継承の刀


   *


「しまった! 寝過ごし……」

 がばっと跳ね起きた直後、見覚えのない部屋に混乱する。夢の続きのごとく柔らかい毛布を握り締め、硬直したまま数呼吸。ようやっと現状を思い出したと同時に、隣室からリッダーシュが現れた。

「お目覚めか。ちょうど起こそうと思ったところだった。よく寝ていたな」

 愉快げな声音にちらちらと金色が瞬く。起き抜け早々、シェイダールは深いため息をついた。窓外から薄布を通して早朝の白っぽい光が差し込み、鳥のさえずりが聞こえる。そこへリッダーシュが、洗面器に水を張って持ってきた。

「顔を洗え。それから着替えて朝食だ」

「なんだそれ……」

 シェイダールは小声でつぶやいて、信じられないとばかり頭を振った。言われるがままに顔を洗い、差し出された手拭を使う。長年ずっと、起きたら水汲みに行くことから一日が始まっていたのに、なんという贅沢だろう。さらには着替えている間に召使が入ってきて、部屋の中央の絨毯に皿や器を並べて朝食を調えた。

 白いチーズ、食べやすく見目良く切られた新鮮な瓜。数枚の香ばしい平パンはふっくらした厚みがある。発酵させてあるのだ。思わずシェイダールは唾を飲んだ。いそいそ絨毯に座り、誘われるように手を伸ばしかけた彼の前で、リッダーシュがこほんと咳払いし、両掌を上に向けて祈りの文句を唱えた。

「豊穣の女神マヌハに栄えあれ。御恵みに感謝します」

 ごく簡単な、決まりきった祈りだった。だがシェイダールは火傷したように手を引き、顔をこわばらせる。リッダーシュは不思議そうに小首を傾げ、催促するように軽く手を揺らしたが、むろんシェイダールは従わなかった。

「俺は祈らない」

「えっ?」

「俺は神々を信じない。だから祈らない。中でもマヌハ女神にだけは絶対にだ」

 強い口調で宣言する。馬鹿を言うなと非難されようと、祈らなければ食べさせないと脅されようと、撤回する気はない。

 リッダーシュはぽかんとしている。次に来る言葉に耐えるべく、シェイダールは奥歯を噛み締めた。何と不遜な、気がふれたのか、神罰が下るぞ――村で母や祭司から受けた礫が身の内で暴れる。だが、ややあって発せられた言葉は、予想とは違っていた。

「それで王になるつもりなのか?」

 責める声音ではない。ただ単純に驚き、訝るだけの響き。

「何があったかは知らぬが、王となればその一挙手一投足、ありとあらゆる行いが神々への祈りとなる。さればこそ天と地の恵みがもたらされ国が治まるのだ。おぬし個人が神に恨みつらみを抱いていようとも、王のつとめは果たさねばならぬ。……使者はおぬしに、何も説明しなかったのか? おぬしの遺恨を知らなんだのか」

 信心云々というところを見事なまでに軽々と跳び越えて、実際的な問題に着地する。そんな対応に、シェイダールは啞然となった。全力で壁に体当たりしたつもりが、壁の絵を描いた幕に突っ込んでまともに転倒した気分だ。しばし彼は腑抜けていたが、リッダーシュに目顔で返事を求められ、慌てて姿勢を正して取り繕った。

「いや……その、知ってる。つまりその、使者が」

「おぬしの事情や考えを?」

「ああ。村を出る前に話したし、道中でも時々……でも、王のつとめがどうとかってことは聞かなかったな。どっちにしても関係ないさ。俺が王になったら、下らないしきたりはやめさせる。神々は俺たちが何をしようとしなかろうと、気にかけやしないさ」

 食前の祈りだって、と見せつけるように、彼はパンに手を伸ばす。しかしリッダーシュが「待て」と穏やかに止めた。むっとなったシェイダールには構わず、従者の少年はパンを小さくちぎった。それからチーズ、瓜と一通り少しずつ口にする。

