綿密に調査せねば、他の水源を涸らす恐れがございます。むろん既存の水路を見直し、より効率的に配水し損失を少なくする改修工事は進めて参りますが」

 揚水機が戦力にならず、シェイダールは悔しさから反感を抱いたが、堪えて理性で水利長官の論を認めた。各地で使われている灌漑水路は古代の遺産だ。山岳地帯から地下水を導く大規模なもので、どうやって開鑿されたのか今ではもうわからない。性急かつ場当たり的に揚水機を建造して水路を駄目にしてしまったら、取り返しはつかないのだ。

(だからって今ある水路だけでは、賄いきれない)

 シェイダールは眉間を押さえて唸る。そこへ王が呼びかけた。

「何か他に打つべき手を考えられるか、シェイダールよ」

「……少し待ってください」

 さすがに即答できず、シェイダールはうつむいた。ゆっくり深く呼吸し、己の内を意識する。白、赤、緑……ひとつひとつ標を辿って降りてゆく。青、黄、紫……一段ごとに両手で触れて確かめ、遠いささやきに耳を澄ませて。

(旱……水、雨……いや、そっちじゃない)

 チリリ、リ……ン

 知識を探す手掛かりを心に浮かべるが、音色は遠く小さく、反応が芳しくない。探す方向が間違っているのだ。こだわりを捨てて意識を自由に遊ばせる。途端に星がきらめき、標のひとつを打ち鳴らした。

「種子を」

 ぱっと顔を上げると同時に声が飛び出す。危うく《詞》を使いそうになり、シェイダールは咳払いすると、路の残響を静めてから言い直した。

「籾や種に術を込めて、少ない水でも枯れにくくできそうです。今すぐ始めたら、この秋に蒔く麦には間に合うでしょう。全部は無理にしても、一部は。それで余裕ができたら、春に植える他の作物にも広げていけます。大掛かりな工事も必要ない」

 素晴らしい解決策が見えたとばかり、意気込んでまくし立てる。だがそこまで言って、彼は自分に向けられた複雑なまなざしに気付き、当惑して口をつぐんだ。

 三人の長官はいずれも落ち着かない様子で、あるいは胸を押さえ、あるいは顔を背けている。王が微苦笑をこぼし、玉座の肘掛を軽く叩いた。

「さても頼もしきことよな。そなたは既に『王の力』を使いこなしておるわけだ。代々の王が直観を頼りに苦心して掬い上げた知恵を、そなたは自ら探し求め的確に引き出した。余の内なる標もひとつ、震えておる。そなたの申した手法、確かに可能であろう」

 言われてやっとシェイダールは、己が何をしたのか自覚した。長官らの態度がおかしいのも、内なる路が共鳴したためだろう。今までならばその感覚は、唯一、王によってのみ与えられるものであった。だがこれからは違うのだ。彼は声を弾ませた。

「他にも同じ標を読み解ける者がいれば、作業を手伝ってもらえるでしょう。間に合わせて見せます、やらせてください」

 既に『王の力』は王だけのものではない。皆で取り組めば、良い方法も見付かるし作業も進む。どうだ、これぞウルヴェーユを広く知らしめる意義だ、と一同を見回した。が、やはり反応は鈍い。彼が眉を寄せると同時に、リヒトが吐息を漏らした。

「ふむ。なんとも……落ち着かぬものですな、アルハーシュ様。王ならぬ者が王のごとき力を振るい、我らの魂を揺さぶる。理屈としては、路と標の何たるかを承知しておりますが。ともあれ、王のご決断やいかに?」

「むろん、すぐにも取り組ませよう。リヒト、必要な種籾を用意してやるが良い。ハディシュ、都の近郊で試験的に栽培する圃場を選定せよ」

 話が進むにれ、シェイダールは戸惑いを深めた。どうも王は、小規模な実験を想定しているようだ。誤解を正すべきかと口を開きかけたところで、ラウタシュが水を差した。

「それよりもまず、供物と祈祷の準備でしょうな」

「何を言って……」

 思わずシェイダールは呆れ声を上げたが、王に手振りで制され、ぐっ、と抗議を飲み込む。不満もあらわな世嗣の前で、王はラウタシュに向かってうなずいた。

「うむ。旱を弱め水を呼ぶ祭儀を執り行うよう、祭司長に使いを遣る。そなたはとりわけ早くに水が涸れそうな土地から改修を急がせよ」

「御下命、承りましてございます」

 置き去りを食ったシェイダールは呆然とした。なぜ王までが儀式などに頼るのだ。ウルヴェーユによる耐乾性の付与に賛成していながら、それをまともに活用しようとせずに。混乱する彼に、アルハーシュが不意にひたと厳しいまなざしを据えた。

「シェイダール。屈辱を堪え、祭司長に頭を下げよ。余と共に儀式を執り行い、神々の情けを乞うのだ」

「な……っ!?」

「さもなくば、民は旱をそなたの罪とするぞ。父と同じ目に遭いたいか」

 痛烈な一言が胸を刺した。シェイダールは喘ぎ、喉元を押さえて叫びを飲み込む。

 ――神様がいるとかいないとか、どうでもいいのよ!

