第6話 それから。
あの日以来、隆史には会っていない――もう、会うこともないだろう。
「……どういうことですか……!」
言ったとおりだよ、と繰り返す。ガムテープを勢い良くひっぱって段ボールの底を止める。
「――に帰る。仕事は辞める」
「……!」
大樹は信じられない、と髪をかきむしった。
「わかんないよ!しばらく会わなかったと思ったら『もう会わない』、『故郷に帰る』?」
荷造りする僕の腕を掴んで止めさせようとする。
「どういうことなんですか!ちゃんと説明してくださいよ!」
僕はしばらく手を止めて、大樹のアーモンド色の瞳を覗き込んだ。
大樹が、ちょっとたじろぐ。
「……先輩……?」
大樹には言わなくちゃいけないことがたくさんある。でも僕はろくでなしだから、それらを大樹に言えないまま逃げるんだ。
「――ごめんね、大樹」
「何で謝ったりするんですか……ッ!」
無理矢理僕を抱き寄せて口づける。
キスに応えない僕に、大樹は虚しく離れた。僕の手を握って壁にはりつけにする。
「……わかんないよ」
うなだれて、僕の胸にもたれる。
「ありがとう、大樹」
ありがとう。君のわかりやすい愛が好きだった。
「本当にありがとう」
大樹は顔を上げなかった。
「大樹。」
――でも、愛せなかった。
本当はありがとうよりもたくさん、ごめんなさいを言わなくちゃいけないんだ。
平日の昼間なんて、駅のプラットホームには誰もいなかった。
売店のおばちゃんも退屈そうに欠伸を噛み殺している。
冬の日の傾くのは早くて、まだ三時にもならないというのに西日が線路とプラットホームの白線の外側までを橙色に染めていた。
西日は好きだ。
甘酸っぱい感傷を誘うから。
「――」
僕はひとつっきりの荷物である小ぶりのスポーツバッグを足下において、連なったベンチのひとつに腰掛けた。
僕の乗る汽車までにはまだ時間がある。
一服しようと、煙草をとりだし――くわえて――ふと向かいあわせたホームを見やって――手を止めた。
小さな女の子が階段から駆けあがってきた。その後を、母親らしき女性が危ないとか何とか言いながら上ってくる。女性は女の子の腕をつかまえると、後ろに向かって笑いかけた。
――やっと追いついたわ。
女性の振り向いた先で、女の子よりまだ幼い男の子を片腕で抱いた父親らしき男性が姿を現した。男の子は父親の肩に頭をもたせかけて寝入っている。男性は親子四人分の荷物に膨らんだ大きなボストンバッグを肩にかけていた。重そうであるが辛そうではない。
家族旅行だろうか。
子供も小さいことだし、混む時間帯を避けたのだろう。
女の子はちっともじっとしていない。何やらかにやらを指さしてわめいている。どうやら父親に看板広告の文字を読めとせがんでいるらしい。
と、女の子がちょうど僕の頭上にあった看板を指さした。
――パパー、あれみて!うさぎさん!うさぎさん!
――!
男性は看板の下に座っていた僕を見て、線路を隔てたこちらからもわかるほど表情を強張らせた。
僕は男性を真っ向から見ていたけれども、指ひとつ動かさなかった。
そう、男性は間違いなく隆史だったけれども、僕は会釈さえしなかった。
――パパ?
――え、ああ、うん。
隆史は娘に促されて僕から目をそらせた。看板の文字を読んでいるのが口の形でわかった。
――……よ・う・ち・え・ん。
――うさぎさん!
――そうだね。
隆史のあの低い声は聞こえない。子供の甲高い声だけがどうにかききとれた。僕はぼんやりと弾むゴム鞠のような女の子を眺めていた。女の子が動くたびに、二つに分けた髪が揺れる。そういえば、梓はちっちゃい頃から僕より短いくらいのショートカットだったけ。頭の形のいい梓にあれはよく似合っていたけれども。今はどんなふうになっているんだろう。十数年ぶり。梓は変わっただろう。父さんも母さんも、家も、お祖父さまも――死んだと聞かないので生きているのだろう――変わっただろう。
僕が変わったように。
〈……二番ホームに、電車が参ります。二番ホームに、電車が参ります。白線の内側までお下がりになってお待ちください……二番ホー〉
アナウンスにはっと我に返る。待っていた電車が来るらしい。重くもないバッグを持って立ち上がる。
ふと、煙草の箱と、とりだした煙草とライターをどうしようもなく握っていたことに気づいた。僕はそれらを持て余して――結局ゴミ箱に放り込んでしまった。これっきり、きっと煙草を吸うことはないに違いなかった。
乗り込んですぐ、十数秒も待たないで電車はホームからすべりだした。景色がみるみるうちに後ろに流れていく。
僕は網棚に荷物をあげてると、あとは寝てしまうことに決めてシートに深く座りこんだ。
僕の乗り込んだ一両には誰もいない。レールの継ぎ目を踏む音がゴトンゴトンと規則正しく僕を揺さぶっている。隣の車両には昼間から酒盛りをしている飲んべえたちがいるらしく、がはがはという大きな笑い声が洩れ聞こえてきた。でもこの車両は静かだ。ボックス席を独り占めしてのびのびと足を伸ばす。
僕は腕を組んで目を閉じた。
「誰か知ってる人でも?」
「え?」
あらだって、ともう姿の見えない電車の行ってしまった方向を見る。
「あなた、なんだか食い入るみたいに見送ってらしたわよ」
「……そうだったかな。」
瞳があっても、何の反応もなかった。気づかなかったわけではあるまい。ただ、彼の中で自分はもう風景以上の意味をもたなくなったのだ。弓弦にはそんなふうに驚くほど何かをわりきってしまえるところがあった。それが彼の強さなのか弱さなのかはわからない。
「懐かしかったんだ、きっと」
妻はああ、と思い当たった。
「そういえばあなたの故郷の方面に行く電車だったわね。お義母さまもお義父さまもこっちに出ていらしたから、なかなか行く機会がなくなっちゃったわね。昔なじみの人でまだ住んでる人もいるんでしょう?」
「ああ」
「今、電車で見かけたのもその中のひとり?」
「――ああ」
女の人?と冗談めかして訊いてくる。
「いや」
男だよ、と応える。
妻はそれで満足したらしく、寒いわねえ、子供達に上着を着せなくちゃと隆史の肩に下げたボストンバッグをごそごそやりはじめた。
「――」
隆史は棒立ちになっていた。
向かい合わせホームのあのベンチ。そこにかすかなぬくもりが残されている。彼の――弓弦の。
愛しい。
そんなものさえもが愛しい。
弓弦が、愛しい。
そうだ、僕らは恋をした。
――螢火だ。
泣きたくなるほど弱くて、小さくて、はかなくて。そして意外なほど鮮やかな強い光を放つ螢火。それぞれの中に意外なほど鮮やかな軌跡を残して――今は、遠い。
蛍火 @chotchatcat
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