一章

父の叫びは

 一章 



 父の叫びは鮮血のように赤かった。

 その時を振り返るといつも、シェイダールの視界は朱に染まる。

 ひどい不作の年だった。村の畑は腐った豆の茎が醜く黒ずんだ屍を晒し、麦は来年の籾を残せないのが明らかで、誰も彼もが不安に怯え腹を空かせていた。

 村の誰かが、実りの女神に害なす行いをしたのだ。

 人々の憶測を明白な言葉にして告げたのは、祭司だった。女神の恵みとはすなわち豊穣多産。それを損なうのは姦淫の罪。誰かが本来の伴侶でない、つがうべきでない相手とつがい、自然の営みに背いたがゆえの、この不作であると。

 神が罪人を示された。祭司が指したのは、シェイダールの父だった。

「何かの間違いだ、俺は誓って何もしていない! 信じてくれ、ナラヤ、俺の妻はおまえだけだ、他の女のもとへ通ったことなどない!」

 彼は声を嗄らして無実を訴え、妻に潔白の証を求め、祭司にとりなしを頼んだ。

 だが神のお告げは覆らない。

「こんなことをして何になるんだ! 罪なき者の血を流せば大地はますます痩せ衰え、実りが失われるだけだぞ! やめろ皆、やめてくれ、いやだぁ!」

 刈り取るべきものの生えぬ畑で、土に血が撒かれる。

 父は最後まで決して罪を認めなかったが、神は明らかに力を取り戻した。大地は贖罪の血を受け入れ再び実りをもたらし、翌年には豊作にさえなったのだ。

 やはり彼には罪があったのだ。

 豊かな恵みを取り戻した村人は安堵に胸を撫で下ろし、残された罪人の妻子を憐れみつつも、穢れを恐れて遠ざかった。

 憐憫と恐れと嫌悪。複雑な感情のさざなみを受けながら、母子二人で糊口をしのいで。菫の瞳を見開いて父の死を見つめていた子供は、やがて頑なな心と辛辣な冷笑を持った少年へと成長した。

 神はいない。それが彼の口癖だった。



「シェイダール!」

 若葉の緑を伴った声が呼ぶ。村はずれで泥と藁屑をこねていた少年は、手を止めて振り向いた。藍色の夏空の下、地面に並べた日干し煉瓦の列に沿って少女が駆けて来る。落ち葉色の髪を波打たせ、頬を上気させて。幼馴染みのヴィルメだ。シェイダールはほっと息をついて、顎に伝う汗を肩で拭いた。日干し煉瓦作りは単純な仕事だが、重労働だ。

 ヴィルメは笑顔で駆け寄り、屈託なく告げた。

「今日はもういいから、祭殿でお下がりを貰ってきなさいって。一緒に行こう」

「どうせ明日余分に作らなきゃいけないんだろ」

 嬉しそうな様子など見せず、シェイダールはつぶやく。それでもここで切り上げるのに異存はなかった。あまり肉がついていない細腕で、長時間の作業はつらい。明日はまた明日のことだ。泥まみれの両手を水瓶で洗って、村へと歩きだした。

 熱い風に吹かれて汗が乾き、肌がひりつく。強い陽射しを照り返す白茶けた大地が広がる中、わずかな緑に縁取られた川のそばに、日干し煉瓦の家が身を寄せ合う小さな村。周辺には畑や果樹園があり、棗椰子が茂っている。

 ヴィルメが横に並び、身体を揺らしながら話しかけてきた。

「あんたもたまには顔を出せばいいのに。皆だってもう、あんたを追い払ったりしないわよ。そりゃ歓迎はしてくれないだろうけど」

「馬鹿らしい。いもしない神を祀って貴重な羊や鶏を生贄に捧げて、無意味に這いつくばって寝言を唱えるなんて、付き合ってられないね。願い下げだ」

「よしなさいよ」

 何度も繰り返したやりとりだというのに、相変わらずヴィルメは辛抱強くたしなめる。

「あんたが信心できないのはわかるけど、だからって神様がいないなんて、決めつけるもんじゃないわ。ちゃんとお祀りするのは無駄じゃないわよ。あんただって、本当に神様がいるのかいないのか、知っているわけじゃないでしょう?」

 力を込めて説き聞かせる態度には、思いやり寄り添おうとする努力があからさまに表れている。これだけ譲歩しているのだから受容しろ、というのだろう。シェイダールは少女の内心を透かし見て、しらけた気分になりながらも、理屈は認めた。

「いる、と証することはできても、いない、というほうは無理だからな。俺はいないと信じているが、もしかしたらいるかもしれない。だがその神は」

「あんたの父さんを助けてくれなかった。わかってる。でも、だからって、祀らずに放っておくのも良くないでしょ。……少なくともあんたが参加すれば、皆、もうちょっと親切になるわ」