「それは何の儀式だ?」

 皮肉めかしてシェイダールが訊くと、リッダーシュは最後に水を一口飲んでから、うんとうなずいて答えた。

「毒見だ」

 返された言葉が予想外に重く、シェイダールは声を詰まらせ、思わず相手の腕をがっしと掴んだ。今にも血を吐いて倒れるのではないか、と背筋が冷えたのだ。

 リッダーシュは森緑の目をしばたたいた後、安心させるように微笑んだ。

「大丈夫だ、何も入ってない。おぬしも食べてくれ」

 言って、あるじの手を引き剥がす代わりに軽くぽんと叩く。我に返ったシェイダールはぎこちなく腕を離し、胡乱げに朝食を眺めた。

「何か入れられる、かもしれないのか」

「念のための用心だ。毒ではなくとも、妙なものがまじっていてはいけないからな。毒殺などそうそう起こることではない、案ずるな」

 あっさり言われたのが信じられず、シェイダールはまじまじと眼前の少年を見つめた。

「それでも、毒が盛られるかもしれないんだろう。もしそんなことがあれば」

「私が代わりに死ぬだけだ。おぬしの身に害は及ばぬ」

「だけ、じゃないだろう! おまえっ……おまえは、それで」

「名誉なことだぞ?」リッダーシュは泰然と応じる。「身命をかけて次なる王をお守りできるのは、この上ない名誉だ。王が無事なればこそ、神々が恵みを施したまい、国は栄え民の暮らしも良くなる。王国の安寧のためなら」

「――っ!」

 シェイダールが拳を振り下ろし、パンの皿が騒々しく引っくり返る。唇を噛みしめ、彼は怒りに震えて己の拳を見つめていた。

(またか。ここでも神のせいで、死ななくていい人間が死ぬのか)

 王だの貴族だのが権勢欲から殺し合うのは、そういうものなんだろうと納得できる。だが王だけは、その生死に神々という要素がかかわり、身代わりが殺される。神々は人間のことなど気にしていないというのに。

 誰が王になろうと、誰が死のうと、雨も風も都合を変えない。国の安寧? 神々が力を授けて下さるから? そんなことは、あるはずがないのだ。

(絶対に、やめさせてやる)

 根拠のない思い込みで命の軽重を決めるような慣習は、断じて廃さねば。シェイダールは乱暴にパンを掴み取り、形の崩れたそれを口に押し込んだ。仇のように咀嚼し、飲み込んで水を呷る。それから彼は、困惑顔の従者に向かって命じた。

「おまえは死ぬな」

「……?」

「神々の機嫌を取るためになんか、死ぬな」

 宇宙のように深い紫の瞳で真正面から見据え、一語一語、相手の心に直接刻み付けるがごとく声にする。リッダーシュは気迫に呑まれ、答えない。沈黙が続いたせいでシェイダールは唐突に羞恥を思い出してしまい、ぷいと視線をそらして朝食をがつがつ貪った。

 ややあってリッダーシュが、苦笑まじりに抗議した。

「その勢いで全部平らげないでくれ、この食事は二人分だ」

「むむ?」

 口いっぱい頬張ったままシェイダールが聞き返す。リッダーシュは皿を戻して新たなパンをちぎり、塩気の強いチーズと一緒に行儀良く食べた。

「王もそうだが、普段から従者も同じ食事をとるんだ。先に毒見はするが、それだけでは不充分だから。王を害する大罪人はまずいないが、候補の間ではわからないからな」

「……嫌な場所だな、王宮ってのは」

 食欲が失せる話を聞かされ、シェイダールはげんなりした。そこでふと思い出し、そういえば、と遠慮がちに問いかける。

「ヴィルメはどうしてる? 連れも丁重にもてなす、って言ったよな」

「おぬしの妻女なら『柘榴の宮』に迎えられたそうだ。心配は要らない」

「柘榴?」

「王の妃らが住まう宮だ。おぬしが王となるまでは、客人の扱いになる。身重の女にとっては最上の待遇だろう。……まあ、その、思いつきで気軽に逢いにはゆけぬが」

 最後の一言はやや気後れしたように言い、首を竦める。その意味をじんわりと理解し、シェイダールは頬を染めてややこしい顔になった。つまり今後は、ヴィルメと同衾したくば事前に誰かに取り次ぎをお願いしなければならない、ということだ。

