差し伸べられる手


 腑抜けた状態がどれほど続いただろうか。シェイダールは日にちの感覚すら曖昧になって、放心したまま時をただやり過ごしていた。意欲も集中力も、思考さえも失ったきり。

 昼も夜も区別がつかぬままに何日か過ごした後、ふと、胸に小さな望みが芽生えた。

 ここを去って、どこかに行きたい。

 何ひとつ持たず、裸足で荒野の果てまでも――

 ゆらりと立ち上がり、部屋を出る。眩しいほどの星空が頭上に広がっていた。刺すような冷気が身を包んだが、寒いと感じられず立ち尽くす。明確な目標もないまま、彼は足の向くままに歩きだした。

 辿り着いたのは、王宮を囲む城壁の上だった。さすがに門が閉ざされていると判断する力ぐらいは残っていたようだ。そうだよな、出て行けやしないよな、と自分のものでないような思考が頭の隅をよぎる。彼は座り込んで胸壁に背を預け、空を見上げた。

 息をつくと、視界が白く煙る。足音が近付いてきて、ばさりと重い毛布が身体にかけられた。続いて隣にごそごそと温もりが潜り込み、毛布を首まで引っ張り上げる。

 リッダーシュか、ご苦労なことだ――相変わらずどこか遠いところで思考が瞬く。忠義な従者は肩をぴったり寄せ、暖を逃すまいと縮こまっているが、歯がカチカチ鳴って耳障りだ。と言って立って離れるのも億劫で、シェイダールは黙って星を眺め続けた。

 遙か彼方、宇宙の深淵から微かな歌が聞こえる。

(どうでもいい、か)

 遠ざかっていた思考が、ひらりと羽毛のように舞い落ちた。昔の記憶が次々によみがえり、ひとつまたひとつと天の星になる。

(あいつはどうして、俺のそばにいたんだろう)

 神などいない。誰にも受け入れられない主張を続けて譲らない幼馴染みを、憐れんだのだろうか。ただ「独りぼっち」な罪人の子に対し「味方をしなきゃ」との義務感から寄り添ったのだろうか。その結果得られる特別な立場が心地良かったのか。

 恥ずかしそうに指を絡め合ったのも、初めての口づけも、身体を許してくれたのも。

(俺が孤独で、ちょっと見目が良かったから、ってだけで……神を否定しようが、いっそ邪神を崇めていようが、構わなかったわけか)

 自嘲が口元をかすめた。じわりと感情が戻ってくる。悔しくてみじめで、歯を食いしばる。頬を伝い落ちた雫がやけに熱い。村での歳月、ヴィルメが心の支えであったことを思い知らされた。母にさえも否定された考えを、たった一人認めてくれた彼女が、どれほど生きる意欲を掻き立ててくれていたか。

(全部、俺の勝手な思い込みだったんだな)

 不思議と怒りや憎しみは感じない。むしろ彼は淡泊に、悪いことをした、と思った。

 ヴィルメは俺を理解してくれる、肯定し受け入れてくれる。

 勝手にそう思い決めていたせいで、彼女が本当に望んでいるのが何なのか、ついに気付けなかった。「あなたのため」の背後にある独善的な優越感を薄々察していたのに、彼女にとって彼の信念が「どうでもいい」位置付けであるとまでは、夢にも思わなかった。

 はあっ、と深く息をつく。落胆してはいたが、どこか突き放した心境だった。いつしか涙も乾いている。

 何もかも済んでしまったことだ。取り返しはつかない。

(ジョルハイがいつでも宮を訪ねられるように、話を通しておこう。祈祷でも祝福でも、望む時に受けられるように。今さら他の祭司に頼むより、知り合いのほうがいいだろう)

 他人に対するよそよそしい思いやり。今やシェイダールの心はそこまで離れてしまっていた。恨みはないが、愛もない。ヴィルメはもう、女として妻として幼馴染みとして、温かい情を抱く対象ではなくなっていた。

(……終わった、な)

