どこまでも暗く


 職人の仕事場を堪能した後、ヴィルメへの土産に小物入れを買い、シェイダールと従者は帰路についた。実用的で洒落っ気はないが、細々した綺麗なものに囲まれているヴィルメには役立つだろう。それに、何でも開けたり引っ張り出したりするのが大好きなシャニカの、いい玩具になるかもしれない。幸せな予想にそっと微笑み、彼は両手に白い息を吐きかけた。

 猥雑な活気のある通りを歩いていると、数人連れの神官とすれ違った。平神官の一人がはっとして祭司の袖を引く。シェイダールは小さく舌打ちして足を止めた。

 面倒になるかと身構えたが、幸い神官らは無視することにしたらしく、そのまま通り過ぎて行った。リッダーシュが警戒を解き、ほっと息をつく。

「二人だけで来たのは正解だったな」

「ヤドゥカは渋ってたがな。あいつ、自分は平気でふらっと街の食堂へ行ったりするくせに、俺が外に出たいと言ったら兵士の行列を組みたがるのは何なんだ」

 シェイダールがぼやく。リッダーシュは失笑し、咳払いでごまかした。

「アルハーシュ様直々に、世嗣殿の警護隊長を仰せつかったのだ。疎かにはできまいよ」

 悪戯っぽくちらりと目をやった路地に、兵士の影がある。シェイダールは同じ所を見ないようにして、歩みを再開した。

「ゆくゆくは、ヤドゥカに近衛隊長を継がせたいとお考えなんだろうな。今から規模の小さな部隊で練習させておこうってわけか。おまえがいれば充分なんだがなぁ」

 最後の一言に、リッダーシュが驚いて地面につまずいた。照れた苦笑を浮かべつつ「そうもゆかぬよ」となだめる声が嬉しそうだ。木漏れ陽のような黄金が瞬く。

「もったいなきお言葉、身に余る光栄でございます。なれど万が一にも御身の損なわれることがあれば、我が命をもってしても償えるものではございませぬ。……実際問題として身の安全もさながら、近衛兵というのは地位と権威を守るものだからな。高位の神官がお供をぞろぞろ従えているのと同じだ」

「馬鹿馬鹿しい。そうやってお高く止まって人垣で視界を遮っているから、見るべきものが見えず、聞くべき声が耳に届かないんだ」

 シェイダールは傲然と言い放ったが、じきに小さく首を振った。

「まぁでも、今は護衛が必要だって点は認める。まさかいきなり神官が杖を振りかぶって襲いかかってきたりはしないだろうが、妙な考えを吹き込まれた奴が先走らないとも限らないからな」

 祠で第一候補を亡き者にせんとした、ショナグ家の男のように。ねじくれた骸をまざまざと思い出してしまい、彼は眉間を揉んだ。

 シェイダールの宣言とアルハーシュ王の決断は、神殿と王宮の間に明白な亀裂を生じさせた。世嗣の承認と祝福を神々に、即ち神殿に乞うていたならば、話は違ったろう。だが供物を捧げよと要求にきた祭司長を、シェイダールは敢えて強硬に拒んだのだ。

 人に供物を求める前に、何代もの王を誤った儀式で無残に殺してきた事実をまず認め、赦しを乞うべきではないか。己が罪から目を背ける者に神々への仲介など頼まぬ――と。

 激怒した祭司長からは痛烈な呪いを吐きかけられたが、後日、アルハーシュ王が個人的な祈祷の形で天空神に捧げものをすることで、表面的には決裂が回避された。しかしそれ以来、神殿はあからさまに世嗣を敵視するようになったのだ。

 先鋭的な世嗣と、頑なな守旧派の祭司長。両者の対立に、穏健な現王と、神殿内に生まれたウルヴェーユを学ぶ柔軟な一派とが、板挟みになっている。ある程度は計算して作り上げた構図だが、芝居ではなく現実である以上、日々の緊張に心がささくれ立つのは避けられない。シェイダールが無意識に胃の辺りを押さえながら王宮への大階段を登っていると、少し先にいた男が踊り場で振り返り、あっと声を上げた。

