第5話 そして。

「……愛してたかって?それは、俺のほうが訊きたいよ」


 隆史はそう応えて黙り込んだ。そうだ、隆史はちゃんとずっと僕に言葉も態度も示していてくれた。僕は何故あんなことを口走ったのだろう。


「……質問を変える」


「弓弦」


 それは狡い、と咎める。僕は構わず続けた。    


「……僕を愛してくれてた?あのときから、今までも」


「……」


 隆史は返答に窮してしまった。結婚して子供までいるのに、ずっと愛してたなんてしらじらしくて隆史の性格からして、とても言えやしないだろう。


 でも知ってる。


 隆史はやっぱり僕を愛してくれているのだ。


 だって僕もそうだから。


「……弓弦……っ」


 隆史が、泣いた。


 肩を震わせて、あの濡れた黒曜石みたいな瞳からたった一筋だけれども涙を流した。――ああ。僕がそうであったように、隆史もまたこの恋をひきずってきたのだ。誰を抱いても誰に抱かれても、僕はお互いをさがしていた。だからこそ都会の雑踏の中で迷いもせずお互いを見いだしたのだ。


「……なあ、弓弦。何で俺たち別れたんだろう」


 隆史は祈るように両手を組んでそこに顔を伏せていた。弱々しい声は嗚咽のようにも聞こえた。


「……あのときおまえ、『もう会わない』って言ったよな」


 あのとき。卒業式の前日。僕と隆史が別れた日のことだ。


「俺は」


 息を詰まらせる。咳き込んで、続ける。


「俺は、それでもまた逢えると思ってた。また逢って――また何も変わらず愛せると思ってた。例えば十数年会わなくても」


 僕らの心が泣いていた。


「……」


「……」


 十数年前も今現在も、僕は僕だし、隆史は隆史だ。でも僕も隆史も十数年前の僕や隆史じゃない。十数年間の知らないお互いがある。お互いの知らない十数年間を抱えている。










「――弓弦。」


 ネオンの下、ほろ酔い加減の働き人たちが雑然と行き交う。僕らは先刻そうやって出会ったみたいに少し離れて向き合っていた。


 隆史は何か言おうとして――やめて――また言おうとして――ためらって――迷って――たぶん一番短い言葉を選んだ。


「また、会おう」


 僕はこくんと頷いた。


 また会う。


 それがどういうことを意味するのか、わかってる。


だって――そう――もう子供じゃないから。










 先輩へ。


 今日は帰りが遅いみたいなので帰ります。ハンバーグと付け合わせのニンジンのグラッセは電子レンジで温めてください。


「……」


 字の最後がしゅっと尖ってる大樹の字。


 ざっと読んで、ゆっくり読んで、もう一回読んで――捨てる。


「……」


 きちんと並べられた皿、皿、皿。


 丁寧にラップ掛けされたその一枚一枚を引き剥がしては皿の中身をぶちまけていく。ゴミ箱にドサドサと積み重なっていく料理。大樹のメモを覆い尽くす。ふと、昔縁日で買った金魚の末路を思いだした。あれは一週間もしないうちに黄色く濁った腹をさらして死んだんだっけ。隆史と小学校の中庭に埋めて木の枝で小さな墓標をたててやった。ぐったりとした屍を見ていると涙がどうしようもなく止まらなかったが、土にその姿が埋もれてしまうと妙に落ち着いてしまったことを覚えている。


「……」


 残飯は捨てるどの時点から残飯になってしまうのだろう。食べ残しの場合は摂食者がごちそうさまと箸を置いた時点だとしても、まったく手つかずの料理はいつから残飯になってしまうのだろう。


