九章

利便と堕落


   九章



高原地帯から雪解け水が流れ下り、ワシュアールの都を含む一帯に春を運んでくる。草木が芽吹き鳥が歌う頃、シェイダールは染物師の工房でしかめ面をしていた。

「やっぱり安定しないな」

 様々な色に染め上げられた糸の束を光に掲げ、ためつすがめつしながら唸る。横でヤドゥカも難しそうに、太い眉を寄せて思案していた。

「六色すべてを出そうとすると多種類の染料を使わねばならぬが、調合ごとに変わる上に褪色しやすい染料もある。上手くゆかぬものだな」

「宝石に頼っていたら、貧乏人には手が出ない。なんとかしたいんだがなぁ」

 うう、とシェイダールは首を振って糸を置いた。村の土産の色糸を見て、これは使えるのではと閃いたのだが、そう簡単にはいかないようだ。

「鉦にも苦労したが、こちらもてこずりそうだ。気長にやるしかあるまい。当面、大掛かりな装置にはいにしえの作法にならって耐久性のある石を用いることだな」

 ヤドゥカは言って、帯に挟んだ鉦に触れた。シェイダールも腕組みしてうなずく。

「ああ、どうせ大きなものはそう次々造れるわけでもないし。揚水機も構造はほぼわかったが、いざ造るとなると材料から何からつまずいてばかりだ」

 長官相手に大層な展望をぶち上げておいて、なかなか成果を上げられないのがもどかしい。アルハーシュも折に触れて助言をくれるが、膨大な『知恵』を読み解くのは難しく、なかなか活用できない。持ち腐れだな、と王は苦笑いし、そなたならばもっと上手く使えるだろう、などと仄めかすもので、シェイダールは彼の助言を求めにくくなっていた。

(アルハーシュ様はもうすっかり、俺に位を譲るまでの『つなぎ』の気分になっていらっしゃるようだ。俺の代で物事を変えていくために、地を均し水路を引き、蓄えを用意することしか考えていない。くそっ、気が早すぎるだろう!)

 シェイダールが悔しさから頭に両手の爪を立てたところへ、工房内を見回っていたリッダーシュが戻ってきて何気なく言った。

「順番を逆にしてみてはどうだろう? 色糸を用意して《詞》や音のよすがにするのでなく、まず《詞》で色を固定してしまうのだ。その上で音を載せ《詞》を重ねがけする」

 見る見るシェイダールは表情を明るくし、リッダーシュをがっしと抱きしめた。

「それだ! いいぞ、それならきっと上手くいく! ……って、ちょっと待て、じゃあ糸紡ぎからやり直しか? さすがにそこまでは手を広げられないぞ」

 喜んだのもつかのま、はっと気付いて従者を離し、困り顔で糸束を見下ろす。

 今でも既に、工房の染物職人、ザヴァイと奥方、加えて『柘榴の宮』の妃らにウルヴェーユの手ほどきをしている。神殿でも、前『鍵の祭司』を筆頭とする一派が『学究派』を名乗り、既に複数人、路を開いて標を辿り始めているのだ。その誰もが、何かあれば彼に相談をもちかけ、導きを求めてくる。この上さらに人数を増やしたら、彼一人ではとても手が回らない。