 打算的な提案をされて、シェイダールは苦虫を噛み潰した。いったい彼女は何回、同じことを聞かせたら気が済むのだろう。こっちはもう言い返すのにうんざりしているのに、彼女はあと一押しだと思い違いしているらしい。しつこく村人の輪に入れと促し続けてくれて、時折ひどく煩わしい。

 彼は募る苛立ちをため息にして吐き出し、癇癪かんしゃくこらえようと黙り込んだ。

 意見が通らずヴィルメは唇を尖らせたが、ここまでと察して食い下がりはしなかった。かわりに、村長の孫が川で珍しい鳥を見かけたとか、糸車を丁寧に手入れしたら随分速く紡げたとか、当たり障りのない話をする。

 そんな風に気安く雑談してくれるのは、父の死後、ヴィルメだけになった。他の村人も必要やむなく口をききはするが、親しみは見せない。それまで一緒に暮らしていた親族さえ、母子を粗末な物置小屋に追いやったのだ。同じ年頃の少年らがつるんで何かをする時も、決してシェイダールは誘われなかった。

 誰もが遠巻きにしながらいとわしそうな視線をよこす中にあっても、ヴィルメは臆さず罪人の遺児と語らい、寄り添って歩く。それが彼女に奇妙な特権意識をもたらしていることに、シェイダールは気付いていた。他人が眉をひそめるほど、陰口をささやくほど、彼女は逆に誇らしげな興奮を目に浮かべる。今もそうだ。その理由をよく知っている彼は、口の端に辛辣な苦笑を閃かせた。

 すれ違う村人らがつい瞥見する、母譲りのまっすぐな黒髪と深い紫の瞳。稀有な特徴ではないし、飛びぬけて美形でもない。だが確かに村の大勢と比べ、彼の姿は全体として端正で、そこはかとなく気品らしきものがあった。女っぽい、と馬鹿にされることが多かったから、彼自身は己の見てくれが大いに不満だったが、ヴィルメの意見は違うらしい。村の中に入ってからは、外にいる時以上に親しげにふるまっている。

 祭殿では、祭司と何人かがまだ片付けをしていた。

 犠牲の羊を焼いた濃い匂いが辺りに残っており、シェイダールの口に唾が湧いてくる。祭儀に加われなかった村人のために、供え物の平パンと、最後に残った肉の切れ端が皿に用意されていた。彼は頭を下げて受け取り、無言のまま背を向ける。壮年の祭司は苦りきった表情で睨んでいたが、そのくせ視線が合いそうになると、素早く顔を背けた。厳しく引き結んだ口から漏れ出るびくついた気配に、シェイダールは密かな愉悦をおぼえた。

(恐れるがいい。俺はおまえの罪を知っているぞ。母さんとよく似たこの顔を、正面から見ることもできない卑怯者め)

 あの日、祭司がお告げを捏造ねつぞうしたと、彼は確信していた。祭司が父を女神に捧げた後、身内から遠ざけられた母子を保護するふりで付け入ろうとしたのを、耳にしたのだ。

 夜陰に紛れて訪れた祭司を、ナラヤは毅然とはねつけていた。

 ――夫を失ったばかりの私が子をはらめば、誰を罪人に仕立てるのですか。次は女神もごまかされませんよ。祭司様のとりなしが届くと良いですわね……

 痛烈な母の声は銀色の針となって夜のとばりに突き刺さった。拒絶の代償として母子の暮らしは厳しいものになったが、シェイダールは憎しみを糧として飢えをしのいでいた。

 かつて住まっていた家の横を通り過ぎ、裏手にぽつんと佇む小屋へ向かう。

「母さん、ただいま」

 戸口の前で足を洗って中に入ると、ナラヤが羊毛の糸を紡いでいた。振り向かずにお帰りと声だけ答え、紡錘つむを操り続ける。彼女もまた、村の祭には出ていなかった。息子のように神を拒んでいるのではなく、祭司から身を遠ざけておくためである。

「お下がりを取ってきたよ」

 シェイダールが部屋の隅の小卓に皿を置くと、ナラヤは手を止めて微笑んだ。

「ありがとう。ヴィルメも、いつも悪いわね。この子一人じゃ祭殿に近寄りにくいから、付き添ってもらえて助かるわ」

「お礼なんて。おばさんもシェイダールも、なんにも悪いことしてないじゃないですか。あたしは普通にしてるだけ。第一、シェイダールはあたしの……大切な人、だし」

 しっかりした口調で受け答えしていたヴィルメが、言葉尻で赤くなって口ごもる。あらあら、とナラヤが失笑した。少女は照れ隠しに握り拳をつくって、真剣に続ける。

「あたしは、おじさんの無実を信じてるし、だからこうしておばさんと話しちゃいけない理由なんてないんです。おじさんは、ただ親切だっただけなのに」

 シェイダールの父は、村を訪れた行商の女と通じた、と断じられたのだ。ぎょっとするような斜視だったので、彼女に親切にしてやった村人はほとんどおらず、中でも男は一人だけだった。不吉な印象のよそ者と親しくしていた――その記憶が、祭司の告げる有罪を補強したのだ。

