第4話 あのとき。
「私も行くっ」
「……だめだよ、二人もお邪魔できないよ」
高校一年生の夏休み、隆史の田舎に遊びに行くことになった。
例によって梓がごねる。
「私も隆史ちゃんと旅行いきたい!」
母さんがもっと大きくなったらね、なんてなだめている。もっと大きくなったら男と旅行なんて余計にまずいと思うのだが。
「……梓、夏休みはお祖父さまの道場で特訓だとか言ってたじゃないか」
「……お祖父ちゃまなんて……っ」
ぶうっとふくれている。それでも黙り込んだところをみるとお祖父さまとの約束を反故にする気にはなれないらしい。
僕らの母方の祖父は弓道家で、隣町に結構立派な道場を開いている。にもかかわらず、親戚中で弓道をやっているのは梓一人で、祖父は半ば本気で梓に道場を継がせるつもりらしい。僕も小さい頃は無理矢理やらされたのだが、泣いてばかりいるので、祖父の方で見切りをつけた。梓は僕より幼い頃から始めたのに、嫌がりもせず、むしろ嬉々として中一になった今に至るまで続けている。この春も、小学校にはなかった弓道部が中学にはあるのだ、と嬉しそうに入部を報告していた。
「はい、決まり。お祖父ちゃま、首を長くして待ってるわよぉ。梓はお祖父ちゃまの秘蔵っ子だからね」
僕はそそくさと逃げるように家を出た。あとは母さんがいいようにあしらって梓をどうにかまるめこんでくれるだろう。隆史とは駅で待ち合わせている。
「――ゆづるー、忘れ物はー?」
「……なーい!」
駅ではやっぱり隆史が先に来て待っていた。
「……ご、ごめん、出掛けに梓がごねて――」
隆史はしょうがないなあ、と笑った。
「それにしてもそんな息せき切らせて走ってこなくてもよかったのに」
「……なんか、走らないと梓が追いかけてくるような気がして……ああ、疲れた……っ」
「梓ちゃんの追い込みはすごいからなあ」
隆史も苦笑している。実際、梓の執念ときたらすごくて、昔から僕が隆史と遊びに行くとわかるや否やまいてもまいてもついてくるのだった。
「よく二人して逃げたっけ。懐かしいなあ」
「……現在進行形だよっ。さっさと列車に乗っちゃおう」
隆史の背中をぐいぐい押してせきたてる。
「弓弦、そろそろつくよ」
「ん……?ああ」
いつのまにか眠りこけてしまっていた。
隆史に膝枕されていたことに気づく。
「……ごめん」
「いいって。なんか途中からうつらうつらして船漕いでたからさ。つらそうだなーと思って俺が膝に寝かせたんだ」
「痺れた?」
意地悪く隆史の太ももをつつく。
「イテテテテ、ばかっ、やめろって」
隆史が悶える。
「痺れたんだな、うりゃ、うりゃ」
僕は調子に乗って隆史をイジメにかかる。
隆史は笑いながら逃げた。
「降参、降参っ」
「何に降参だよ?」
「わかんないけど降参っ」
ついに僕らは大口を開けて笑いだしてしまった。
「!」
と、大きく揺れて列車が止まった。
「降りなきゃ!」
「荷物、荷物!」
あたふたと網棚のリュックを引きずりおろす。
ばたばたと僕らはホームに転がり降りた。真後ろでドアが閉まる。
「……ふう。もう動けない」
寝起きに騒いで疲れた僕は地べたに座りこんだ。
「何だよ、もう電池切れ?」
「……僕は隆史と違ってセンサイなんだよ」
「繊細と根性なしは同義じゃないぞ。……ほれ」
ポケットからキャラメルを二,三粒とりだして手渡してくれる。
「栄養補給」
「……なるかよ」
「一粒三〇〇メートルだそうだ」
「ばかばかしい」
