二章

謁見

   二章


 石畳で舗装された古い街道が、河に沿って続く。行き交う荷馬車や人々でごった返す道の片側には、種々の店が軒を連ねていた。籠や縄、袋といった旅の必要雑貨を売る店。隣には、笊に盛った干し棗に無花果、木の実がずらりと。季節柄、新鮮な瓜を山と積み上げた屋台もあり、甘くて汁気たっぷりだよ、と道行く者を誘惑していた。

 水面を渡る風が少しばかりの涼と湿り気を運んでくるが、照りつける日光と人いきれの前にあえなく霧消する。一帯にはもはや何とも正体のわからぬ複雑な匂いと、ざわめきや呼び込みの声、人馬の立てる土埃が充満していた。

(なんて所だ。何もかも多すぎる、皆どうして平気な顔をしていられるんだ)

 シェイダールは一刻も早くこの混雑から逃れたくてたまらず、募る不快感と焦燥に耐えるのが精一杯だった。人の声と物音、それらに伴うとりどりの色、あらゆる刺激が押し寄せてやまず、感覚が麻痺し、窒息しそうだ。

 やがて行く手に城壁が現れた。高く聳え立つ堅牢な壁が、河をまたいで延々と続く。各所の城門では大勢の人が列を成し、兵士に通行税を払っていた。二人を連れたジョルハイは行列の横をすり抜け、迷惑そうな、あるいは妬ましそうな視線を受けながら先へ進む。槍を持った兵士にあの白い石と、文字の刻印された薄い石板とを見せて身分を証すると、金を払うこともなく市街へ入った。

(本当に特別扱いなんだな)

 シェイダールは順番待ちで疲れた顔の人々をちらりと振り返り、改めて使者の身分を認識した。村でも祭司は別格の存在ではあったが、村長の意向に屈することも、村人の多数になだめられて言を翻すことも、珍しくはなかった。神々との仲立ちをするとは言え、あくまで同じ土地で生活する一人であるから、協調は不可欠なのだ。

 だがこの都では、事情が違うのだろう。そして己は、そうした祭司らよりもさらに上の存在たる王になる、かもしれないのだ。彼は不意にぞくりとして震えた。

 市街に入ると、今度は人込みばかりでなく、整備された街路にぎっしり並んだ建物に圧倒された。壁は化粧漆喰が塗られ、屋根には瓦、凝った装飾の屋敷もある。すぐ後ろからヴィルメが袖を引いた。

「すごいね、なんだか夢みたい。あたしたち、ここで暮らすんだよね。ほらあそこ、あんな格好の人、村では見たことないわ。あっちに吊るされてるの、何の肉だと思う?」

 訊きながらも答えを求めてはいないようで、彼女は興奮に輝く目をあちらこちらへせわしく行き来させ、あれもこれもといちいち口に出してゆく。シェイダールはただでさえ混雑に辟易へきえきしていたので、相手をする気になれず露骨に疲れた声を返した。

「きょろきょろするなよ、はぐれたら大変だぞ」

「あ、うん、そうだね。ごめん」

 慌ててヴィルメは謝り、彼の腕に掴まる。その指が震えていた。はしゃいで見せたのは恐れをごまかすためだったと気付き、シェイダールは少女の指に手を重ねてやった。

「大丈夫だ、ちゃんと守ってやる」

 前を睨んだまま、唸るようにつぶやく。そんな一言でもヴィルメは安心したらしく、ほっと息を漏らした。

 二人は都に着くまでに婚儀を挙げていた。非常に簡略化した形ではあったが、いざ夫婦の誓いを立ててみると、シェイダールの心構えも変わった。妻とお腹の子に対する確かな愛情、それに責任感だ。彼はヴィルメの手指を包む手に、思いと力を込めた。

 広々した大通りを、ひたすらまっすぐに進む。じきにシェイダールは、どこを目指しているのかを理解した。遠く道の果てに見える巨大な三角形、丘と見まごう建造物だ。

「あれが王宮か?」

 前を行くジョルハイに問いかけると、親切な観光案内が返ってきた。

「あれは大神殿だよ。いと高き天空の座におわす神々をお祀りする、神聖な祭殿だ。上層は立ち入りが制限されているが、参拝したければ一階は自由に入れるよ。王宮は右側、少し高くなっているから見えるだろう」

