八章

継承の儀式


   八章



 真っ白な満月が煌々と輝き、星の見えない空は藍色の一枚板のようだ。

 澄み渡った夜気。神々さえも息を潜める静寂の底を、拍動のように足音が進む。一人、二人、三人……五人、十人。足音の列は、『白の宮』で止まった。

 シェイダールの意識はふと、眠りの底から浮かび上がった。同時に肩を揺すられ、目を覚ます。手燭の小さな明かりが、従者のこわばった顔を照らしていた。

 何か異変が起きたのだと察し、シェイダールは素早く身を起こした。どうした、と問いかけるより先に、入り口の帳がさっと上げられる。

 主従はぎょっとなって身構えた。そこには正装したジョルハイが、十人ほどを従えて立っていたのだ。二人は平神官。残りは兵士だが、王宮ではなく神殿兵の制服だ。

 ジョルハイが恭しく一礼し、全員がそれにならう。シェイダールはまじろぎもせず、声を失って唇をわななかせた。何の真似だ、と咎めることもできない。この状況は、既に幾度となく聞かされた内容と合致していたから。

 ジョルハイが進み出て、シェイダールの頭に軽く指先を触れた。

「これより汝のことばを禁ず。世界の根をくぐり再び生まれいづるまで沈黙を守るべし」

 ――やはり。

 シェイダールは愕然とした。継承の儀式の始まりを告げる命令だ。信じられない思いで眼前の御付祭司を凝視する。だが彼は完全な無表情を保ち、目配せもしない。

(そんな馬鹿な。いっさいまったく予告なしで、いきなりだとか)

 難詰しようと踏み出した時には、影のように近寄ってきた兵士に腕を掴まれていた。そのまま、有無を言わさず連れ出される。リッダーシュも驚き当惑していたが、平神官に手振りで促され、己の役目を思い出した。急いであるじに追いつき、寄り添う。

 一行は宮を出て、松明もなく月に導かれて庭園を進んだ。シェイダールは夜空を仰ぎ、夢なら早く醒めてくれ、と願ったが、何のいらえも得られないまま沐浴場に着いてしまった。リッダーシュの手で寝衣と履き物を脱がされ、タイル張りの冷え冷えする部屋に裸で立つ。さすがに寒い。平神官が専用の器で水を掬い、まず足にかけた。

「――っ!」

 完全に目が覚めた。これは夢ではない。臑を伝って水が流れ落ち、タイルを濡らす。続けて膝、腿、腰から背と順に上へ、水が浴びせられる。シェイダールは震える我が身を抱き、鳥肌の立つ腕をこすった。寒さだけではなく、恐怖が背筋を凍らせる。

 平神官が代わる代わる水をかける。ジョルハイが正面に立ち、小瓶の栓を抜いて中身をシェイダールの頭に垂らした。花と草の香が広がる。その上からも、さらに水。

 やっと水垢離が終わると、神官一同が天空神アシャを讃え、新たなしもべを清め受け入れたまうよう請願の祈祷を唱えはじめた。その声を背に、リッダーシュがあるじの身体を拭き清める。目が合った一瞬に、彼は祈祷に隠れるよう、低く短くささやいた。

「試されているのかも」

 その一言で充分だった。そうだ。王の交代などという一大事を、こんな風に前触れもなくひっそりと行うはずがない。本当に今夜限りアルハーシュの命が失われるのであれば、王宮内も備えで大わらわになっているはずだ。であれば、これは恐らく。

(俺がまともに儀式を行えるかどうか、抜き打ちで試してやろうってことか)

 忌々しい。試されたことも、それに対してあっさり動揺した己の弱さも。

 唇を噛み、用意された簡素な貫頭衣に袖を通す。染色も装飾もされていない、まっさらな服。祈祷が終わると柔らかな革の靴を履かされて、再び無言の行進がはじまった。今度は神殿へ向かうのだ。

 静かだった。月光の白が微かな音を内包して降り注ぐ他は、一切の音が藍色の夜に呑まれて消える。時さえもが声を失って沈黙していた。世界が死に絶えた中、己らだけが生き残ったような非現実感。儀式が無事に済めば、夜は明け、ありとあらゆる命が息を吹き返すのだ――そんな想像が胸に兆し、シェイダールは唇の端を皮肉な笑みに歪めた。

