王の務め
*
故郷へ向かった使者の帰りを心待ちにする間も、日々のつとめは続いてゆく。秋の雨が大地を柔らかく潤し、畑に麦が蒔かれ、食卓には無花果が供されて。服は長袖に肩掛けを羽織り、眠る時には毛布が必要になり。そうして、季節が移ろってゆく。
アルハーシュ王による方針転換により、シェイダールは第一候補であることや素性を隠す必要がなくなった。おかげで、王の仕事のほとんどあらゆる場面にお供し、時には他の候補者らと共に、政務の進め方を学べるようになった。
そんなある日、彼は土地管理長官に連れられて資料庫を見学した。壁一面の棚を埋め尽くす膨大な粘土板記録を見上げ、正直に感嘆する。
「俺は神罰と飢饉が無関係だと証明したくて、村で五年間、天候や作物の出来を記録していたんだ。そういう記録がこんな風にも役立つんだな。過去の事柄の証明だけじゃなく、次に来ることを予想するのか」
相変わらずあまり敬意を態度で示さない若者に、ハディシュは怒るでもなく応じる。
「誰から教わってもないのに、そんなことをしていたのか! 君は実に有望だなぁ。いや実際、数字は大切だよ。ある時期の現象をもとに未来を予測し、必要な手を打つ。これを怠ると、安心して日々の食事も楽しめないからね。たとえば……」
ここの王領でこれが不作だと飼料不足になって羊肉が、ここの果樹園の杏は非常に美味だが年ごとに収量が変動して乾燥果実の練り菓子が、等々、ハディシュの美食談義をまじえた説明が続く。しまいにはただの薀蓄の羅列になってきた。
「料理の説明までしてくれなくてもいいんだが」
横道にそれてしまった話を戻そうと、シェイダールが隙を見て口を挟む。ハディシュは丸い目をぱちぱちとしばたたいた。
「君ぐらいの年齢なら、もっと食に関心が強いものじゃないのかねぇ。だからそんなに細いのかい」
「大きなお世話だ、食事は充分とってる!」
あんたみたいに丸っこくないだけで俺は普通だ、とまで言い返したくなったが、リッダーシュの咳払いに止められた。そんな主従に、ハディシュは嫌味なく笑って言う。
「今度、我が家の午餐に招待しよう。腕をふるってご馳走するから期待してくれたまえ」
折悪しく、そこへ水利長官がやって来た。開口一番、冷評が飛ぶ。
「もう早速、美酒美食で次なる王を骨抜きにしようという算段か。浅ましいことだ」
「これは、ラウタシュ殿」
ハディシュは苦笑いで一礼する。ラウタシュは書記に資料を探すよう指示すると、シェイダールに険しいまなざしを向けた。
「第一殿、ご注意召されよ。享楽の誘惑は容易に人を堕落させる。私も息子も、愚王に仕える気はございませんぞ」
「わかっている。しかしその言い方だと、王になったら食事を楽しむことも花を愛でることもせず、朝から晩まで一年中、挽き臼を回す驢馬のように働け、と聞こえるぞ。あなたはいったい何が楽しくて生きているんだ?」
シェイダールが素っ気なくも鋭く切り返したので、ハディシュが失笑し、急いであらぬ方を向いてごまかした。ラウタシュはそれを睨んでから、むっつりしたまま応じた。
「それほどの心構えであるべきだと言っている。王のつとめとはまさに、神々の威光を身に纏い一国の重みを双肩に戴くこと。常に力強く正しくあらねばならぬ。怠惰に屈し、神から人に堕してはならぬのだ」
「……っ!」
シェイダールが息を飲み、気色ばむ。怒り任せに口を開きかけた寸前、水利長官の書記が早くも資料を揃えて差し出したので、火花は燃え上がらずに済んだ。
ラウタシュは棘のある不快な一瞥を置き土産に、資料庫から出て行った。気まずい沈黙の後、ハディシュがふうっと息をつき、白々しく明るい口調を取り繕う。
