三章
候補者修行
三章
忙しい毎日が始まった。
「ああ、また! そうじゃない、寝台から降りる時は左足から!」
「うるさいな、そんなの迷信だろう! 第一俺はまだ王じゃないんだぞ!」
「今から慣れておかないと、王にはもっと細々した規則があるんだから……」
「守るつもりがないのは知ってるだろう!」
起き抜けから始まるジョルハイとの攻防に続き、例によってリッダーシュの毒見つき朝食。その後は、面倒なことに勉学の時間となる。当初の予定では、王の執務を見学するはずだったのだが、シェイダールがごく簡単な読み書きしかできないと判明し、先に基本を学ぶよう命じられたのだ。教師には、ついでだからとジョルハイが名乗り出た。
「アルハーシュ様だって書記にやらせてるじゃないか。無知無学はさして問題にならないとも言われたぞ」
勉学そのものよりは教師が嫌でシェイダールはごねたが、当然通じなかった。
「実務はむろん書記に任せたら良いさ。だが書記が不正をはたらいた時、見破れないようでは王としては失格だぞ。目の前で手紙や報告書の内容をでっち上げられているのに気付きもしなくて、陰で笑われるなんて業腹だろう」
ジョルハイは少年の誇り高さをつつき、当人は付け入られていると察しつつも否定できず、結局ひたすら単語を頭に詰め込むことになった。
「他の候補も同じなのか? 馬鹿げた決まりを覚えたり、粘土板を相手にしたり」
「私も全員の様子は知らないよ。ただ、君以外の候補者は普通に読み書きができるはずだし、まず確実に君よりずっと素直に言いつけを守ってくれているだろうねぇ」
「……第二の奴なんかは、さぞかし優秀なんだろうな」
僻み半分に言ったシェイダールに対し、ジョルハイは用心深い顔つきになった。
「何か噂でも聞いたのかい」
「いや。でもあれだけ御付に気に入られてるんだから、あんたら祭司にとって都合がいい奴なんだろうさ。不思議なんだが、候補が誰なのか本当に秘密にされてるのか? 従者と祭司を引き連れた若い男ってだけで、すぐにばれるだろう」
少なくとも、候補者の身辺の世話をする召使には知られているはずだ。聞き出そうと思えばどこからでも秘密は漏れる。案の定、ジョルハイは曖昧な苦笑で答えた。
「見えないふりをしているのだから、暴いては駄目だよ。明らかにしてしまえば、関係のある者は皆、駆け引きを始めてしまう。だが王の力の継承は、純然たる神と王と跡継ぎとの問題であって、欲得ずくの計算で左右してはならない」
そこでシェイダールが鼻を鳴らしたので、ジョルハイは真顔になった。
「君は馬鹿にするだろうが、世の人々は大真面目なんだよ。我々祭司ばかりではない。王の力は神聖にして冒すべからざるものだ。よこしまな狙いで儀式を穢せば、国そのものが危うい。だから皆、無事に新しい王が立つまでは、何も知らないふりをするんだ」
「それで、儀式が済んだらいっせいにお目当ての奴に群がるわけか。新しい王や、王になり損なった候補者に。本当に嫌な所だな、王宮ってのは」
「先のことに気を回すより、今は目の前のことを努力したまえよ」
苦々しく唸ったシェイダールに、ジョルハイは慰めの言葉もかけず、読解教材の文書をさらに積み上げるのだった。
頭が煮える頃に、ありがたい昼食。大抵はリッダーシュを伴って王の私宮殿を訪い、さまざまな話をしながらゆったりと過ごす。話題は最初ほど剣呑な内容ではなく、日常の政務にまつわること、諸外国の動向、あるいは王の私的な思い出にも及んだ。
休憩が終わったら、リッダーシュが従者から教師に変わる。
「遅い! いち、に、さん、もう一度!」
「うるさい! 大声を出すな、眩しいって言ってるだろ!」
「雑念が多い! 集中しろ!」
実に厳しく容赦ない。シェイダールは短刀を扱う基本動作はすぐに覚えたが、リッダーシュを相手にするとぶざまを晒してばかりだった。とにかく声に気を取られてしまうのだ。他人の声なら無視できても、この黄金色は難しい。それだけでなく、
「そもそもおぬしは体力がない! 走れ!」
「くっそ……休ませろ、殺す気か」
