六章

黒い小鳥

   六章


 シェイダールたちがのんびり旅籠で一泊している間に、ショナグ家の者は大急ぎで早馬を飛ばしたらしい。二人が翌日の午後になって王宮へ帰り着くと、王のもとへ報告に上がるより早く、第二候補が『白の宮』へやってきた。

 取り次ぎも待たず入室したヤドゥカは、二人をねめつけて前置きなしに言った。

「説明してもらおう」

 急襲を受けたシェイダールのほうは、自分でも意外なほどに動じていなかった。魂の奥底から流れ出す微かな音色が、常に心に漂い全身に光を巡らせている。巨大なものの一部に触れ、それを手に入れた感覚があった。菫の瞳でヤドゥカを見返し、端的に告げる。

「案内人が俺を殺そうとした。ちょうど俺が理の力に触れかけたところだったせいで、予想外のわざが働いて、あの男を死なせたんだ。……おまえが命じたのか」

 違うと承知で、敢えて問う。狙い通りヤドゥカは一瞬怯み、追及の矛先を鈍らせた。

「さように卑劣な真似はせぬ! クドゥルの独断だ。彼は我が家に長く仕える忠心の篤い男だった。家人の不始末は誠心誠意詫びよう。だが、さりとて……ああもむごい死に方をすべきであったのか」

 一旦は頭を下げたものの、言葉尻にはまた怒りがはぜる。シェイダールは眉を上げた。

「遺体を見たのか?」

「見ていたら、問うより先におぬしの首を絞めあげている。使いから聞いたのだ」

 ヤドゥカは牙を剥くように顔を歪めて唸った。そこへ、ややこしいことに新たな糾弾者が乱入した。止めようとした召使の短い悲鳴に続き、帳がはね上げられる。

「第一候補よ、神の名を騙って殺人を犯したな! 極悪非道の輩めが!」

 びしりと指を突きつけて怒鳴ったのは、第二候補の御付祭司だ。後ろのジョルハイは、道々なだめようと頑張っていたらしく、息を切らせて無言でうなだれた。

 ヤドゥカが迷惑そうに振り向き、牽制する。

「イシュイ殿、後にしてもらおう。今は私が、家人の死について糺しているのだ」

「何をおっしゃるか! それこそ我々が共に糾弾すべき問題でありますぞ、ヤドゥカ殿。こ奴は神罰だなどと騙り、ショナグの家名に泥を塗ろうとしておる!」

 祭司イシュイは鼻息荒く憤慨する。シェイダールは辛辣な冷笑を浮かべた。

「神罰だとも。王の力は天空神アシャのものなんだろう。それを受け継ぐべき者を、よりによって『神の指先が触れた場所』で殺そうとしたんだ。神が黙って見過ごすとでも思うのか? だからあの男は死んだんだ。神の威光が明らかになって満足だろう」

「な……、なんたる傲岸不遜! 儀式を終えておらぬどころか、行うだけの力も身に着けておらぬというのに、既に神々に認められたつもりでおるのか! 分を弁えよ!」

「その神の力をもってして、アルハーシュ様が『この者だ』と告げられたんだぞ。祭司のくせに否定するのか。さっさと神殿に戻ってとりなしの供物を捧げたらどうだ。さもないと今度はおまえが神罰に打たれて、ねじくれた屍を晒すことになるぞ」

 シェイダールは真面目を装って言い、脅すようにすっと目を細めた。ゆっくりと右手をもたげ、イシュイを指差すような手つきを見せつけながら続ける。

「ここは『神の指先が触れた場所』じゃないが、天空神アシャなら、いついかなる時も、王と跡継ぎのことはよく見ているだろうな。それとも、今はよそ見をしているかな?」

 手が上がるにつれてイシュイの顔が青ざめてゆく。ジョルハイがそっと袖を引いた。

「イシュイ殿、ここはひとまず戻って神託を仰ぐのがよろしいかと。当人の言い分を聞くよりも、全知にして全能なるアシャ神ならば正しい裁きを下されるでありましょう」

「ぬ……、うむ、いかにも。見ておれ、貴様のたわけた言い逃れなど神々が暴いてくださるわ! 戻るぞ、ジョルハイ。そなたも供儀の支度をするのだ」

 傍目にも明らかな捨て台詞だが、イシュイはどうにか体面を取り繕って踵を返す。二人の祭司が出て行き、足音が充分に遠ざかるのを待つ間、シェイダールは小刻みに肩を震わせていた。そしてとうとう、弾けるように笑いだす。