 行く手を指し示されて、シェイダールは驚きと共に眺めやった。なるほど、神殿の右側に、周辺市街より一段高い建物の集まりがある。高台の上に城壁が巡らされ、壮麗な屋根や何かの像の頭が覗いているが、その頂点でも巨大な神殿の半ばまでがせいぜいだ。

「王でも神殿には勝てないのか」

 我知らず感想をこぼす。すぐさまジョルハイが、さっと真顔で振り返った。

「そういう言葉はひっこめておきたまえ。王の力は確かに強いが、王を王たらしめるのは神殿だ。……彼らと対立するようなことを言うのは、君のためにならない」

 鋭いささやきには、いつもの冗談めかした余裕の名残すらない。シェイダールは意外な思いで、この青年をまじまじと見つめた。

「それは警告か? それとも単に、あんたも祭司に盾突く奴は気に食わないってことか」

「思いやりさ」ジョルハイはにやりとした。「私としては連れてきた責任上、君には新王候補として無事に日々を送り、いずれは王か、学者か近衛か何かの地位に就いて、出世してもらいたいと願っているんだよ。そうすれば私もおこぼれにあずかれるからね」

 悪びれずに言って、ジョルハイは愉快げに笑った。何が面白いんだか、とシェイダールはげんなりして目をそらす。服のどこかに潜んだ棘がちくりと肌を刺すように、彼の言動は時折不快な引っかかりを感じさせるのだ。

「俺を王宮に放り込めば、あんたの仕事は終わりなんじゃないのか」

 だったらいいのに、という希望を隠しもせず問いかける。ジョルハイは苦笑した。

「つれないなぁ。残念ながら、しばらく付き合いが続くんだよ。君はもう少し上手く立ち回ることを覚えたほうがいいな。もしも私の見込み違いで、君が新王候補の五人に入れなかったら、早々に王宮から放り出されるんだよ。もちろん仕事は紹介されるが、神殿の口利きがあるとないでは対応も違うし、私を味方につけておいたら安全なんだがねぇ」

「……見込み違いって、どういう意味だ。そもそもあんたは、どうして俺が五人の内に入れると思うんだ?」

 シェイダールは腹立たしい説教は聞かなかったことにして、話題をそらせる質問を投げた。ジョルハイはこだわる様子もなく、すらすらと答える。

「王の資質を持つ者は白石と引き合い、色を見出す。中でもより多くの色を見出す者が優れているらしい。君はまさにその通りだし、虹のような色が見えたのだからね」

 説明を聞くシェイダールの耳に、あの時の微かな音がよみがえる。石の歌声。ちらちらと光る色彩の星。あれが本当に誰にも聞こえず見えもしないとは、過去の経験がなければ信じられないだろう。いつも、シェイダールの目に映る世界は他人と異なっている。

「あの石は何なんだ?」

 尋ねる声に畏れが滲んだ。あんなものに触れたのは初めてだ。自分の中にある何かが震えた、あの感覚も。あれは未知の、どこか深く広いところへ通じているものだ。

 シェイダールの畏怖もジョルハイには無縁のものらしく、返事はいたって軽かった。

「さあ、何だろうね。おいおい、睨まないでくれよ。仕方ないだろう、私のような若輩者が知っているのは、あれが『最初の人々』の遺物らしいということだけだよ。祭司長ならもう少し詳しいかもしれないが、多分、誰もあの石の正体は知らない」

「だったら」

 言いさしてシェイダールは変な顔になり、唇を閉ざした。なんだい、とジョルハイが促すように首を傾げたが、彼は黙って顔を背けた。

(誰も知らない……だったら、もしも石が壊れたりなくなったりすれば、どうやって次の王を見付けるんだ?)

