籠職人の仕事場
*
次なる王が、候補者ではなく唯一の世嗣として指名されたことは、王宮のみならず都全体に衝撃を与えた。
王が交代するのはいつか、次の王は誰か。今までならそれは市井の民に知らされることはなかった。継承の儀式は秘中の秘、布告がなされるのは終わった後。人々はただ折々の祭儀で、裁きや陳情の場で、時の王を神の現身として崇め敬い、王が王として在るだけで満足していた。するしかなかった。
今代の、そして次代の王は、何をするつもりなのか。王たるべき者は神々が定められるのではなかったのか。
時代が変わろうとしている予感。興奮と不安と動揺が、姿のない波となって都を隅々まで浸してゆく。表面上は変わらぬ日常を営みながら、誰もがそわそわと落ち着きをなくしていた。そんな人々の様子は、元候補者ザヴァイの店では特に顕著だった。
「あっ、いた! 帰ってた! ザヴァイ、あんた王宮から追い出されたのかい? 次の王様がもう決まったって噂、本当かい」
「お、なんだ、戻ってるじゃねえか。お役御免でまた籠作りか?」
近隣住民や得意客が工房を覗き、久しぶりに店主の姿を見付けて押し入ってきた。作業場の奥で何やらバタバタしていたザヴァイは、うわっ、と露骨に困った顔をする。慌てて表へ出てくると、通せんぼするように手を広げた。
「あああ、すまん皆、ちょっと今、取り込み中なんだ。話は後で」
おたおたしている間に、物見高い女が彼の肩越しに奥を覗き込んで頓狂な声を上げた。
「おやまぁ、随分きれいな若様を連れ込んで! 王宮の人かい……って、ちょっとザヴァイ! あんた奥さんを売ろうってんじゃないだろうね!」
件の若様がザヴァイの妻と手を握り合っているのを見て、女が金切り声を上げる。
「ちちち違うよ違う! 大事な話をしてるんだ!」
あらぬ疑いをかけられてザヴァイが目を剥き、両手を振り回して鎮めようとしたが、かえって疑惑を招いてしまった。野次馬が詰め寄り、てんでに騒ぎだす。収拾がつかなくなったところへ、落ち着いた一声が白い風を運んだ。
「《静まれ》」
ザアッ、と音ならぬ音が響く。誰もがつかのま息を詰め、突如として心に広がった雪原に目をみはる。粉雪を運ぶ風のささやきが消えると、奥から若者の声が続けた。
「これからザヴァイの奥方の『路』を開く。興味があるなら近くで見るといい。ただし、静かにしろよ」
威厳とまでは言わないが、妙な押しの強さがある。何者なんだ、と野次馬らは顔を見合わせ、ぞろぞろと奥へ進んだ。言われた通り従順に、口をつぐんで。
正体不明の偉そうな若様ことシェイダールは、見物人が近寄るまで待ってから、手に載せた白石と眼前の女に注意を戻した。
候補の役目を解かれ、ザヴァイには自宅に戻って生業を再開する許しが下りたのだ。己の路を探り標を養うことは怠らないよう命じられたが、今後ザヴァイは、籠職人として一家のあるじに戻る。妻の夫、二児の父に。ならばいずれ次の子の問題にも突き当たるだろうと、シェイダールはこの機会に便乗したのである。
「《開かれよ》」
星がきらめき、糸が紡がれる。ザヴァイが固唾を飲んで見守る前で、妻の路が無事に開かれ、術が終わった。シェイダールは白石を袖にしまい、振り返ってにやりとする。
「奥方のほうが路が広いぞ。うかうかしていたら、追い抜かれて尻に敷かれるかもな」
「それは前からです。ああ良かった」
ザヴァイは目を潤ませて妻の前に膝をつく。相変わらずの気弱ぶりに見物人がどっと笑った。まだ夢見心地の妻を、ザヴァイは軽く抱擁する。シェイダールは微笑んで言った。
「これからは、あんたが奥方を導くんだ。やり方はもう学んだろう? 焦らず少しずつ路を辿れ。何か気がかりができたら、勝手にあれこれせずに奥方も連れて白の宮まで来い。俺が正解を知っているとは限らないが、皆で相談すればより安全だからな」
「はい、はい。ありがとうございます」
何度も頭を下げるザヴァイに、野次馬の一人が我慢できなくなって問いかけた。
「おいザヴァイ、その若様ってもしかして……」
「ああそうだ、皆、こちらがお世継ぎのシェイダール様だよ!」
途端にザヴァイは誇らしげになり、どうだとばかりシェイダールを示す。