(下らない。何の根拠もない、雰囲気に流されるだけのこういう想像が、馬鹿げたしきたりを無数に生み出してきたんだな)

 終わりにしてやる。理性を飲み込む暗闇も、星々を隠す目眩ましの月光も。すべて打ち払って、世に巣くう無明の夜を終わらせるのだ。

(もう死なせない)

 誰も、父のように死なせはしない。

 シェイダールは拳を握り締め、夜空に聳える大神殿の偉容を睨みつけた。

 正門横の階段から登り、火祭りなどの祭儀が行われる壇を過ぎて、頂上までまっすぐに続く階段を仰ぐ。一行はゆっくりと一段一段、月に向かって歩を進めた。

 最上段に着くと、護送してきた兵士らが両脇に退いた。リッダーシュがしゃがみ、シェイダールの靴を脱がせる。ここからは裸足で進まねばならない。

 王の私宮殿よりも狭そうな祭殿は、しかし、至る所に浮き彫り装飾が施されていた。庇を支える多数の柱にも、壁にも、所狭しと神々の姿が並んでいる。シェイダールは侮蔑のまなざしをそれらに投げかけ、毅然と顔を上げて、明かりが漏れ出る戸口をくぐった。

 暗がりに慣れた目に炎が眩しい。顔をしかめて奥を見やり、シェイダールは思わず息を飲んだ。祭壇の前に立つアルハーシュは、かつてなく神々しいいでたちだったのだ。

 絢爛たる刺繍に飾られた豪奢な長衣に、宝石がびっしり縫い付けられた帯を結び、黄金の冠を被っている。松明の揺らめく光を受けて、金銀宝石がこれでもかと輝く。常日頃、身近に接していてさえ、神がこの場に顕現したかと思うほどの姿だった。

「よくぞ参った、我が跡継ぎよ。日は沈み、神々より賜りし我が力もまた、世界の根へ還りゆかんとしている。これよりいにしえの儀に則り、次なる王につとめを譲り渡すものである」

 アルハーシュが厳かに宣る。祭司長が腰を屈めた姿勢のまま、大きな袖に隠した両手で恭しく宝刀を捧げ持って進み出ると、王の前に跪いた。シェイダールには『鍵の祭司』が同様にして、儀式の短刀を差し出す。壁際にはリッダーシュとジョルハイ、そして第二候補とその御付二人が控えている。四隅に兵士もいるが、立会人はそれだけだ。祭殿の中央は広く空けられ、新旧二人の王を待っている。

「天空神アシャよ、王国の正しき守護者に力を与えたまえ」

 アルハーシュが仰向いて祈り、祭司長が差し出す短刀を手に取る。シェイダールは無言のまま、対となる短刀の柄を握った。その、瞬間。

 目の前に光が弾けた。六色に輝く星が澄んだ音を立て、高らかに歌う。アルハーシュも驚きに目をみはっていた。己が経験した儀式とは様子が違ったのだろう。

 光の柱が二人を貫いて、天と地を結んだ。かつて神殿の下層で感じた、あの光だ。強大な流れが色と音を増幅し、二人の意識を深淵へといざなう。

《目覚メヨ》

 遠い彼方から声が響き、シェイダールは内なる路が大きく揺さぶられるのを感じた。深淵に通ずる底に鑿が突き立てられ、鎚が振り下ろされ、さらに掘り下げられる衝撃。

 いつの間にかシェイダールは鞘を払っていた。アルハーシュが短刀を構えて進み出る。豪華な衣装が重そうだ――冷静に観察した意識も、鳴り響く色に染められてゆく。

 リィーン……コロン、コォーン……

 一面に広がる空の青。緑の風が翔け、紅の花が舞い散る。雪の白銀を踏みしめて前へ。

《……――……》

 聞き取れない詞が路の内に響き、既に刻まれている標と、無垢な肌を洗う。渦を巻く白と金、紫。細かな色の星が集まり、新たな標を受け入れ刻み付けようと準備する。

 リ・リィン……

 軽やかに舞う黄色の蝶と共に跳び、腕を振る。パリン、甲高い音が響いた。それが刃のぶつかる音だと、もはや認識もしない。打ち寄せる波の青と白。耳を打つ潮騒の紺碧。

 ああ、世界はなんと美しい!