「あっははは、見たか、あいつの顔! 自分たちが崇め奉って何かと盾にしてきた神の名で逆に攻め立てられて、いいざまだ! 思い知ったか!」

 勝ち誇って高笑いする彼を、リッダーシュとヤドゥカは複雑な顔で見る。シェイダールは構わず、くすくす笑い続けながら毒を吐いた。

「皮肉なもんだな。神を信じない俺が、神の名を武器に祭司どもをやり込めるなんて」

 横からリッダーシュが穏やかに訂正する。

「やり込めたのは神の名が持つ力ではなく、おぬしの機知だろう。だがこれで、向こうが神託を捏造してくるかもしれないぞ」

「そこはジョルハイが上手くやるさ。あいつも祭司の位を上げたみたいだしな。気付かなかったか? 角帽の刺繍は豪華になっていたし、袖に房飾りまで付いていた……っと、それよりリッダーシュ、しばらく従者同士でそっちの部屋に引っ込んでいてくれるか」

 シェイダールは途中までしゃべって思い出し、ヤドゥカの後ろでいたたまれない顔をしている少年を視線で示した。いずれあるじ共々こちら側に引き込むとしても、今はまだ用心しておくべきだろう。

 心得た、とリッダーシュはうなずき、少年を促して続き部屋に下がった。戸口をくぐる前にちらりとおどけた顔を見せ、

「殴り合いはお控え下さいますように、我が君」

 一声からかってから引っ込む。盛大に苦虫を噛み潰した乱暴者の耳に、ヤドゥカのつぶやきが届いた。

「あんな物言いもするのか」

 平静な声音にほんの少し微妙な色が混じる。驚き呆れたような気配、そしてわずかな羨望。シェイダールは咳払いして取り繕い、向き直った。

「まあ、俺は田舎から連れて来られた無知無学な貧乏人だからな。わざとらしく丁寧にするな、と初対面で言ったんだ。なんならおまえも冗談を飛ばしてくれて構わないぞ」

 できるものならな、と意地悪く揶揄してから、シェイダールは改めて相手を差し招いた。履物を脱いで絨毯に上がり、胡坐をかく。

「こっちで落ち着いて話そう。案内人の件は、さっきも言ったように不可抗力だった。だから詫びはしない。おまえのほうも、命じていないのなら謝罪は必要ない。ただ、ショナグ家が俺を邪魔者と見ているのなら、それはおまえが何とかしろ」

 既に命令口調で遠慮なしである。ヤドゥカは小さなため息をついて絨毯に上がった。

「むろん対処はする。しかし今回のことはショナグ家の総意ではない。王位の継承はあくまで神聖なもの、世俗の欲得で穢してはならぬ。……だから神がお怒りになったのか」

 いかにも深刻な結論に、シェイダールは思わずふきだした。途端にじろりと睨まれ、苦笑でごまかす。

「いやすまん、笑い事じゃないのはわかってる。だが神罰なんかじゃない」

「おぬしの力、というわけか」

「それもちょっと違うな。引き起こしたのは確かに俺だが、場所が悪かったんだ」

「どういう意味だ?」

「あの土地は、何が原因かはわからないが『理』が地表の綻びに集まっているんだ。それが……視えた。暗い、一面の泥の土地が広がっていて、あの場所だけ泥が薄くなっていたんだ。『最初の人々』はそれに気付いて、理の力が地表を食い破らないように封じ込めたんだろう。六色と六音の重なりに、ならぬ、と禁じる《詞》を結び付けて」

 シェイダールは手を伸ばして試作の鉦を取り、手の中で転がした。触れ合う度に小さく鳴る音を、星屑のように味わいながら言う。

「ラファーリィ様から伺った話だと、ドゥスガルでは王の交代に命がけの儀式はないらしい。ただ、『聖なる森』へと赴き正気を保ったまま力を手にした者が、新たな王になるんだそうだ。おまえはもう知ってるかな」

「あらましは。あちらでは、王が神祇長官……こちらで言う祭司長を兼ねるとか」

「ああ。他人には見えないものを見るからだそうだ。そして、王だけが使える神具を用いて裁きをつけるという話だった。……似ていると思わないか」

 そこまで言い、彼は顔を上げてまっすぐにヤドゥカを見据えた。

「もしその森があの祠と同じなら、大きな資質を持つ者は内なる路を揺さぶられて力に目覚める。あるいは失敗して狂う。資質が足りなければ影響は受けないが、力にも触れられない、ってことだ。つまりこの『王の資質』は、程度に差はあれ特別なものではないし、この国だけに与えられた神の恩寵ってわけでもない。訓練する方法がわかれば、誰もが扱えるんだ。その方法を確立できさえすれば」