 そんな危ういものの上に、この国は成り立っているのか。そんな重要な石を、神殿だけが握っているのか。そもそも王の資質とは何なのだ。疑問と不安が胸に渦巻く。だがそれを口に出せば、もっと恐ろしくなるような、ろくでもない答えを聞かされる気がした。何より今はヴィルメがいる。不用意なことを聞かせて怯えさせたくはなかった。

 そうこうして歩くうち、大通りの突き当たり、神殿の前まで辿り着いた。シェイダールとヴィルメは共に首をのけぞらせ、天まで続きそうに見える階段をぽかんと見上げる。開いた口がふさがらなかった。

 全部で五あるいは六階層あるだろうか。おびただしい数の石を積み上げて、一階ごとに小さくなる建物。その正面に、各階を貫く急傾斜の階段が造られている。

「こっちだ」

 ジョルハイが驢馬の上から手招きしたので、二人は我に返り、通りを右に折れた。こちらもじきに階段につながっていたが、幅が広く段差の低いその階段は、馬や驢馬に乗ったままでも、あるいは大荷物を運んでいても、難なく上がれるように設計されていた。

 二度折り返して上に着くと、石造の門が一行を迎えた。

「うわ……」

 思わずシェイダールは驚嘆の声を漏らす。往来から眺めた印象よりも遙かに巨大で圧倒的だ。左右の柱は有翼神の姿に彫られ、台座にも細かな装飾が施されている。

 ジョルハイはここで驢馬を下り、二人を中へと案内した。さしものシェイダールもこの時ばかりは批判的な言葉のひとつもなく、威容に心奪われていた。金箔張りだの花の香りだのといった単純素朴な想像を遙かに超える規模、造形の美しさや彩色の華やかさ。そこかしこに牡牛や獅子、あるいはそれらを従える王の像や浮き彫りが配され、槍を構えた衛兵と共に王宮を護っている。

 建物から建物へと渡る際に見える庭園には、贅沢に花や果樹が植えられていた。水路が縦横に走り、涼しげにささやいている。どこからか、馴染みのない楽器の音が聞こえてきた。門をくぐってから随分歩かされているが、距離も時間も忘れてしまいそうだ。

「ワシュアールは小さな国だが」そっとジョルハイが語りかける。「歴史は古い。そもそもこの地は『最初の人々』が都を築いたのだと言われている。今ある神殿や王宮、それに街も、彼らが残した遺構の上に建てられた。彼らがどこから来てどこへ去ったのか、誰も知らない。だが、我々こそが彼らの跡継ぎであることは間違いない。選定の石も、その他の謎めいた祭具も、いずれその真実が明らかになるだろう。それまで、この国のともしびを絶やしてはならない。然るべき王を立て正しい儀をもって神々を祀ることが、我々祭司の使命なのだ。……受け売りだがね」

 庶民の二人はなんらかの感想を述べることもできず、惚けて周囲を見回している。その間にジョルハイは、取り次ぎの召使に来意を告げてあれこれの指示を済ませた。

「さて、ここでしばらく待とう。座りたまえよ、お二人さん」

 廊下の壁際に設えられた長椅子に腰を下ろし、ジョルハイが手招きする。シェイダールはまだ上の空でそれに従ったが、座った途端に疲れがどっと出て、思わず長々と息を吐き出した。横でヴィルメも両手に顔を埋め、ぐったりしている。彼は気遣うまなざしを妻に向けてから、廊下の先を見やった。衛兵が二人、微動だにせず出入り口を守っている。厚い帳で仕切られたその向こうにいるのは、もしや。

「あの奥に王がいるのか? まさか、このままいきなり王の前に出るのか」

「そうだよ。ああ、ヴィルメは私と一緒にここで待つから、怖がらなくていい。王に目通りするのはシェイダール、君だけだ」

 さも当然とばかり応じられ、シェイダールはぎょっとなって生唾を飲んだ。心を落ち着かせる暇もなく、召使が水のたらいを運んできて膝をつき、みすぼらしい靴を脱がせて足を洗い始める。他人にしてもらうのは初めてで、シェイダールは緊張に身を竦ませたが、ジョルハイのにやにや笑いに気付くと無理やり平静を装った。お見通しだったが。

「まあまあ、そう警戒しなくても、新王候補は少々のことで咎められはしないよ。ちょっと顔を見せるだけだ」

「何もしなくていいのか?」

「むしろ何もするな、と言うところだね。求められない限り、動かずしゃべらず木偶でくのように……おや、意外と早かったな。ほら、お呼びだよ」

 帳の前に立っていた衛兵が一人、中から誰かの指示を受けたらしく、こちらへやって来た。召使が足を拭いて用意したサンダルを履かせ、仕上げの合図に軽く臑を叩く。それに押されたように、シェイダールはすっくと立ち上がった。

