故郷は遠くなり


 一方その頃、幼い命もまた、色と音の源へ近付こうとしていた。

「あー、あぅー」

 おぼつかない声を上げながらぺたぺた這い回り、お気に入りの玩具を掴んで尻をつく。組み合わせた木の棒に小さな金属片がぶら下がり、動かすと澄んだ音を立てるものだ。チリン、コロン。飽きもせず音を鳴らし、たどたどしくそれを追って声を上げる。そんな娘の様子を、ヴィルメは椅子に腰かけたまま疲れた表情で眺めていた。

「シャニカ」

 呼ぶと振り返るが、母のもとへ寄って来はせず、じきにまた玩具に夢中になる。力加減が下手なために、いきなり大きな音を鳴らしたり、取り落して騒がせたり。その度にヴィルメは、耳で聞く音ばかりでなく別の感覚で色を捉え、煩わしさに頭を振った。

「やめて、シャニカ」

 唸っても、娘はきょとんとするだけだ。ヴィルメは手で耳を塞いで歯を食いしばった。夫はこの感覚とずっと付き合ってきたのだ。誰にも理解されず、気のせいだ、何も見えやしない、と否定されて。だから妻であるわたしが拒んではいけない。

(早く慣れるのよ、気にしなければいいの。それにシェイダールの声はきれいだわ。シャニカが笑うと暖かい色を感じるし。そう、これって素晴らしいことなのよ)

 ひたすら己に言い聞かせる。何百回と繰り返した呪文のように。

「あー、あーあー、うー」

 あどけない声が、六つの基音をなぞる。白、赤、緑。それによって路に流れが通い、標が養われてゆくと知っているのか、それともただ無意識に色を追っているだけなのか。

「あーうーあー、ああー」

 青、黄、紫。そしてまた白、赤……

「やめなさい!」

 耐え切れず、怒鳴りつけて遮った。シャニカはびくっと竦み、火がついたように泣きだす。ヴィルメはやかましさと自己嫌悪に頭を抱えた。泣きたいのはこちらだ。

 控えていた侍女のタナが、あやすべきかと顔色を窺う。母親のくせに、と無言でなじるような目つきだ。ヴィルメは平手打ちをくらわせたくなったが、堪えて首を振り、自分で娘を抱き上げに行った。

 シャニカは手足をばたつかせて母の手を拒み、大粒の涙をぽろぽろこぼしながら、絨毯に引っくり返っていやいやと暴れる。ヴィルメは傍らに座り込み、両手に顔を埋めた。疲れている自覚はあったが、娘を侍女や王妃らに預けたくなかった。

 怖いのだ。もしラファーリィが既に白石で路を開かれていて……あるいは他の妃の誰であっても、すぐれた資質に恵まれていたならば。その女に抱かれたシャニカは、そちらに懐いてしまうのではないか。よその女を母親だと勘違いしないだろうか。

(だってあたしには、あの子が何をそんなに喜んでいるのかわからない)

 娘を置いて故郷に帰れ。王妃の言葉に恐怖を掻き立てられ、疑心暗鬼になっていく。

 わんわん泣く勢いは一向に弱まらない。なんでこんなに、無駄に元気なんだろう。ヴィルメは茫然と思い、ふと娘に手を伸ばした。いつまでも叫び続ける口を塞ごうとして。

 その時だった。

「ヴィルメ様。お会いしたいという方が」

 呼びかけられ、ヴィルメは我に返った。タナが困惑顔でささやく。

「アルハーシュ様がいらっしゃっています」

「……えっ!?」

 告げられた予想外の名に、ヴィルメはたっぷり一呼吸ほどぽかんとし、次いで頓狂な声を上げた。

「通りがかったところ泣き声が聞こえるので……赤子を抱かせて欲しいと仰せで」

「そんな、でも」

 こんな散らかした部屋、見苦しく泣き騒ぐ赤子と、化粧もしていない母親の姿を、王ともあろう貴人の目に入れるなど。ヴィルメは動揺し、断ってくれと頼もうとしたが、遅かった。こちらの許可を待たず、帳をくぐってアルハーシュ王が入って来たのだ。

 侍女が大急ぎで足元の玩具を片付け、部屋の隅へ避ける。ヴィルメも立ち上がり、引っくり返ったままの娘をどうしようかとおろおろしながら、中途半端なお辞儀をした。

「このような訪問が礼儀にもとるとは承知だが、どうか目こぼしを願いたい。そなたのことはシェイダールや我が妃からよく聞いているが、会うのは初めてだな、ヴィルメ」

 穏やかで深い声に語りかけられ、ヴィルメは畏れ入って返事もできず、ただひたすら頭を下げる。アルハーシュは苦笑し、悠然と彼女の横を通り過ぎて、赤子の傍らに膝をついた。泣いて真っ赤になった頭にちょっと触れてから、振り返って問う。