 ナラヤは少女に諦観の笑みを向けた。

「気持ちは嬉しいけれど、あまり私たちに肩入れしないで。もう五年も経つもの、そろそろ何かのきっかけで『清められた』と告げられるわ。焦って皆の反感を買っては、それも難しくなってしまうから」

「そうですよね、もう五年……きっとそろそろ、ですよね」

 力づけるように、ヴィルメは何度もうなずいた。

 しばらく話してから少女が帰ると、ナラヤは暗い目つきになって息子を咎めた。

「シェイダール。あの子まで引き込むのは、本当におやめなさい」

「だから、あっちが勝手にお節介してくるんだって」

 何回言わせるのさ、とうんざり顔で返すシェイダールにも、母は引かなかった。

「世話を焼いてくれることじゃない、わかっているでしょう。あの子が私たちにかかわってくるのは、望ましくはないけれど、ありがたいことだし実際助かっているわ。皆も口ではあれこれ言っても、あちらの家族にまで嫌がらせをしてはいないし」

 ふう、とナラヤはため息をつく。村人らは罪人の遺族を忌避はしても、命でもって償い豊作をもたらしてくれた男に負い目があるから、やはり誰かが母子の世話を見なければと感じている。だからヴィルメのような若い者がその役割を果たしてくれて、内心では誰もが助かったと感謝しているのだ。

「私が言っているのは、おかしな考えを植えつけることよ。あの子にまで、神様をないがしろにさせないで」

 途端にシェイダールは冷たい怒りをあらわにした。

「俺はおかしくない。おかしいのは皆のほうだ」

「よしなさい」

「そうじゃなかったら、どうして父さんは死んだんだ!」

 気迫を叩きつけた彼に、ナラヤはびくりと竦む。我が子とはいえ十六歳にもなれば一人前だ。シェイダールは母親の怯えと警戒を見て取り、舌打ちした。ぶっきらぼうに「ごめん」と口の中で謝って、帰ったばかりの小屋を出る。引き止める声はなかった。

 乾いた風が、土と家畜の匂いを運んでくる。憤懣のままに小石を蹴飛ばしてから空を仰ぐと、鷹が輪を描いていた。他の鳥に邪魔されることもなく、気持ち良さそうに。

 鷹や鷲は、風の神の使いなのだという。だから風と共に死者の肉をついばみ、魂を空へ還すのだと。だが、何をもって特別となすのか。シェイダールは首を戻し、そこらで放し飼いにされている鶏を眺めやった。同じ鳥でも、飼い馴らされた飛ばない鳥は風の神とは関係ないのか。ならば他の鳥は? 木の実をついばむ小鳥では使いになれないのか。

 いったいいつ、誰が、何を根拠に決めたことなのか。そんな疑問を語れば、なんという恐れ知らずな、と非難されるだけだろう。だが彼には己の考えなどよりも、誰も不思議に思わないことの方がよほど薄気味悪かった。

(大人の考えは簡単に変えられない)

 最前の母を思い返して唇を噛む。祭司の不正を知り、それを拒むだけの理性と勇気を持つ母でさえ、神などいないという主張を『おかしな考え』だと決めつける。

(でも、ヴィルメは違う)

 彼女はシェイダールの考えを理解し受容してくれる。懐疑を残しながらも、完全に否定はしない。若く柔軟だから、現に目の前にある事実をありのまま認められるのだろう。

 事実――すなわち、姦淫の罪など女神は気にも留めないということ。

 シェイダールは知っているのだ。父の死からしばらく経った夜、寝苦しくて川縁までふらふら歩いていった彼は、村の男女の逢瀬を目撃してしまった。それぞれが別の家庭をもつ二人だった。

 当夜の衝撃を思い出し、シェイダールは唇を嘲笑に歪めた。

 父は何のために殺されたのだ、女神の機嫌を取るのは誰の血でも良かったのか。あの二人を告発してやろうか。

 煩悶の末、彼は沈黙を守り、証拠を固めることに徹した。作物の収穫量と、その年に罪とされる行いがなされたか否か、天候はどうだったか。そういった事柄を、小屋の壁と己の記憶の両方に刻み込んだ。

 そうして五年。彼が下した結論はやはり、神などいない、というものであり、ヴィルメもその論拠については認めていた。何しろ二人は既に何度も肌を重ねているのだから、いまだに不作にならないのは女神が目こぼししているのか、そうでなければ彼の言う通り、因果関係など無いとしか考えられない。

 変えてみせる。シェイダールは拳を握り、家並みの屋根越しに空を睨んだ。馬鹿げた迷信で人の命が奪われるなど、終わりにしなければ。ヴィルメはほんの手始めだ。

(俺が大人になったら、何も考えず祭司の言いなりにさせたりしない)

 死なせない。誰も。シェイダールは歯を食いしばって立ち尽くしていた。


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