 衛兵が名を呼び、慇懃ながらも遠慮なく値踏みする目で見る。彼は唇を引き結び、振り返らずに「行ってくる」とだけ言い置いて、王の宮殿へ向かった。

 内側から召使が帳を上げる。シェイダールは衛兵の後からそれをくぐった。

「――!」

 一瞬、足を下ろすのをためらった。磨き上げられた黒曜石の床があまりにも美しく、周囲のものが映って底なしに見えたのだ。

 幸い、踏み出した足はしっかりと硬い石に落ち着いた。我知らずほっと息をつき、顔を上げる。最初に通ってきた豪壮な宮殿に比べたら、こぢんまりとして安らげる規模だ。床も壁も闇のような漆黒だが、多数の窓には青や紫の布が揺れている。衛兵が立ち止まって進路を譲り、手振りで前へ出ろと促した。その時初めて、王の姿が目に入った。

 ざわり。胸の奥で大樹の梢が揺れる。

 シェイダールはまじろぎもせず、食い入るように王を見つめた。奥の壇上、どっしりした椅子に毛皮を敷いて腰かける壮年の男。緩く渦を巻く黒髪が肩から胸元にまでかかっている。とび色の瞳に捉えられた瞬間、音ならぬ音が鳴り渡った。

 衝撃のあまりシェイダールは堪えきれず膝をつく。魂の底に巨大な楔を打ち込まれ、二つに割られた気がした。目の前に次々と色が花開き、萎れ、裂け目に吸い込まれてゆく。

 静まり返った室内に、王の嘆息が響いた。深く暗い夜空の藍色が告げる。

「この者だ」

 ガツン、と荒々しく魂の裂け目が閉じた。シェイダールが顔を上げると、王もまた引き裂かれたかのような痛みをそのおもてに浮かべ、こちらを見つめていた。

 短い沈黙の後、王はふっとほろ苦い笑みをこぼした。

「ついに現れたか。では、そなたが余を殺すのだな」

 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。放心していたシェイダールは、王の合図を受けて強面の衛兵が近寄ってきた途端、恐怖に襲われて弾かれたように後ずさった。

「待ってくれ! 俺は何もそんな……」

 王を殺す? どういうことだ、騙されたのか。祭司の言なんか信じるんじゃなかった!

 混乱しながらも身構え、逃げる隙を窺う。彼に手を伸ばしかけていた衛兵が、いかめしい顔に困惑の色を浮かべて王を振り返った。途端、朗らかな笑声が響く。

「バルマク、あまり脅かしてやるな。にこやかにしろとは言わぬが、そんな顔では誰もが生皮を剥がれるかと怯えるぞ。ああ少年、そう警戒せずとも良い」

 穏やかな声に欺瞞の気配はない。シェイダールは衛兵と王を交互に見比べた。壁際に控えている他の兵や召使が、微妙な顔つきになっている。笑いを堪えているかのような。

 自分一人が勘違いで滑稽な反応をしたと気付き、シェイダールの顔が熱くなった。

 そんな様子を王は微笑ましげに眺めていたが、あまりつついて少年の自尊心を傷つけてはならぬと思いやってか、余計なことは言わなかった。

「やはりバルマクが付き添いでは、新王候補も気が休まるまい。リッダーシュを呼べ」

 目配せを受けて、召使が奥の帳をくぐって消える。じきに軽快な足音が駆けつけた。

 颯爽と現れたのは、シェイダールと歳の近そうな、しかし育ちは雲泥の隔たりがあろう少年だった。金茶の髪をひとつに編み、嫌味なく洒落た衣服の上から快活で幸福そうな空気を纏っている。深い森のような緑の瞳は曇りなく晴れやかだ。そつのない機敏な動きで王の前へ進み出ると、彼は恭しく腰を折って一礼した。

「お召しにより参りました。我が君」

 からりと乾いた風のような声が、黄金の輝きを伴って広がる。シェイダールは驚きのあまり、目を零れ落ちんばかりに見開いた。

(なんだこいつ! こんな……、こんな奴がいていいのか)

 衝撃に呆然となった彼の前で、王と少年が言葉を交わす。

「リッダーシュ、彼が第一の候補だ。名をシェイダールという。かねて定めた通り、そなたが従者として仕えよ」

「畏まりました」

 歯切れよく答える一言にさえ、陽光の欠片がまとわりついている。眩暈をおぼえてシェイダールは天を仰いだ。そんな彼の挙動不審にも構わず、従者に任じられた少年はすぐそばまで歩み寄り、笑顔と共に挨拶を述べてくれた。

