命の恩
*
「ひとつ貸しだぞ」
数日後、白の宮へやって来たジョルハイは不機嫌に言った。いつもは取り澄ましている顔にも、疲労の色が濃い。どうやら、第二の御付をなだめて神託を無難な内容にするために、随分と無理をしたらしい。シェイダールはひとまず素直に感謝した。
「助かった。恩に着る」
何の抵抗もなかったもので、ジョルハイはやや驚き警戒する目つきになったものの、気力が足りずに彼の言葉をそのまま受け入れた。
「やれやれ……まぁ、君が挑発せずともあの御仁は、絶好の機会とばかり難癖をつける気満々だったから、結果としては同じだったろうがね。なんとか、まさしくあれは神罰であった、ということで落着したよ。おかげで私の貸借帳簿は随分荒れたが」
「そりゃ悪かった。というか神殿の中も相当腐っているんだな。今さらだが」
シェイダールはおざなりに詫びた。神託と言いながら、裏では駆け引きによって内容がどうにでも変わるのだから、呆れるしかない。ジョルハイも酷薄な微笑を浮かべた。
「地方ならいざ知らず、都にいるのは権威権力と利益の蜜にたかる蝿ばかりさ。神との仲立ちをしている内に、己らこそが神の代行者であると履き違えた連中だ。そうでなくともちょっと集まればすぐ、誰が一番偉いのかと序列を決めたがるのが人間だが、そこに特権と勘違いが加われば目も当てられない。もっともそんな連中だからこそ、遠慮なく踏み台にして上へ登って行けるんだが……しかし当分はおとなしくしていなければなるまいよ」
「そのことだが、もし俺が神殿の倉庫で埃を被ってる古道具を、どれかひとつでも使い道を明らかにしてやったら、あんたの助けになるか」
真顔で切り出したシェイダールに、ジョルハイは今度こそ目を丸くした。
「もしかして、神の指先に触れられて人が変わったのかな」
「失敬な。別にあんたのためを思って言ってるんじゃない。あんたには神殿の中でまともな力を持った地位にいてもらわないと、俺が困るってだけだ」
シェイダールはにべもなく言い返し、肩を竦めて続けた。
「どのみちウルヴェーユの使い方を探るには、何か道具を試すのが一番確実だからな。王宮にあるのは揚水機と儀式の短刀だけで、どっちも迂闊に触れないし、それなら神殿で眠ってるお宝の目を覚まさせたら一石二鳥だ」
「その口ぶりだと、今回はただ眺めるだけじゃなく、確実にあれらの使い方がわかる、使いこなせると確信しているようだね。本当に神の指先に触れられたのか……実際、何があった?」
ジョルハイが用心深く好奇心を抑えた声音で問う。シェイダールはヤドゥカにしたのと同じ説明をしてやった。色が見えず音も感じ取れないジョルハイは、考え深い面持ちで黙って聞いていたが、しばらくして難しそうに口を開いた。
「つまり、一種の荒療治だったんだな。そんな方法でしか資質を目覚めさせることができないのでは、危なっかしすぎる。君は運が良かった」
「そうだな。でもとにかく、ウルヴェーユの取っ掛かりはできた。後はアルハーシュ様と一緒に探っていけば、いずれ安全な方法も見付かるさ」
神殿にその手がかりがあるという気がしたが、それは黙っておいた。もし神殿内のあの光の路がそうであるなら、あるいは宝物庫にあるどれかが適した道具であるとしたら、神殿が人々に対する支配を強めるのに利用されてしまう。
「アルハーシュ様が快復されたら、早いうちに宝物庫へ行きたい。そっちの根回しを頼む。あるいは、選定の時に使った白い石を貸してもらえるなら、それでもいいな。前は宝物を貸すのを渋っていたが、あれならそもそも外へ持ち出すものなんだから、ひとつぐらい構わないだろう」
途中で思いついて提案した彼に、ジョルハイもふむとうなずいた。
「確かに、あれなら予備もあるし、繊細な部分が壊れるような心配もない。説得できると思うよ。何しろ君は、神々に守られた真なる王なのだからね」