 ばつが悪い雰囲気になったのをごまかすように、リッダーシュが咳払いした。

「ともあれこの後アルハーシュ様にお目通りして、そうした諸々の事柄について教わる予定になっている。おぬしは改めて、王となるか否か心を決めなければならない。……神々に対するおぬしの考えも、お伝えして裁決を仰ぐと良いだろう」

 食事が済むとまた召使がすっと入ってきて、食器類を片付けた。その傍らリッダーシュが衣装櫃から着替えを用意し、王に拝謁するにふさわしい身なりを整える。たっぷりした袖のある長衣、連なる糸杉模様が刺繍された帯。シェイダールは目的に合わせて何度も着替える面倒臭さと贅沢さに、早くもうんざりしはじめていた。

 部屋を出て歩きながら、シェイダールは先導するリッダーシュに尋ねた。

「さっきの話だが、王に言ってもいいのか? 神々を信じないだとか、神なんかいないとか、言っても打ち首になったりしないだろうな」

「なるものか。神々に遺恨を抱く人間は昔からいる。過重な天罰を下されたとして憤った男が、祭壇に家畜の糞を積み上げて、己もその場で命を絶ったという話もあるし、不信心は取り立てて珍しくはない。ただ、それが王となると話は違ってくるが」

 穏やかな口調は屈託なく、声に伴う暖かな金茶色とあいまってシェイダールの心を落ち着かせる。村で受けた反発は何だったのか、虚しくなるほどだ。彼はため息をついた。

「そいつは馬鹿だな」

「なぜ?」

「神に対して怒りながら、抗議のために命を捨てるってことは、自分が死ねば神々に何らかの痛手を与えられると信じているってことだ。馬鹿だよ。そもそも神が実在してそいつを気にかけているとしたら、過重な天罰とやらもなかったろうし、そいつにそこまでの行動を取らせるはずがない。つまり無駄死にだったのさ」

 冷ややかに言い放ったシェイダールに対し、前を行くリッダーシュが足を止め、振り返ってつくづくと感心した。

「おぬしは聡いのだな。こう言ってはなんだが、都から遠く離れた田舎に、おぬしのように理路整然と考える者がいるとは、正直、驚いた。おぬしがアルハーシュ様の御力を受け継いだらどんな王になるか、楽しみであると同時に少し恐ろしくもなったよ」

「大層なお褒めの言葉、まったくありがたいね」

 シェイダールは辛辣に応じる。ひねくれ者のあるじに、従者の少年は苦笑をこぼした。

「本心なのだがな。アルハーシュ様にはそんな物言いをしないでくれよ、第一候補殿」

 それだけ言って、また歩きだす。シェイダールはしかめっ面でついて行った。村では反発を招く不信心な発言も、嫌味も挑発も、この少年はしなやかに受け止めてしまう。よほど従者としての心得を叩きこまれたか、それともこれが都人の余裕なのか。

(しっかりしないと。こいつにさえ勝てないんじゃ、いずれ王になってもいいように使われるだけだ)

 頭を振り、背筋を伸ばして前を見据える。白い敷石がまっすぐに続いていた。


 王の私宮殿に通じる廊下で、顔見知りが待っていた。

「やあシェイダール。第一候補確定おめでとう」

「あんたもいたのか」

 にこやかなジョルハイの挨拶は、相変わらず滑らかな薄青色だ。シェイダールはなんとなく警戒したが、青年祭司は気にする様子もなく歩み寄ってささやいた。

「この先に行くのは、しばらく待ったほうがいい。第二の御付祭司イシュイ殿がいる。今さら第一が現れたと聞いて、納得いかないと抗議にお越しあそばしたんだ」

 御付祭司、と聞いてシェイダールは苦虫を噛み潰した。候補者の日常生活を世話し護衛する従者がいるように、神祇方面の行いを監督する祭司がつくのだろう。恐らく自分にはジョルハイが、だ。彼は憂鬱になったのを紛らそうと、話をそらせた。

「第二ってのはどんな奴なんだ? もう五人の候補全員が見付かっているのか」

「私が都を出るまでに、三人は見付かっていたね。昨日神殿で聞いたところでは、予備を含めて六人ばかり選定されていたらしい。君が現れたせいで二人は脱落、これまでの第一は第二に降格。ゆくゆくは祭司長にとも夢見ていた御付祭司は、野望を挫かれ憤慨きわまれり……と、そういうことさ」