「いやぁ、少々冷や汗をかいた。ラウタシュ殿は自他共に厳しい方だから、君も発言には気を付けたほうがいいぞ」
シェイダールはぶつけ損ねた火花をくすぶらせたまま、小太りの男に問うた。
「あなたは平気なのか」
「ええ? いや、私は人生に楽しみが必要だという性質だよ。見ておわかりの通り。長官だろうと王だろうと、つとめの重さと楽しみとは別の問題さ」
陽気な返事に毒気を抜かれ、シェイダールは怒りを鎮めて言い直した。
「そうじゃなくて。アルハーシュ様は立派な王だが、その両肩に国を載せて頼りにしておいて、力が衰えたらすぐに殺す。そんなやり方に、何の疑問も持たないのか」
感情のままに難詰してお互い退けなくなることのないよう、言葉を控える。その上で彼がじっと見つめると、ハディシュは曖昧な顔で目をそらした。
「そうだなぁ……実務に携わる一官僚として言うなら、王の交代はなるべく避けたいのが本音だよ。政務の方針や文書の様式、王宮の日常、何もかも変わって対応に手間と費用がかかる。長く一代の王に続けてもらい、その間に後継者を育てられたら非常に助かる」
敢えて不遜を装ってそこまで言い、「ただね」と彼は真顔になった。
「王とは、文書に印章を捺すだけの存在ではない。君の言う通り、代々の王が受け継いできたのは、ウルヴェーユによる『知恵』なのだろう。だがそれを別にしても、王とは神の現身であり、神々の恵みを国にもたらす依代でもあるのだよ。だからこそ、決して衰えるがままにしてはならない」
「……本気でそう信じているのか」
眉根を寄せてシェイダールは唸った。やはりこの男も、古い考えの大人ということか。不信心に寛容な王宮の者であっても、神々が存在し守護してくれるなどという戯言を疑いもしないのか。だが返ってきたのは、はぐらかすような答えだった。
「どうだろう」
「どう、って、あなた自身のことだろう」
「そうだがね、一概に是とも否とも答えづらいものだよ。ある時には確かに神々のご加護を感じ、ある時にはやはり神々は人間のことなど関心がないのだと失望する。うまくいくはずの料理を失敗した時には目の前が暗くなるとも!」
冗談を飛ばし、ハディシュは大仰に両腕を広げて天を仰いだ。自分に対してちょっと笑い、シェイダールに正面から向き合って続ける。
「信じている時も、そうでない時もあるだろう。だがそれでも、変わらず王がいる、神々の力を授かった頼もしい方がこの国におわす、その事実が安らぎをもたらすのではないかね。一個人の魂の平安にとどまらず、一国の平安のために、王は必要とされ崇められるのだと、私は考えているよ」
シェイダールは不愉快そうに聞いていたが、ややあって、食いしばった奥歯で挽くようにして言葉を押し出した。
「アルハーシュ様と同じことを言う。人には縋るものが必要なのだ、と……あなたもか。どうしてそうやって、皆が王ひとりに縋りつくのを許せるんだ。どうして縋れと言えるんだ、助けてくれやしないとわかっているものに!」
次第に語気が荒くなり、最後には叩きつけるようになる。言い切ってからシェイダールは、声高になってしまったのを恥じて唇を噛んだ。ハディシュはつくづくとその様子を眺め、口を開きかけて思いとどまった。
助けて欲しかったのだな。苦しかったろう。
そういたわってやりたくなったのだが、同時に相手が全力で拒み否定するだろうと予想できたからだ。神など存在しないと言い、それを証明すべく五年も天候を記録するほどの冷徹な客観性を発揮しておきながら、他方では積年の恨み言を抱えて、ぶつける先を自ら否定したがために持て余している。
しばし悩み、ハディシュは結局、どうとも取れる言葉でごまかした。