ぷっと噴きだしてから、キャラメルを口に放り込んで僕は機嫌良く立ちあがった。
「次はバスに乗るんだろ?何処行きっていうのに乗ればいいの?」
隆史のお祖母さんの家は駅からバスで一時間ほども乗った山奥にあった。
古い大きな日本家屋と小さなお祖母さんのセットは、昔話にでもでてきそうな風景だった。
夜になると、近所に住んでいるという隆史の叔父さん夫婦がやってきて、賑やかな宴会になった。そこで僕は、自分が酔うと泣くらしい、ということを初めて知った。
「なんだあ、弓弦くんは泣き上戸かあ」
「あれ?あれ?」
ぱたぱたと、とめどもなく涙が流れ落ちる。
「もう、あんたったらこんなちっちゃい子に呑ませてどうすんのよっ」
どつき漫才よろしく、おばちゃんがおじちゃんのせなかをばちこーんっとはたいた。静かに、それでもくいくいと呑んでいる隆史が追いうつように訂正を入れる。
「――叔母さん、弓弦は俺と同い年だよ」
「えーっ!あら、ごめんなさいねえ、おばちゃん、弓弦くんて中学生くらいかと思ってたあ」
今度は僕の背中をばしばし叩く。
「まあ、呑めや!呑めや!」
おじちゃんが赤ら顔でわめく。おばちゃんはどうしようもなく笑い喋り続けている。隆史は黙々と呑みながらも箸を進めている。それをお祖母さんがにこにこと見守っている。僕の涙は止まらない。
夢うつつ。
隆史が呼んでいる。
「――弓弦。弓弦」
「ん……」
「大丈夫か?」
「……」
うっすらと眼を開けると、世界がぐにゃぐにゃしていた。
「……僕ってすごい」
「え?」
ふふふー、と薄笑い。
「こんなにぐにゃぐにゃな世界でも隆史だけはどうにもこうにもみわけられるんだ……これって愛?」
「……何言ってるんだ。酔っぱらいめ」
「ふふん」
僕はまた眼を閉じた。喉にしょっぱいものが流れこんできて少しむせ返る。どうやら僕はまだまだ泣いているらしかった。
「僕の涙腺、こわれちゃったのかなあ」
「……さあな」
またすうっと世界が白く遠くなる。
天井につりさげられた蛍光灯のかさに、数匹の小さな蛾が繰り返し体当たりしている。ぼろぼろになりながら、鱗粉を散らしている。
「……」
さやさやと心地よい風が頬にあたると思ったら、隆史がうちわであおいでくれていた。
「起きたか」
僕は畳の上で二つ折りにした座布団を枕に大の字に寝ていた。
「布団敷こうかって叔母さんがいってくれたんだけど、まだ寝るような時間じゃないからって断った。いいだろ?」
「……うん」
僕はそろそろと起き出した。まだ酔っているのか、脳みそがぐるぐるしている。
「……只今地球の自転と公転を体感中」
「叔父さんが謝ってた。呑ませ過ぎて悪かったって」
「いや、僕も調子に乗って呑んでたんだし」
喋っているうちにだんだん意識がはっきりしてきた。目の焦点もどうにか合ってくる。
と、隆史が笑った。
「……何?」
「いや、おまえ、本当に寝起き悪いなーと思って」
「……悪うございましたね。叔父さんと叔母さんは?」
「帰った」
「お祖母さんは?」
「もう寝た」
年寄りは夜が早いから、と苦笑する。
「そういう弓弦は今これだけ寝ちゃうと夜中に眼が冴えて寝られなくなるんじゃないか?」
「そうだね」
ちょっと歩いたところに川が流れてるんだ、と隆史は言った。
「酔いざましに歩かないか?」
「『ちょっと歩いたところに川が流れてる』って?『ちょっと』?」
「……悪かったよ」
さすがの隆史も素直に非を認める。そりゃそうだろう。僕らはかれこれ一時間半以上も歩き続けているのだから!