「言っておくが、俺は王になってもあんたを優遇するつもりなんかないぞ」

 シェイダールが不機嫌に釘を刺すと、ジョルハイは大袈裟に縮こまって見せた。

「つれないな、第一殿は。……そういう言葉は引っ込めておけと忠告しただろう?」

「脅しなら聞かない。あんたは俺を利用して旨い汁にありつきたいんだろう、だったらあんたが適当に間を取り持てばいい。それより、他の候補はどんな奴らなんだ」

「二人とも、その話はよせ。新王が即位するまで、候補は秘さねばならぬ決まりだ」

 素早くリッダーシュが割り込む。ささやきの剣呑さは、単に慣例だからというものではない。シェイダールは真意を質そうとしたが、廊下の先から響く怒鳴り声が邪魔をした。

「どうあっても、納得のいく根拠をお示し願いますぞ! 御身の栄光が何によってもたらされているか、今一度お考えになることですな!」

 威張り散らしてはいるが、所詮捨て台詞だ。暴言の主は衛兵の手で外へ放り出される。三人が柱の陰に隠れると、祭司がまだぶつぶつ憤懣を吐き散らしつつ、荒々しい足取りで通り過ぎていった。その後ろ姿を見て、シェイダールはふむと推察する。

(ご立派な身なりだな。歳もいってるし、ジョルハイよりはかなり位が上だろう。ってことは……第二候補は多分、貴族だ。だからきっと神殿を味方につけようとしてるし、あの祭司も自分が優遇されると見込んでいたに違いない。ふん、それで俺を蹴落とそうとか、馬鹿じゃないのか)

 王になれなくとも、候補はそれなりの出世が望める。元から貴族であるなら、なおさらだ。無理に第一候補を排しようとして敵対すれば、新たな王が立った後でまずい状況になるだけではないか。むしろ第一候補にも誼を通じるべく動くのが賢いだろうに。

(俺がどんな信条を持っているのか、既に知っているとしたら別だが)

 そこまで考えて、彼はジョルハイを横目で冷ややかに観察した。あれこれ忖度されていると思ってもいないのか、それとも感情を読まれないための防御なのか、いつもと同じ澄まし顔だった。

 ちょうどそこで取り次ぎの召使が第一候補を呼び、一行は濃紺の帳をくぐった。

 シェイダールは昨日と同じく床の黒さに一瞬怯んだが、今日はその美しさを鑑賞する余裕があった。毎日磨くのは大変だろうな、などと考え、呑まれそうな心を立て直す。顔を上げると、視線が王に吸い寄せられた。

(まただ。この感覚)

 底知れぬ深みで、ずっと眠っていたものがざわざわと蠢く。落ち着かない。いったい何だというのか。彼は無意識に胸に拳を当て、肩に力を入れた。

「よく来たシェイダール、近う寄れ」

 命じられるがまま進み出る。王の言葉を待ちきれず、彼はもどかしげに口を開いた。

「これは何ですか。これが王の資質なら、正体を教えてください。なぜこんな感覚が?」

 突っかかるような問いかけに、アルハーシュは微笑を浮かべて応じた。

「真実は誰も知らぬ。だがこの感覚こそが、王の力を受け入れる器としての資質なのだ」

「器……?」

「そうだ。器が足りぬ者に力を受け継がせようとしても失敗する。イシュイも承知していように」辟易した様子で一言こぼし、王は続けた。「家柄や経験、知識や能力、それらは王の素養としては重要なれど、力を受け継ぐ一点においてはまったく関係がないのだ」

「無知無学で何ひとつ取柄のない田舎者でも、『これ』だけで王になれるってことですか」

 皮肉と自嘲をまじえてシェイダールは吐き捨てるように言う。だがアルハーシュは面白そうに目を細め、気を悪くした風もなく答えた。

「そういうことになるな。だが無知無学であろうと、さほど問題ではない。力を受け継いだ後は、おのずとさまざまなことがわかるようになる。余の時もそうであった。魂の深みから、啓示のように直観が生じるのだ。王たる者はそれを間違いなく掴み取り、現実のまつりごとに活かさねばならぬ」