 感慨もなく得心する。地に落ちた雨粒が土に染みこむ、当たり前の現象のように。

 星を仰ぐと、美しい紫の響きが内なる路を優しく照らした。同時にようやく、骨まで冷え切った尻や背中の痛みを自覚し、顔をしかめる。シェイダールは身じろぎし、ここしばらく一言も発していなかった唇をぎこちなく動かした。

「うう……おいリッダーシュ、こんな寒い中、わざわざ星見に付き合うなんて、物好きにもほどがあるぞ」

 さしも温厚なリッダーシュも、これにはさすがに険悪な唸り声を返した。

「放っておけるわけがなかろう! 世嗣を凍え死なせようものなら私も縛り首だ。第一、明らかに失意のどん底にある友が夜中に出て行くのを、黙って見過ごせるものか! 身投げする気かと肝が冷えたぞ。気が済んだのなら部屋に戻ろう。このまま夜明かししたら、朝には揃って城壁の一部になってしまう」

 歯を鳴らしながら早口に言い、さあ、と立って手を差し出す。シェイダールはそれを取り、こわばった節々を軋ませながら腰を上げた。

 せっかく上まで登ったのだからと、降りる前に街や王宮を見渡す。黒い塊となってうずくまる建物の影に、ぽつぽつと灯る明かりは人の営みの証だ。シェイダールはそれら暖かな光を見つめ、次いで夜空を見上げた。高く遠く、荘厳で透徹な冷たい光。

 異なる光の囁きにしばし耳を澄ませ、彼は友人を振り返った。

「おまえは、神の実在を信じているか?」

 いきなりの問いかけに、リッダーシュは目をしばたたく。同じ星空を仰ぎ見てから、彼は「ああ」と深くうなずいた。

「伝え語られる姿や説話、あるいは神殿の求める祀り方が、正しいかどうかはわからぬ。だが神は確かに在られるよ、シェイダール」

「俺は、神などいないと信じている」

「それもまた真実だろう。おぬしが否定しているのは『神』のありようのうち、ひとつだけだ。私の心にある確信を否定するものではない」

 穏やかに、気負わず強弁せず、リッダーシュは微笑んで言う。

「神は在る。神は在らぬ。……どちらも等しく成り立つのではないかと、おぬしを見ていて思うようになった。さあ、続きは明日にしよう。火鉢のそばで、熱い湯で割った蜂蜜入りの葡萄酒を飲みながら」

 言葉尻でくしゃみをし、ほら早く、と手招きする。シェイダールは当惑しながら、彼について階段を降りた。

(こいつには勝てないな)

 参った、と密かに首を振る。弁舌巧みに論破するでもなく、枉げず譲らず不動の意志を貫くでもなく。いつもしなやかに受け止め、それでいて変わらない。

(俺にこんな柔軟さがあったら、ヴィルメとの関係も違っていたんだろうか)

 ちくりと胸が痛んだが、それもわずかな間のことだった。もう遅い。否、そもそも最初から間違っていたのだ。彼はぶるっと震えると、腕をこすりながら部屋へ戻っていった。


     *


 少しずつ日が長くなり、厳寒の中にもやがて来る春の兆しが見えはじめた頃、アルハーシュ王が再びヴィルメの部屋を訪れた。

 今回は予告があったので、ヴィルメももてなしの準備ができた。部屋を片付け、酒肴を用意し、シャニカのむつきを替えて機嫌を取っておく。甲斐あって、王は幼い姫に笑顔で迎えられ、早速相好を崩した。

「少し見ぬ間にひと回りは大きくなったか? うむ、重くなったな。おおよしよし」

「あー、うぅ」

 抱き上げてくすぐったり、よちよち歩きの後から転びはせぬかとついて行ったりと、王はすっかり赤子の虜になっている。ようやく落ち着いた王が絨毯に腰を下ろすと、ヴィルメはためらいがちに話を切り出した。

「アルハーシュ様ご自身の子が生まれたら、どうなりますでしょうね。今でもこんなに、シャニカに夢中でいらっしゃるのに。ラファーリィ様にも白石を使われたのでしょう?」

 アルハーシュは即答せず、黙って彼女にまなざしを据えた。赤子にうつつを抜かしていても、やはりその目は洞察力に富んでいる。ヴィルメが礼儀としてだけでなく、見透かされる恐れから顔を伏せると、王はゆっくり答えた。