「この程度で死ぬならアルハーシュ様の相手にはならぬ。ほら立て!」
シェイダールの身体が成長しきっていない、というのも一因だった。村ではあまり食べられなかったから、全体に華奢で非力なのだ。頭で学んでも動作がついてこない。
「覚えてろよ……」
王より先に従者をぶちのめして土を舐めさせてやる。いささか程度の低い目標を胸に、シェイダールはよろけながら中庭を走るのだった。
毎日が新しい知識との出会い、驚きと発見の連続だった。
そのひとつが蜂蜜だ。シェイダールの村では貴重品で、稀に村長が行商人から手に入れて見せびらかし、それを神への供物として受け取った祭司が恭しく崇め奉っていた。ゆえにシェイダールも現物を目にしてはいたが、その黄金が分け与えられるのはごく限られた人間だけであったから、味など知らず、色と名前以上の意味を持たないものだった。
初めて蜂蜜をかけた揚げパンが供された時には、シェイダールはしばらく声も出せないありさまになった。蜜そのものはねっとりとしていながら、口の中でさらりと溶けて後味もしつこくなく、複雑で華やかな香りを伴っている。
陶然としているシェイダールを、リッダーシュは面白そうに眺めていた。
「おぬしがそんな顔をするとはな。料理人に伝えておこう、喜ぶぞ」
その声の黄金が蜂蜜の強烈な印象とあいまって、シェイダールは眩暈を起こしそうになった。またひとつ、この声につながるものが増えた。一面の麦畑だけでも相当な威力があるのに、黄金の蜂蜜とその幸福な甘さが加わったら、一撃必殺だ。関連を断ち切りたくても、勝手についてくるのだからどうしようもない。これでは鍛練がますますつらくなる。
「雑念が多いと言うがな」
いきなり唸ったシェイダールに、リッダーシュはきょとんとする。その純朴そうな顔に向けて、シェイダールは揚げパンの皿を突きつけた。
「刀を振り回している最中に、これが目の前に飛んできてみろ! 集中できるか?」
「……飛んでくるのか?」
「おまえの声がこれだと言ってるんだ、馬鹿! 黙っていてくれたら、俺だって太刀捌きに集中できる!」
シェイダールは真剣だったが、色が見えないリッダーシュにしてみれば理不尽な抗議である。ぽかんとしてから、苦笑をこぼした。
「黙って欲しければ、掛け声がなくても型を間違えないぐらいに上達してくれ」
「ぐっ……」
「それに、儀式の時にはあの短刀を用いるのだぞ。おぬしはあれを前にすると、心を奪われたようになっていた。どんな色が見えても惑わされぬよう、鍛えねばなるまいに」
完全にやりこめられてしまい、シェイダールは腹いせに揚げパンを全部一人で平らげてやった。飢えを知らない従者は文句も言わず、おどけて首を竦めただけだった。
目まぐるしく日々を過ごすうちに月が一巡りし、季節も移ろっていた。朝食に生の棗椰子が出て、やっとシェイダールはそれを思い出した。
「そうか、収穫の季節か」
ぽつりとつぶやき、艶やかな楕円系の果実をつまんだまましばし追憶にふける。厳しい夏が終わりに近付く頃、村でも棗椰子の収穫が始まる。男が樹に登って実を落とし、女がそれを集めて驢馬に負わせ、持ち帰って広げて干す。村の全員が棗椰子にかかりきりになるのだ。幼い頃から毎年繰り返されてきた光景が、瞼に浮かんだ。
(母さん、どうしてるかな)
ちゃんと母屋で暮らせているのか、食事は充分だろうか。続いて幼馴染みの姿が脳裏をよぎり、痛切な罪悪感が胸をついた。別れ別れになってから一度も顔を見ていない。
「なあ、リッダーシュ。今日、その……『柘榴の宮』に行けるか?」
唐突に切り出したもので、返答があるまで間が空いた。リッダーシュは森緑の目をちらと宙にやって思案してから、「恐らく」とうなずいた。
「早い時間だから、今から知らせておけば大丈夫だろう」
「いや、様子を見るだけでいいんだ、その、そういうつもりじゃなく……元気にしているか確かめたいだけだから、少し話せたらいいんだ。時間は取らせないから」