おどけたふりを装った笑みが、うっすらとした悪意に歪む。神託のいい加減さを嗤ったのか、そのように見せかけた己と第一候補への皮肉か。
シェイダールは顔をしかめたが、抗議はしなかった。神々を引き合いに出して祭司をやり込めたのは己なのだし、投げた礫が我が身に返ったとて文句は言えない。
そんな彼の反応を、ジョルハイは意味深長に眺め、満足したらしく真顔になった。
「そろそろ私の講義も終わりにする頃合だ。読み書きの力は、名家のご子息には及ばないが、充分な域に達した。今後は実地で学ぶべきだろう。あとは禁忌だが……最低限、重要なものだけは守ってくれているようだから、これも問題ない」
「いちいちうるさいから形だけやってるんだ。全部リッダーシュが気を回してるんだぞ」
従ったわけじゃない、とシェイダールは釘を刺す。ジョルハイは軽く受け流した。
「どちらにしても、御付祭司が必要なくなりつつあるのは事実だ。だからこそ、君のほうから新しい仕事を作ってくれるのは助かるよ。君とのかかわりを断つわけにはいかないからね。将来のためにも」
そこまで言い、彼はにっこり笑って持参した文書を取り出した。かつて見たことのない小さな文字がびっしりと記された、貴重な紙の巻物を。
「とりあえず今日は、総仕上げをしようと思って格別に難しいのを用意したよ。さあ、講義を終わりにしたければこれを間違いなく読み解いてくれたまえ、第一殿」
生徒の頭を湯気が立つほど煮えさせた末に、ジョルハイはやっと及第点を出し、巻物を片付けた。
「では今日はこれで失礼しよう。今後は基本的に読み書きの講義はしないが、復習を怠らないでくれたまえよ。早ければ明日には白石を持って来られるだろう」
「……ああ、よろしく頼む」
シェイダールは絨毯にぐったり伸びたまま答えて、送り出すというより追い払うように手を振った。それからはたと気付き、ちょっと待て、と呼び止める。
「そういえば、あんたはウルヴェーユに興味がないのか? 誰でも使えるようになると言ったのに、今まで一度も、自分にも使えるかと訊いてこないな」
振り返ったジョルハイは、思いがけない指摘を受けてきょとんとしていた。瞬きし、次いで微苦笑する。
「考えてみたこともなかったな。私には必要ないからね」
「必要ない? そりゃ、一度も手にしたことがないんだから、必要あるかどうかなんてわからないだろうさ。でも少しは気になるだろう」
シェイダールは食い下がったが、ジョルハイの答えは変わらない。
「いいや。いにしえのわざが何であろうと、私はそれ自体にさして興味はないよ。君がそれを探究し解き明かすことによって、神殿のあり方を変え、この国と人々の意識を変えていく、その変革については全力で取り組みたいと考えているがね」
「だけど、今はできないことが色々、ウルヴェーユで可能になるかもしれないんだぞ」
「私は今の自分にできる範囲で、生活を賄えているよ。便利で安楽になれば良いだろうとは思うが、それが幸福と同義かというとその限りでもないだろう。だから、余計な力を求めるために時間を割く気はないね。では失礼」
実に
シェイダールはしばらく放心し、のろのろと起き上がって従者を振り向く。
「ますますあいつのことが、わからなくなった」
リッダーシュも静かな驚きを面に浮かべ、あるじの前に腰を下ろした。
「ああいう人間もいるのだな。王宮にいると誰もが力を欲する。身を守り、人の優位に立ちたがる。神殿も同じだろうに、彼は己が目的を見据えて迷わない。大したものだ」
「単にあいつが、苦労知らずなだけだろ。毎日糸を紡いで織ったり、狼に怯えながら夜通し羊の番をしたり、そういう必要がないご身分だから言えるんだ」
嫌いな相手を褒められて、シェイダールは露骨に面白くない顔をする。リッダーシュはからかうような笑みをちらりと浮かべてから、改めてあるじに向き合った。