「ラファーリィだけでなく妃らは皆、路を開かれておる。子を生せるかどうかは、まだわからぬが……あるいは生すべきか否かも。女児ならばいずれシェイダールの妃に加え、地位を固める役に立とう。だが男児であれば火種になるやも知れぬ」

 あ、とヴィルメは声を漏らし、己の浅慮に気付いて口を覆った。世嗣たる夫の地位権力は盤石ではない。彼に王位を譲りたいアルハーシュが、個人的な望みを殺して子を諦めているかも知れないのに、無遠慮なことを言ってしまった。

 彼女が頭を下げるより早く、王がふっと笑みをこぼす。

「だがともあれ、ラファーリィは喜んでおった。余と同じくいにしえのわざに触れ、色と音のさざめく世界を共に歩めて幸せだ、とな」

 愛しい妃の偽らぬ喜びを久方ぶりに見られて、アルハーシュもまた嬉しそうだ。ヴィルメは尖った石を飲み込んだように呻き、胸を押さえた。後悔と嫉妬で息が詰まる。

(わたしはちっとも喜べなかったのに)

 あの女は違ったのか。それとも、本当は煩わしいのに王の歓心を買うべく嘘をついたのか。どちらにしても、己とは格が違うのだ。資質の優劣も、女として妻としても。

 ヴィルメは細く息を吐き出し、なんとか姿勢を正した。

「夫は何も教えてくれないのです。他のお妃様方がどうであるのか、次は無事に子を産めるのか……」

 そこまでで堪えて口をつぐむ。相手は王なのだ、「そなたは我が娘」とまで言ってくれたからとて度を越してはならない。唇を噛んだと同時に、己の内なる路が不意に明瞭に感じられてどきりとする。顔を上げると、アルハーシュが考え深げに眉をひそめていた。

「うむ……恐らくあれは、そなたに憂いや不安を与えまいと慮ったのであろう。そなたの路は薄く脆い。色と音を感じ取られはしても、理の深淵に降りることは能うまい。ましてや、いにしえの遺物に触れて力を引き出そうなどとすれば路が破壊され、正気か命か、その両方をか、失うやも知れぬ」

 思いがけない警告を受け、ヴィルメは青ざめた。『力の通り道』が薄くて脆かった、とは知らされたが、それが具体的にどういうことを意味するのか、夫は何も教えてくれなかった。怖がらせまいとして? だとしても不誠実ではないか。

 アルハーシュは続けて言う。

「むろん白石の術によってそなたの路は保護されておる。安心するが良い、これまで通りの生活に支障はない」

「だから、ですか」ヴィルメは堪えきれず、喉をふさぐ棘を吐き出した。「わたしでは、話にならない、相手にならないと、そういうこと、ですか」

 声が震えて涙が落ちる。結局どうやっても、己ごときでは特別な夫の特別な妻にはなれないということか。だから彼は、娘の相手はしても妻には何も言わないのか。命にかかわる大切なことさえも。

「シェイダールがそなたにつらく当たるのか」

 王が懸念顔で問う。その膝の上から、シャニカも母を心配そうにじっと見ていた。

「いいえ」ヴィルメは首を振る。「いいえ……むしろ、優しくなりました。いつでも祭司様を呼べるようにしてくれたり、村への便りはないかと訊いてくれたり。でも、……わかるんです。あの人はもう、わたしを想ってくれていない!」

 手で顔を覆い、すすり泣く。夫がこちらを見る目のなんと遠いことか。あの日以来、彼は触れてくれなくなった。口づけひとつなく、髪に指を絡めさえもしない。

「シャニカがいる限り、追い出されはしないでしょう。この子の母として必要だから置いてくれるでしょう。……それで満足しなければなりませんか」

 苦悶に喘ぎ切々と訴えかけながらも、心の片隅で己に対する冷えた軽蔑が生じた。

 シェイダールにとって『神』との戦いがどれほど大切なことか、ずっと見てきてよく知っていたくせに。だからこそ愚かにも憎み破壊しようとした。わたしを見て、と言いたいがために。己のしたことを棚に上げ、夫が信頼する王に讒訴するなんて。