「素晴らしい方だぞ! 長年『王の資質』とされてきたものが何だったのか、神殿や王宮にある大昔の宝物をどうやって使うのか、ほとんど一人で何もかも解き明かしてしまわれたんだ! しかもその力を独り占めせず、皆にも分け与えようとなさっ、ぐぇ」
熱が入りすぎたところで後ろから髪を引っ張られ、ザヴァイは変な呻きを上げる。シェイダールは手を離すと、呆れ顔で水を差した。
「大袈裟にするな。ウルヴェーユを解き明かしたのは確かに俺だが、一人でやったわけじゃない。何よりもまずアルハーシュ様のおかげだし、偶然やあんたら候補者の助けもあった。それに、独り占めも何も、そもそも『王の資質』は誰もが持つ力だろうが」
そこまで言い、彼は興奮と困惑にざわつく見物人に向き直った。そして、言葉を選びながらゆっくりと、王の力のこと、ウルヴェーユとは何であるかを説いていった。
いずれ誰もが使えるようになること。だが慎重に探り養っていかなければ危険であるため、一度に大勢には教えられないこと。無遠慮な質問にも、ひとつひとつ丁寧に答えた。ここで手を抜いたり放り出したりすれば、ウルヴェーユが「お偉いさんだけの摩訶不思議な力」と誤解されてしまう。それは絶対に避けねばならない。目的があれば忍耐強くもなれる。
そうして今、人々に語りかけるシェイダールの姿は、貧しい田舎村の粗野な少年からは想像もつかない成長を遂げていた。
身なりを整え、よく食べよく鍛錬し、まだ細身ではあるものの背丈も伸びて、みすぼらしさとは無縁の身体になった。しかも貪欲に吸収した知識と、自ら掴み取ったウルヴェーユというわざ、さらには理解者や友人を得たことによって自信と余裕がそなわり、生来持っていた気品も加わって、もはや誰の目にも間違いなく高貴の身であると映った。
「……これから少しずつ、ウルヴェーユは皆の間にも浸透していくと思う。新王候補探しの時は選定に漏れた者でも、ザヴァイや奥方のように路を開いた者のそばにいると、影響されて自覚が生じることもある。だから、もしやと思ったらザヴァイに相談するといい。そのうち、神殿でも何か言い始めるかもしれないな」
神殿、と聞いて数人がはたと顔を見合わせ、おずおずと遠慮がちに問いかける。
「あの……だいたいおっしゃることはわかった、と思いますけど、それでそのウル……でしたっけ、そのわざを使うのには、祭司様のお許しや祝福は」
「必要ない」
シェイダールは切って捨てるように言い、思い直して口調を和らげた。
「ウルヴェーユは世界の神秘にかかわるわざだが、神殿の儀式や教えとは関係ない。何しろ『最初の人々』が用いていたものだからな。神殿内でも今、一部の祭司や神官が、自分たちが守り伝えてきた物事を根本から見直そうとしている」
脳裏をジョルハイの姿がよぎり、シェイダールはわずかに唇を噛んだ。
「儀式の真似事を止められなかったのはあんたの力不足だとしても、俺に警告しようともしなかったのはなぜだ。結局あんたも祭司長に尻尾を振ることに決めたのか、それとも俺が失敗するのを期待していたのか」
白の宮を訪れた元御付祭司に、シェイダールは冷ややかな怒りとあからさまな敵意をぶつけた。これまで何度も、信じたい、信じてもいいのかと心許しかけた矢先に、やはり信じられないと思わされてきた。何が味方だ、もううんざりだ。
青年祭司は一段と華美な祭服を纏っていたが、それにふさわしからぬ皮肉な薄笑いを浮かべた。
「私としては、あのまま君が王になってくれても良かったんだがね。君が王を殺せないことは知っていたし、聡い君のことだからすぐに儀式が試験だと気付くだろうと思っていたよ。実際、気付いたろう? だから君が王にとどめを刺さずに刃を止めたところで、終了の声を上げるつもりでいたんだよ。君だって正気だったら、王を殺さないと宣言したりせず、どうだ俺はちゃんとやれるぞ満足したか、といつもの偉そうな態度で祭司長を見返して、それで終わりだったろうさ」
相変わらず一分の隙もない。シェイダールが非難を封じられてむっつり押し黙ると、ジョルハイは肩を竦めた。
「結果は予想外だったが、私にとっては思いがけず良い方に転がったよ。むろん君にとっても、ということだがね」
薄笑いを消し、敬虔な祭司らしい表情になると、彼は優雅に臣従の礼を取った。