「若いな、君は。ではその若さを、我が家の食卓で発揮してくれるのを楽しみにするとしようか!」
「いいのか、水利長官に釘を刺されたばかりなのに」
話題をそらされ、シェイダールも助かったとばかり調子を合わせる。ハディシュは朗らかな笑いで応じた。
「構うものか! 美味なる食の愉しみは、あらゆる制約から自由であるべきだ。そもそも君は、胃袋を掴まれたぐらいで魂を売り渡すほど骨のない人間ではなかろう? むしろどれだけ君の態度を煮込んでほぐせるか、腕が鳴るというものだ」
嬉々として指を鳴らされたのでは、煮込まれる本人としては苦笑いするしかなかった。
「お手柔らかに」
ハディシュと別れて白の宮に戻る道すがら、リッダーシュが説明してくれた。
「水利長官のジャヌム家は祭司長と親戚関係にあって、昔から神殿とのつながりが強い。現在も第三候補には、御付祭司とは別に祭司長の後ろ盾があるだろう。あの方に迂闊なことを言えば神殿に筒抜けだ」
「そういうことは早く教えろよ。危うく本音をぶちまけるところだったぞ」
渋面で唸ったあるじに、リッダーシュは微笑をこぼす。
「止めようとしたところで、ちょうど書記が動いたのでな。下手な合図をしなくて済んで助かった。以前のおぬしなら一言目から激論になっていたところだが、少しは癇癪を堪えられるようになったようで何よりだ」
「おまえ最近、ずけずけ言うようになったな。あの馬鹿丁寧な態度はどこへ消えたんだ。むしろこの一年で俺が出した成果を見れば、逆に敬ってくれてもいいんじゃないのか」
シェイダールは珍しく拗ねたことを口にした。リッダーシュは森緑の目を面白そうにきらめかせ、笑みを湛えてあるじの前にさっと回り、恭しく臣従の礼をとる。
「我が君の聡明にして勤勉なること、常々敬服いたしておりますとも。まさに我ら凡人には及びもつかぬ偉大なるあるじにお仕えできること、この上ない名誉にして幸いと」
「やめろ馬鹿」
苦りきった主君が拳を固めたので、リッダーシュはおどけて首を竦め、礼を解いて正面から向かい合った。そして、誠実な口調で告げる。
「冗談ではなく私はおぬしを尊敬しているし、第一候補がおぬしで良かったと、今は心から思っている」
真情を示されたシェイダールは対応に困り、ややこしい顔で視線をさまよわせた後、無言のまま歩みを再開した。
(今は、か)
複雑な気分で、横に並ぶ従者が初対面で言ったことを思い出す。どう捉えたら良いのか決めかねている――それは、父と仰ぐ王をいずれ殺す者に対し、覚悟が定まらぬという意味だったのだろう。面識のある貴族ならばまだしも、どこの馬の骨とも知れない者に。
(どんな思いで、俺を受け入れていったんだろう。あるじと呼び、……友と呼ぶまで。今こうして冗談を言えるようになるまで)
いつも晴朗な雰囲気を保っている友の秘めた葛藤を慮り、自然と謙虚な心持ちになる。彼はうつむきがちに、相手を見ないまま呼びかけた。
「リッダーシュ」
「うん?」
「……ありがとう」
唐突な礼にも、リッダーシュは驚いたり茶化したりはしなかった。数回瞬きし、はにかんだ笑みで「こちらこそ」と応じる。そのまま二人は、穏やかな沈黙を道連れに歩いた。
白の宮に戻ると、第二と第三が揃って待っていた。すっかり候補者達の溜まり場と化した部屋で、絨毯に座って共に何やら熱心にいじっている。
「珍しいな、揃って来るなんて」
シェイダールが声をかけると、ヤドゥカが立ち上がって鉦を差し出した。
「勝手に待たせてもらった。第三殿とはたまたま来合わせただけだ。新たな鉦が一組出来た、見てもらいたい」
「どれ。今までのものより軽くて小ぶりだな。帯に挟んで持ち歩けそうだ。音は?」