「私もそうした生活は知らぬが、凡俗の身としては新たな力を得たいと願う。何より、おぬしが美しいと言う色に溢れた世界を、私も見てみたい。……どうか我を導き給え」
恭しく、祈るように頭を下げる。シェイダールは渋面になり、語尾に被せて言った。
「そういうのはやめろと言っただろう。俺だってようやくこの『標』というか、ヤドゥカの言を借りるなら『深みへ降りる知恵』を感じ取れて、六色六音を巡らせるとそれがはっきりしてくるのがわかったばかりだ。具体的に何ができるってわけじゃない。おまえはどうなんだ? あの祠でおまえも何かが変わったからこその、願いなんだろう」
「ああ。おぬしがあの詞を発した時、全身が揺さぶられたように感じた。激しい流れが突然、身の内に噴き上がったようだった。以来、折に触れて資質を意識するのだ。鉦の音もただ耳で聞くだけでなく、どこか違う所に響いているのがわかる」
「そうか。ちょっと待てよ」
言って彼は手を伸ばし、鉦を取る。六音を順に打ち鳴らすと、いつものように路と標の存在を感じた。だが音がわずかにずれているせいで、どことなくすっきりしない。
「うーん、微妙に違うんだよな……ん、んんー」
シェイダールは口の中で音を合わせようとする。と、あたかも彼の意志を汲むように、深奥から六色が順に浮かび上がってきた。音を伴い、壁面の標を震わせながら。
自然と正しい音が口をつく。色を伴った声が、その内包するものを呼び覚ます。
高山の頂を飾る雪、真昼の陽射しの純然たる白。花と果実と血潮の赤。萌え出る草、雨をたっぷりと浴びて輝く梢の緑。
見よや、世界はかくも美しく彩られ歌っている!
澄み渡った大空、果てなく広がる海原の青。大地を覆う麦の実り、土より出でて輝きを失わぬ黄金。満天の星を透かして見える、遠き宇宙の紫――
シェイダール自身が目にしたことのないものまでが、鮮やかに脳裏に浮かぶ。その度に彼は、己が既にそれを識っていたことを覚った。雪の冷たさ、海水の塩辛さも。鬱蒼とした森のむせるような緑、星々の彼方にあるという宇宙の深淵で奏でられる歌も。
すべてが己の一部であり、己がすべての一部であった。
一声一色、路の標がくっきりと明らかに姿をあらわしてゆく。
すぐそばで別の路が、六音に震えているのが感じ取れる。リッダーシュだ。その路は細く狭いが、しっかりと理の深みへ根を下ろし、揺らぐことなく流れを通している。
(これなら大丈夫だ)
あの祠でシェイダールが荒々しい力を振るったにもかかわらず、リッダーシュの内なる路は、脆く砕けることなく持ちこたえた。それだけの強さがあるのだ。
――そう考えた時、意識が引っ張られた。
(何だ?)
視界が暗くなる。見渡す限りの、泥の大地と暗い空。蠢く小さな光。大きな集まりから外れた一点に、視線が吸い寄せられる。薄い泥の下、脈打ち滾る光輝に。
(これは……あの場所か)
理由も根拠ない。ただ確信する。そして、
「まずい!」
声に出して叫ぶなり、彼は幻視を振り払って立ち上がった。
「リッダーシュ、今すぐ出るぞ! 馬を用意しろ」
「いきなりどうした。出ると言って、どこへ? そもそもおぬし、馬を操れぬだろう」
「おまえの後ろに乗せてもらう。いいから急げ、あの祠へ行かないと」
一刻を争うのだと、はっきりわかっていた。馬など待たずに飛び出したいぐらいだが、さすがにあの場所まで駆け通すのは無理だ。ただ事でないあるじの様子に、リッダーシュもそれ以上は質さず、すぐ手配にかかった。
召使を厩へ走らせ、一方で自分たちの支度を調える。馬丁が引いてきた手綱を受け取ると、リッダーシュはひらりとまたがった。シェイダールも手を借りずに後ろに乗る。
門に駆けつけると、当然ながら衛兵がぎょっとして行く手を阻んだ。
「どちらへ行かれるか、王の許しは!?」
「うるさい、後だ!」シェイダールが怒鳴り返す。「第二候補の命が危うい、今すぐそこを通せ!」
「えっ……え?」