 話しながらアルハーシュは玉座から立ち、脇に置かれた卓に歩み寄ると、その上の箱を開けた。取り出したのは一振りの短刀。衛兵たちの警戒がシェイダールにも感じられた。だがその緊張も、王が短刀を手に近付いてくると、世界の外へ追いやられる。

(何だ、あれは)

 色が歌っている。王が捧げ持つ刀の上で、六色の光がちかちかと瞬き、微かな音を立てているのだ。惹かれて踏み出しそうになった彼を、リッダーシュが素早く制する。

 アルハーシュは間近まで来ると、足を止めてよく見えるように短刀を差し出した。シェイダールは目が離せず、瞬きも呼吸すらも忘れて凝視する。

「これが、儀式に用いる『継承の刀』だ。……何を感じ取った?」

「白……青と、赤、黄色……紫と、緑。それに、音が」

「ほう?」

 ふむふむとうなずいていた王が、音、と聞いて興味深げになった。シェイダールはそれを見ていない。口の中で何種類かの音を発しようとして、うまくゆかずに首を振る。

「わからない。何だこれ、わからない……っ」

 何か語りかけられている、その確信はあるのに、何を訴えられているのか、どうすれば良いのかがわからない。ざわざわと胸の奥で梢が騒ぎ、湖面に波が立つ。届きそうで届かない、掴めそうで掴めない、指の先をかすめてふわりふわりと逃げてしまう六色の影。

 思い余って短刀を鞘ごと鷲掴みにしかけた直前、アルハーシュが一歩退いた。はっと我に返ったシェイダールに、王は複雑な苦笑を浮かべて言う。

「まだ早いぞ、シェイダール。然るべき時に、然るべき手順に則り、そなた自身の力で余を倒すのだ」

「あ……、え? 倒す……」

 何を言われたのか、と当惑しながら聞き返す。色と音が遠ざかり、静かになった頭に昨日の記憶がよみがえった。そなたが余を殺すのだな――そう言われたのだ。

 シェイダールは声を失い、ただじっと王を見つめた。アルハーシュは悠然と、己に死をもたらす少年のまなざしを受け止める。

「そうだ。儀式の日、そなたはこの短刀を用い、余の命と力を奪わねばならない」

 重々しく告げられた一言が、シェイダールの視界に鮮血の花を咲かせた。

「嫌だ!」

 反射的に、腹の底から拒絶を叫んでいた。あまりの衝撃と怒りと恐怖で、歯の根が合わずにカチカチ鳴る。赤い叫びが目の前に炸裂し、消え、また弾ける。理不尽だ、こんなことが許されていいのか。否、許せない。身を震わせて息を吸い込む。だが彼が口を開くよりも早く、ジョルハイがするりと前に進み出た。

「王よ、差し出た振る舞いをお許しください。第一殿はいささか複雑な事情を抱えておいでなのです。かように繊細な事柄は、お二人だけでじっくり話し合われるべきかと」

 流水のごとく場に滑り込み、言葉尻で彼は衛兵や召使に視線を走らせた。全部で十人足らずだが、秘密を保つには多すぎる。その意を察してアルハーシュ王も、ふむとうなずいた。落ち着いた動作で短刀を箱にしまい、人払いする。

「アルハーシュ様。我々は如何しましょう」

 リッダーシュが遠慮がちに問いかけた。完全に二人だけにしてしまうと、何かあった時に止められる者も、証人となれる者もいなくなる。

「残れ。第一候補がどのような思いであるか、そなたらは知るべきであろう。たとえこの後すぐにこの少年が候補から外れるとしても、その理由を納得すべきであるゆえ」

 王の命令に、ほっ、と息が漏れる。リッダーシュのみならずシェイダールの口からも。

 つかのま沈黙があった。王が与えてくれた、落ち着くための猶予だ。王は時間をかけて椅子に腰を下ろし、さて、と切り出した。

「シェイダール。余はそなたであれば、我が力をすべて受け継ぐことができると確信しておる。そなたにこそ、王の位を継がせたい。拒むと申すならば、自らの言葉で余を諦めさせてみよ」