 ヴィルメの叫びがこだまし、彼はぎゅっと目を瞑った。そうだ、どうでもいいのだ、大勢の民にとっては。災害を誰かのせいにして、憎しみと不安と苦しみを全部その者に押し付けたい、ただそれだけ。

(そんな愚かさを終わりにしたくて、俺はここまで来たのに。結局、膝を屈するのか)

 砕けそうなほどに歯を食いしばる。

「冗談じゃない」

 抑制した怒りがこぼれる。彼は決然と顔を上げ、挑むように声を張り上げた。

「それで良いのですか。アルハーシュ様、それに御三方も! 神々など関係なく、今までにも繰り返されてきた自然の変動だと、その目で確かめ記録を調べて結論を出されているのに、それを『神の機嫌を損ねたから』なんていう愚にもつかない理由で片付けられて! あなた方の理知と努力をすべて無視されるのを、黙って見過ごされるのか!」

 激しい言葉を叩きつけられ、王と長官らが驚きをあらわにする。反発は予想しても、こんな風に論を持っていかれるとは思わなかったのだろう。その隙にシェイダールは、大きく槌を振り上げて楔を打ち込んだ。

「俺はごめんだ! 神を信じようが信じまいが、人は本来、理性で現実を理解できるはずだ。不安や無知で目に覆いをされていなければ、取るべき行動が見えるはずなんだ!」

 しばし、沈黙が場を支配した。シェイダールは拳を握り締め、一人一人を順にじっと凝視する。最後に王を見つめ、目をそらさぬまま力強く語りかけた。

「戦いましょう、アルハーシュ様。人間を苦しめる試練に正面から立ち向かい、勝ちましょう。身を屈めて心をごまかし、人が死ぬのも諦めたふりをして、悪魔になぞらえた災害が通り過ぎるのを待つのはやめるんです。今の我々には武器がある。相手は強大ですが、無慈悲な一撃を受け止めて逸らすだけの盾がある。あなた方が、歴代の王や長官が、これまでずっと蓄えてきた知識、倦むことなく維持し改良してきた技がある!」

 敢えてウルヴェーユを持ち出さず、長官らが手がけてきた仕事を、自分たちの武器だと言う。その主張は確実に彼らの心を動かした。シェイダールはしばし口を閉ざし、一同の表情が変わってゆくのを確かめてから、今度はややうつむいて、低い声で告げた。

「必要とあらば、頭を下げて神に祈りましょう。でもそれは、他に打つ手がないからじゃない。神殿に気象を変える力があるからでもない。戦うための時間稼ぎになるからです」

 ――あなたにとっては祭儀なんてどうでもいいんでしょう……

(ああ、どうでもいいさ。そうとも、上辺だけ祈る真似をするぐらい、何でもない)

 ――神は在る。神は在らぬ。どちらも等しく成り立つのではないかと……

(人間の都合で救いや罰を与える神など在りはしない。だが一人一人が心に神を持つのなら、それを認め力を与えるのは、人を励まし支えることと変わらない。ならば)

「人が皆、戦う力を奮い起こせるように。自らの持てる力と知識を、頼もしい武具だと信じて前へ進めるように」

 そしていつか来し方を振り返った時、もはや迷信の杖などとうに打ち捨て、己が力で歩みを進めてきたのだと気付く、その日を目指して。

 シェイダールの強い願いが通じたのか、アルハーシュが瞑目し、そっと息を吐いた。三人の長官もそれぞれ思わしげに目を伏せ、沈黙する。書記官や従者らは完全に心を奪われたように、若い世嗣を見つめていた。

 長い沈黙の末に、王が決定を下した。

「良かろう。水乞いの祭儀は執り行う。だが同時に、水路の改修工事や、ウルヴェーユによる試みをも大々的に知らしめよう。我々には祈る以外の手立てがあること、そしてその成果を、祭儀よりも強く印象付けるのだ」

 シェイダールが破顔し、土地管理長官と財務長官も姿勢を正して拝命の礼をする。ラウタシュ一人が最後まで渋った。

「祭司長は神殿に対する挑戦であるとみなすでしょうな」

「事実そうではないか」

 くっ、とアルハーシュ王は笑い、楽しげに続けた。

「だが表向き和解を演出するために、傲岸不遜の悪名高い世嗣が折れて頭を下げると申しておるのだ。おかげで水利長官の功労が知れ渡るのだから、悪い話ではあるまい」

 揶揄されて、シェイダールとラウタシュ双方共に苦い顔をする。王は朗らかな笑声を上げ、活力の宿る目を世嗣に向けた。

「そなたはすぐにウルヴェーユに取り組め。上手くいけば近郊のみならず、広い範囲に種籾を配布させよう。そなたの故郷に届けて、母親や知己の命を救うことも叶うであろう」

 さりげなく添えられた一言に、シェイダールははっとなった。神殿がどうの民がどうのと大きな話に目を奪われていたが、水不足で飢饉になれば、故郷の村でまた何人もが死ぬのだ。それは顔見知りの誰かか、あるいは母ナラヤかもしれない。

(そうだった。俺は……もう誰も死なせないと決めたじゃないか。馬鹿げた生贄の儀式をやめさせるってだけじゃない。そんな儀式をしなきゃならない状況そのものを、打開しなきゃならないんだ)

 ぐっと顎を引き、決意を新たにする。彼の表情が改まったのを見て取り、王もまた強い意志を込めてうなずいたのだった。

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