 シェイダールは陶然と笑んでいた。黄金の麦の穂、甘く幸せな蜂蜜の光。前へ後ろへ、右へ左へ、踊りながら色と音を踏む。

 シャリッ、カツン、キィン!

 弾む響き。腕に伝わる応えは、共に舞う相手の存在を教える。艶やかな葡萄の紫を摘み、木陰の緑に憩おう。湧き出る泉は虹色に歌い流れゆく。

 ああ、楽しい。幸せだ。麗しく豊かな世界を、舞い手ふたり言祝ぐ幸福よ!

 路を通じ溢れる理の神髄に満たされて、自我も記憶も溶けてゆく。ふたつの路が間近に迫り、共に震えながら触れ合おうとする。

 微かな熱が顔をかすめた。だが身体の感覚は既に遠く、ただ音色の導くままに動き続ける。路が触れ合い、渦巻く彩りの星が溢れ出し凝縮して、黄金の一滴となる。ギン、とひときわ大きな響きと共に、それが弾け芽生えた。

 生命と歓喜を高らかに謳い上げ、雪解け水のごとく次々に枝を伸ばし葉を広げて、見る間に巨大な樹木へと生長する。根は地の果てまで達し、梢は天を抜け宇宙を衝くほどに。

 輝き、震え歌う一枝に吸い寄せられ、手を伸ばす。これだ。この枝こそが……

 刹那。

 パタッ、と異質な音がシェイダールの意識を呼び戻した。汗とまじって眉から睫毛に流れた血が落ちたのだ。一瞬の赤が視界いっぱいに広がり、父の叫びを再現する。

 ――やめろ皆、やめてくれ!

 必死の形相が目の前をよぎり、彼はビクッと大きくわなないて竦んだ。まさに、アルハーシュの首に短刀を突き立てる、その寸前で。

「あ……」

 喘ぎが喉をかすって漏れる。シェイダールはアルハーシュを床に組み敷いていた。王の手に短刀はなく、離れた床に転がっている。冠も脱げてどこかへいっていた。

 汗みずくで息を切らせ、死を待つばかりの王。シェイダールは衝撃を受け、逃げるようにその上からどいて、よろよろと後ずさる。彼自身も肩で息をしていた。額が疼き、手の甲でこするとべったり血がついてきた。いつの間に負ったのか憶えていない。

 沸き立っていた路が瞬く間に冷えて離れ、より深みへと穿たれた底も再び閉ざされる。

 やがて、静まり返った祭殿に、次々とむせび声が生じた。

 リッダーシュががくりと膝をつき、両手に顔を埋めて押し殺した嗚咽を漏らす。『鍵の祭司』は既に平伏して全身を震わせていた。さらにはアルハーシュまでが、倒れたまま目を覆ってすすり泣く。

 シェイダール自身も泣き崩れたいほどの動揺を感じていたが、呑まれてたまるかと心を立て直した。深く息を吸って、祭司長に向き直る。

「儀式は終わりだ。俺は王を殺さない。今夜も、この先も決して!」

 きっぱりと宣言する声が、術の余韻を吹き払った。アルハーシュがはっとなって身を起こし、リッダーシュも顔を上げてあるじを見つめる。

 シェイダールの記憶からは、試されているのかも、とのささやきが消し飛んでいた。あまりの鮮烈さに圧倒され、ただの試験であったとは考えられなくなっていたのだ。

「神の力に頼って、王をただその器としかみなさず次々に殺して取り替える、こんなやり方はもう終わりだ! アルハーシュ様にはこれからも長く王位にあって、知恵と経験を活かしてもらう。それこそが本当の意味で国を守ることだ!」

 息詰まる沈黙が凍り付く。次いで祭司長の怒号がそれを叩き割った。

「本性を現しおったな、不埒者が! 神聖なる儀式を穢し、あまつさえ神々の守護までも拒もうとは、人の身には過ぎたる傲慢であるぞ!」

 眉を逆立て大音声で非難しながらも、激昂してはいない。予め弾劾の文句を用意していたのは明らかだ。つかつかと進み出て、祭壇の前で大仰に膝を折って呼びかける。

「おお天空神アシャよ、この傲岸不遜なる不信心者の愚挙をどうかお目こぼしください。ワシュアールをお見捨てにならず、輝きの翼で覆いたまえ」

 深々と頭を下げて祈り、たっぷり一呼吸の間、不安を煽るがごとく動きを止める。ゆっくりと姿勢を直して一同に向き直ると、祭司長は重々しく告げた。

「この者を王位継承の候補より外し、罪人の烙印を捺して荒野に追放すべし」

「ならぬ」

 即座にアルハーシュが却下する。四隅に控えていた兵士が、一歩踏み出した体勢のまま止まった。敵意と緊張が空気を重くする。

「王よ、庇い立てなさいますな。その者は神々を冒涜し、自ら王たる資格のないことを暴露したのですぞ。これがもし、神々に供物と祈祷を捧げ、祝福と加護を授かった上での儀式であったなら、どのような天罰を下されたでありましょうや!」