思いもよらない返答を聞かされ、衛兵が困惑する。その隙にリッダーシュが馬をけしかけ、慌てた衛兵の間を突破した。大階段にいる人々を巧みに避けて下り、大通りを行き交う荷馬車の間をすり抜け追い越し、城門を駆け抜けて。
そのまま二人は街道をひた走り、先日訪れた宿場町を目指した。細い横道を間違えずに選べるかという心配は、そこで解消された。第二候補の従者が馬を駆り、本道に飛び出してきたのだ。顔から血の気が引いている。その目がこちらを見付け、丸く見開かれた。
「リッダーシュ殿!」
なぜここに、と驚き当惑する声音に続き、彼は天を仰いで感謝をつぶやいた。それもつかのま、すぐに彼は馬を寄せてせわしく告げた。
「第一殿もおいでとはまさに天佑、どうか我が君をお救いください」
「そのつもりで来た。あいつはどうした、まさか祠のそばに置いてきたのか」
「いえ、すぐそこまでお連れしました。ですがもう馬に乗っていられず……」
皆まで聞かず、シェイダールは馬の背から滑り下りて走りだした。横道へ入り、少し先の潅木につながれた馬を見付けて駆け寄る。道端にヤドゥカが倒れ、胸を押さえて身体を丸めていた。苦しげに顔を歪めて歯を食いしばり、額に脂汗を浮かべている。
どうした、と問うまでもない。シェイダールはヤドゥカの内で荒々しく暴れる流れを感じ取り、深く息を吸った。傍らに膝をつき、わななく肩に手を触れる。
わぁん、と幾つもの音が重なり合って響き、いびつな波紋が路を揺らした。シェイダールはそれに侵されまいと、深淵の底から一音だけを導いて満たし、こちらにまで寄せてくる色の波を打ち消してゆく。最も低い音、すべてを内包し決して染まらぬ透徹な白で。
「《鎮まれ》」
静かに、強くはっきりと、詞に色と音を載せて放つ。瞬間、真っ白な輝きが彼を中心に花開いた。さながら巨大な蓮華のように。乱れ、猛り狂っていた色と音が、圧倒され塗り潰される。白い花弁が開ききって落ちると、後には無色の静寂だけが残った。
ヤドゥカがゆっくりと深い息を吐く。ややあって背後から遠慮がちな足音が近付いた。シェイダールが振り向くと、下馬して手綱を引いたリッダーシュが、興奮と畏敬のまなざしを彼に注いでいた。
「シェイダール、私にも見えたぞ。白だ。白く輝く蓮の花が開くのが、私にも見えた。いや、見えたというのは少し違うな。心で感じられた。これがおぬしの言っていたことか」
早口にそこまで言い、我に返って目を落とす。
「ヤドゥカ殿はご無事か」
「さあ、どうかな」
シェイダールは意地悪く答え、第二候補の様子を見守った。じきに呻きながら上体を起こしたが、立ち上がるまでの力は出ないようだ。座りこんだまま息を整えている。
「無茶をしたもんだな。俺に差を付けられると思って焦ったのか? あの祠がどういう場所かは教えておいたのに」
「ああ……迂闊だった。出遅れた分を取り戻そうと、欲をかいたのが間違いだったな。危険だと察知した時には抑えきれなくなっていた」
ヤドゥカは言い訳もせず反省する。シェイダールは喜んで追い討ちをかけた。
「人を馬鹿にしておいて、おまえも大概間抜けだよな」
「おぬしを軽侮した報いだろう。力に目覚め、いにしえのわざを手にした前例があるのだから、私もすべからく手が届くとして疑いもしなかった」
「……つまらん。ちょっとは悔しがれよ」
「面白がるような話ではない」
あくまでも四角四面なヤドゥカの対応に、聞いていたリッダーシュが笑いだした。揃って何とも言えない顔をした候補者二人に、黄金色の声の主は屈託なく言う。
「ともあれ、ヤドゥカ殿の身に大事がなくて何よりだ。間に合って良かった」
その言葉でようやくヤドゥカは、この主従がなぜここにいるのかと疑問を顔に出した。視線で問いかけられ、シェイダールは何でもないように装って答える。
「部屋で音を探っていた時に、理の様子が視えたんだ。祠でおまえがまずいことになっているとわかった。それだけだ」
