白石

     *


 約束通りジョルハイは翌日、選定の白石を持ってきた。

「なんだか懐かしいな」

 白く滑らかな表面を撫で、シェイダールは我知らず苦笑した。初めてこの石を見てから一年余り。めまぐるしく多くの出来事があり、もっと長い年月が過ぎたような気がする。

 白石も、今はまったく違って見えた。天然の石にウルヴェーユを付与したのではなく、かつての技術で作られた物だというのが、はっきりと感じ取れた。六色六音だけでなく派生する種々の音色をも含めて、白い材質と一体化させてある。

 すぐにも石に耳を傾けたい誘惑を退けて、シェイダールはジョルハイに礼を言った。

「貸してくれて助かった。単に資質の有無を調べるだけじゃなく、本来の使い方があると思うんだが、とりあえずヴィルメに見せるだけでも、女に『王の資質』が備わっているか否かの確認ができる。リッダーシュ、使いをやっておいてくれ」

 わかった、とリッダーシュが廊下に出る。ジョルハイは興味深げにそれを見やった。

「女にも資質がある、か……なるほどね。そのことは、もう王もご存じなのかい」

「ああ。アルハーシュ様ご自身の直観で、王が子を生すには女の側も路が開かれていなければならないのだと仰せられた」

「君は本当に何もかもを変えてしまうなぁ。王の子を産めるとなったら『柘榴の宮』も激変し、相当に混乱するだろう。まぁ、その辺りの苦労はアルハーシュ様と君が背負うことで、私には関係ないがね。そうそう、今日はもうひとつ土産があるんだ」

 ジョルハイは袖の中を探り、細長く薄い箱を取り出した。中指と親指を広げたほどの長さだ。シェイダールは興味を引かれるよりも先に、妙な顔になってしまった。

「その袖もだが、祭司の長衣はどこから何が出てきても不思議じゃないな」

 袖はたっぷり、身頃もゆったりしており、帯は幅広。身体にぴったり添うような部分はなく、短刀ぐらいならどこにでも隠して持ち込めそうだ。

「大道芸人じゃないぞ。花や色布を出せと言われても無理だからな。ああ、干し棗ぐらいなら忍ばせていることもあるが」

 物騒な懸念を、ジョルハイは苦笑で冗談にすり替えた。

「それよりこれだ。私が日常の祭儀を受け持っている、さる老舗で、蔵を整理した時に出てきた物らしい。あるじに託されてね。本来ならばすぐ『鍵の祭司』に渡して宝物庫に収めるべきなんだが……まぁ、昨今私も仕事が増えて、取り紛れることが多くなった」

 とぼけて言い、彼は箱を差し出した。シェイダールは胡乱うろんな目つきで受け取る。昨日の今日で都合良くそんな預かり物が出てくるわけがない。恐らく元々、神殿の誰かが隠匿していたのだろう。ジョルハイ本人か、あるいは彼に弱みを握られている神官が。

 チリン、コロン、澄んだ玻璃の音色が微かに聞こえる。革張りの木箱を開けると、二枚の金属板に挟まれた細かい宝石が一斉にきらめく歌声を上げた。慌ててシェイダールは蓋を閉じる。中にヒヨコがぎっしり詰まっていたとしても、こんなに賑やかではなかろう。

「これは何なんだ?」

「それを君が解き明かすんだろうに。特段何とも言い伝えられてはいないそうだよ。付属品や記録もなし。頑張って取り組んでくれたまえ」

 ジョルハイは失笑まじりに激励したが、ちょうどリッダーシュが戻ってきたのを見ると、慎重な面持ちになって切り出した。

「ヴィルメの様子はどうだい。平気な顔で『柘榴の宮』へ行くということは、もうすっかり落ち着いたのか」

「……ああ、もう大丈夫だと思う。色々考えて、覚悟を決めたと言っていた。だが、いつまでも無理をさせたくない。いずれ王宮から距離を置いて、街で暮らせるようにしてやりたいと思ってる」