「合っていると思うが、確かめてくれ」
「おまえが言うんなら間違いないだろう。まあ、念のため」
コォーン……、と澄んだ音が響く。美しい純白の輝きを確かめてから、順に六音を辿る。赤、緑、青、黄、紫。どの音も見事だ。路に響き、標を洗い出すようにして流れる。心地良い余韻が長く留まり、さらに深みから清水を汲み上げる。
シェイダールは無意識に色を追って指をもたげ、宙をさまよわせていた。その手を軽く握ると、内なる残響が薄れて消える。ほっと息が漏れた。
「美しい音色だが、余韻が響きすぎるな。初心者や、路が脆い者には使えない」
「そのようだな。軽くしたから、女子供にも使えるかと思ったが」
ヤドゥカが生真面目に言って、残念そうに首を振る。シェイダールは眉を上げた。
「女子供でも、資質の程度によっては充分俺達に匹敵するぞ。俺の娘は一歳にもならないのに、もう自分で六音を追っているんだからな」
「さすがに信じがたいな。本当か?」
「本当だ。まだ正確な音は発声できないが、俺が与えた玩具の音を拾ったり、何もなくても口ずさんだりしているぞ。先が楽しみだな」
どこからどう見ても子煩悩の自慢である。ヤドゥカが無言でリッダーシュに視線を向ける。宮に入れてもらえない黄金の声の主は、曖昧な顔で首を傾げるしかなかった。
そこへツォルエンが不穏な様子で割り込んだ。
「赤子がもう、ウルヴェーユを操っているというのか」
シェイダールは振り向き、少年のこわばった顔から内心を読み取ろうとした。あまりに早く理の力に触れさせては危険なのでは、との恐れだろうか。
(違うな。こいつがシャニカの安全を気にかける理由はない)
ということは、まさか。
「もう早々と、追い越される心配か? 相手はまだ赤ん坊だぞ。今は意味も何もわからず玩具で遊ぶのと同じ感覚で、色や音に触れているだけだ」
図星だったらしく、ツォルエンは頬を染めてぷいとそっぽを向く。シェイダールは構わず、他の二人に対して続けた。
「今後、俺たちの子が資質を受け継いで無事に生まれるようになれば、シャニカと同じように物心つく前から己の路に親しんで育つだろうな。いちいち白石を使わなくても良くなるだろう。特別なわざじゃなく、当たり前に持って生まれたものになるんだ」
シェイダールが明るく言うと、リッダーシュが小さく苦笑した。
「おぬしはウルヴェーユのことになると、きらきらする宝物を手に入れた子供のように無邪気だな。ああ、むろんそのような未来がくれば素晴らしいだろう。だが資質を持たぬ人々がどう感じるかも、思いやってもらいたいものだ」
「馬鹿らしい。色が見える資質持ちを異常だなんだと爪弾きにしてきた連中を、どうして思いやる必要があるんだ」
シェイダールは懸念を一蹴した。怨恨の発露かとリッダーシュはたじろいだが、案に相違して彼は平静かつ理性的に続ける。
「何を言おうと言うまいと、どれだけ気を回そうと、そういう連中はウルヴェーユが公になれば今度は資質に劣る奴を蔑み、嘲笑うさ。やめろと言ってやめるものか。俺たちはただ、ウルヴェーユを解明して暮らしを豊かにするだけだ。このわざが、とても大事だが誰の身近にもありふれている……そうだな、たとえば火打石みたいなものになれば、扱いがちょっと上手か下手かってぐらいのことを気にしなくなるだろうから」
「火打ち石、だと……?」
ヤドゥカが困惑と動揺で絶句する。そもそもウルヴェーユは王の力、天空神の力とされてきた秘中の秘、だったはずではないか。いにしえのわざであると判明した今でも、大いなる神秘であることは変わりない。世界そのものだと言った同じ口が、今度は火打石だ?