自分の妻に逢うのだから何も疚しくないはずなのに、シェイダールはあたふたと無用の言葉を重ねる。そんな様子をリッダーシュは怪訝そうに見ていたが、しまいにぷっと失笑した。それ以上は堪え、せいぜい従者らしい声音を取り繕って応じる。
「御意、承りました」
我が君、と最後に一言付け足そうとして果たせず、結局ふきだしてしまった。主人を笑いのめす従者を前に、シェイダールは真っ赤になって唇を噛む。そこへさらに厄介な人物が現れた。朝食後を見計らって訪れたジョルハイである。
「なんだい、今朝はまた随分と愉快そうだね」
早朝からへばりついて細々した決まりを守らせようとする努力は、しばらく中断している。第一殿が頑として聞かないので、諦めたのか、押しの一手から戦略を変更したのか、最近はあまりうるさく言わなくなった。
代わりとばかり勉学に関してはどんどん難度を上げてくれたが、元来物覚えの良いシェイダールにとってはさしたる苦痛でもない。むしろ新たな教材で何を読めるか、楽しみにするほどまでになっていた。教師に対する感情は相変わらずだったが。
「何でもない。ヴィルメの様子を見に行きたいと言っただけだ」
シェイダールはぶっきらぼうに説明した。隠そうとすれば邪推されるだけだ。ジョルハイは絨毯の端に腰を下ろし、年長ぶってうなずく。
「ああ、それはいい。ここに来てから一度も会っていないんだろう。きっと心細くなっているだろうし、安心させてやりたまえ。この後すぐに?」
問いかけはリッダーシュに向けたものだ。ようやく笑いをおさめた少年は咳払いして取り繕い、否と答えた。
「今から伺いを立てるところだ。あちらが了承してくれたら、昼食を共にして午後はゆっくり過ごせば良いだろう。失礼」
一言断って座を外し、廊下に出る。いつもならすぐに見付かる召使が、今日はたまたま控えていなかった。はて、とリッダーシュは首を傾げ、室内に向き直った。
「誰もいないな……仕方ない、行ってくる。ジョルハイ殿、少しの間だが頼む」
「ああ、癇癪持ちの第一殿のご機嫌を取っておくよ」
おどけて応じたジョルハイにリッダーシュも笑い返し、軽やかな足取りで出て行った。残されたシェイダールは当然、不機嫌である。このひと月余り、リッダーシュは影のごとく、ほとんど常にそばを離れなかった。それがいなくなって、不意に己の身が安泰でないことを思い出したのだ。彼は用心深く声を低めて切り出した。
「ジョルハイ。第二候補の御付祭司はどうしてる? まだ諦めてないのか」
「おやおや。頼もしい従者がいなくなった途端に心細くなったかい。おっと冗談だよ……そうだね、まだ諦めてはいないようだ。隙あらば君を蹴落とそうと狙っている。だから君が祭司の指導に反抗的だと知られたくないんだがねぇ。心から祈りを込めてひとつひとつの動作を行えとは言わないが、ふりだけでもできないかい?」
ぬけぬけと言ったジョルハイに、シェイダールは疑いの目を向けた。
「何を考えているんだ。俺が祭司を憎んでいるのを知っていて、まだあんたは俺を第一候補として持ち上げている。上辺だけでも従順にふるまって、王になれと言う。俺はあんたを優遇するつもりはないと、何度も言っているのに。……何が目的なんだ?」
「私は君に、王になってもらいたいだけさ。君の味方だ。それで充分だろう」
「はぐらかすな。味方だって? 祭司のくせに」
シェイダールが追及すると、ジョルハイは周囲の物音に耳を澄ませてから、すぐそばまでにじり寄ってささやいた。
「どうしても知りたいかい」
初めて聞く不吉な声音だった。シェイダールはたじろいだが、退いたら負けのような気がして、ぐっと睨み返す。
「目的を隠したままの奴は信用できない」
「そうかい」
言うなりジョルハイはシェイダールを突き倒した。身構える間もなくうつ伏せにされ、右腕を背中にねじ上げられる。暴れようとしたが、押し潰すようにのしかかられ、動けなくなった。うなじに息がかかり、ぞわりと寒気をおぼえる。
「怖いだろう。屈辱だろう。……私は十歳の時、こうして祭司に犯された」
「――っ!」