「弱ったな……とりあえず、白糸に《詞》を結び付けられないか試してみるか」

 考えながらシェイダールは、染色前の糸が置いてある棚へ向かい、一束手に取った。職人らに向き直り、それを持ち上げて見せる。

「ひとつ貰うぞ。そっちでも、今リッダーシュが言ったやり方で染められないか試してみてくれ。複雑な《詞》は扱えなくても、一色を定めるぐらいならなんとかなるだろう」

「畏まりました。染料のほうにも《詞》をかけられないか、材料や配合も引き続き工夫してみましょう」

 難題にひとつ手がかりができたので、職人らもまたやる気を出したようだ。シェイダールが今月分の支払いを渡すと、親方が中身をあらため、職人一同恭しく頭を下げた。

「世嗣様には御厚遇いただき、まことにありがとう存じます」

「厄介な仕事を頼んでいるのはこっちだ、もし不都合があれば遠慮なく言ってくれ。引き続きよろしく頼む」

 シェイダールは驕るでもなく丁寧に言い、親方と握手を交わして工房を後にした。

 王宮に戻る一行を、複雑な視線が追う。変革をもたらす若い世嗣とその仲間への、眩しげな期待。不安と警戒。へつらいと打算。

「煩わしいな」

 シェイダールがぼやくと、横につくリッダーシュがとぼけた。

「そう気難しい顔をせず、愛想良く笑って見せては如何です、我が君。少しは心証が良くなるやもしれませぬぞ。ザヴァイ殿と奥方の苦労も軽くなりましょう」

「馬鹿面をさらすのはごめんだ。それより、ザヴァイの奥方は筋がいいから、もし本当に糸紡ぎからやり直しとなったら協力を頼もう」

「ああ、それが良いな。現状、おぬし一人があれもこれも負っているから、少しでも手分けできる者が増えたら助かるだろう。女とは言っても、柘榴の……」

 そこでリッダーシュは小石につまずいたように、続きを飲み込んだ。王妃らは糸紡ぎなどしないから頼めない、と言いかけたのだ。同じ宮に一人だけ、幼い頃から糸紡ぎに明け暮れた女がいることを忘れて。シェイダールはわずかに顔を曇らせたが、それ以上の反応は見せなかった。ああ、と淡泊にうなずく。

「王宮の女には頼めないからな。たとえ誰かが糸と《詞》を縒り合わせられても、そのままずっとそれを仕事にしてもらうわけにいかない」

 そのまま彼は、何か言いたげな従者を視界に入れぬよう、前だけを見て歩き続けた。

 道すがら、否応なく行く手に聳える大神殿を意識させられる。祭儀がなくとも日々詣でる民が集まり、捧げものをして、我が身の安泰を祈る場所。そうやって人々が神殿を大きな存在へと成してゆく――のみならず、かほど巨大な神殿を建て、多くの神を祀るだけの力がこの国にはあるのだと誇示する役目もあるのだ。

 シェイダールは苦いものを噛みしめた。神殿を潰し祭司の特権を剥ぎ取るという決心は変わらないが、想像の中で大神殿を巨大な鎚で叩き潰した時、胸をよぎるのはもはや爽快な未来図ではない。残骸に群がりむせび泣き、あるいはすぐにも再建しようとする人々、別な神殿や偶像のもとへ走ってゆく後ろ姿だ。そして、そんな彼らの前に立派な神を用意して、羊の群を集めるように囲い込んでゆく何者か。

(強引に神殿を潰したところで、すぐに「神はいない」とわからせるのは無理だ)

 ヴィルメに抉られた傷は深く、彼の意志の根幹に達した。皮肉にも、結果として彼は楽観を捨て、人の考えを変えることの困難を直視するようになった。希望を胸に前へ前へとひたすら急ぐのではなく、以前よりも慎重に、しかしさらに強固な意志をもって。

(まずはとにかくウルヴェーユを広めて、皆が神頼みしなくても自分の力で様々な困難に対処できるよう、知識とわざを身に着けさせなければ。それに、祭司どもから特権を剥ぎ取った後で、新たな『神への仲介者』をつくらせないこと)

 一人一人が神を崇め祈り、祠に参ったり偶像を作ったりするのは止められない。だがそれを取りまとめて己の利益や権威にする者を生み出してはならない。

(できるんだろうか、そんなこと)

 ――否。やらねばならない。何としても。

 眉間をこすり、無意識に寄せていた険しい皺をほぐす。忍耐と理性と知識、そしてウルヴェーユ。これらによって人は神を頼らずとも自らの力で生きてゆけるのだ。

 彼は顔を上げ、決意を抱いて王宮への大階段を上っていった。

 警護の一団と別れて白の宮に帰り着くと、召使から来客が待っていると告げられた。入室したシェイダールは驚きに一瞬竦む。

「ツォルエン! いいのか、こっちに来て」

 小声でささやきながら、足早にそばへ寄る。元第三候補の少年は、こわばった顔に厳しい微笑を一瞬閃かせた。候補の立場から外れた後、彼は父親によって王宮から遠ざけられた。水利関連の勉学と現場での実技習得のため、という理由で領地に帰されたのだ。世嗣に取り込まれないよう距離を置くのが目的であるのは明らかだった。