「リッダーシュと申します。本日これより、第一の新王候補シェイダール殿にお仕えし、継承の儀式を無事に果たされるよう取り計らいますゆえ、何卒よしなに」

 言葉そのものは実に型通りの、いかにも王宮の者らしい言い回しだった。だがシェイダールにとって重要なのは、その内容ではなく、声のほうだった。

(麦の穂だ。一面の)

 豊かな実りと満腹食べられる毎日、幸福を約束する黄金色。こんな声の持ち主を、信用せずにいられようか。まだ名前しか知らない、どんな育ちで何を考えているのか、従者と言いつつ他に何を命じられているのか、予断を許さぬというのに。

 シェイダールが眉間を押さえて唸ると、リッダーシュはいたわりの表情になった。

「ひどくお疲れのようだ。アルハーシュ様、御前失礼してシェイダール殿を休ませて差し上げてもよろしいでしょうか」

「うむ。任せよう」

 鷹揚にうなずいた王にリッダーシュは低頭し、軽くシェイダールの腕を取って促した。

「こちらへ。お部屋にご案内します」

「待ってくれ、連れが」

「ご心配なく。シェイダール殿が第一候補となられたのですから、お連れの方も丁重にもてなします。今はひとまず私と共においでください」

 リッダーシュが誠実な口調で保証し、歩きだす。シェイダールは抵抗する気力もなく、大人しくそれに従った。王の宮殿を出てまた少し歩き、別の建物に向かう。漆喰塗りの白壁が陽光を反射して眩しい。ひさしを支える太い柱は朱に塗られていた。

「今日からここ、『白の宮』が、シェイダール殿の住まいとなります」

 どうぞ、と通された一室は、母と二人で暮らしていた小屋より広かった。贅沢な寝台、水差しと何か器の載った小卓、青銅で蔦や花の飾りが施された衣装櫃。窓には薄手の青い布。続き部屋まである。夢のようだ。

「お疲れでしょう、ひとまずお休みになられますか。長櫃に着替えが……」

 かいがいしく世話を焼こうとするリッダーシュに向け、シェイダールは待てと言う代わりに片手を広げて突き出した。ありがたいこと相手は察しが良いようで、彼が気力を立て直す間、じっと黙っていてくれた。

(しっかりしろ、気を強く持て。知らなきゃならないことは山ほどある、こいつを信じられるかもまだわからない。これからここで暮らすのなら、流されていたら駄目だ)

 大きく深呼吸して、ぱちんと両手で顔を挟む。どうにか頭をしゃっきりさせると、彼は覚悟を決めて従者の少年に向かい合った。

「最初に言っておく。その馬鹿丁寧な言葉遣いはやめてくれ」

「……どこかお気に召しませんか」

「それがいつものしゃべり方じゃないだろう? 名目上はおまえが従者でも、実際ここで暮らすとなったら俺のほうがおまえの指図に従わなけりゃ、何ひとつできやしない。持って回った言い方じゃなく、普通に、率直に教えてくれ。おまえだって本当は嫌だろう。大して歳も変わらない、無知で無作法な田舎者相手にへいこらするなんて」

 上辺を取り繕ってもわかるんだぞ、と睨みつけてやる。リッダーシュは即答せず、真面目な顔つきでしばし新たなあるじを見つめてから、おもむろに咳払いした。

「正直に言わせてもらうと、私自身、まだおぬしをどう捉えるべきか決めかねている」

「おい。それが普通のしゃべり方か」

「まだ気に入らないのか? これ以上どうしろと言うんだ」

 聞き返した顔はいかにも心外そうである。そうか、俺おまえではなく、私おぬしが普通なのか、とシェイダールは眉間を揉んだ。やはり決定的にお育ちが違うらしい。こちらを蔑む様子がないのも、単に身分が高いだけでなく真実『良い育ち』である証だろう。