しかしシェイダールは頓着しなかった。
「もののたとえだ。確かにウルヴェーユは世界の根に触れるわざだから、火打ち石と同列には扱えないが……それでも、世界に存在する、人にとって便利でありがたいものを、知恵と工夫で利用しているってところは同じだろう。今はほんの数人しか使えなくても、いずれ当たり前のわざになる。そうして同時に誰もが理の深淵に触れ、日常的に世界の大きさを感じられるようになったなら、資質の多寡を取り沙汰する愚かしさにも気付くさ」
「おぬしの考えは突飛すぎてついてゆけぬな。ウルヴェーユが『誰にとっても当たり前』になるより先に、一部の血筋がすぐれた資質を囲い込み、力を独占するとは思わないのか。現に今、過去に王を出した家が貴族としての地位を占めているだろう」
いかにも名家の若様らしいことを言ったヤドゥカに対し、シェイダールは露骨に呆れ顔をした。やれやれと深いため息をついて眉間を押さえる。
「これだから貴族ってやつは……。俺の親類縁者だけでどれだけ資質持ちがいると思うんだ。白石に反応する奴がいなかったのも路が閉じていただけで、開けば充分通用する可能性が高い。田舎村のまったく無名の家系でもそうなんだから、たかだか十かそこらの貴族が国中の資質持ちの血筋を囲い込むだとか、できるわけないだろう」
本当に馬鹿だな、とばかりの哀れむ目つき。ヤドゥカが握り拳を作ったのもむべなるかな。
「リッダーシュ。一度そなたのあるじを殴っても良いか」
「畏れながらその場合、私は主君を守らざるを得ませぬゆえ、堪えていただけるとありがたく存じます」
リッダーシュは真面目くさって慇懃に一礼し、当のあるじに睨まれて破顔した。
「しかしつくづくおぬしには驚かされる。ウルヴェーユが神秘のわざであることと、日用平常のものであることは、おぬしの中では矛盾なく成り立つのだな」
束の間シェイダールは、いったい何を言っているんだ、と本気で理解しかねる顔をした。彼にとっては当然すぎて、驚くことでも何でもないのだ。『神秘』とは神々がもたらす特別なものだと認識している他の面々とは違い、神など関係なく世界のあらゆるところに存在するものだと捉えているがゆえに。
残念ながら彼自身、その認識の違いを明瞭に自覚できていないため、今はただ曖昧に首を傾げるしかなかった。
「なにも特異なことじゃないと思うが……。そんなわけだから、ツォルエン」
いきなり呼びかけられ、第三候補がぎくっと竦む。シェイダールは淡々と平静に続けた。
「ウルヴェーユについて、他人より早く上手に、だとか競争しようと考えるな。馬鹿らしいから。おまえの親父は、始終おまえに圧力をかけてくるんだろう。優れた人間だと証明して見せろ、とな。だが要求に応えるなら他のことでやれ。ウルヴェーユは優劣を競うものじゃない。おまえも路を開いて以来、少しは解ってきただろう」
世界の根から湧き出る水を、己の路に通し巡らせ、標を養い深みへそっと降りてゆく。その過程はあくまでも個人的なものだ。誰かと比較するものではなく、他人から評価されるものでもない。それどころか、先を急いて深みに落ちたら命を失いかねない。
ツォルエンは答えず、目を伏せて唇を噛んだ。彼自身がどうでも、父親は反抗や異論を許さないのだろう。シェイダールは押し殺したため息をつき、話題を変えた。
「……それで、おまえの用事は何なんだ? あの道具の使い方が判ったのか」
ジョルハイから預かった品のことだ。組み込まれた《詞》を読み解き、術の構造の当たりをつけたのだが、具体的に何に使う道具なのかがわからず、他の候補者に渡したのだ。
ツォルエンは「ああ」と曖昧な声音で応じ、絨毯に置きっぱなしだった道具を取り上げた。
「恐らく計測器だ。貴殿が戻るまでの間、ヤドゥカ殿とも話し合ったが、狙いをつけた対象までの距離を測ったり、遠くにある物の大きさを計算できるものらしい」
「へえ、ヒヨコの箱詰めみたいな割に、味気ない道具だったんだな」
シェイダールが手に取ると、例によって色とりどりの宝石がさんざめく。保管されている間に定位置から外れた物もあったようで、読み取った《詞》に合うように直してやると少し静かになったが、まだ賑やかだ。ツォルエンが横から指を伸ばして、石を挟む板の欠けた部分やわずかな出っ張りを示す。