 シェイダールは目を伏せ、つぶやくように答えた。健気に取り繕った笑みが脳裏をよぎる。彼が吐露した真情を、ジョルハイは険しい表情で受け止めた。

「ヴィルメは覚悟を決めた。君はどうなんだ、シェイダール」

「何が言いたい」

 身構えたシェイダールに対し、ジョルハイは静かに、冷徹な言葉を重ねてゆく。

「アルハーシュ様がこの暑さに御力を奪われ、臥せっておいでだという話は、神殿にも知れている。街の人々も既に噂しているだろう。祭司長はそろそろ真剣に儀式の段取りをつける頃ではないかと考えているよ」

「随分と短気だな。俺が王になったら、その夏も越せずに殺されそうだ」

 シェイダールは辛辣に応じて動揺を隠したが、ジョルハイには通じなかった。

「君と王では若さが違う。現実が見えないふりをするのはやめたまえ、第一殿」

 薄く滑らかな水の刃が、心の隙間に潜り込む。痛みも抵抗もなく深奥まで届き、ただその冷たさで傷の在処を知らしめる。シェイダールは唇を噛み、小さく首を振った。

 長く重い沈黙に、微かな風のそよぎだけが淡い色をつける。

「……まだだ。まだ早い」

 やっとのことでシェイダールは声を絞り出した。ジョルハイが深いため息をつく。

「何度も言っているように、君には王になってもらわなければ困る。君自身の目的を果たすためにもだ。アルハーシュ様という頼もしい主君を喪うことが怖いのか、それとも玉座の重責を知って尻込みしているのか、どちらだい」

「怖いわけじゃない。現実問題としてまだあの方の力が必要なんだ」

 反射的に言い返したが、彼自身、それが半分しか真実でないと自覚していた。

 準備が整っていないのは本当だ。ようやく第二候補を味方につけただけで、要職にある貴族の顔も見ていない。王殺しを廃して新たな体制を築くのに、アルハーシュの政治力は絶対に必要だ。

 だがそうした現実の後ろに、怯えが色濃く凝っていることは否定できなかった。理屈や仮定や諸々すべてを無視して、幼子の恐れがただひたすらに己を圧し潰そうとするのだ。

 いやだ、こわい、置いていかないで。ひとりにしないで――

 星明りすら届かない暗闇の底、入り組んで足場の悪い洞窟に、何も持たず誰の助けもなく突き落とされる。『父』を再び喪うことへの恐怖。

 シェイダールは無意識に、膝の上で両手を握り締め、身体をこわばらせていた。ジョルハイはその様子をじっと観察し、ひとまず危うい話題を打ち切った。

「今はこれ以上言わないが、忘れないでくれ。君が足踏みしている間にも、時は止まることなく流れゆく。君が一人前の男になるのを待たず、王は老い衰える。そして必ず、誰の上にも等しく、決別の日は訪れる。目をそらさずに覚悟を決めるんだ。……神を信じない君には厳しく難しいことかもしれないな。だがそれも、君が自ら選んだ道だ」

 そう言い残し、祭司の青年は部屋を辞した。

 シェイダールは絨毯に座ったまま、考えに耽った。手の中で転がす白石から、小さな星がこぼれ出る。きらきらと螺旋を描いて腕を伝いのぼり、途中で虚空へ消えてゆくそれを音として捉えながら、自らの心と向かい合う。

 傍らにリッダーシュが腰を下ろしたが、やはり何も言わない。しかし沈黙は気詰まりではなかった。しばらくの後、ぽつりとシェイダールはつぶやいた。

「覚悟、か」

 言葉の意味を深く味わうように、口の中で声に出さずもう一度唱え、飲み込む。ぐっと顎を引き、彼は白石を強く握りしめた。

「覚悟を決めないとな」

 自分に対するように言ってから、従者にして共謀者たる友人を振り返る。緑の瞳が揺るぎなくじっとこちらを見つめていた。

「いざ儀式となったら、もう隠してはおけない。神殿の連中と本気で喧嘩するぞ」

 そっちは準備ができているか、と問いかけるようにシェイダールが言った途端、リッダーシュは晴れやかな表情になって力強くうなずいた。

「承知。アルハーシュ様をお守りし、旧い軛を打ち壊す」

 ジョルハイに言われたような、頼もしい王を喪うことへの覚悟、ではない。喪わないための覚悟こそが必要なのだ。

「おまえの実家はどうなんだ? おまえが神殿に背いても大丈夫か」

「問題ない。ウルビの神殿はここほど強い力を持っていないし、よしんば圧力をかけてきたところで、私の身柄は王に預けたのだから文句は王に言え、とでも切り返すさ。父も兄も、火の粉を払う世知は備えている」