「待て、おぬし、何を考えている。先日はそのようには言わなんだぞ。ウルヴェーユを手にするのは私やおぬしのように、資質に恵まれた者だけという話ではなかったのか」

 初めてヤドゥカが焦りを見せた。シェイダールはしれっととぼけて応じる。

「なんだ、おまえもやっぱり自分だけがずっと特権階級でいたいってクチか? あの御付祭司と気が合いそうだな」

「そうやっていちいち人を挑発するのは、どうやらおぬしの悪癖だな。改めろ」

 ヤドゥカが唸ったが、シェイダールは悪びれない。気が向いたらな、とはぐらかして先を続けた。

「資質に恵まれた奴から順に修得していくだろう、ってだけだ。いずれは万人のものになる。と言っても相当な時間がかかるから、今日明日で急激な混乱に陥ったりはしないさ。一人一人が内なる路を目覚めさせ、ゆっくりと自分自身でその壁に手がかり足がかりを養って、底へ降りていかなきゃならないんだから」

「……ふむ。継承の儀式とはその、自分で養う段階を飛ばして先人の蓄えてきた『深みへ降りるための知恵』を丸ごと受け継ぐ、ということか」

「そう、その通りだ」

 ヤドゥカの言葉があまりに的確で、シェイダールは興奮気味に身を乗り出した。

「だが身の内にある路が細く浅い者は、多すぎる『知恵』を壁に刻みきれない。だから失敗するんだろう。そんな危険を冒さなくても、それぞれが自分の資質に見合ったやり方で階を刻み、届く所まで降りていけるようになれば、ずっと安全だ。たった一人の王の力を当てにして、しかも命と引き換えに次の王へと受け継がせるなんて、あまりにも危うい。だからこそ、ウルヴェーユは広く大勢のものにされるべきなんだ」

 夢見た未来へと確実に近付いている実感に、胸が熱くなる。彼は目を輝かせた。

「なぁ、そうなったらすごいと思わないか。考えてみろよ、たまたま今の時期に新王候補探しが行われなかったら、俺は誰にも理解されないまま、ずっと村八分だった。そんな境遇にある者が皆、いにしえのわざを手にするんだ。色と音と、詞を使って、安心して暮らせるように工夫していける。終わりのない糸紡ぎや煉瓦作りから自由になれる、飢饉に怯えて誰かを生贄にすることもなくなる!」

 熱弁に対し、ヤドゥカはしばし無言だった。声が眩しいのか悩んでいるのか、しかめ面で唇を引き結ぶ。長い沈黙の末に、彼は低く唸った。

「おぬしのその熱意は危険だな、巻き込まれそうになる。だが今この場で是非を断ずることはできかねる」

「煮え切らない奴だな」

 水を差されたシェイダールはむっとしたが、ヤドゥカは取り合わなかった。

「おぬしが性急なのだ。理想通りに現実が動くと思うな、力を手にした者は悪用もする。ウルヴェーユの探究には私も尽力しよう、だが運用については慎重を期すべきだ」

「わかった、わかった。やれやれ、とりあえずはそれでいいさ」

 シェイダールはひとまず引き下がると、さりげない態度を装って言い足した。

「俺に何かあっても誰かが仕事を引き継げるなら、少しは安心だ」

「……ショナグ家は今後決しておぬしを脅かさぬと約束する」

 厳しい沈黙を挟み、ヤドゥカが重々しく誓う。シェイダールは眉を上げた。

「いいのか、そんな約束をして。そもそもおまえは、俺のつとめを代わってやる、と言いに来たんだろう。本当は今でも、自分が王になるべきだと考えているんじゃないのか」

「王たるべき者を定めるのは神々だ」

 揺るがぬ確信のこもった返答だった。シェイダールは胡散臭げに聞き返す。

「王の力は神の力じゃない。ウルヴェーユを扱うための『知恵』だ。今さっきおまえ自身が言っただろう」

「それでも、だ。私が王たるべきであると神々が定められたなら、おぬしは儀式を果たせず、私がアルハーシュ様の御力を受け継ぐだろう。おぬしこそがワシュアールの王となるさだめであるなら、人の小賢しいもくろみでいかように細工しようとも無駄だ」