「ならぬ。今の言のどこに冒涜があったというのだ。彼こそが跡継ぎにふさわしいことは明らかになった。彼が我々に見せたものこそが、正しき継承の儀式であったのだ」

 王は力強く断言し、潤んだ目でシェイダールを見やった。

「……余が、彼のごとく理の深淵に降りる努力をしていたならば。余の時に、正しく儀式を執り行えていたならば……あの方に、あのような恐怖と苦しみは」

 語尾が揺れて涙に呑まれる。アルハーシュはぐっと歯を噛み締めて堪えた。祭司長がたじろぎ、居心地悪そうにあらぬ方を向いてごまかす。かつての王を殺した男は咳払いし、背筋を伸ばして続けた。

「シェイダール。そなたはもはや『第一候補』ではない。余はそなたを唯一正当なる跡継ぎとして任じ、ウルヴェーユのさらなる解明に励むよう命ずる」

 朗々たる声が夜空の深みを湛えて響く。シェイダールは目をみはり、王の意図と己の取るべき対応について、素早く思案を巡らせた。

(俺が王位を継ぐ唯一の者、ってことは)

 まず今、現王を殺さずに済む。そしてまた、他の候補による王殺しを防げる。さらにアルハーシュが長生きすれば、資質を受け継ぐ子の誕生と成長を待つことも可能だろう。

(つまり俺は王のつとめを実質背負うことなく、探究に打ち込めるのか。そして成果を上げることで政務を助け、国のありようを変えていける)

 わずかな間にそこまで考え、シェイダールは畏まって臣従の礼をとった。

「御下命、謹んでお請けつかまつります」

 大仰な宮廷風の言い回しに、これほど心を込めたのは初めてだった。これまでになく真剣に拝命したシェイダールに、アルハーシュも満足の笑みを返す。

 だがむろん、祭司長は黙っていなかった。

「王よ、考え直しなされ! この者は王の力を受け継がぬと申したのです、王国を守りたもう天空神の御力を無に帰そうとしておるのですぞ! 神々をないがしろにする者が、王としてこの地を治め得ると思し召すか!」

「口を慎め、ディルエン。そなたらは儀式の真のありようを調べもせず、ただ形骸化した手順様式の堅持のみに汲々としてきた。その結果が先の王の苦しみであり、知識とわざの衰退と喪失であることは、弁解の余地もあらぬぞ」

 アルハーシュは厳しく言い返し、一息ついてから口調を和らげた。

「国の安寧を願うそなたの衷心は承知しておる。案ずるな、余はまだ当分健在であれようし、我が跡継ぎは日々目覚しく成長しておる。儀式に頼らずとも、いずれ余を遙かに超えて優れた王となろう。……それでもなお、世の趨勢が儀式を必要とするならば……その時はな、ディルエン、余は彼にこそ、この命を絶ってもらいたいと願っておるのだ」

 痛切な王の言葉に、祭司長も渋面になって反論を飲み込む。二人のやりとりを聞いたシェイダールは、ぞくりと寒気をおぼえた。あの術が正しく発動しなければ、儀式はただの殺し合いだ。

 父の叫びが脳裏にこだまする。真紅の、鮮血のごとき悲鳴が。

(俺を止めてくれたのか、父さん)