 だがそんな自覚は、突き放された悲しみと屈辱、捨てられるのではないかという不安の土砂崩れにあっけなく呑まれ、気配の漏れ出る隙間もなく埋もれた。

「アルハーシュ様。わたしはどうすれば良いのでしょう。このままずっと耐えて暮らすしかないのでしょうか」

 王が答えるまでに、長い沈黙があった。シャニカが困ったようにもぞもぞし、えいと立ち上がって母のもとへ向かう。

「かーしゃ、ないない」

 呼びながら小さな手を伸ばし、母の頬に伝う涙を不器用に拭う。かーしゃ、と何度も繰り返すうち、シャニカのほうが泣きそうになってきた。ヴィルメはなんとか笑みを作り、娘を抱き上げる。

「ごめんなさい。大丈夫よ、母様は大丈夫。ほら、ね」

 にっこり笑いかけると、シャニカもほっとしたように頬を緩める。母娘の様子を見ていたアルハーシュが、そっと嘆息した。

「げに、女とは……」

 ぽつりとこぼれたつぶやきに、ヴィルメは濡れた目を瞬かせる。物問い顔の彼女に、アルハーシュはひとつ咳払いをして言った。

「ラファーリィがそなたを案じておったぞ。姫を誰にも預けようとせず、一人ですべてを抱え込んでいるようだ、とな。あれに対して色々と思うところもあるだろうが、言伝を預かってきた。……今は娘を健やかに育てることだけを考え、笑顔を絶やさぬように。夫婦の仲は『もうおしまいだ』と思う時があっても、歳月が再び結び合わせてくれる。そなたとシェイダールは共に若い。焦らず絶望せず、互いに成熟するまで、大切なものを失わぬよう堪えてつとめを果たしなさい。……役に立つ言葉であったか?」

 穏やかに伝えられた内容に、ヴィルメは不本意ながらも悲嘆が和らぎ、前向きな気力が湧いてくるのを感じた。王妃から直接言われたなら、反発を感じるだけだったろう。王の口を通すことで、助言はすんなりと心に届いた。

「もったいないお心遣い、感謝いたします。……アルハーシュ様も、もうおしまいだ、と感じられたことがおありなのですか」

 おずおずと問いかける。これほど寛大で包容力のある男を夫にしていながら、夫婦仲が破局を迎えかけるなど信じられない。だが王は苦笑してうなずいた。

「かつては余も若かった。こうして妃のことを心穏やかに話せるようになるとは、とても考えられぬ日々もあったのだよ。しかしつくづく、女とは驚嘆すべきであるな! か弱いと思えばしたたかで、恐ろしいほどの観察力と洞察力を見せる。これで女たちがウルヴェーユをも修めたなら、この国は大きく変わるであろうよ」

「そうでしょうか」

 ヴィルメは我が身を思って気弱な微笑を返す。王は力強く応じた。

「うむ。ウルヴェーユが広く人々のものとなれば、男女や生まれにかかわらず、各々が自らの力を発揮できる日が来よう。官吏や長官にも女が就くやもしれぬ。そなたの夫は後の世に解放者として称えられるであろう。誇るが良い、ヴィルメ。そなたはその最初の妻となり、娘を授けたのだから」

 アルハーシュが語る未来を、ヴィルメは呆然と聞いていた。シャニカが生きてゆくのはそんな時代なのだろうか。この子が今の自分の歳になる頃には、夫や家に縛られることもなく自由に羽ばたいてゆけるのだろうか。ならば、それまでは。

(この子を守って生きよう。この子の未来のために)

 夫の愛が醒めたと嘆くまい。彼が新たな時代を拓くというのなら、娘を無事にそこまで送り届けてやらなければ。そして、己と違って恐らく資質に恵まれている娘に、光り輝く人生を与えてやるのだ。

「はい。……はい、ありがとうございます」

 ヴィルメは娘を抱きしめ、決意と共にうなずいた。


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