「馬鹿馬鹿しい。だとしたら、クドゥルが死ぬのも最初から決まっていたことになるぞ」

「否、あまねくものの人生が道筋を定められているわけではない。だがおぬしを害さんとした時に、彼の運命は決したのだ」

 ヤドゥカは言い、己の言葉によって気付かされたように、はっとした表情になった。短い沈黙の後、彼は納得した様子で一礼した。

「……騒がせてすまなんだ。失礼する。帰るぞ、イスヴァ」

 隣室から従者を呼び戻し、部屋を辞する手前で、彼は思い出したように言った。

「先にアルハーシュ様にご報告に上がるべきであったろうに、邪魔をしたな。しかしいずれにしても、お目通りは叶わぬかもしれぬぞ。昨日からご気分がすぐれぬ様子で、公務を休まれているからな。成果をお耳に入れんと急いて無理を押すなよ」


 白の宮を出たヤドゥカは、歩きながらぼそりと従者に問うた。

「聞いていたのだろう。そなたはどう思った」

 少年はぎくりとしたものの、あるじの顔色を窺いはせず、慎重に答えた。

「恥ずかしながら不肖の身にて、いまひとつ理解の及ばぬところがありました。なれど、いにしえのわざを私も手に入れられるのであれば、喜ばしく思います。今よりもヤドゥカ様のお役に立てましょうから」

 最後の一言には力がこもっていた。ヤドゥカは肩の辺りにある従者の頭を見下ろし、目元に微かな温かみを浮かべた。

 この少年はまだ歳若く、文武両面で修練が足りていない。第二候補の従者に任じられた時には誇りにそっくり返ったものの、予想外にもあるじが名門ショナグ家の若様であったため、己の粗や力不足が目立ってしまい、毎日おろおろしてはため息をつくばかり。

 何であれ強くなれるのであれば、一人前に近付けるならば、との熱望がその顔にあらわれていた。

「迷いがないな。だが我らの敵もまた力を手にするやもしれぬのだぞ」

「悩んでいる間に敵だけが力を得ては、やられてしまいます」

 きっぱりと言い切った従者に、ヤドゥカは一呼吸の間を置いてつぶやいた。

「なるほど。真理だ」

 敵は国内の勢力だけではない。シェイダールは田舎の平民育ちゆえにそこまで気が回っていなかったが、ワシュアールで王の力として伝えられているものが他国にも別な形で存在し、それもまた同じく根源がウルヴェーユであるならば、うかうかしてはいられない。

 もしもシェイダールと同じ思考の筋道を辿り、大勢がいにしえの力を得られると結論付け、実行に移す者が他国に現れたら。

(慎重を期してぐずぐずしていては出遅れるか)

 よしと心を決めると、彼は従者に外出の支度を命じた。神罰が下ったという、件の祠を調べる名目で。


     *


 王のもとへ遣わした召使は、ヤドゥカが言った通り、体調不良を理由にした断りの言葉を持ち帰ってきた。同時にヴィルメからの使いが来て、お帰りになられたなら是非お渡りを、と告げたので、シェイダールは二重の不安に襲われるはめになった。

「すぐに行くと伝えてくれ」

 ヴィルメの使いに答え、シェイダールは室内をうろうろする。すぐにとは言っても、相手に準備する時間を与えてから訪れるのが礼儀だ。少し待たねばならない。

「落ち着け、シェイダール。そんなにあからさまな態度では、余計に場が緊張するぞ。それともアルハーシュ様が心配か? 夏に暑気あたりで休養されることは以前にもあった。そう深刻なご病状ではないだろう」

 リッダーシュになだめられ、彼は「そうか」と納得したふりでうなずいたが、相変わらずそわそわしている。結局、居ても立ってもいられず、向こうで待たされてもいいからと『柘榴の宮』へ向かった。

 道すがら、恐怖に近い不安と焦りが胸に渦巻く。何を言われるだろうか。気が落ち着いて暴言を取り消したいと思ってくれたのか。これきり実家に帰ると言い出すつもりではあるまいか。子が生せない理由の見当がついたと言って、耳を貸してくれるだろうか。

 忙しなく飛び交う小鳥の影のように、あれこれと不穏な憶測が胸を騒がせる。緊張が高まり、小さな影を制御できなくなった隙に、影の下から闇が覗いた。

(ああ面倒臭い)

 ぞっとするほど冷たいささやきに、一瞬彼は竦み、つんのめりそうになった。

(放っておけばいいじゃないか。なんだってこんな思いをしてまで機嫌を取ってやらなきゃならないんだ)