恐怖に駆られてシェイダールは満身に力を込める。その瞬間、どこかでパキンと何かが砕ける音が聞こえた。思わずそちらに気を取られた隙に、ジョルハイは彼を離して座り直した。はねのけて殴り飛ばすつもりでいたシェイダールは拍子抜けし、まだ奇妙な音の原因を気にしながら顔を上げる。ジョルハイは静かな無表情で座していたが、彼が起き上がると、絨毯に両手をついて深く頭を下げた。
「無礼はこの通り、お詫び申し上げる。私の抱く憎悪が本物であることを、第一殿にも実感し、信じていただきたかった」
丁寧な言葉にそぐわぬ、深い怨嗟の色。シェイダールは腕をさすって唸った。
「やり方はむちゃくちゃだが、充分よくわかった。あんたは俺を王にして、神殿をぶち壊させようって魂胆なんだな」
「君一人に任せるつもりはないがね。だからこそ、第一候補の御付として神殿内の位を上げたい。……見習いの少年に片端から手を付けていたあの腐れ爺には報いを与えてやったが、そんな理由で私は神殿という組織そのものを、君が神に対する以上に憎悪し侮蔑している。これでわかったろう、私は君の味方だ」
言い終えると、ジョルハイはふいと視線をそらし、暴れたはずみで引っくり返った皿や器を整えはじめた。シェイダールも遠くに飛ばされたものがないか探し、次いで衝動的に笑いをこぼした。物問い顔になったジョルハイを、シェイダールは意地悪く揶揄する。
「いつも取り澄ましてるあんたの口から、腐れ爺なんて悪態が出るとはね」
「それでも丁寧なぐらいだ。君だって、私が手を離すのがもうちょっと遅かったら、すさまじい罵詈雑言を浴びせてくれただろうよ」
ジョルハイは鼻を鳴らし、長衣の襟をぴんと引っ張って整えた。思わずシェイダールが声を立てて笑ったところで、リッダーシュが戻ってきた。続いて召使が急いで入り、朝食の後片付けをする。詫びながら退室した召使を見送り、シェイダールは首を傾げた。
「何かあったのか? 外が慌ただしいな」
「揚水機が故障したとかで、人手を取られているらしい。幸い深刻ではないようだが」
リッダーシュは答え、あるじの顔を見て不審げに眉を寄せた。
「そちらこそ何があった。痣ができているぞ。まさか殴り合いでもしたのか」
言われてシェイダールは驚き、顔に手をやる。突き倒された時にぶつけた頬骨が、微かに熱を持っていた。
「いや、これは……ちょっとしたはずみで」
もぐもぐとごまかし、途中ではたと気付いてしかめっ面になる。
「おいリッダーシュ、こういう場合は普通、先に気遣うものじゃないか? 俺が暴れたみたいに疑うのはどういう了見だ。従者のくせに」
「それは日頃の行いがゆえだろう」
不遜な従者は毫も動じず言い返し、あるじの傍らに膝をつく。大した怪我ではないようだと確認すると、彼はひとつうなずき、呆れ顔で言い添えた。
「久しぶりに妻女と会うのに、顔に痣など作る奴があるか。少し慎め」
「会えるのか」
思わずシェイダールは身を乗り出した。珍しく素直な反応に、二人が揃って失笑する。途端に彼はむすっとなり、リッダーシュが機嫌を取るように答えた。
「あちらで昼食をとることになった。楽しみにしていると仰せだよ。ラファーリィ様もおいでになるそうだ。次なる王に挨拶をしておきたいと」
「ラファーリィ様……確か第一王妃だったよな。ドゥスガルの出身で、もう十年以上『柘榴の宮』を取り仕切っている」
シェイダールは王から聞いた情報を復習がてら確認した。ドゥスガルはワシュアールの隣国で、昔からかかわりの深い相手だ。リッダーシュが嬉しそうにうなずいた。
「ああ。大変美しい御方だ。おぬしも失礼のないように、念入りに身支度をせねばな。ジョルハイ殿、せっかく来てもらったが、そういう事情であるから、日課は……」
「もちろん、野暮な文書の相手をしている場合ではないな。できれば私もヴィルメに挨拶したいんだが、構わないか? 顔見知りが一人でも多いほうが、彼女も心強いだろう」
「歓待を受けられるのは第一殿のみで我々はじきに出ねばならぬが、それで良ければ」