 促す声は穏やかだが、逃げを許さない厳しさがあった。しばしシェイダールはうつむいていたが、深くひとつ息を吸って毅然と顔を上げた。

「俺の父は、神の名を借りた祭司に殺されました」

 きっぱりと言い切り、それから彼は語った。村で行われた生贄の儀式、父に着せられた無実の罪。そして再び豊穣をもたらした女神の存在が、いかに欺瞞に塗り固められたものであるか、その根拠と共に。

 王は注意深く耳を傾けている。リッダーシュは驚きと動揺を抑えきれず何度も身じろぎし、他方ジョルハイは微笑を浮かべて平静であったが、まなざしだけは飢えたような熱を帯びていた。

「……だから俺は、承服できません。いもしない神のために、死ななくてもいい誰かが死ぬのは絶対に許せない」

 シェイダールが締めくくると、深く重い静けさが降りた。アルハーシュ王は眉間に険しい皺を寄せ、ジョルハイに向かって唸る。

「使者よ。そなたは彼の事情を知りながら、敢えて王たる者のつとめを説かず、ここまで連れてきたのか」

 咎められてもジョルハイは怯まず、恐縮そうな態度を装って一礼した。

「村ではおおよその話しか聞けなかったのです、王よ。いささか問題があろうことは承知しておりましたが、彼は私が出会った唯一の候補。それも一色ではなく多色を見出したので、是非にもお連れせねばと考えたのです。他の候補を探すには、期限も迫っておりました。王の御威光に触れ薫陶を受けることで、第一殿も己がさだめを悟られましょう」

 調子の良い世辞にも、王は棘のような笑みを閃かせただけだった。

「そうはならぬ場合であっても、王の守るべき禁忌や執り行う祭儀について、そなたが彼に教えられる自信があると申すか。良かろう。では祭司ジョルハイ、当面はそなたを第一候補の教育係として認めよう。だが儀式にまで立ち会わせるか否かは未定であるゆえ、これより先は同席まかりならぬ。下がって待つがよい」

 王が命じ、ジョルハイが退室する。広い室内に三人だけとなり、シェイダールは落ち着かないような、それでいて逆に安堵したような、妙な気分で息をついた。

 改めてぐるりを見回すと、今まで視界に入っていなかったものに気が付いた。部屋の片側には豪華な絨毯が敷かれ、卓と肘置き、水差しや杯などが用意されている。くつろぐための場所だろう。王はこの宮殿で生活し、時に内々の客を招くのに違いない。

 彼の考えをなぞるように、アルハーシュが打ち解けた雰囲気になって言った。

「珍しいか? いずれそなたが王になれば、この部屋で過ごすことになる。最初はいささか落ち着かぬだろうが、なに、好きなように模様替えすれば良い。さあ、邪魔も入らぬことだし、こちらで胸襟を開いて語り合おうではないか」

 言いながら王は玉座を下りて絨毯に向かい、ぽいぽいと履物を脱ぎ捨てて上がると、少年らを手招きした。二人はいささか当惑したものの、王の招きとあらば断れない。シェイダールは警戒を、リッダーシュは遠慮をあらわにしつつ、絨毯に胡座をかいた。

 王が水差しに手を伸ばしたので、急いでリッダーシュが安全を確認し、改めて杯を用意する。中身は深紅の葡萄酒だ。王は黄金の酒杯を受け取り、さて、と咳払いした。

「シェイダール。そなたは神を信じられぬがゆえに、継承を断ると申したな。ふむ、実を言えば……ここだけの話だが、余もまた神については疑いを抱いておる」

 低くささやかれた内容に、リッダーシュが飛び上がらんばかりにぎょっとする。シェイダールは身じろぎしたものの、用心深いまなざしで王を見据えた。老獪な大人のことだ、少年の言い分に同意したふりをして取り込むつもりかもしれない。

 彼の猜疑の目にも、王は動じなかった。苦笑し、言い直す。

「より厳密に言うならば、神々そのものについては概ね信じているが、我々人間とのかかわりについては大いに疑っておるのだよ。そなたが申したように、供犠を捧げ香を焚き、潔斎し祈ろうとも、必ずしも神々は我らに都合良くはからってはくださらぬ。だがな、シェイダール。そなたには気の毒だが、力の継承は、そうしたこととは無関係なのだ」