「シェイダール様!」

 呼ばれて顔を上げ、はて誰だったかと訝りつつ足を急がせる。追いついたところで、男の人相と深緑の声が記憶に一致した。村への便りを託した使いだ。

「帰ってきたのか! どうだった、無事に伝えられたか? 村の様子は」

 シェイダールは性急に詰め寄ってから、相手が砂まみれであるのに気付いて下がる。土産をねだる子供のような振る舞いを恥じて、今さらながら体面を取り繕った。

「っと……悪い、長旅ご苦労だった。先に疲れを落としてから、話は後だな」

「もったいないお心遣い、かたじけのうございます。ですがそれほど心待ちにされていたものを、なおも引き延ばされずとも」

 使者は温かな笑みをこぼしたが、では、と甘えられるほどシェイダールは素直でない。強引に、いいからゆっくり休め、と押し切ってしまった。

 しばしの後、『柘榴の宮』の一室に使者と世嗣夫妻が顔を揃えた。シャニカの守りは侍女に任せ、二人は使者に向かい合って報告に身を乗り出した。

「お二人からの使いだと言うと、村じゅう大騒ぎでしたよ」

 使者は笑って、まず土産の包みを解いた。素朴な櫛、鮮やかな色糸。干し棗。小さなお守りの石像は幼子の成長を願うものだ。

「ヴィルメ様のご家族からです。シェイダール様のご母堂も何か持たせようとしてくださったのですが、冬の貴重な食料を頂くわけには参りませんので、固辞いたしました」

「ああ、それで良かった。母さんは元気だったか? ちゃんとまともな暮らしをしている様子だったか」

「はい、……実は再婚しておいででした」

 思わぬ報せを受け、夫婦は揃って驚きの声を上げる。まさか、と剣呑な顔つきになったシェイダールに、使者は急いで続けた。

「シェイダール様の伯父君に当たる方が、二人目の妻として迎えられたそうです。ご本人も納得の上でのことだから心配せぬように、と言付けられました。シェイダール様のおかげで租税が減免されたので、暮らし向きは楽だとも仰せでしたよ」

「……そうか。そうだな、ずっと独りでいるよりは、それがいいだろうな」

 少なくとも、これでもう村の祭司は手が出せまい。安堵と寂しさの相まった複雑な吐息を漏らしたシェイダールに、使者は居住まいを正して告げた。

「ご母堂からのお言葉です。『第一候補に選ばれたと聞き、驚きながらも、あなたならば不思議はないと納得しています。母のことはもう振り返らず、前を向いて進みなさい。身体を厭い、頑なにならず人の言葉に耳を傾け、良き王となられますように。あなたを称える声がこの村に届く日を心待ちにしております』」

 使者の語る声に母の面影が重なる。優しく厳しく、常に毅然としていた強い母。シェイダールはつかのま目を瞑って追憶に耽った。傍らでヴィルメが懐かしそうにささやく。

「ナラヤおばさん、相変わらずね」

「ああ。母さんらしいよ」

 視線を交わして微笑んだ夫婦に、使者も満足げな笑みを広げた。

「さすがはシェイダール様のご母堂であらせられると、私めも敬服いたしました。実に立派なご婦人ですな。母親ぶることもなく、孫の顔が見たいともおっしゃらず、ここが引き際とけじめをつけられた。しかし、これが娘の親となれば話が違いましょう」

 ごほんと咳払いして、今度はヴィルメに向き直る。

「ご両親はいささかわだかまりがある様子でいらっしゃいましたが……強引に村を出られたようですね? 祖母殿が代わりに遠慮なく根掘り葉掘りお尋ねになって、いやはや、しゃべりすぎて喉が嗄れるかと思いました」

「ごめんなさい」

 ヴィルメは真っ赤になって縮こまった。田舎者の野次馬根性丸出しなところを見られてしまった、立派な母と感心されるナラヤと違って己の家族ときたら! 苦労して宮の女らしい立ち居振る舞いを身に着けたというのに、懸命に装った上辺を、故郷の親族に剥ぎ取られてしまうとは。羞恥を通り越して腹立たしくなる。だが彼女のそんな虚栄心を、使者はまったく気にかけなかった。

「良いご家族ですね。深い愛情を注がれていらっしゃるのがよくわかりました。土産も、本当はもっとあれもこれもと仰せられたのですが、運びきれぬし、大荷物になって道中で追剥に目を付けられては元も子もないと、厳選して頂きました」

「ありがとうございます」

 ヴィルメは礼を言ったが、まだ気持ちがおさまらず、土産を手に取ろうとしない。どれが誰からのものか、どんな言葉を添えて渡されたか、使者が伝える間も、上品ぶったよそよそしさで聞いていた。