 無理に引き止めなくても、『柘榴の宮』には己を求める女たちがいる。帰りたいなら帰らせてやればいい。王妃とのことを恨みに思っていたくせに、宮で安楽な暮らしをしたいがために笑顔を取り繕い、裏で夫の不実を憎み続けていたおぞましい女。

 捨ててしまえばいいじゃないか――

「……っ!」

 足を止めて激しく頭を振り、黒い小鳥を追い払う。

(違う、そうじゃない。ヴィルメも混乱していたんだ。神罰なんか存在しないと、村でただ一人、ヴィルメだけが認めてくれたじゃないか)

 白茶けた荒地。乾いた砂まじりの風に乗って届く、若葉色の声。お互いに仕事で汚れた手をつなぎ、指を絡めた時の胸の高鳴り。

 ひとつひとつ、都の記憶を押しのけ掻き分けて、村での思い出を探して拾い上げる。

 口づけも、それ以上のことも、彼の求めに彼女は応じてくれた。嫌悪や忌避の目を向ける者には負けじと強いまなざしを返し、母子に笑顔で接してくれた。押し付けがましいところもあったが、それでも彼女は本当にいつも、彼のために心を砕いてくれたのだ。

 ――シェイダール、あんた賢いのね。誰もそんなこと考えつかないのに、すごいわ!

 初めて自説を話して聞かせた時に、ヴィルメは目を輝かせて称賛してくれた。適当な愛想ではなく、疑いの欠片もなく、限りなく純粋な賛嘆。あの時の誇らしさと喜びが、彼をずっと支えてきたと言っても良い。父を喪った悲憤の闇に、あの笑顔が光を投げかけてくれたからこそ、彼は今ここにいるのだ。

 白、赤、緑、青、黄、紫。口の中で小さく六色の音を辿ると、柔らかな波紋が心を満たし、小さな影を消し去った。目を開き、顎を引いて再び歩きだす。

(落ち着け、何を言われても動じるな)

 動揺したまま相対して、迂闊な対応でヴィルメを手酷く傷つけてはならない。シェイダールは自戒し、唇を引き結んだ。覚悟と共にヴィルメの部屋へ入ると、彼女は慎ましく優雅なお辞儀で夫を迎えた。攻撃するどころか、いじらしく健気な笑みを浮かべて。

「ようこそお渡りくださいました、我が君」

 シェイダールは声を詰まらせ、とっさに妻の手を取り、頬に口づけした。

「無理して取り繕わなくていい。誰に何を言われたか知らないが、俺の前では幼馴染のおまえのままでいてくれ。……この宮がどれほど多くの事を隠しているか、思い知ったよ。華やかで楽しいだけの場所じゃないと」

「駄目よ、シェイダール」

 ヴィルメが彼の唇に指を当てて止める。

「ここは華やかで楽しい場所。そうじゃないといけないの。だから言わないで。……ごめんなさい。わたしが暗がりを暴いてしまったのに、こんなお願いは筋が通らないわよね。でも、まだ愛してくれているなら、わたしとシャニカを想ってくれるなら」

 語尾が震え、途切れる。こぼれかけた涙と一緒に声を飲み込み、ヴィルメは灰色の瞳を潤ませて夫を見つめた。無理に作った笑みが痛々しい。シェイダールはとどめられたままの言葉を受け取るように、唇を重ねて舌を絡めた。

 長い口づけの後で、シェイダールは改めて謝罪の言葉をささやいた。

「すまなかった」

「謝らないで」

「聞いてくれ。ちゃんと謝らせて欲しい。俺はおまえを苦しませたくなかったのに、こんな所に連れて来て、そのまま放ったらかしてしまった。皆で幸せになるんだ、なんて言っていながら、おまえの幸せが何なのか考えようともしなかった。本当に悪かったよ」

 真摯に、心からの反省を込めて顔を伏せる。

「今からでも、俺にどうして欲しいか、おまえが何を望んでいるのか、聞かせてくれ」

 返事は抱擁だった。全身でぶつかるように抱き着かれ、シェイダールはよろけながら受け止める。言葉はなくても想いが伝わってくるようで、彼はしっかりと抱擁を返した。

 しばしの後、ヴィルメは身を離すと、やっと自然な笑みを見せた。

「いいの。もういいの、シェイダール。ありがとう。わたし、ここで生きていくって決めたのよ。あなたは王様になるんだもの。だからわたし、ちゃんと『柘榴の宮』の女としてやっていくわ。いっぱい考えて、納得して決めたから……心配しないで。他の人の所へ行くのも、あんまり会えないのも、全部受け入れるから」