「ここには補助具がついていたのだろう。鉛直を示す糸と錘、あるいはぶれないように固定する脚をつけたりしたのかもしれない。水路工事の現場で見る測量器具とは似ていないが、ウルヴェーユを使わない部分はある程度共通だと思う」
「なるほど。ウルヴェーユだけ読み解いても、用途はその分野に詳しい人間じゃないと見当がつけられないんだな。補助具も復元できそうか?」
シェイダールは素直に感心し、ふむと首を傾げつつ計測器をいじってみる。ツォルエンは認められたので気を良くし、あれこれと自分が知る計測器について説明し始めた。
手元の道具をどう使えば、仕組まれている術を存分に活用できるのか。術の構造はどういう原理に基づいているのか。
「これがあれば土木工事のどういうところが楽になるんだ」
建築に携わったことのないシェイダールが基本的な疑問を口にすると、ツォルエンとヤドゥカがそれぞれ知る範囲のことを教えてくれる。
正確な距離や面積がわかれば必要な資材を算出できる、尺を当てられないものでも大きさを測れる。はるか遠くの敵軍までの距離がわかれば、進軍の日数や、目視できる軍勢の規模を推測しやすくなる。ほかにもあれこれ。
シェイダールは自身のこれまでの人生でかかわることのなかった世界を知り、貪欲に吸収していく。一方で他の候補者らは、彼のもつ優れて繊細な感覚を頼りに、未知の力の深淵へと降り、古い言語と現在の言葉を重ねて《詞》を成すこと、それを色と音に結びつけるわざを身につけていった。
そうして候補者たちが共に学び合っている間に、空は高くなり風が冷たくなりはじめていた。季節の移り変わりは、若者の熱意と活力に満ちた身体にはほとんど影響を与えなかったが、そうでない者にとっては肌身に堪え、不調をもたらす。
夕暮れ時、アルハーシュ王は決まって咳が出るようになっていた。衰えを恨めしく思いつつ、羽織る上衣を厚手の毛織物に替える。そんな折に、祭司長が私宮殿を訪れた。間の悪いことに、祭司長が入室した時、アルハーシュはちょうど咳の発作に見舞われていた。
「お加減がすぐれぬご様子ですな」
深刻そうに案じた祭司に対し、王はなんとか喉を落ち着かせて平気なふりを装った。
「大事ない、少しむせただけだ。して、今日は何用だ?」
「ほかでもない、継承の儀式についてでございます。王よ」
祭司長は慇懃に答え、深々と頭を下げて臣従の礼をとった。アルハーシュは苦々しくそれを見下ろし、辛辣な言葉を投げる。
「しわぶきひとつで、すぐさま命を刈り取るべく駆け付けるのだな」
「滅相ものうございます。我ら祭司は皆、王のご壮健ならんことを日々祈り、神々のご加護をこいねがっておりますとも。本日御前に参りましたのは、第一候補殿のことで、ご検討いただきたい儀がございまして」
祭司長は床に頭をすりつけんばかりにしておもねった後、声を低めて切り出した。
「……シェイダールがどうした」
「伝え聞くところによれば、第一殿は知識武芸の習得には熱心であられる反面、最も大切な心構えの修養が著しく遅れているとか」
「心構えなど」
アルハーシュは鼻を鳴らし、厳しく言い返す。
「その時が来るまでは容易に定まらぬものだ。余とて完全なる覚悟と自負をもって儀式に臨んだわけではない。誰から何を聞いたかは問わずにおこう。あれの態度は神殿に対して懐疑的であるがゆえ、そなたらに不安と焦燥を抱かせもしようが、民の幸福を願う心は誰よりも強い。他の候補者どころか、余さえも及ばぬ。いずれ王となった暁には、そなたらの懸念などいかにつまらぬものであるか明らかになろう」
「さようでございましょうとも」
祭司長が深くうなずいて同意した。はっきり牽制したはずだが通じなかったかと、アルハーシュは疑いの目を向ける。だが祭司長は動揺もせず微笑んでいた。
「なればこそ、我々が第一殿の修養を助けるべきではないかと、申し上げるために参ったのです。なに、いつぞやの模擬試合のようなものですよ……」
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