「シェイダール様。世嗣となられたこと、心よりお祝い申し上げます。鄙辺の村にて見出し御付祭司を務めたこの身にとっても大変な栄誉にございます。おかげをもちましてわたくしめもこの度、『鍵の祭司』の大任を引き継ぐこととなりました。改めてご挨拶いたしますと共に、今後とも何卒ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます」
本性を知らなければ、実に秀麗な見目物腰だった。この若さで『鍵の祭司』とは神々の寵児に違いない、と信じてしまうほど。シェイダールは胡散臭げな半眼になった。
「あんた、哀れな前任者を神殿から追い出したのか」
「まさか! 先の鍵殿は自ら平神官に戻ってやり直すとおっしゃったのだよ。己は何も見ていなかった、こんな未熟な身で貴重な祭具に触れることはもはや耐えられぬ、とね。とは言っても、いきなりつとめのすべてを誰かに引き継がせるなんて無茶だから、鍵殿にはひとまずお望み通り位階を返上して頂き、神殿に留まって他の若い資質持ちの平神官らと共に、一から世界の神秘について学ばれては如何かとご提案したのさ。そうすれば、私ごとき未熟者でも鍵を預かるだけはできる、手に余る時はいつでも鍵殿のお知恵を借りにゆけるから、というわけさ」
ジョルハイは澄まして愛想よく述べ、何かを差し出すように手を広げた。
「これで君も、古道具については以前より融通が利くようになる。おおっぴらにいつでもどうぞとは言えないが、玩具いじりがしたくなったら言ってくれたまえ……おっと失礼、お申し付け下さい、世嗣殿」
微かな空色がこびりついているようで、シェイダールは不快げに耳をこすった。ザヴァイと妻が、何か失礼があったかと緊張する。彼は難しい顔のまま返事をごまかした。
「なんでもない、ちょっと面倒なことを思い出しただけだ」
ちょうどそこへ、ザヴァイの息子が奥から水を運んできた。どうぞ、と粗末な盆に来客用らしき水碗を載せて差し出す。まだ四、五歳だろう。居間の隅に控えていたリッダーシュが、ひょいと碗を取り上げた。
「気を悪くしないで頂きたい」
奥方とザヴァイに一言詫びてから毒見をし、シェイダールに渡す。いつもの図だが、奥方が「まぁ」と動転した声を上げ、縮こまって頭を下げた。
「そうですよね、お世継ぎ様にお出しするのに、いつどこから汲んだともわからない水なんて……せめて果物でもあればまだしも。お恥ずかしい限りでございます」
「いや、水一杯の価値はよく知っている。俺も家では毎日水汲みをしていたからな。いきなり来た客に水を減らされるのは、正直むかつく。この寒い中、あかぎれだらけの手で汲んだとなったらなおさらだ」
真顔で応じ、シェイダールは恭しく水碗を掲げてから飲み干した。奥方が啞然とするのを尻目に、彼は男児の盆に空の碗を返して、ありがとう、ごちそうになった、と丁寧に礼を言った。男児は誇らしげに胸を張り、そっくり返って奥へ引っ込む。
シェイダールはぽかんとしているザヴァイを振り向き、腰を上げた。
「なんだ、俺が田舎村の貧乏育ちだって知ってるだろ? 候補に選ばれなかったら、おまえの作る籠のひとつも買えないぐらいだぞ。帰る前に工房をちょっと見せてくれ。来た時から気になってたんだ」
言いながらもう絨毯を降りて靴を履く。ざわつく見物人にも無頓着に声をかけた。
「もう質問はないか? なら、今日はこれまでにしてくれ。ザヴァイの仕事場を見学したいんだ。村にこういう籠を作る職人はいなかったから」
ほら解散、とシェイダールは手を振る。田舎の貧乏人というわりには指図命令が板につきすぎだろう。見物人たちは困惑し、何度も確かめるように振り返っては、首を捻りつつ出て行く。ザヴァイは笑ってシェイダールのそばに寄った。
「世嗣様が、籠の作り方なんて知ってどうなさるんです」
「どうもしないさ。面白そうだから知りたいだけだ」
屈託なく言って、シェイダールは好奇心の赴くまま、これは何だあれはどうすると質問し、しばらくザヴァイを教師役にして楽しんだ。
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