「……」


 きんぴらごぼうもお新香もぶちまけた。


 サラダのボウルも同じようにぶちまけようとして、


「……」


 やめた。


 ラップをかけ忘れたらしく、レタスが端からひからびていた。タマネギは逆にガラスのボウルの底でひたひたと水に浸かりきっている。


 それでもこのサラダだけは食べることにした。


「……」


 食卓についてそのまま機械的に手でつまんでは口に運ぶ。そういえばさっきドレッシングはシンクに流してしまった。あれはきっと僕の好きな中華風ドレッシングだった。


「……」


 僕は味のないサラダを詰め込むように食べた。途中、胸に詰まって苦しくなったけど、目に涙を浮かべながら次の一口ごと飲み込んだ。


 その次につまんだトマトは表皮が乾いていたけれども、口に含むと水々しくはじけた。


「……」


 それがなんだかとてもやさしくて、僕は泣きだしてしまった。










「――あれ、宮原さんは?」


 半分照明を落とした事務所内はがらんとしていた。不機嫌な同僚が拗ねた口調で応える。


「見りゃわかんだろ。花の金曜日に残業組なんてサミシイ男はオレだけだよ。」


「もう帰ったのかな?」


「さあ……ずいぶんさっさと帰った気もするけど。ところで四谷、今日出先から直帰じゃなかったか?何だってわざわざ事務所にもどってきたんだ?」


 社員の予定ボードに目を凝らす。


「宮原さんを呑みに誘おうと思って」


 そして久しぶりに朝までうにゃうにゃ……。


 唯一なる残業人はおまえもサミシイ男だな、と知らぬが仏で同病相哀れんだ。


「上司と呑みに行くにしろもっと人選べよー。宮原さんて肩書きナシの雇われデザイナーだろ?仕事はともかく、人脈にはならねえって」


「いいんだよ、宮原さんが好きで呑みに誘うんだから」


 何だソリャ、と笑う。


(……笑い事じゃないんだなあ、これが)


 大樹は苦笑った。


 好きなんだ。


 本当に、好きなんだ。










 電話が鳴る。


「……はい」


 ――あっ、先輩?もう寝てました?


「……ううん、まだ……どうかした?」


 えーっと、なんて電話の向こうではにかんでいる。


「……」


 大樹のわかりやすさはときに僕をひどく残酷な気持ちにさせる。


 傷つけてやりたい。そんな衝動にかられる。


 ――声が聴きたいなー、なんて……。


「……」


 僕が黙っているせいで大樹は焦る。


 すいません、なんかキショいこと言っちゃって。あ、でもホントに声は聴きたかったんです。っていうか、会いたい。なんかこの頃会ってないじゃないですか。企画も別モノやってるし。先輩、忙しいみたいだけどちゃんと食べてますか?ダメですよ、外食ばっかりしてちゃ……。


「……うん」


 僕は間の抜けた返事をした。


「……うん、大樹。僕も大樹に会いたいよ……」


 受話器の向こうで動揺しているのがわかった。先輩がそんなこと言うなんてどうしたんですかっ、なんてわめいている。


「……うん」


 会いたい。


 これは、本当。


 大樹といると穏やかな気持ちでいられる。――胸が絞られたように痛むようなことなんて、ない。


 だから、


「……会いたい……」


 ――でも、会えない。


 わかってしまったから。


 大樹は、僕の、逃げだ。










 灰色だ。


 灰色の空を映した灰色の、海。


 重くたれ込めた雲の下、窮屈そうに凪いでいる。


 ゴオオ、と鈍色の海岸を風が吹き抜ける。


 その風に吹かれながら僕と隆史はたぷたぷと眠たげな波打ち際を歩いていた。


「……」


「……」


 僕が先にたって歩く。その後を少し遅れて隆史がついて歩く。


 僕は濡れた砂地の歩きにくさに苛々していた。一歩ごとにしゃくしゃくと足が沈む。靴のヘリに砂粒のくっつくのがやけに気になった。


 夏の間はキャンプ客で賑わうのだろう。


 不揃いな石を積み上げただけの不格好なかまどが砂浜に点在している。


「疲れた」


 僕はそう言い捨てて波打ち際に近いひとつのかまどに目的地を定めた。


「もう?」


 急に歩調を早めた僕に隆史がようやくちょっと笑った。


「僕は誰かさんと違って」


「―――繊細だって言うんだろ?だから違うって。おまえは繊細なんじゃなくてただの根性ナシなんだよ」


 僕の口ぐせ。


 隆史の口ぐせ。


 あたりまえみたいに交わしてたれが今、こんなにも懐かしい。


 僕は崩れそうで危なっかしいかまどに浅く腰をおろして息をついた。


「……」


「……弓弦……?」


 僕は遠い地平線を見ていた。空と海とをわかつ境界線は曖昧に霞んでいて、それでいながらやっぱり空と海とは別ものなのだと決めている。


「――寒いね」


 側に立った隆史の腕にすがりつく。


「弓弦」


「少しだけ」


 すがりつく。


「……少しだけ」










 その日曜は、急に隆史の都合がつかなくなって、ぽっかりと空いてしまった。休日出勤がどうのと苦笑っていたその実は容易に察しがついたけれども、僕はまたやさしい嘘にすがりついた。