視えた、わかった。そんな説明で納得できるものではない。普通ならば。
だが他に合理的な説明がつかないし、そもそも普通でない感覚の持ち主にあれこれ問うても詮無いこと。ヤドゥカはそれを受け入れた。
「見捨てず駆け付けてくれたこと、感謝する。おぬしには大きな借りが出来たな」
「当たり前だ。恩を売るつもりで助けたんだから、せいぜい俺の役に立ってくれ」
シェイダールは鼻を鳴らして腕組みし、第二候補を尊大に見下ろした。ヤドゥカは年下の第一候補をちらりと見上げ、特段の感情を見せずにうなずく。
「微力を尽くそう」
あまりに反応が乏しいので、シェイダールのほうが悔しそうに舌打ちして唸った。
「勝った気がしない……」
「命の恩は勝ち負けや損得の問題として論ずるものではない」
生真面目に言ってヤドゥカは立ち上がり、支障はないかと体を少し動かす。それから彼は祠を振り返り、太い眉をぎゅっと寄せた。封鎖せねば危険だと考えたのだろう。険しい表情のまま、彼はシェイダールに問うた。
「おぬしはいったい、どうやってあの激しい流れを鎮められたのだ? あの命令は、普通の言葉とは明らかに異なっていた。まるで祠で聞こえてきた遠い声のようだったが」
「口で説明するのは難しいな」シェイダールは正直に答えた。「楽器を調律するような感じで、自分の意志と祠から響く声とを、重ね合わせていったんだ。そこに色と音を結び付け……結ぶというか、ああくそ、上手く言えない。おまえの資質に直接働きかけることができれば、手っ取り早いんだろうが」
言いかけたところで、ヤドゥカが身を乗り出しているのに気付き、急いで切り上げる。
「いや、今ここで試すのは駄目だ。ついさっき、危ういことになったばかりだろう。無理をしたら何もかも台無しにしてしまうぞ。少しずつ標を養う必要があると言っただろう」
「そうか。そうだったな」
乏しい表情ながら、ヤドゥカは残念そうだ。シェイダールは軽い口調で請け合った。
「王宮に戻ったら、ゆっくり試すさ。神殿にある古道具を調べたら、役に立つものがあるかもしれないしな。おまえも《詞》を使えるようになったら、調査がはかどるだろう」
しっかり手伝えよ、と例によって命令する。ヤドゥカは一瞬だけ複雑な顔をしたが、いつもの平静さを取り戻してうなずいた。
「むろんだ。……しかしこの顛末をイシュイ殿が知ったら、憤死しかねんな」
「第一と第二が揃って継承の儀式も経ずに『王の力』に触れたことか? それとも、慣例を無視して仲良くおしゃべりしていることか」
「両方だ。神殿が無視されたと感じて憤るだろう。このような外法は認めぬとして、我々に対する呪詛でもおこないかねない。面倒になりそうだ」
「それならひとまずは心配ない。俺の御付祭司が手を回してくれたおかげで、クドゥルの死はまさしく神罰、俺こそが神に選ばれし真の王、という神託が下ったそうだ」
シェイダールは答え、冷たい笑みを浮かべた。ヤドゥカはその様子を観察し、ふむと思案しながらつぶやく。
「第一の御付祭司は既に承知というわけか。だがイシュイ殿を説得できるかどうか……。神々も思惑あればこそおぬしを呼ばれたのだろうが、此度の継承は平穏にはゆくまい」
「馬鹿馬鹿しい。神など何の関係もあるもんか」
シェイダールが鼻を鳴らして断言した。第一候補にあるまじき発言だが、ヤドゥカはそれを難じるでもなく、感情を排して平坦に問いかけた。
「ひとつ訊く。おぬしは王となった後、神殿をどうするつもりだ。他者の耳がないこの場で、嘘偽りのない本心を聞かせてもらいたい」
「潰す」
短く一言、敵意と怒りを凝縮した答え。シェイダールは拳を握り、真正面からヤドゥカを睨み据えてはっきりと告げた。
「決して二度と、祭司どもが神を笠に着て弱者を殺すことのないように。特権を奪い、紛い物の威光を剥ぎ取って、地に這いつくばらせてやる」