 心細さを隠し切れず声が震え、睫毛が揺れる。それでも彼女はためらわなかった。

「ひとつだけお願い。わたしとシャニカを、あなたの家族として、大切にしてください」

「もちろんだ。俺が守る」

 シェイダールは即答し、力強く約束した。二人を守るのは己の責務だ。ここは村ではなく、彼が家長として権威をふるう住居でもない。だがそれでも己は、この小さな家族のあるじなのだ。妻と娘が飢えぬよう、不自由しないよう、蔑まれ貶められることのないように守らねば。

(そうだ。継承の儀式をやめさせることができたら、俺も『候補』じゃなくなるんだし、何か別の役職を貰おう。ウルヴェーユについて調べる新しい役職だ。そうしたら、ヴィルメを『柘榴の宮』から出してやれる)

 王宮内ではなく街に家を買って、人を雇って家事を頼んで、シャニカの世話をしながら落ち着いて過ごせるようにしてやればいい。シェイダールは未来の家庭を思い浮かべて微笑み、妻の額に軽く唇をつけた。ささやかな幸せ。それで充分だ。

 ようやく緊張から解放された彼は、そっと妻を離して揺り籠の方へ歩み寄った。小さな手足をもぞもぞ動かしていたシャニカが、菫の瞳でこちらを見上げる。

「シャニカ、俺がわかるか?」

 呼びかけると、シャニカは目を細めて眩しそうな顔をした。どうやらヤドゥカが言った通り、シェイダールの声は白銀色に光るらしい。

「これも見えるかな」

 つぶやいて帯に差した鉦を抜き、ひとつ打ち鳴らす。シャニカは驚いたように目をみはり、瞬きもせず宙を見つめた。そうか、見えるか、と彼は順に音を鳴らす。

 白、赤、緑……音につれてシェイダールの内なる標が微かに震え、色を奏でる。

 青、黄、紫……深淵から湧き出る水が標を伝い、ゆったりとうねって流れ去り、また深みへと沈んでゆく。

 その大きな流れに、小さな振動が重なった。

 シャニカが驚愕と恍惚の相半ばする顔で、己と同じ色の瞳をまっすぐに凝視する。

(やっぱりそうだ。シャニカにも同じ資質がある。理に通じる路が開いているんだ)

 まだ赤子なのに強い影響を与えては、良くないかもしれない。鉦を握って音の余韻を消し、シェイダールは娘の様子を観察する。彼の内なる響きが収まると、娘もまた我に返ったように瞬きし、他のことに気を取られてもぞもぞしはじめた。

「何をしているの」

 ヴィルメがやってきて、揺り籠を覗く。シェイダールは小声でささやいた。

「シャニカにも『王の資質』があるみたいだ。それを確かめていた」

「……女の子よ?」

 いわく言い難い顔をしたヴィルメに、シェイダールは失笑する。妻を手招きして娘のそばを離れ、絨毯に腰を下ろして、ゆっくり慎重に語りだした。

「女でも男でも関係ない。王の、と呼ばれているから当然男だけのものだと思い込んでいたが、誰にでもあるんだ。……王が子を生せないのも、俺たちの子が流れてしまったのも、それが理由だと思う」

 途端に警戒した妻に、彼は穏やかな言葉を選び、できるだけ平易に、当たり障りのない部分を説明していった。資質のこと、路のこと、理の力について。

「これまでずっと、女にも同じ『資質』、つまり『力の通り路』がある可能性が見落とされてきた。そのせいだったんだよ」

「待って、それじゃ……わたしにその路があれば、ちゃんと生まれたはずだってこと?」

 ヴィルメの声が尖る。シェイダールは責任を追及していると思われないように、急いで言葉をつないだ。

「あるだけじゃ駄目だ。俺がアルハーシュ様に会って初めて気が付いたように、はっきり感じ取れるようになってこそ役に立つんだろう。路を開く方法がわかればおまえも、色と音を感じ取れるようになる。そうなった後でなら……次の子はきっと無事だ」

 いたわりと気遣いを込めて、妻の膝にそっと手を載せる。

「一日も早くそうなるように頑張るよ。俺と同じものを、おまえにも見て欲しい」

 ヴィルメは答えず、黙って目を伏せ、彼の手をぎゅっと握った。何かを堪えるように噛みしめられた唇が、言葉を紡ぐことはなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る