「どうすれば良いのか、教えてもらえまいか。赤子を抱くのは、実は初めてなのだ」

 王でありながら飾らぬ物言い。のみならず、穏便に丁寧に、教えてくれと頼む姿勢。ヴィルメは衝撃を受け、身づくろいも満足にしていない己の姿を、つかのま忘れた。慌てて気力を立て直し、娘のそばに寄る。シャニカはまだしゃくりあげていたが、驚きと好奇心がまさったようで、まじまじと王を見つめていた。正確には、王の髭を。ヴィルメは自然に微笑み、娘を抱き上げて手本を見せてから、王に渡した。

「こんな風に……首はもう据わっていますから、ずっと支えていなくても大丈夫です」

「ふむ。おお、意外と重いものだな」

 アルハーシュは怪しげな手つきながらも、無事にシャニカを受け取り、両腕でしっかりと抱いた。ごそごそと位置を調節したり、恐る恐る体を揺らしてみたりと、いかにも初心者の様子だが、満面に喜びが溢れている。

「それに温かい。いや、熱いほどだ。赤子は体温が高いというが、これほどとは……。どうした姫、髭が珍しいか? 怖くはないか。よーし、よし」

 まるで子煩悩な親か、初孫に浮かれる祖父か。気付くとヴィルメは笑っていた。微笑にとどまらず、はっきりと顔いっぱいに。心にも喜びが湧きあがる。嬉しい、楽しい――久しぶりに思い出した感情は、痺れるほどに甘い。目尻から涙がこぼれ落ちた。

 アルハーシュがそれを見て、気遣う表情になる。ヴィルメは涙を拭って頭を下げた。

「申し訳ございません、お見苦しいところを」

「何が見苦しいものか。余はシェイダールを息子のように思っておる。ならばそなたは我が娘。つらいことがあるなら申してみよ、その細腕ですべてを抱え込むでない」

「もったいなきお言葉でございます」

 ヴィルメは心からの感謝を込めて応じた。実の父にもかけられたことのない、思いやりと優しさに満ちた言葉が、肩から重荷を取り除き、息を妨げていた胸のつかえを溶かしてくれたのだ。娘を見ながら、彼女は訥々と心情を吐露した。

「この子は、王の資質を受け継いでいるのだと、聞きました。シェイダールと同じ。わたしには見えない世界を見ているんです。シェイダールも村にいた時より、どんどん遠い人になって……この子も、あの人も、わたしを置いて行ってしまうんだと思ったら」

 また涙がこぼれたが、それはもう悲嘆の苦しみゆえではなかった。誰にも話せず、積もり積もって固い氷になっていた心の雪が解けて流れ出した、温かい涙だった。

「つまらない悩みですが、聞いて頂けて本当に楽になりました」

「うむ。……この宮ではなかなか心の内を明かしにくいであろうな。シェイダールに、もっとそなたと話すよう促しておこう。あれはひとつのことに夢中になると他が見えなくなるゆえ、そなたに寂しい思いをさせがちであろうが、決して情が薄いわけではないのだ」

「はい、存じております」

 懐かしむ表情でうなずいたヴィルメに、そうだった、とアルハーシュも思い出す。

 と、シャニカが王の髭で遊ぶのに飽きたらしく、退屈そうにもぞもぞし始めた。アルハーシュは目顔で許可を求めてから、そっと赤子を絨毯に下ろす。早速またお気に入りの玩具のほうへと這って行くのを、ヴィルメは久しぶりに穏やかな気持ちで眺めた。

「あのおもちゃもシェイダールが作らせて、持って来たんです。村でも、いつもナラヤおばさんを大切にしていたし……家族思いなんです、とっても」

「であろうな。そなたはシェイダールに新たな家族を与え、この宮に命の喜びをもたらしたのだ。己を誇るが良い。黙って耐え忍ばず、声を上げて求めても良いのだぞ」

「ありがとうございます」

 ヴィルメは低頭し、礼を述べた。実際には、彼女が要求できることなどわずかだ。物や人手の入用はなんとかなっても、一番欲しいものは――夫の愛情、信頼できる相手との温かな交流は、『柘榴の宮』にいる限りおいそれと手に入らない。それでも、王たる人物からこのように認められたことが嬉しく、ありがたかった。

 その時、足に何かがぺたりとくっついた。見下ろすと、シャニカが裳裾の上から抱きつき、よろよろ立ち上がっている。おお、とアルハーシュが感嘆した。ヴィルメは驚きに目をみはって我が子を見つめる。澄んだ瞳がこちらを見上げ、小さな手が差し伸べられた。