二人だけで話を進められ、シェイダールは忌々しげに割り込んだ。
「おい、勝手に決めるな。ジョルハイ、うまいことを言って『柘榴の宮』に潜り込むのが目的じゃないだろうな。ついでに王妃に取り入ろうとでも考えてるんだろう。リッダーシュ、俺は馬鹿みたいに着飾ってずるずる裾を引きずって歩くのはごめんだぞ。それより揚水機とかいうのが気になる、見に行きたい」
共に計画を却下された二人は不満げな顔をし、口々に反論する。
「君ちょっと疑り深すぎやしないか。ついさっき私を信用してくれたと思ったのに」
「おぬしと妻女だけであれば気楽な格好でも良かろうが、ラファーリィ様がお見えになるのに、それでは無礼だぞ。相応の礼儀を守り敬意を表さねば、おぬしの妻女が宮で軽んじられることにもなりかねん」
「わかったとは言ったが信用するとは言ってない」
シェイダールは素っ気なくジョルハイに言い返し、次いでリッダーシュに渋面を見せつつ立ち上がった。
「身支度するにしても、人手が足りないんだろう。こっちに誰か寄越せと無理強いしたくない。故障したっていう場所に案内してくれ」
こうと決めたら曲げない少年に、ジョルハイとリッダーシュはそれぞれ諦めの仕草をして、顔を見合わせた。
結局しばしの後、三人は連れ立って庭園の水路を上流へさかのぼっていった。
「いったい何がそんなに気になるのだ? 特に面白いものでもなかろうに」
リッダーシュが訝るのに対し、シェイダールは水路を眺めやって応じた。
「おまえにとっては当たり前なんだろうが、俺にはこんな水路があること自体が驚きだ。どこから水を引いて、どうして流れているのか……それにさっき、妙な音がして」
つぶやくように言って上流を見る。水はまだ流れてはいるが、いつもよりずっと遅く、量も少なくなっていた。しばらく歩いて王宮の外れまで来ると、水路は古くて素っ気ない箱型の建物の中に消えていた。給水調整棟だ、とリッダーシュが教えたそこには、兵士が二人立っており、何人もの召使が出入りしていた。
リッダーシュが兵士に掛け合い、いささか迷惑そうな顔をされながらも許可を得ると、三人は古びた重い扉を開けて中へ入った。
「うわ……!」
刹那、圧倒的な感覚に襲われ、シェイダールは息を詰まらせた。
ゴウン、と低く地を這う鐘の音。青、藍、金。小さな甲高い音がいくつか。
よろけたのをリッダーシュが支えてくれたが、それもほとんど意識にない。シェイダールは魅入られたように、ふらふらと前へ出た。
水路の始まりは、深い
上水が止まってしまい、多くの召使が壺や桶を手に水を汲みに来ていた。少し身なりの違う技師らしき数人が、歯車や心棒やあちこちの継ぎ目を調べている。
青、薄青、白。金。
「そこじゃない」
シェイダールは無意識に呼びかけていた。だが誰もが忙しくしていて、気楽な見物人の声は無視される。彼はさらに一歩進み出た。
白、金、白……
「あそこだ」
指差す先は、宝石の織りなす模様。ただの装飾にしか見えないその一点を、彼は食い入るように見つめる。と、外が騒がしくなったかと思うや、扉が大きく開かれた。召使らが慌ただしく脇へ避けて頭を下げる中を、アルハーシュ王その人が踏み込んでくる。
「ほう、そなたもいたか」
王はシェイダールを見ると、驚いた風もなく言って歩み寄った。シェイダールはまだぼうっとしたまま、はいとうなずく。その視線は王の手にある小箱に吸い寄せられていた。彼の反応に王は眉を寄せ、装置と少年とを見比べてから、小箱の蓋を開けた。
「どれを用いる?」
中には何種類もの宝石や鉱石が入っていた。シェイダールは眩しそうに目を細めて、指をさまよわせる。何度か装置を瞥見してから、彼はひとつの黄色い石を取り上げた。
「これを、あの割れた石の代わりに」
「……なるほど。間違いないようだ」
王はシェイダールが差し出した石をじっくり検分し、重々しくうなずいた。技師を一人呼びつけ、埋め込まれた宝石をひとつ交換するように命じる。