 家族サービスも大変だよ、とちっとも大変そうじゃない笑顔で嘆いていた――嘆いてもいなかったのか――同僚がいたっけ。家庭をもったヨロコビというやつだろう。可愛い盛りの子供に休日の遊園地をねだられると口元がゆるんで困るようなことも言っていた。


「……隆史も……」


 僕はマンションの狭いベランダに出て、たった二つか三つしかない鉢植えの前に座りこんだ。


 僕の中で隆史の奥さんやら子供やらというのは現実感のない架空の存在でしかなかった。彼らについては広告の裏に書いた落書きのように雑なイメージしかうかばなかった。僕は想像力に乏しく、我ながらよくデザイン事務所なぞに勤めているものだと思うのだが、僕の中での隆史の奥さんといったら、いつもエプロンをして台所に立っていて、トントンと大根か何かを切っている程度にしか想像がつかなかった。子供に関して言えば、もはや想像力の範疇外で、隆史がお父さんやらパパやらと呼ばれているなんていうのは出来の悪い冗談としか思えなかった。


「……」


 鉢植えは、長いこと忘れられていて、細くなった枝の先からひからびてきてしまっていた。鉢植えは中くらいのが二つと大きいのがひとつあるきりだったが、中くらいのうちのひとつは随分昔に枯れてしまったらしく、埋葬され損ねたミイラみたいにひょろひょろと惨めな姿をさらしているのが痛々しかった。あとのふたつも瀕死の状態で、僕は遅まきながら思いたってベランダの隅で土埃にまみれて転がっていたジョウロを手にした。


「……」


 クラッシックな形状だけが気に入って買ったアルミのジョウロは機能性に乏しく、僕は何遍も流しとベランダとを往復しなければならなかった。


 どうにか土を湿らせて、僕は三つの鉢植えをベランダの手摺り際に並べた。僕の気まぐれより天気のそれのほうがいくらかマシだろう。枯らしてしまった鉢植えをどうにかする気にはなれなかった。もちろん、他の二つと同じように水をたっぷりやった。自己満足に過ぎない罪滅ぼしかもしれなくてもそうせずにはいられなかった。


 一段落ついたので煙草を吸おうとして、大きい植木鉢と目があってしまった。


「……」


 途端になんだか気まずくなってしまって、僕は指先で煙草を軽く揺らして遊ばせた。


 煙草は好きじゃない。


 煙草を吸うときはいつだって苦しい。










 僕らは川辺に立っていた。


「……煙草、吸うんだ」


「ん?……ああ」


 僕も煙草ををとりだして背を屈めた。


 水面を渡る風が吹きつけてうまく火がつかない。


「……相変わらず下手だな」


 隆史が、くわえた煙草を近づける。僕らはくちづけるように火を煙草から煙草にうつした。


「こんなところにも川が流れているんだな」


 マンションの明かりが規則正しく天にむかって積み上げられた光の積み木のように見える。それはそこに住む人々の数だけいくつもいくつも並んでいた。あのひとつひとつに『家』があるのだ。そう思うとただ電球の光でしかないはずのそれは言いしれぬ暖かさを孕んだ。