「かーしゃ」

 舌足らずながらも明らかな呼びかけ。片手を離したので姿勢を崩し、のけぞって尻餅をつきそうになる。とっさにシャニカはまた、両手で足にしがみついた。

「ああ、シャニカ」

 愛しさがこみ上げて、ヴィルメはたまらず娘を抱き上げた。あーちゃ、と言いながら、シャニカは母の頬や唇に触れる。

「そうよ、お母様ですよ。いい子ね。……可愛い子」

 ヴィルメはささやき、優しく身体を揺らして娘をあやす。幸せな母娘の姿を、アルハーシュは眩しそうに見つめていた。瞳の奥にある哀惜を隠すように、目を細めて。


 そんな出来事があった数日後、王はシェイダールにひとつ提案した。

 王宮に来て早一年余り、そろそろ故郷に便りを送ってはどうか、というのである。

「良いのですか?」

 そんな私用を頼めるとは夢にも思わなかったので、シェイダールは頓狂な声で聞き返した。村を出る時に脅しをかけはしたものの、実際にはもうこれっきり、故郷と己をつなぐ糸は切れてしまうだろうと覚悟していたのだ。その反応にアルハーシュのほうが呆れた。

「良いに決まっておろう。何も言い出さぬゆえこちらも失念しておったが、やれやれ、まさか本当に生まれ故郷を捨てるつもりでおったのか? そなたと妻女の家族に、娘が元気に育っていると知らせてやるが良い」

「はい、……はい!」

 勢い込んでうなずくなり、シェイダールは腰を浮かせてそわそわする。アルハーシュが政務の見学を免除してやると、彼はかつてない勢いで飛び出していった。

 置き去りにされたリッダーシュが慌てて白の宮に戻った時には、シェイダールは早速あれこれ私物を引っ張り出していた。何か使者に預けられるもの、自分が確かに第一候補として暮らしている証になるもの、母が喜ぶ実用品か、美しく珍しいものは。

「新たに買うほうがいいかな。どこに行けばいいんだろう。ザヴァイに訊けばいいのか」

 ぶつぶつ。すっかり没頭しているその様子に、リッダーシュは呆れ、次いで笑み崩れそうになって口元を手で覆った。にやついた顔をあるじが見たら、またへそを曲げるに決まっている。別に厭味ではなく、微笑ましいだけなのだが。

「そうだ、書記……いや、先にヴィルメにも相談しないと」

 落ち着きなく右往左往していたシェイダールは、はたと従者の存在を思い出し、振り向いて妙な表情をした。羞恥を抑え込んで、しかし平静を装えず、かといっていきなり怒るわけにもいかない、ややこしい表情。とうとうリッダーシュはふきだしてしまった。

「失敬、おぬしがそこまで浮かれるとは思わなんだ。……やはり故郷を気にかけてはいたのだな。父君のことがあったから、すっぱり切り捨ててしまったのかと思っていたが」

 取り繕うように口にした言葉が、途中から真面目な気遣いに変わる。笑われてむすっとしていたシェイダールも、遠い記憶を探る静かな面持ちになった。

「正直、村が好きかと訊かれたら、否だ。帰りたいとも懐かしいとも思わない。ただ、母さんには苦労させたから……でも、まともな暮らしに戻れたかどうか、確かめられないと思い込んでいたんだ。俺にできるのは、父さんみたいに殺される人がもう出ないようにすることで、そのためにウルヴェーユを、と」

 ふつっと口を閉ざし、内省するように目を伏せる。そうして彼は小さく首を振った。

「違うな。いにしえのわざに夢中になっていただけだ。忘れたわけじゃないが、心の一番遠い隅に押し込んでいた」

「おぬしが薄情なのではないさ。同時にいくつもの事柄を、同じ重さで心に留めることはできない。探究に夢中になっているとしても、想いはしっかりとおぬしの奥底に根を下ろしている。故郷というのはそういうものだろう」

 同じく故郷と別れた身であるリッダーシュの言葉は、胸にすんなりと沁みた。

 その日は久しぶりにヴィルメと話し込んだ。

 村での思い出、母には何を贈れば喜ばれるだろうか、家族はどうしているだろうか。シャニカのことはどう伝えよう。一族の証たる黒髪と紫の瞳。もう掴まり立ちをしていることも。それ以前に、俺たちが婚儀を挙げたことも知らせていなかったじゃないか、驚かせてしまうだろうな。こちらの暮らしはどう言えば伝わるだろうか。

 二人はあれこれと言伝の内容を考え、あるいはとりとめもなく昔の話をした。その間シェイダールは、幼馴染みだけが唯一の理解者であった頃のように、心がごく近く寄り添っているのを感じていた。

 これがヴィルメの孤独を知ったアルハーシュの計らいであり、彼女が内心で王に感謝していることなど、彼が知る由もなかった。

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