 リッダーシュの返事は明快だ。儀式を廃するという目標を聞かされた時から、既に考えていたのだろう。シェイダールは安堵と共に意志を固め、よしとうなずいた。それから、戦う相手のことを考えて渋面になる。

「しかし連中もせっかちだな。田舎から引っ張り出して一年程度で、まともに仕上がると本気で思ってるのか? 模擬試合でぶざまに負けて、第二の御付に罵倒されたばかりだってのに」

「確かに性急だと思う。前回の代替わりについて直接には知らぬが、アルハーシュ様のお話では、数年かけて準備するものらしい。私もそのつもりで従者のつとめを果たすように言われたからな。もしかしたら、我々がヤドゥカ殿と交渉を持ったことを聞きつけ、何かしら向こうにとって望ましくない展開を予想したのかもしれない」

 リッダーシュも難しそうに唸る。シェイダールは声を落として不安を漏らした。

「まさか、アルハーシュ様の容態が悪いなんてことは」

「ありえない」即座にリッダーシュは否定した。「もし本当に儀式を急がねばならぬほど深刻なご病状ならば、我々が目通りを許されぬはずがない」

「ああ……そうだよな。だが実際長いよな? こんなに長くお会いしないのは初めてだ」

 シェイダールはひとまずほっとしたものの、ふと眉を寄せた。最前の不安とは別の、嫌な予感がする。

「何か俺たちに秘密で、あれこれ手を回してるんじゃないだろうな」

「私も同じことを考えたところだ」

 主従は揃って、うっかり青い李をかじったような顔をした。

 アルハーシュは温厚寛大、鷹揚で親しみやすく信頼を抱かせる王ではあるが、やはり紛れもなく『王』なのだ。祭儀の時だけ引っ張り出されるお飾りではなく、実際にこの国を治め、まつりごとを行ってきた本人である。穏やかな微笑の裏で何を考えているか、本当のところは底知れない。シェイダールは眉間を押さえて唸った。

「だとすれば本当に容態が悪いよりはいいが、それはそれで安心できないな。まぁ、あれこれ気を揉んでも仕方ない。こっちはこっちで、使える武器を増やしておこう。ヴィルメの部屋へ行く前に、少しこの石を探ってみる」

 気を取り直し、白石を改めて掌に載せる。リッダーシュが目をしばたたいた。

「以前見た時より色の種類が増えているぞ。石によって違うのか……いや、そうか。私が変わったのだな」

「そういうことだな。音は聞こえるか?」

「残念ながら」

 リッダーシュは悔しそうに首を振る。そうか、とシェイダールは応じて石に集中した。

 呼吸を静め、石の歌に耳を澄ませる。こぼれる星の色を追い、そこに潜むものに目を凝らす。旋律と色の調和。かつてはただ恍惚とし、呆然と眺めるだけだったが、今は違う。

 夜明けの薔薇色、夕暮れの薄紫、朝露にきらめく若葉。柔らかな色が奏でる穏やかな旋律の下に、ささやくような《詞》が感じ取れる。

《……――……》

 語りかける調子は丁寧で優しい。だがそれだけに、内容が読み取れない。あの祠での強力な一言のように、問答無用で意思を押し付けてくるものではないからだ。それでも彼は辛抱強く耳を澄ませ、微かなこだまを拾い上げて引き寄せようと試みる。するりするりと指の間をすり抜けてしまっても、諦めずもう一度、もう一度……。