梯子をかけて作業する様子を、王とその跡継ぎは共に無言で見守っていた。ややあって交換が済むと、止まりかけていた歯車がまた動きだし、汲み上げられる水の量も増えはじめた。ざわつく人々の間で、シェイダールは満足の息をついた。
青、藍、金。薄青、白。それぞれの色に音が伴い、調和する。低音がゆったりと響く上を、軽やかな高音が滑らかに転がってゆく。口の中で音を追いかけ、その心地良さに目を細める。なんと見事な旋律、美しく豊かな彩りか。
「そなたは見えるのだな」
横からいきなり言われ、シェイダールは我に返ってぎくりとした。周囲を見回すと、好奇と畏怖、それにいささかの嫌悪を秘めたまなざしがいっせいに突き刺さる。
しまった、余計なことをした。シェイダールは察して身をこわばらせた。本来これは王の役割だったのだろう。色と音を、あるべき姿に整えることは。
王は青ざめている少年を眺め、ふむ、と唸った。
「力を継承するまでもなく色を見るか……これほどの資質を持ちながら、その血筋が今まで見出されぬまま辺境に埋もれていたとはな。そう硬くなるな、シェイダール。そなたが紛れもなく本物であることは証された。第二以下の者らも、この件を知ればもはや不平は言うまい」
穏やかな口調だった。咎められずに済んでシェイダールは肩の力を抜く。安心すると早くもいつもの調子に戻り、彼は揚水機に目をやってから王に話しかけた。
「これは『最初の人々』の遺物ですね。ずっとこれで王宮の水を賄っているんですか」
「さよう。水源はここからずっと北の丘らしい」
「アルハーシュ様も、色が見えるんですね。だから直すための石を持って来られた」
「これも先代から受け継いだものだがな。後は他の者らに任せて大事あるまい。少し話をせぬか、シェイダール。そなたと余の目に映る色について」
アルハーシュは手振りで外へ出るよう促し、提案する。シェイダールはちょっと困った顔になって従者を振り向いた。おや、と王が不思議そうに小首を傾げる。
「何か予定が?」
「……ええと、あの……身支度をしろと、言われているんです。『柘榴の宮』へ、つまりその、様子を見に行こうと思って、そうしたら王妃様が」
しどろもどろになったシェイダールの背後でリッダーシュとジョルハイが失笑する。三人の様子から、王は皆まで聞かずとも察して口元をほころばせた。
「なるほど、それは重大事であるな。ではまた明日にでも、ゆるりと語らうとしよう。リッダーシュ、我が跡継ぎが妃らに失望されぬよう、頼んだぞ」
「畏まりました」
笑いを堪える声音で応じ、リッダーシュが頭を下げる。そのまま王が出て行ってしまったので、シェイダールは急いで後を追った。陽射しに目を細め、あの、と呼びかける。
「アルハーシュ様、あなたも……聞こえたんですか」
パキンという小さな音。この施設からの距離を考えたら、とても聞こえるはずがないのに、なぜか感じ取れた音が。だが振り向いた王は、怪訝な顔をしていた。
「聞こえた? 何がだ」
「砕ける音が。だからここへ来られたのでは?」
シェイダールの質問に、王は表情を消してじっと彼を見つめた。気まずくなるほどの沈黙。それからやっと王は口を開いた。
「明日、朝食が済んだら余のもとへ参るように。充分な時間をかけて話さねばなるまい」
「……はい」
返事を確かめると、王は供を連れて去ってゆく。シェイダールはしばしその場に立ち尽くし、言わなければ良かった、と後悔していた。そなたも見えるのだな、と言われて早合点した。色が見えるのは自分だけではない、己の頭がおかしいのではないのだと、喜びのあまり急ぎすぎた。王もまた同じ色を見て、同じ感覚を得ているのだと思ったのに。
(もしかして)
そこではっと気付き、彼は背後を振り返った。調整棟からリッダーシュとジョルハイが出て来る。水汲みが必要なくなった召使たちも急ぎ足に散ってゆく。その誰もが……
「リッダーシュ、ジョルハイ」
呼ぶと二人がこちらを見る。シェイダールはごくりと唾を飲み、問いかけた。
「あの建物の中、うるさくなかったか」
やけに緊張して、そのわりに他愛ない質問をした彼に、二人は当惑顔をする。そして、