「でも、王の力は天空神アシャのものだと」

「そう言われておるな。だが現実には、『これ』は天空神の御力ではない。そなたも既に漠然と感じていよう。強いて言うならば、力そのものではなく、力の源へと通ずる門ないし道、あるいは……」

「穴。底なしの深い穴」

 シェイダールが呆然とつぶやく。王は少年の顔を見つめ、ゆっくりうなずいた。

「さよう。儀式を行い余の力を受け継げば、そこに確たる手がかり足がかりの存在を感じられるようになる。それによって王は直観を捉え、意識に引き上げることが可能になるのだ。神々がこれをお恵みになったのか否かは、知りようもない。だがとにかくあの刀を用いれば、そなたは代々の王が守り伝えてきた標を受け取ることができるのだ」

「あの刀も『最初の人々』の物なんですね? だったらそれこそ、神々なんか何の関係もないし、あなたを殺す理由もない。王の力が受け継がれようと失われようと、神々の加護だの恵みだのに変化はないんだ。そんなもの最初からありはしないんだから!」

 憤然と言い切ったシェイダールの横で、リッダーシュが天を仰いで祈りの仕草をし、小声で赦しを乞う。一方アルハーシュ王はいたって平静だった。

「余は神々の恵みがないとは言わぬぞ。だがそれは別として、そなたは己の論をよく考えてみよ。そなたの言う通り神々の恵みがないとすれば、尚のこと、王はこの力を受け継がねばならぬ。それによってこそ、王が国を守ることが叶うのだから」

「あっ……」

 言われて即座に理解し、シェイダールは絶句した。王の『力』が神々とは無縁のものであるなら、そして神々など存在しないのだとすれば、王国を守るのは『力』頼みだ。あとは無力な普通の人間が寄り集まって、なんとかするしかない。

 シェイダールの反応の早さに、王は面白そうな顔をした。

「そなたは聡いな。未熟だが実に聡い。ならば余の跡を継ぐ必要もじきに理解できよう」

 褒められたのか、貶されたのか。シェイダールは悔しさに唇を噛み、反論の糸口を探した。苦し紛れに思いつきを拾って投げる。

「そんなの、死に際にすればいい。わざわざ殺さなくたっていずれ人は死ぬんだ、その時にすればいいでしょう!」

「そう、それが問題だな」

 暴投じみた反撃を笑って受け止め、王はシェイダールのほうに身を乗り出した。

「人はいずれ死ぬ。だがいつになるかは予知できぬ。だからこそ儀式を行い確実な死を用意するのだ。王が儀式によらず不慮の病や事故で逝かば、どうなると思う」

「それは……、だけど」

「こうしている今まさにこの時にも、むろん何があるかはわからぬ。だが老い衰えたならば、死はより身近なものになる。病に罹れば篤くなり、不注意ゆえの傷も負う。そうなる前に、王は次なる者にすべてを譲り渡して去らねばならぬのだ」

 決して強いる口調ではなかったが、彼の語りかけは星の瞬く夜空のように、聞く者を謙虚にさせた。シェイダールは言い返せなくなって黙り込む。リッダーシュが横からそっと差し出した杯を無意識に受け取りはしたものの、口はつけず、黄金の中で揺れる血のような色をただ眺めていた。

 こぼれる血。脈打ちながら、土に吸われてゆく。その色よりも鮮やかに赤い叫びがこだまする。幾度も、幾度も。シェイダールは歯を食いしばり、杯の形が変わりそうなほど力を込めて握る。その時、ひとすじの陽射しが一面の赤を切り払った。

「畏れながら、私にはアルハーシュ様のどこにも死の影が落ちているとは見えません。さほどに急がねばならぬのですか」

 はっと顔を上げると、隣でリッダーシュがひたむきに王を見つめていた。

「むろん継承の儀式が必要であるとは承知しております。御力が失われる前に、新しく若い王の身に移さねばならぬことも。しかし僭越ながら望みを申し上げますれば、私は少しでも長くアルハーシュ様にお仕えしたく存じます」

「頼もしきことよな」

 王は嬉しそうに目を細めたが、じきにその笑みを曇らせた。

「若さの盛りにあるそなたらにはわからぬだろう。三十路、四十路と齢を重ねるにつれ、衰えを痛感するのだよ。新王候補の選定を命じたのは二年前だが、あの時からもさらに余は衰えた。朝は目覚めてすぐに起き上がろうにも身体が重く、夜は妃のもとへ通うのが億劫になった」