 ごく自然にそんな考えが浮かぶ。死者の霊魂は地上に留まらず、神はもとよりどんなものへの祈りも効果がないと、とうに悟ったはずなのに。

 シェイダールは無意識に額をこすった。まだ少しぬるりとしたが、出血は止まっているようだ。赤く染まった手を見るともなく眺め、彼は顔を上げて王に呼びかけた。

「アルハーシュ様。早く傷の手当てをしなければ」

「おお、うむ、そうであったな。……ディルエン、ひとまず承諾してはくれまいか」

「致し方ございませぬな。しかし彼が不信心を改めぬ限り、どのような形で王になろうとも、我々祭司は祝福も神々へのとりなしも断りますぞ。ゆめゆめ、お忘れ召さるな」

 祭司長は釘を刺しながらも暗いため息をつき、頭を垂れて引き下がった。


 外で待機していた兵士や平神官が呼ばれて中に入り、水桶や箒で祭殿の床を清める。汚れていない場所に退避したシェイダールは、陰鬱な気分でその光景を見やった。下手をすれば今頃あそこは血の海だったのだ。

 リッダーシュがまだ赤い目をして、時々息を震わせながら、あるじの傷を洗い血止め薬を塗る。額だけでなく腕も数箇所、斬られていたのだ。そばでアルハーシュも同様の処置を受けており、その口からぽつりと、独り言めかしたつぶやきが落ちた。

「すまぬな。そなたを罠にかけることになった」

「俺のほうこそ」

 応じようとして、シェイダールは言葉に詰まる。あなたを殺しかけてすみません、などと謝って済む話ではない。それきりお互い言葉が続かず、口を閉ざす。

 気まずい沈黙に耐えきれず、シェイダールは小声で話しかけた。

「先代の時は、術が働かなかったのですか。それでも『知恵』を受け継ぐことはできたんですね」

「うむ。絢爛たる色彩と、どこからともなく響く音に惑乱され、余はほとんど酩酊に近いありさまになった。ゆえにあまり明瞭に憶えてはおらぬのだ。ただ身体に染みついた日頃の鍛錬を思い出し、懸命に防ぎ、攻めた。ぶざまで醜く、惨たらしい戦いであったよ。だが……あの方の喉に刃を当て、血を吸わせた瞬間……すべてが、流れ込んできた」

 ぽつぽつとそこまで語って、王は身震いした。おぞましい記憶を追いやるように息を吐き、微苦笑を取り繕ってシェイダールを振り向く。

「そなたにはもっと手際良くやってもらいたいものだと願っていたが、まさか本来の儀式がこのようなものであったとはな。これならば、そなたが余の『知恵』を必要とした時、安心して譲り渡せるというものだ」

「よしてください。そんな必要がないように努力しているんですから。……っ!」

 傷に何かが染みて、顔をしかめる。見下ろすと、リッダーシュがあるじの腕に手を置いたまま、うなだれていた。彼の涙が傷口に落ちたらしい。

「おいリッダーシュ」

 シェイダールは呼びかけたものの途方に暮れた。慰めるべきか、叱るべきなのか。

「申し訳ございません」

 リッダーシュが涙声で謝り、傷を洗って薬を塗る。そのまま顔を上げずに続けた。

「お止めしなければ、ならなかったのに……私は、うつけのごとくただ、美しさに見惚れて……あのまま、儀式が終わってしまうまで、何もできずに」

「もういい。おまえは俺が王を手にかけるつもりはないと知っていたんだから、止め損なっても仕方ない」

 そういうことではないと知りつつ、シェイダールはとりあえず慰めた。案の定、リッダーシュは無言で首を振る。アルハーシュが慈愛のこもった声をかけた。

「あれほどの力と美しさに圧倒されたのだ、魂を奪われるのも無理はない。確かに素晴らしい経験であったな。これまで生きてきて、世界の真の姿を感じ取ったのはこれが初めてだ。広く、深く遠く、目に見えぬ無限の微小から極限の彼方まで、生命と色と音に溢れていた。己という存在などすっかり忘れ去ってしまうほどに」

 反芻して味わっているのか、王は夢見るように瞼を伏せる。シェイダールもうなずき、うつむいたままの金茶色の頭を見つめ、それから居合わせた一人一人の姿を目で追った。

「妙な気分です。世界の理に触れて、その素晴らしさも輝かしさも知ったはずなのに、今こうして肌身に触れる現実は、あれとは違う。あなたもリッダーシュも、俺とは違う目で世界を見ているし、誰も……」

 上手く言えず、シェイダールは口を濁した。うむ、とアルハーシュが先を引き取る。

「ただ一人、個として向き合うならば、世界は美しく素晴らしい。心打たれ、敬虔な喜びをもって膝を折り、この世に生きて在ることを感謝する。そこには穢れも歪みも悪もない――が、目を開き同胞たちを見渡せばこの通り。識ったはずのことはあやふやになり、肌身に感じた世界は遠ざかり、誰の心も通じ合わぬ」