「うるさい、と言うほどではないと思うが」
「歯車や何やらギイギイ鳴っていたが、あの大きさを考えたら静かなほうじゃないかい」
ためらいながらも、さも当然のように答えてくれた。
(聞こえていないんだ)
色が見えないだけではない。入った瞬間に圧倒してきたあの鐘の音さえも、彼らには聞こえていないのだ。恐らくは王までもが。シェイダールは喘ぎよろめいて、両手で顔を覆った。慌ててリッダーシュが駆け寄り、肩を支える。
「どうしたんだ、急に」
「何でもない、ちょっと陽射しに当てられただけだ。部屋に戻ろう」
呻くように言って振り払い、シェイダールは強引に歩きだす。心配そうなリッダーシュに何も説明せず、彼はただすべてから逃げるように足を動かし続けた。
身支度の一環に沐浴があったのは幸いだった。気分がほぐれ、心が落ち着く。
髪を洗い、梳かして金の環で押さえ、手足の爪もきれいに整えて。召使が数人がかりでシェイダールを磨き上げ、すべてが済むとすっかり彼は貴族のようになっていた。
「よし、これならおぬしの妻女も面目を施せるだろう。ラファーリィ様の前に出ても恥ずかしくないな」
リッダーシュは御満悦でうなずく。鏡を見せてもらえないシェイダールは曖昧な顔で、まったく別の話題を投げかけた。
「なあ、以前おまえはアルハーシュ様の御力を受け継ぐことは並大抵じゃないとか言ってたよな? おまえはあの方の力を量れるのか」
「そういうわけではない。誤解させたな。実を言うと、私にもほんのわずかだが『王の資質』が備わっている。だから、アルハーシュ様が御自身の力に触れられた時に、おそばに控えていると……わかるのだ」
リッダーシュは目を落とし、胸に手を当てた。シェイダールはまじまじと従者を見つめる。彼の内にもあの深い穴があるのだと、すぐには信じがたかった。
「候補になるほどの資質ではない。だから対面するだけで何かが感じられるようなこともないのだ。しかし、あの方が意図して力に触れられる時、深淵が開かれ道が通じるのが私にもわかる。あのようなことを行う力を受け継ぐなど、とても想像がつかない。……どうやらおぬしには可能なようだが」
そうか、とシェイダールは応じたきり、黙って考えに沈んだ。
(王になれば直観が生じると言っていた。手がかり足がかりを使ってそれを捉えるのだ、と。つまり王の力というのは、穴の有無じゃない。そこから湧いてくる何かを汲み上げられるかどうか、ってことだ。何もしなくても穴の底から水が湧く奴なら、俺みたいに色や音を感じる。いにしえの遺物も明らかに関係がある……だとしたら)
ふと思い当たり、彼は部屋の隅で宿題を用意している御付祭司を見やった。
(あいつら祭司は、『最初の人々』の遺したものを守るのが使命だ、とか言い伝えているようだが……もしかして、他の国にも何かあるんじゃないのか。『最初の人々』がこの国にしかいなかったわけはないだろう。よそでも王の力を利用しているかも)
考えを進めていくと、今まで見えていなかった可能性がいきなり目の前に開けた。そのあまりの遠大さに、シェイダールはつかのま茫然とする。
――王の力は、王だけのものではないかもしれない。継承などせずとも、誰の内にもその資質は眠っており、正しい手がかり足がかりさえあれば、深い穴を降りて水を汲み出すことができるのではないか――
(もし本当にそうなら、殺すことも殺されることもない)
希望に胸が熱くなる。今すぐこの思い付きを、王と話し合いたい衝動に駆られる。そわそわしたシェイダールは、そばでリッダーシュに失笑されて我に返った。
「久方ぶりの逢瀬が待ちきれぬのはわかるが、そうあからさまにするな」
からかわれて赤面し、違うと言いかけて口をつぐむ。否定しても照れ隠しだと思われるだけだろう。なら、誤解させておくほうがいい。一度頭を冷やして、この閃きを検討しなければ。シェイダールはぎゅっと唇を引き結び、黙って部屋を出た。
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