「構わない。今、父は北部へ視察に出ているからな」

「ああ、大昔の水路があるんだってな。揚水機を建造する候補地の選定も兼ねていると聞いたが……おまえも連れて行くんだと思っていた」

 懸念を声に滲ませたシェイダールに対し、ツォルエンは反抗的な表情で鼻を鳴らした。

「親子揃って都から離れては、目と耳が届かなくなるではないか。火種に近寄るべからずとて、目を離すのは疎漏というもの。もっとも、父は私が自ら王宮に出向いたと知れば良い顔はすまいがな。稼働している揚水機と、多少なりとも構造や材に通じている技師がいるのはここだけなのだ、致し方あるまい」

「あくまでも技術的な確認と相談のため、というわけか。俺を訪ねるのは目的の内に入っていない……そう言って信用されるとは思えないがな。こっちに火の粉を飛ばすなよ」

「父の勘気を被ったとしても、貴殿に庇護を求めるつもりなどない。安心しろ」

 ツォルエンは素っ気なく言い、懐から小さな布包みを取り出した。手渡されたシェイダールは包みをほどく前から、微かな音を聞き取って目をみはる。

「これは」

 急いで中身を確かめ、ほう、と嘆息した。白や青、金色の美しい宝石だ。新しく削り出され磨かれたばかりの石。ひとつ手に取ると、込められた音と《詞》が感じ取れた。

「回転の動力……揚水機の歯車に使うものか。新しく作れたんだな。どうやって結びつけた? 待てよ」

 もう早速シェイダールは夢中になり、石から聞こえる微かなささやきに耳を澄ませ、色と《詞》の結び目を探してゆく。

「ああ、なるほど」

 石が持つ本来の色に、対応する音と《詞》を寄せて重ね合わせた上で、命令の《詞》をつなぐ。形作られた一連の鎖に、理の力が水滴のように伝っているのが視える。

「いいな。うん……いや、ここは違う」

 響きに心を浸し、無意識につぶやきながら、己の路を通じて理の流れを引き出し調和を整えてゆく。わずかな修正だが、明らかに音色が良くなった。

 ツォルエンが顔をこわばらせたが、シェイダールは気にせず石を包み直して返した。

「ちょうど知りたかったことがわかって助かった、糸にも応用できそうだ。宝石はこのままでも使えるだろうが、実際に建てる時に組み込みながら調整する必要があるだろうな。こっちの技師とは話が進んでいるのか?」

「まだだ。私は貴殿のように四六時中、色と音に耽溺していられる身分ではない」

 罵声のごとき返事は皮肉の域を越え、露骨な八つ当たりだ。シェイダールはかちんときたが、ぐっと堪えて発言の裏を推測した。

「相変わらずか、水利長官様は。資質があるのに路も開かず、ウルヴェーユよりも測量だの計算だの、果ては祭壇に供物をひとつでも多く捧げるほうが大事らしいな」

 水利長官の反発も理解はできる。世嗣が鼻持ちならない不信心者であり、その者が広めようとしているわざであるからウルヴェーユも信用ならない、よって息子にも学ばせたくない、というのだろう。それにしても極端だという気がしなくもないが。

 するとツォルエンはぎりっと唇を噛み、絞り出すように呻いた。

「……堕落だ」

「えっ?」

「父は、ウルヴェーユなど人を堕落させるものだ、と言うのだ。揚水機を造るのは良い、だが節度をわきまえ、安逸に走るな。日がな一日、便利で心地良いわざに魅入られて過ごすな、努力を怠らず忍耐力を養え、と……だから私は、貴殿のように好きなだけウルヴェーユに打ち込んではいられないのだ!」