 使者は村の様子を語り終えると、シェイダールの許しを得て、では、と立ち上がった。

「また御用の折にはいつでも仰せください。私共は王の目となり耳となるべく、王国のどこへでも参りますゆえ」

 一礼し、使者はきびきびと己の持ち物を片付けて部屋を辞する。途端に、大人たちの話が終わったと見て、軽い足音がとてとてやって来た。シェイダールが向き直ると同時に、シャニカが腕の中に倒れ込む。

「とーしゃ!」

「ああ、父さんだよ、シャニカ。退屈したか? よしよし」

 ひょいと抱き上げて掲げ、鼻で腹をくすぐってやる。きゃあ、とシャニカが歓声を上げた。父子のじゃれあいに、ヴィルメも楽しそうに笑う。明るい若葉の緑色が弾み、シェイダールとシャニカは揃って振り返った。

「あー、あ」

 シャニカが嬉しそうに小さな口をいっぱいに開き、色を合わせるように声を発する。シェイダールは胡坐をかいた膝に娘を下ろし、路を意識して己の声に色を載せた。

 穏やかな一音を伸ばし、娘に投げかける。シャニカは菫の瞳をぱちぱちさせて、たどたどしく「あぁー」と別の音を返してきた。さすがにまだ、声本来の色と異なる色は載せられない。代わりにシェイダールが相応の色を載せて歌い返す。そんなたわいない遊びに、シャニカはすっかり夢中になった。長く短く、高く低く、様々に歌い音色を求める。次第にヴィルメの笑みがこわばり翳ってゆくのに、父子は気付かなかった。

 いつまでもシャニカが飽きないので、ヴィルメは痺れを切らせて横から割り込んだ。

「シェイダール、見て。きれいな色糸。村では染色なんてほとんどしていなかったのに、大事な買い置きを出してきたのかしら」

「そうかもな。ほらシャニカ、おまえのお守りもあるぞ」

 小さな石像を取って、シェイダールは娘の手に持たせる。シャニカは不思議そうにじっと像を眺めていたが、案の定、じきにそれを口へ持っていった。

「こら、それは舐めちゃ駄目だ」

 シェイダールは苦笑しながらやんわりと取り上げる。その様子に、ヴィルメは安堵していいのかどうか窺うような微笑を浮かべた。

「怒らないのね」

「赤ん坊のすることだぞ、怒ってたらきりがない」

「そうじゃなくて。お守りなんか無意味だ、って投げ捨てるんじゃないかと思ったわ」

 少なくとも、村にいる頃の彼なら確実にそうしていただろう。本人も自覚があるので、曖昧な表情で手の中の神像に目を落とした。

「……まぁ、いいんじゃないのか。こんなもの、何の効果もありはしないが、なんて言うか……シャニカの無事を願ってくれた真心は、ありがたいと思うよ」

 もごもごと歯切れ悪くごまかす。ヴィルメは灰色の目をみはり、ぱっと輝く笑顔になると、夫の肩をつついてからかった。昔の幼馴染に戻ったように、粗野だが開けっ広げで快活な声が飛び出す。

「その言葉、皆に聞かせてやりたいわ! あのシェイダールがこんな殊勝なことを言うなんて、ナラヤおばさんが目を回しちゃう。子を持つと人は変わる、って本当ね!」

「やめろよ」

 シェイダールは苦笑いでいなした。心境の変化は、子の存在だけではない。あの儀式の夜、自然に芽生えた思い――亡き父が止めてくれたのか、というそれは、彼の中にすんなりとおさまっていた。この世ならざるものが助けてくれたという証拠などない。確信もない。それでも、自然にそう考えられたことが、緩やかな変化をもたらしていたのだ。

 シャニカが父の胡坐から這い出して、今度は母の膝に甘えた。ヴィルメはすっかり慣れた手つきで娘を抱き、ゆっくり揺すってあやしながら、さりげない口調で切り出した。

「ねえ、シェイダール……本当なの? あなたが祝福を拒んで神殿と対立しているって。色んな人から聞いたわ。ただ一人のお世継ぎなのに、神々に捧げものをしようとしないから、祭司長のディルエン様がものすごくお怒りだ、って」