「駄目だ。そう簡単にはいかないか」

 大きく息をついて、シェイダールは顔を上げた。集中しすぎて首がこわばり、頭が痛くなってきた。視界に色の残像が焼き付いてしまい、なかなか消えてくれない。

「私には色とりどりの小さな星が、瞬きながら昇ってゆくように見えたぞ。音は聞こえぬが、心に微かな響きを感じた。内なる『路』を自覚し、標を養う……おぬしが言っていたことが少しずつ解ってきた気がする。新たな感覚を得るのは嬉しいものだな」

 リッダーシュが微笑み、無意識の仕草で手を伸ばすと、軽く白石の上面に掌を置く。二人の手がひとつの白石を挟んだ刹那、星屑の螺旋がいきなり渦を巻いた。

 声も出ない。シェイダールの内なる路に、連なる光が流れ込み、反転して上昇する。壁に刻まれた標を辿り、その記憶に従って色と配列を変え、新たな螺旋となって向かう先はもうひとつの路。細く深く、世界の根に通じる路の中へ、星が次々に飛び込んでゆく。きらめき回転し、歌いながら壁を伝い降りてゆく。星のいくつかは壁の所々に溶け込み、微かなしるしを刻んだ。

 チリン、リン……パリン……

 ごく薄い玻璃が砕けるような音が響く。シェイダールはそのさまを、まるで手で掴めるほどに近い目の前にあるように『視て』いた。柔らかな声が聞こえる。《詞》として捉えられないが、意思が漠然と伝わってくる。

 写し取れ、こだませよ、刻め。

(そうか、これが鍵だったんだな)

 己の持つ標が呼応して震えるのを感じながら、シェイダールは確信した。

 この白石が、ウルヴェーユに必要な資質を開く最初の鍵として、かつての人々に用いられていたのだろう。既に路を開き理の深淵に達した者が、いまだ標を持たぬ者の路に、最初の手がかり足がかりを刻むための道具。

《――……》

 詞のこだまが調子を変える。快いそよ風が頬を撫で、祝福をささやいた。

「《開かれよ 詠えよ 新たなる路に彩を与えよ》」

 声に出してシェイダールが繰り返すと、リッダーシュの内を満たす小さな星のきらめきが六色の輝きを放った。澄んだ六音が路を照らし、理の深淵へと順に沈んでゆく。ゆらゆらと光が沈みきるまで、しばし。色と音が静まり、薄明の静寂に覆われてから、リッダーシュが嘆息と共に白石から手を離した。

 シェイダールも我に返って瞬きする。リッダーシュに目をやると、胸に手を当てて陶然と宙を見上げていた。自分も初めて白石に触れた時、あんな風だったのだろう。邪魔せずそっとしておくことにして、彼は自身の内を探ってみた。こちら側に変化はないようだ。少しだけ標がくっきりと感じられるが、明らかなほどの差ではない。

 身動きの気配がして注意を戻すと、リッダーシュが感動のまなざしを向けていた。

「これほどの驚異を味わったのは初めてだ。私はわずかな資質しか持たないと思っていたが、それでも色と音を感じ取ることは叶うのだな。実に……おぬしの言っていた通りだ。世界は素晴らしく美しい」

「色が見えるようになったのか?」

 いにしえの遺物以外にも、との意味でシェイダールが尋ねる。リッダーシュはちょっと目をみはって、笑みをこぼした。

「本当だ、白銀だな。おぬしの声や風の音……ああ、今外から聞こえた鳥の声も、微かに色を感じる。あまり鮮明ではないが、常に新たな感覚で何かを捉えているのはわかるぞ。それでいて煩わしくはない。……本当に、世界はこんなにも豊かであったのだな」

 豊か、という表現に、シェイダールは虚を突かれた。そこへ畳みかけるように、リッダーシュは嬉しそうな笑顔で声を弾ませた。

「ヴィルメ殿もきっと喜ぶぞ。良かったな、シェイダール!」

 不安も疑いもない、純真な黄金が輝く。それがあんまり眩しくて、シェイダールは泣きたいような気持ちを堪え、ぎゅっと唇を噛んでいた。


 夕暮れ時の『柘榴の宮』は昼の光の下で見るよりも妖しく秘めやかな雰囲気を醸している。訪う度に折々の季節や時間に合わせた種々の香が焚かれ、召使の装いも趣を変える。

 ヴィルメの部屋も、帳や調度が新しくなっていた。黄を基調とした明るい色から、柔らかな薔薇色と上品な薄紫の取り合わせへと。

「ようこそお渡りくださいました、我が君」

 いつもの挨拶もしっとりとして、情を感じさせる。髪を結い、肩を露出させたヴィルメは、王宮に来た後で初めて訪れた時とはまた別の変身を遂げていた。まだ十代の若さに、母として女としての経験が加わって、霊妙な美に調和している。