「……」


「……」


 僕らはそれを遠く見て佇んでいた。


 目の前の川は流れもせず黒く澱んでいる。


 申し訳程度に生えている水草も汚れた川には生きてゆけないらしく、枯れて無惨な陰をさらしている。


「……僕らのこの火を」


 ふと思いついてつぶやいた。


「あっち側から見たら、螢みたいに見えるかな?」


 隆史は返事をするかわりに煙草を吸った。ぽうっと煙草の先がひときわ明るくまたたいて、白い灰が風に散る。


「……なあ、弓弦」


「……ん?」


「……俺、本当にずっとおまえが好きだったんだ」 


「……」


 うん、わかってる。


「弓弦、」


「――ずっと、大人になりたいと思ってた」


 たいして吸ってもいなかった煙草がいつのまにか短くなって、僕の指を焦がしていた。それでも僕は煙草を離せなかった。離したくなかった。それは痛みを忘れさせてくれる痛みであり、かつての遠い熱さの再現としての近い熱さでもあった。


「隆史を好きだっていう気持ちで僕の中がいっぱいになって苦しかった。大人になって身体が大きくなれば心も大きくなって隆史を苦しまずに好きでいられるようになると思ってた」


「弓弦……」


 指の間からさらさらとした灰がこぼれ落ちていく。


「隆史、さ」


 僕はにやにやと笑ってやった。


「ウマクなったよね。僕、すっげー感じちゃったよ」


「な、ば、ばかっ、何言って」


 うろたえてる。ああ、可笑しい。


「――つまり、そういうことなんだよ」


「……?」


 指にこびりついた灰をパンパンとはたき落とす。


「僕も隆史も、大人になったんだ。で、大人になるまでにいろんな事を身につけてきちゃったんだよ。エッチのテクだとか、嘘のつき方だとか」


「!」


 責めてるんじゃないんだ。


「責めてるんじゃないんだ。やさしい嘘をありがとう、隆史。それとごめん、僕も隆史に黙ってたことがあるんだ」


 今、つきあってる人がいる。


 隆史はそうか、と言った。どう反応したらいいのか自分でも迷ってるふうだった。男か女かも訊かない。それとも隆史の中では伴侶という存在にはある種の決まったカタチがあるのかもしれなかった。二本目の煙草に火をつけてようとして背中を丸めている。


 僕は淡々と言葉を続けた。僕らしくない饒舌で、そのくせ僕らしい無感情さで。


「――僕は空っぽで――確かなモノなんて何もなくて――不安だった。どうして隆史が僕を愛してくれるのか、いつまで隆史が愛してくれるのか。そんなことばっかり考えてた。でも」


 昔の激情。炎を遠く思い描くようで、その熱さのほどもいまやおぼろで不確かな虚像でしかない。


「でも、あのとき僕はたしかに隆史を愛してたんだと思う。確かなモノなんて何もなくて、でも、この身ひとつを焦がすような恋をしてたんだ」


 ねえ、隆史。


 そうだよね?


「――もっと愛せればよかった。ううん、愛されてることに気づければよかった」


 僕は泣き笑いしていた。


 僕らはあのとき恋をした。


 あのとき。


 僕らの若かりしとき。


 色褪せても色褪せない、ひかり。


 ひかり。


 ひかる。


 ひかる、螢。


「……弓弦」


 隆史はうつむいていた。二の腕で、泣いているのであろう目元を覆って火のついた煙草を指の先でもてあましている。


大の男二人が河原でめそめそしている図なんてさぞかし滑稽だったろう。でも僕らは大人故の子供の無力さで泣いていた。


 隆史が好きだ。


 いままでも、これからも、いつまでも好きだ。


でも。


 あのときの螢があの夏を限りに生きたように、僕らの恋はあのときを限りとしたのだ。 


「……」


「……」


 抱きながら抱かれながら、僕らはわかってしまったのだ。


 隆史は抱くのがウマクなったし、僕は抱かれるのがウマクなった。


 余力を残せる悲しさ、とでもいうのか。


 昔は抱いて抱かれた後なんて、息をするのも億劫なほどの脱力感に襲われた。


 再会してから何回も、逢瀬を重ねて、身体を重ねて。でも僕も隆史もその日のうちにそれぞれの家路につき、次の日には何事もなかったかのように仕事にでた。


 遊び上手になった。お互い気持ちヨクなれた。でも僕らは快感が欲しくて身体を重ねていたわけではないはずだからやはりそれは悲しいことなのだ。


 もうあんな、全てを賭すような恋はできない。


 それは誰のせいでもなく、ただ時間だけが過ぎたのだ。





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