「いや、いい。最初よりはずっとましだ。きっとおまえは立派な家柄のお坊ちゃまなんだろうな。王宮に出入りして、次の王になるかもしれない奴の世話をするんだから」

 自分で言って、その現実感のなさにため息をつく。次の王。この俺が。また気持ちが萎えそうになったところへ、リッダーシュの声が追い討ちをかけた。

「家柄については否定しないが、お坊ちゃまはやめてくれ。そのように言われ……、どうした? 具合が良くないのか、必要なら薬師を」

「黙れ」

 つっけんどんに言葉を遮られ、リッダーシュは声を飲み込む。さすがにむっとなった彼に対し、シェイダールは唸るように続けた。

「頼む、ちょっと黙ってくれ。声が……くそ、声が眩しいんだ」

 ああ、こんな所で初対面の相手にこれを言いたくはなかったのに。無念を噛み締めながら、それでも隠しておくわけにはゆかず、渋々と説明する。

「信じられなくてもいいから、とりあえず聞け。昔から俺は、声や物音に色がついてくるんだ。誰もそんなものは見えないと言うが、俺には見える。全部の音に色がついているわけじゃないが、おまえの声は……ひどい」

「ひどい?」

 うっかり傷ついた声を上げ、慌ててリッダーシュは口をつぐむ。シェイダールはそちらを見ることもできず、頭を振って呻いた。

「こんなにひどいのは初めてだ。眩しくて、とんでもなくきれいな金茶色で、……参る」

 最後の一言はほとんど聞き取れないほどの小声だった。なんだって俺は初対面の男相手にこんなことを言っているんだ、と真っ赤になって両手に顔を埋めてしまう。

 奇妙な沈黙があってから、リッダーシュが弾けるように笑いだした。朗らかな声に伴う輝かしい黄金色が部屋に満ち溢れる。シェイダールは泣きたいほどの幸福感に襲われて、やけくそのように掴みかかった。

「笑うな! くそ、この、黙れ馬鹿野郎!」

「ははっ、ああ、すまん、だが」

 殴りかかられてもまだ笑いやまず、リッダーシュは無理に堪えようとして咳き込んでしまう。しばらくかかってようやくおさまると、彼は遠慮がちに抑えた声で言った。

「おぬしはまるでぎりぎりまでたわめた弓のようだな。誰かを褒めたり己が譲ったりすれば、つるが切れて弾け飛ぶとでも思っているのか」

「うるさい」

 照れ隠しに唸ってから、シェイダールは不審顔になって質した。

「俺の頭がおかしいとは思わないのか」

 かつて世界は自分が感じている通りのものだと信じて疑わなかった子供時代、彼は何度も色の話をしては否定され、気味悪がられ、果ては嘘つきと罵られた。だから彼は己の目に映るものを語らなくなり、どんなに美しい色で鳥が鳴こうとも、感動は胸の奥底に秘めてしまうようになったのだ。もう決して、誰にも理解されず受け入れられもしないのだと諦めていたのに。

「そうは思わない」

 リッダーシュは穏やかに応じた。柔らかな黄金が蝶の翅のようにふわりと広がる。

「アルハーシュ様も時折、不思議なことを仰せになる。普通なら見えるはずのない色が、あの方の目には映ることがあるようだ。そもそも選定の白石に色を見出すことが、王の資質なのだろう?」

「見える……王も、同じなのか。声に色が見えると?」

「どうかな、いつでも見えるというわけではないと思う。私の声について何か仰せになったこともないし。だがおぬしが王の資質を有するのは、恐らく間違いないのだろうな。あの方の御力を受け継ぐなど、滅多な者にはできまいと思っていたが」

「それだ」シェイダールは彼に詰め寄った。「王の力とはそもそも何なんだ? おまえは知っているのか。王が力をふるうのを見たことがあるのか」

 勢い込んだ途端にくらりと眩暈がした。支えようと差し出された手を振り払い、寝台にどすんと腰を落とす。彼の強情ぶりに呆れたのか、リッダーシュが苦笑をこぼした。

「やはり疲れているのだろう。本当に少し休んだほうがいい。あれこれ気になることもあるだろうが、まずは旅の疲れを癒さねば」

 言いながら彼は長櫃を開け、これが部屋着でこちらが寝衣、と従者の仕事に取りかかる。シェイダールは村から着たきりの汚れた服を替え、手や顔を洗ってさっぱりすると、完全に緊張が緩んで寝台にひっくり返ってしまった。

「私は続き部屋に控えているから、起きたら呼んでくれ」

 焼き立てのパンを想起させる声が、幸福な眠りへといざなう。置いてきた幼馴染みの少女が脳裏をよぎったが、それもすぐに黄金の海に呑まれ、消えていった。

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