 諧謔めかして言い、ふっと小さく笑う。それから王は祭殿を見渡し、眉をひそめた。視線の先にいるのは、祭司長と何事か話し込んでいる『鍵の祭司』だ。なんとか立ち直りはしたようだが、背を丸め、まだ時々わなないている。

「あれにはいささか衝撃が過ぎたようだな。つとめを続けられるかどうか」

 王のつぶやきを聞いて、シェイダールは顔をしかめた。動揺している『鍵の祭司』に、ジョルハイが寄り添い語りかけている様子が気に入らなかった。こんな状況さえも自分に都合よく利用しようというのか。だが彼が神殿で上手く立ち回ってくれなければ、己の悲願もまた果たせない。シェイダールが憂鬱に考えていると、間近でほっと息が漏れた。リッダーシュだ。目を戻すと、彼はやっと笑みを見せた。

「あるじと仰ぐ御二方が共に無事で、本当に良かった」

 眩しい黄金の声で真正面から衷情をぶつけられ、不意打ちをくらったシェイダールはのけぞって倒れそうになった。慌てて背を支え気遣う元凶を、唸って邪険に振り払う。そんな主従を、アルハーシュは微笑ましげに眺めていた。

 そこへ、頃合と見てヤドゥカがやってきた。王と世嗣の前に両膝をつき、頭を下げる。

「我が君アルハーシュ様、そして第一殿……否、世嗣殿。見事な儀式でございました」

 仰々しく畏まった物言いと、それ以上に内容が不愉快で、シェイダールは思い切り苦い顔をする。ヤドゥカは彼にちらりと一瞥をくれてから、王に向かって続けた。

「第一殿を世嗣と定められたこと、まことに御英断であると存じます。今、あの儀式を本来の形で執り行える者は、世嗣殿をおいて他にありますまい。なれどこのヤドゥカ、第二候補の地位を外れた明日より後も引き続き、共にウルヴェーユを学びたく存じます。世嗣殿には及ばぬとても、いにしえのわざを研鑽し御身と王国のお役に立てたく、何卒お許しを賜りますよう、伏してお願い申し上げます」

 言葉通り、ヤドゥカはさらに頭を低くする。シェイダールがげんなりして天を仰ぎ、アルハーシュが失笑しかけたのをぎりぎりで堪えた。

「むろん、そなたをはじめ元候補者らには、いずれ我が跡継ぎの手となり足となるべく、今後も励んでもらいたい。新たなつとめについては追って沙汰を下す」

 そこまで言い、彼はふと、含みのあるまなざしをリッダーシュに向けた。一瞬後には何事もなかったようにヤドゥカに目を戻したが、その些細な動作は、シェイダールの胸に刺さったままの棘を思い出させた。

「……従者はいずれにせよ必要であろうし、特段の不満がないのならそのままで良かろう。御付祭司の小言からは逃れられるぞ」

 声を潜めてにやりとした王にも、ヤドゥカは表情を変えない。シェイダールはとうとう我慢できなくなって口を挟んだ。

「ちょっとは喜んでもいいんだぞ。それともおまえ、実はあの祭司にがみがみ言われるのが楽しいのか?」

「おぬしには乗馬の訓練以上に、穏便な物言いを学んでもらわねばなるまいな」

 やれやれ、とヤドゥカがため息をつく。苦手な乗馬を引き合いに出されて、シェイダールは頬に血をのぼらせた。アルハーシュはおやと面白そうに眉を上げたが、からかうのは控えて言った。

「そう敬遠せずともよかろう。身分しきたりの垣が低い今の内に、互いをよく知り、親交を深めるが良い。責任ある立場となれば、そうやすやすと他人の懐には入れぬものだ。信の置ける友は生涯の宝であるぞ」