「きれいだな、ヴィルメ」

 シェイダールが率直に褒めると、はにかんだ笑みを添えたそつのない応えを返された。

「嬉しゅうございます。殿のために装いを凝らしました」

「……なあ、ずっとその調子じゃないと駄目か? 落ち着かないんだが」

「もう。王妃様たちと並んでも恥ずかしくないように、って努力してるのに。気に入らない? それとも、似合わないのに無理するな、ってこと?」

 ヴィルメが機嫌を損ね、赤く塗った唇に指を添えて上目遣いに睨む。拗ねた口調も、こんなあざとい所作も、宮で仕込まれたものだろう。それならこちらも、とシェイダールは妻の手を取り、唇に触れていた指の先に軽く口づけを落としてやった。

「似合ってるよ。着飾ったり、優雅に振る舞ったりするのを楽しんでいるのなら、何も止めるつもりはないさ」

 挑発のまなざしを注いで妻を赤面させ、彼は笑って共に絨毯に座った。

「おまえがきれいにしているのを見るのは嬉しいが、今日は用事があって来たんだ。前に女にも資質があるって話したろう? 確かめるために、これを持ってきた」

 言ってシェイダールは、懐から白石を取り出し、掌に載せて差し出した。

「候補者探しの時に使者が使う道具なんだ。ほら、上に手を置いて」

「……触っても大丈夫かしら。だってこれ、神聖なものなんでしょ」

 ヴィルメは尻込みし、胸の前で手を隠すように握りこむ。彼は呆れて催促した。

「神なんかいない。いるとしても、これは関係ない。ただの大昔の便利な道具だ。誰が触っても構わないし、なんなら蹴っ飛ばして踏んづけても」

「やめて! 駄目よ、そんな……貴重なものなんでしょう」

 たしなめると言うには強すぎる口調でヴィルメが遮った。その顔にはもう明らかに恐怖があらわれている。シェイダールは眉を寄せて訝しみ、一拍置いて思い当たった。

「ヴィルメ。もしかして、第一候補を殺そうとした奴が神罰で死んだ、って話を聞いたのか。それを真に受けたのか」

「違うの?」

 誰かに聞かれては困るというように、ヴィルメは小声で聞き返す。シェイダールは苦々しい顔になった。あれほど歳月をかけて説得してきたのに、神などいない、という事実は彼女の中で崩れ去ってしまったのか。ほかでもない、彼自身の行いのせいで。

「違う。神罰なんかじゃない。殺されそうになったのを反撃して倒したってだけだ。神殿の奴らが難癖をつけてきたから、神聖きわまる王位継承を穢そうとしたんだから神罰が下って当然だろう、と言い負かしてやった。要するに俺のでっち上げだよ」

 説明されてもすぐには飲み込めず、ヴィルメは気抜けしてぽかんとなる。シェイダールは安心させるように苦笑し、再度、白石を差し出した。

「だからこれも、誰が触っても罰が当たったりはしない。心配するな」

 そこまで言われてようやっと、ヴィルメはおずおずと手を伸ばした。きらりと光がこぼれ、星の糸が紡がれる。シェイダールはその旋律を追い、正しい位置で一声発した。

「《開かれよ》」

 途端、きらめきが明るさを増し、石が歌声を上げる。ヴィルメが大きく息を飲んで竦んだ。シェイダールは二人の路が共鳴するのを感じ取ったが、すぐにリッダーシュとの違いに気付いて警戒した。この路は、初めて開かれた衝撃に激しく震えている。

(薄い。それに脆い。危ないな……理に通じてはいるようだが、流れを通すには壁が弱すぎる。写し取るのもやめたほうが良さそうだ)