 完全に予想外の言説を聞かされ、シェイダールは言葉を失った。絶句することしばし、ようやく相手が拳をあまりにも強く握り締めていると気付き、声をかける。

「何からどう言えばいいのか、混乱してるんだが……とりあえずちょっと力を抜け。前にも言ったろう、ウルヴェーユは他人と競うものじゃない。俺と比較したって無意味だぞ」

 ツォルエンは答えなかったが、ふっと息をついて拳を開いた。シェイダールはまだ困惑しながら、理解しかねる、と首を振る。

「堕落だって? 何を言ってるんだ、長官は。揚水機は良くてウルヴェーユは駄目だとか、矛盾してるだろう。路を辿って標を養っている様子が、惚けているように見えるのか」

「そうではない。ウルヴェーユのもたらす利便が人を堕落させる、と言っているのだ」

「おい待て、まさか」

 シェイダールは愕然とし、次いで怒りに頬を紅潮させた。

「きつい仕事が楽になったら怠けるから駄目だ、ってのか! ふざけやがって、水汲みの苦労も飢えの怖さも知らない奴が!」

「父は、享楽や怠惰を憎悪しているからな。旱魃や飢饉を乗り越えるため治水をおこなう努力は良しとするが、その結果、楽に豊かな実りが手に入るようになれば、必ず人は神々への畏敬を忘れて堕落する、だからウルヴェーユを安易に使うな、と」

 ツォルエンは屈辱に顔を歪めて父親の説教を繰り返す。

 本来ならば厳しく苦しい労働の末に得られる糧を、天から降らされるたやすい恵みと勘違いして粗末にするだろう。苦難に耐えて励むことを厭い、便利なわざによって生み出された恩恵をただ座して貪るようになるだろう。骨折り、労を費やし、困難に耐えてこそ真に糧たるものを得られるのだ。一声発するだけで得られるものに何の価値があろうか。

 そこまで言って彼は唇を噛み、うつむいた。シェイダールは頭の芯が痺れるほどの怒りに身を震わせ、同時に納得した。資料庫での際どいやりとりを思い出す。

(ああ、だからか)

 そんな信条だから、王に容赦なく一国すべての重みを載せようとするのだ。誰よりも高い地位にいるからこそ、最も困難な責務を負い、耐えるべきであるとして。

(俺に反発するのは、神々への信仰や、縁戚関係で神殿とつながりが強いってだけが理由じゃない。高慢で冷酷無慈悲な『主義』に反するからか。くそ下らない!)

 シェイダールは唸ると、大股に小卓のところへ行って水を注いだ。リッダーシュが止める間もなく、一息に飲み干す。ガン、と荒っぽく杯を置いて数呼吸。どうにか気を静めると、彼はツォルエンのそばに戻った。

「そんな環境で、おまえはよくやってる。知らせに来てくれて助かった、ほかになければもう技師連中のところへ行ってくれ。俺も後で、おまえとは関係ないふりで揚水機の方へ進み具合を見に行こう」

 誰がラウタシュにご注進するかわからない以上、二人一緒に技師らと打ち合わせをすることはできない。シェイダールの配慮に、ツォルエンは「承知した」と短く応じ、人目を憚りながら宮を出ていった。

 その後しばらくシェイダールは苛々と室内をうろつき回り、憤懣を静められず柱に八つ当たりした。拳を打ちつけ、舌打ちする。

「くそ、水利長官め、俺が王になったら毎日煉瓦作りをさせてやろうか」

 それでもまだ堕落だとか言うなら見上げたものだが、そこまで行くともはや信念を通り越して狂気の沙汰だろう。忌々しい。奥歯を砕けそうなほど噛みしめて癇癪を堪える。

 そこへ、リッダーシュがそっと声をかけた。

「怒りはもっともだが、ラウタシュ様の言にも一理あるぞ。いや、賛同はせぬ」

 あるじがすさまじい形相で振り向いたもので、彼は急いで言い添えてから続けた。

「世間には、他人が楽をするのは許せないという者が少なからずいるということだ。隣で同じ苦役に耐えていた者が一人だけ解放されたら、妬むだろう? 養ってやっている使用人が楽な仕事しかせず遊んでいたら、もっと働けと笞をふるう主人もいるだろう。飢えや危険が遠ざけられても、その恩恵が人を幸せにするとは限るまい」

「楽になった分、別の苦しみが増えるだけだ、ってわけか」

「だから無駄だ、とは言わぬぞ。ウルヴェーユが大勢を救うことは間違いない」

「ああ」

 シェイダールは沈痛にうなずいた。堕落だなどという話が出るのも、生き延びられてこそだ。飢饉、病、過酷な作業による事故。死はあらゆるところに貪欲な口を開けている。逃れようとあがく仲間によってその中へ蹴り落とされることも含めて、ウルヴェーユが解決できるはずだ。

(今に見ていろ、黙らせてやるからな)

 彼は拳をかため、水利長官の顔を想像の中で叩き潰してやった。


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