 話題が剣呑なほうに向かおうとしていると察し、シェイダールは眉をひそめた。彼が牽制するより早く、ヴィルメは娘を抱いたまま身を乗り出した。

「ふりだけでも我慢できない? あなたにとっては祭儀なんてどうでもいいんでしょう。このままじゃ、シャニカも困るのよ。何かあっても祈祷を受けられないし、節目の祝福も授けてもらえないわ」

 今なら言うことを聞いてくれるかもしれない。お守りの像を受け入れた今なら、娘のために己の信条をげてくれるかもしれない。ヴィルメのそんな期待が露骨に感じられて、シェイダールは不快になり、むしろ逆に昔の頑なさを引っ張り出してしまった。

「必要ないだろ、そんなもの。何も変わりやしないのに、祭司をつけ上がらせるだけだ。節目の祝いは、祭司も神官も抜きでするさ」

「そんなことで、もしシャニカに災いが降りかかったらどうするのよ!」

 耐えきれずヴィルメが声を大きくする。シャニカがぎくりと身をこわばらせ、母の腕の中でぎゅっと縮こまった。シェイダールが身構えると、彼女は矢継ぎ早に畳みかけた。

「ここで生きていくのに、神々の祝福を受けられないことがどれだけわたしとこの子の立場を悪くするか、少しは考えてくれてもいいんじゃないの? 約束したじゃない、わたしとシャニカを家族として大切にする、って!」

「約束は守る。いい機会だ、おまえとシャニカを俺の部屋の近くに移せないか……」

「違うのよ! まだわからないの!?」

 とうとう、ヴィルメが爆発した。溜め込んできた不満、不安と怒り、孤独。それらすべてが、たったひとつの元凶を串刺しにして突き上げる。

「ちゃんとあたしを見て! あんたはいいわよ、きれいな色と音を毎日追いかけていられるもの。だけど現実を見て、あたしたちを取り巻く状況をちゃんと知って、必要な妥協をして! あたしとシャニカを本当に大切にする気があるなら!」

 宮の女としての取り繕った口調ではない、悲痛で切実な、限界まで引っ張られた布が裂けていくような叫び。シェイダールは愕然と竦んだ。

 またやってしまったのか。

 胸をよぎったのは後悔だった。二人目が流産したあの時、ちゃんと守ると決めたのに。気付けばまた彼女を置き去りにして、ずっと堪え忍ばせてしまったのか。

 衝撃と悔悟の合間にちらりと、もっと早く言ってくれたら俺だって、という恨み言が浮かびかけたが、口にするだけの猶予はなかった。夫の沈黙を不服か無理解と取ったヴィルメは、ついに最後の一撃、放ってはならない必殺の槍を全力で投げつけたのだ。

「神様がいるとかいないとか、どうでもいいのよ!!」

 無形の槍は、過たず急所を貫いた。

 世界が暗くなる。シェイダールは焦点を失った目を妻に向けた。ヴィルメが怯み、唇をわななかせる。致命傷を負わせた自覚から逃げるように、彼女は涙声になって訴えた。

「お願いよシェイダール。ねえ、あたしたちは毎日の暮らしを生きていかなきゃならないのよ。遠い天上の世界を知ろうとするのも、大切なんだろうけど……」

 皆まで聞かず、シェイダールはふらりと立ち上がり、一言も発さぬまま部屋を出た。追い縋るような泣き声も、呼び戻そうと妻が叫ぶのも、まったく意味をなさない。

「シェイダール? 何があった、しっかりしろ!」

 誰かが呼んで、肩を掴んで揺さぶった。この声をよく知っているはずなのに、いつも黄金に輝いて見えたはずなのに、今はただ、何もかもが暗い。

 ――シェイダール、あんた賢いのね。誰もそんなこと考えつかないのに、すごいわ!

 賞賛と感嘆。純粋な感動を湛えたまなざし。すべてが黒く塗りつぶされ、焼け焦げて灰になり崩れ落ちる。

(嘘だった)

 全部。本当は、どうでも良かったのだ。彼女にとっては。

(ああ、暗い)

 神はいないと証することの意味を、意義を、目的を、理解し励ましてくれた、あれは何だったのだろう。村でただ一人、彼の考えを肯定し、支えてくれたのは。

 両手で顔を覆い、底なしの闇に呑まれるようにくずおれる。涙が次々こぼれ落ちたが、悲嘆すらもが暗がりに隠されて見付からない。

 ただどこまでも、どこまでも暗く、微かな星の明かりすらない闇。

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