 王の言葉に、リッダーシュが温かな微笑をあるじに向ける。一方でヤドゥカはやはり真顔のまま、おもむろに王に一礼した。

「ならば、今この場で世嗣殿に忠誠を誓うお許しを」

「ほう、願ってもないことだ。むろん許す」

 謹厳に、さも当然とばかりやりとりされたので、当のシェイダールが内容を理解するのに遅れた。はっとなった時には、ヤドゥカが彼に対して臣従の礼を取っていた。

 チリリ……微かな音色が路を揺らす。

「我、ショナグ家のヤドゥカは誓う。アルハーシュ王が世嗣シェイダール様を我があるじとし、忠誠を捧げる」

 ヤドゥカが顔を上げた。彼の路に力が流れ、色が紡がれているのが、シェイダールにも感じ取られた。

「《我は剣 持ち手に従い 敵を屠らん》」

 キィン、と高い音を立て、細い銀糸がシェイダールめがけて飛んでくる。受け止めた瞬間、銀糸が螺旋を描いて路を降り、必要な標を呼び覚ました。《詞》が浮かび上がり、銀糸が色の星屑を縫いとめる。シェイダールはひとつ息を吸い、心で是と応じた。それを受けて《詞》が銀糸を伴い、放たれる。

「《我は剣持つ手 時を見定め 鞘を払わん》」

「《あるじの正義と身命を守り ゆめ背くまじ》」

「《剣の名誉を守り 折れようとも捨つまじ》」

 応酬の度に銀糸は太く縒り合わされ、強く絡みあい結びつく。最後に剣と持ち手の両者が声を揃えた。

「《誓約は為された》」

 澄んだ硬い音が響き、銀糸が鋼となって路を結ぶ。一呼吸の後、二人の間に張り渡された銀糸は紫紺の輝きを節にしてパキンと分かたれ、各々の中へと溶け消えた。

 シェイダールは己の内につくられた銀の結び目と、それによって縫いとめられた小さな色彩の星を知覚し、つかのま放心した。きらめきが小さくなり、路の共鳴がやむと、我に返ってヤドゥカの肩をぐいと掴む。

「おまえ、無茶が過ぎるぞ! こんな術をいつの間に……いやそれより、こんな誓約を結んでどういうつもりだ!? この先おまえは絶対に俺に逆らえないぞ!」

 シェイダールの狼狽に対し、ヤドゥカは憎らしいほど平静だった。

「世嗣となったからには、絶対忠誠を誓う剣が必要だろうと判断したまでだ。詞の定義からして、背かぬとは誓ったが、異論反論や抵抗までも不可能ではあるまい」

「それでも!」

「おぬしには命の恩義がある。そのつもりで助けたのだろう、存分に役立ててくれ」

 ヤドゥカは日常のことを語るのと同じ口調で言い、新しい主君が唇を噛んだのを見て、珍しくもふっと微笑んだ。

「白状すると、標を養う内に見出したこの術を、正しく使えるものかどうか試してみたかったのだ。と言って迂闊な相手は選べぬし、候補者同士でありながら主従を決めてしまえば後々儀式に障りが出るやも知れぬゆえ、今まで温めているしかなかった。無事に成功して、ひとつ標が確かなものとなったのだ。喜ばしいではないか」

「おまえ、よくも」

 シェイダールはそれだけ言って絶句する。笑ったのも驚きだったし、予想外の無謀さも衝撃だった。声を失った彼に、ヤドゥカはいつもの真顔に戻って言い添えた。

「おぬしならば、いずれ戒めを解く方法を見出せようし、その気になればいつでも私をお役御免にできよう。それまでは、この身を剣と思って頼りにして頂きたい。我が君」

「……わかった」

 はあ、と深いため息をつき、結局シェイダールは頷いた。最初の段階で術に是と応じたのは己なのだし、何よりも。

「おまえが今この術を用いたってことは、これから雲行きが怪しくなると予想したんだろう。せいぜい盾になってもらうさ」

 ささやき声で言って、彼は手を差し出した。ヤドゥカは眉を寄せて首を振る。

「臣下に握手を求めるのは不適切だぞ」

「馬鹿らしい。何の相談もなく『試してみたかった』で誓約するような奴が、不適切だとか言えた義理か」

 シェイダールは鼻を鳴らし、再度手を突き出す。ヤドゥカはあっさり、それもそうだと握手に応じた。二人の様子を見ていたリッダーシュが、己の胸に拳を当ててうつむく。気付いたシェイダールは意図的に軽い口調で呼びかけた。

「おまえはこんな術、使えたとしても使うなよ。いざって時には、おまえには俺をぶん殴ってでも止めてもらわなきゃならないんだからな」

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