 冗談めかして言った王に、シェイダールは思わず正直な呆れ声を出した。

「そんなことで?」

 下らない。起きるのがつらい朝など己とてしょっちゅうだ。重労働の翌日は母に布団を引き剥がされても、床に倒れて寝てしまう。誰だって調子の悪い時はあるだろうに。

 だがアルハーシュは真面目に首肯した。

「そんなことでこそ、だ。これまで当たり前にできていた、わざわざ『しよう』と意識するまでもなく行っていたことを、自覚し意志をもってせねばこなせなくなる。そのことに気付いた時、己の番が来たと覚ったのだよ。最初の白髪を見付けた時は、まだごまかせたが。今では数えるのもやめた。……急がねばならぬ。黄昏が近い」

 言葉尻で王は目を伏せ、独り言のようにつぶやいた。その声が色褪せたように見え、シェイダールは顔を背ける。老いの兆しを認めたくなくて、怒ったように首を振った。

「馬鹿馬鹿しい。村では髪が真っ白になった皺くちゃの年寄りだって、毎日畑の手入れに出るし、羊を追って丘を越えるのに」

 彼の強がりを受けて、アルハーシュもにやりとした。

「さよう、衰えが見えるといっても余はまだ若い。己の手足も動かせぬほど老いさらばえてはおらぬゆえ、おとなしく刃を受けるつもりはないぞ」

「……え?」

「リッダーシュの手で充分に鍛えてもらうことだな、我が跡継ぎよ。儀式の折には余とそなたが実際に刃を交えるのだ。旧き王に打ち勝つだけの力と若さを証するのが、新しき王の最初のつとめであるぞ」

 楽しそうな口調は明らかに挑発だ。シェイダールは啞然となり、恐る恐る確認した。

「もし、俺が負けたら?」

「死ぬのはそなただ。代わって第二候補が余に挑む」

「――!?」

 顎が外れそうな勢いであんぐり口を開け、シェイダールは相手を凝視した。つまりこの王は、彼を殺す気でいるのだ。こうして親しくそばに寄らせ、共に語らっている者を。

 眩暈がする。ああ、本当になんという所へ来てしまったのか。

(だけどもう逃げられない)

 あれだけ大見得を切っておいて、村には帰れない。と言って都で暮らそうにも、そなたこそがと見込まれるほどの身では、平穏無事な生活など望めまい。何より、

(俺がやらなかったら、別の奴がこの王を殺す。そうして今までと同じように国を治めるんだ。馬鹿馬鹿しいしきたりも、祭司どもが威張り散らすのも、何も変わらないまま)

 ――それだけは許せない。

 シェイダールはぎゅっと顔をしかめて眉間を揉むと、大きくひとつ息を吐いた。こちらをじっと見守る王に目を向け、決意の言葉を口にする代わり、黄金の杯を掲げて見せる。無言のまま、彼は葡萄酒を一息に喉へ流し込んだ。

 直後、経験したことのない熱にむせ返り、杯を取り落とす。リッダーシュが仰天して彼の肩を支えた。

「シェイダール! しっかりしろ、すぐに水を」

「げほっ、だい……っ、じょうぶ、たいしたこと、っごほ!」

 毒じゃない、と否定する間にも、熱は喉から胃へ下り、鼻から頭へ上る。鮮やかな色が明滅しゆらめき、リッダーシュの声の残響が黄金の波となってすべてを浚っていった。

 のぼせた顔で前後不覚に寝入ってしまった第一候補を抱きかかえ、リッダーシュは途方に暮れる。アルハーシュ王が愉快げに笑った。

「もっと水で薄めるべきであったな。そのまま寝かせてやれ。飲んだ量もごくわずかだ、じきに目を覚ますだろう。……その時にはもう、心も定まっておるはずだ」

「我が君……」

「そのように頼りない顔をするな。そなたの新しいあるじはこの少年だ。儀式の日までよく仕えよ。そしてもしもの時には、間違いなく最後の世話をしてやるのだぞ」

「承知しております」

 諦念をこめて静かに交わされた言葉を、シェイダールが聞くことはなかった。

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