力強い決意をヤドゥカは静かに受け止め、ゆっくり一呼吸してから問いにして返した。
「そして今度は、王の名のもとに弱者を踏みつける者を生むのか」
一瞬、シェイダールは何を言われたのか理解できなかった。次いでその意図を察し、顔をこわばらせる。神殿を潰せば王の権威権力が強まり、唯一絶対の支配者となる。となれば、今は祭司に遠慮している役人や兵士が、誰にも頭を押さえられず増長するだろう。
結局、強者が弱者を踏みにじる図は変わらないのだ。
「そんなことには、させない」
かろうじてそう返したものの、シェイダールは目を落として唇を噛む。どうやって、と追及されたら妙案も浮かばない。王の命令で不正を厳しく律するとしても、具体的な手段や実効性については、政治をろくに知らない彼が考え得るものではなかった。
ヤドゥカは勝ち誇るでもなく、むしろシェイダールに向けてわずかに頭を下げた。
「謝罪する。おぬしを愚鈍と評したことは取り消そう。たった一言でこちらの言わんとするところを理解し、己が野心の欠陥に気付き認める、その理知は敬意を払うに値する」
褒め言葉にしては随分と無感動な声音である。見下されるかと思いきや逆の評価を頂戴したシェイダールは、ぽかんとなり、次いで苦笑いした。
「光栄だが、俺の考えが足りなかったって所は変わらないぞ」
「その事実を認められるというだけでも、愚鈍ではない。人の身であり神のごとき全知全能ではない以上、誤りも失敗も犯すのが当然だ。それを見出し、正す能力こそが求められる。おぬしを頑迷無明の田舎者呼ばわりする輩は、そこがわかっておらぬのだろう」
「おいちょっと待て。誰だ、そんなこと言った奴は」
途中までむず痒くて妙な顔をしていたシェイダールは、最後の一言で途端に不機嫌になる。従者二人に失笑され、彼は舌打ちして頭を振った。
「どうせあの御付祭司だろう。まったく……もういい、帰ろう、リッダーシュ。いきなり飛び出してきたから、騒ぎが大きくなる前に戻らないと」
「そうだな。あれこれ憶測されるのは避けられまいが」
リッダーシュが応じて馬の首を叩き、軽やかに騎乗する。ヤドゥカも従者から手綱を受け取り、いつもより慎重に鞍へ腰を下ろしてから、ふと、もう一組の主従を振り返った。馬が一頭しかいなかったようだが、と訝ったのだが、その通りで二人乗りしている。じっと見ていると、シェイダールが視線に気付いてしかめっ面をした。
「なんだその目は。言っておくが、俺も馬には乗れるんだぞ。ただ今回はとにかく急ぐ必要があったから安全のために」
「正しい判断だ。しかし今後は乗馬の訓練にも力を入れねばなるまいな。手を貸そう」
「おい。短刀の扱いだけでいい、乗馬となったら否応なく目立つだろう。俺が慣例破りなのはもういいとしても、おまえまで大っぴらにしたらまずい」
「今さら構わん。ウルヴェーユを教わる礼だ」
「礼なんか気にするな」
「そうはいかん」
「融通を利かせろ馬鹿! おまえにそこまで世話されたくないと言ってるんだ!」
とうとうシェイダールが赤くなって怒鳴った。ヤドゥカは相変わらず真面目な顔のまま彼を眺め、納得したかのようにうなずいた。そしておもむろにいわく。
「そんな状態で何を言っても説得力がないな」
「……っ! リッダーシュ、止めろ! 俺は下りて走る!」
「落ち着け、早く戻らなければと言ったばかりではないか。第一、あるじを走らせて従者が騎乗しているわけにはゆかぬのだから、必定私も下りるはめになって、よほど滑稽な眺めになってしまうぞ」
可笑しそうに諭されて、シェイダールは悔しさのあまり歯噛みする。背後で獣のように唸るあるじに対し、リッダーシュはやれやれと駄目押しした。
「王たらん者には忍耐も肝要でございますぞ、我が君」
むろん返事はなかったが。
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