 薄く繊細な壁を撫でるように調べ、シェイダールは決断した。応えて白石が新たな響きを紡ぐ。色とりどりの星のかけらが網のようにつながって、ふわりと広がった。

 こだまが響き、シェイダールの持つ標を揺らしながら波長をずらして、彼の知る言葉へと変化してゆく。ごく自然に形作られた《詞》を、声にして放った。

「《守り保て 深き潮の満ちぬよう》」

 蜘蛛の巣よりも軽く細く精緻な星屑の網がヴィルメの路を覆い、内と外から包み込む。深淵に向けて網が沈み、層を成してゆく。下から上へと流れを濾過し、勢いを弱めて路を保護するかのように。

「《緩やかにゆけ 涸れぬほどに潤せ》」

 詞と共に最後の一枚が路を塞ぐ。星の糸が石の中へ巻き取られ、色と音がすうっと薄れて消えた。ほっ、とシェイダールは我知らず息を吐く。ヴィルメの様子を見ると、胸に手を当てて困惑の表情でしきりに瞬きし、怯えたように視線をさまよわせていた。

「大丈夫か?」

「あ、え……これ、何なの? わたしがおかしいの? このざわざわした感じ……」

「怖がるな、何も悪いことは起きないから。どうだ? 音や色を感じるか」

 そわそわする妻の両手をぎゅっと握り、身体をそばに寄せる。途端に頼りなく細い肩が寄りかかってきた。

「わからない。やっぱりわたしなんかが、神聖な石に触っちゃいけなかったのよ」

「違う、落ち着け。おまえの持っている『力の通り路』は、薄くて脆かったんだ。だからウルヴェーユを使うための『知恵』を刻むことはできなかった。でも、少しは力が通るようになったはずだ。今まで知らなかった何かを感じるだろう?」

「なんとなく……ええ。あなたがしゃべると、小さな光がキラキラするみたい」

「それだよ」シェイダールは小さく笑った。「俺の声は、銀色をしているらしい。自分の声は見えないんだけどな。そんな風に、俺はずっと音に伴う色を感じ取っていたんだ」

 ヴィルメは無言で、相変わらず不安げなまま夫を見つめる。シェイダールは彼女が喜んでくれないので内心がっかりし、それを隠すように話をそらせた。

「そういえば、シャニカは?」

 娘の話になって助かったように、ヴィルメは緊張を緩めて笑みを広げた。

「侍女のタナが見てるわ。あの子はあんまりぐずらないし、お乳もよく飲むし、最近お粥も食べさせ始めたんだけど全然嫌がらないしで、とってもやりやすい子なんですって」

 自分が褒められたように嬉しそうな妻に、シェイダールも口元をほころばせる。

「おまえの子だもんな」

「そうかもね。気難し屋の困った旦那様」

 ヴィルメは悪気のない揶揄で応じ、夫の肩を指で軽く突く。そのまま掌をつけ、胸までそっと撫で下ろして温もりを確かめるように寄り添う。柔らかな髪がシェイダールの顎をくすぐり、互いの呼吸が熱を持つ。甘い沈黙をくぐってヴィルメがささやいた。

「ねえシェイダール、わたし、これでもう大丈夫なのかしら」

「え?」

「だから、あの……『力の通り路』を開いたら、二人目は無事だ、って言ってたわよね。わたし、また赤ちゃんを産めるかしら」

「どうかな」

 思わずシェイダールは真面目に答えてしまった。

 『王の力』に目覚めた男の種を宿し産み落とすには、女の側も路を開き力を受け入れられるようにする必要がある――これはまだ仮説だ。状況に基づく推論と、王の直観から導き出されただけで、具体的にどういう機序によるのか解明されてはいない。もし、無事に子を生すには男女の『路』が同じ強さであることが必要なら、自分たちは論外だ。

 だがそんな話を聞かせても、ヴィルメは不安を募らせるだけだろう。シェイダールは笑みを作り、彼女の目元に唇をつけて悪戯っぽくささやいた。

「知ってるだろう? 何もしなかったら子供はできないぞ」


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