「隆史はいいよ、陸上部で足動かしてるんだからさ」
「俺、短距離だぞ。」
僕は少し詰まってから応えた。
「……知ってるよ」
知っている。
走っている隆史が好きだ。
僕は陸上のことは何も知らないけれど、隆史の走る姿はキレイだと思う。
隆史は中学の頃から陸上をやっている。何メートル走れば長距離なんだか短距離なんだか知らないが、とにかく専門は走ることみたいだ。
「……」
たぶん、これは隆史も知らないことだけれども。
中学校時代から隆史は陸上部で、僕は帰宅部。僕は帰宅部といいつつも放課後、用もないのに教室に残ってはぼんやりとグラウンドの陸上部の様子を眺めるのが習慣になっていた。
走っている隆史が好きだ。
陸上部の中でも隆史の姿ばかりを眼で追っていた。それが幼なじみの頑張っている様子を見る、という以上の気持ちがあることに気づくのに、さして時間はかからなかった。
走っている隆史が好きだ。
隆史が、好きだ。
「弓弦?」
「……ん?」
「何だよ、急に黙り込んで。」
「……疲れたんだよ。僕は誰かさんと違って」
「――繊細だって言うんだろ?だから違うって。おまえは繊細なんじゃなくてただの根性ナシなんだよ」
隆史が笑う。僕もどうにか笑う。
「……」
「……」
僕らはいつしか黙りこくって歩いていた。
隆史が何か喋ってくれればいいと僕は思った。こうして口を閉ざしていると互いの中で何かがふつふつと煮詰まっていく気がする。
「――」
と、突如隆史が意を決したように藪の中に飛び込んだ。
「え?え?隆史っ?」
ガサガサと下草をかきわけてずんずん奥に入っていく。
隆史の後ろ姿が小さくなっていく。
僕をおいていくつもりなのか振り向きもしない。
冗談じゃない。こんな外灯もない山奥の小道に取り残されたらさんざん迷った挙げ句、のたれ死んでしまう。
僕は慌てて後を追った。
「……」
「……」
気まずくそれぞれズボンのチャックを閉める。隆史が怒ったように歩きだす。僕は少し間を置いて後についた。
「……」
「……」
隆史がぼそっとつぶやく。
「……何でついてきたりしたんだ」
「隆史が何も言わずにずんずん行っちゃうからだろう!帰り道わかんないし。どうしようと思って……」
「……」
僕はしばらく堪えていたが、ついに
「……プッ」
と噴きだしてしまった。
「あんな物凄い勢いで歩いて……よっぽどしたかったんだな」
「とかいって結局は弓弦だってしてたじゃないかっ。」
隆史が振り返る。お互い眼があって――笑いだしてしまった。
「しこたま呑んでたもんなー」
「しこたま呑まされたもんなー」
「お互い、異様に長かったよな」
「今までの人生の中で最長かも」
何のことはない、隆史は僕に告げる間もないほどの急激な尿意をもよおし藪の中に飛び込んだのだった。追いかけた僕もつられて山中で失礼したところ、二人して呑んだ膨大な酒量にみあう小便を長々として終えたわけだった。
「人間の一番素直な欲求だよなー、排泄って」
「何言ってるんだよ。おまえの言うことって、ときどきよくわからないぞ。だいたい『素直な欲求』って何だよ。素直じゃない欲求ってあるのか?」
僕は一瞬窮して、それから呟くように答えた。
「……あるよ」
素直じゃない欲求。
素直にだせない欲求。
たとえば僕が――隆史に――抱くもの。
「……ふうん?」
隆史の表情は読めない。昏闇のせいばかりではない。隆史は何も気づかないみたいに僕の前を歩いていく。
しばらく歩いてから、川辺の岸に降りた。
「ここ、小学生になるくらいまでよく叔父さんによく連れてきてもらったんだ。昼間にくれば釣りもできる。夜釣りはどうかな?道具を持ってきたら出来たかもしれない」
「……ふうん」
隆史にならって腰をおろすと、砂利がジーンズ越しにも痛かった。石が大きめでごつごつしているから、このあたりは結構上流にあたるんだろう。
夜の川は黒々と底知れずたゆんでいて、ときおり風が吹くと、群生した葦がざわめき、月明かりに水面がきらめいた。
「……」
「……」
僕らは何もない夜の森の静寂に呑みこまれていた。露がおりる肌寒さに小さく身震いする。服も髪もしっとりと濡れていた。寒い。ふいに、隆史がそっと僕の手に手を重ねた。僕はためらいながらもそれを握りかえした。互いに言葉も、視線さえも交わさず、音もなく流れる闇色の川の水面を見ていた。
「あ」
隆史が弓弦、と僕の視線の先をうながした。僕は目をこらし、しばらくしてからようやく、葦の間を行き交うものに気づいた。
「あ、螢……?」
――螢を見たのはそのときが初めてだった。螢は意外なほどはっきりとした碧色の光を放ちながら、不規則な軌跡を青白く闇に記していた。
それを目で追う僕らの繋いだ手と手は緊張に少し汗ばんでいた。
「……」
「……」
あの夏、群舞する螢のかげで、僕らは消え入るようなキスをした。
そうだ。
あのとき僕は、僕らは、恋することで傷ついても構わないと思ったんだ。
幼なじみのままなら何事もなくずっと一緒にいられた。
それでも。
一生触れられないでいるよりも、ただの一瞬だけでも触れあうことを僕らは望んだ。
僕は螢になりたかった。
闇にあんなにもはっきりとした軌跡を残す螢になりたかった。
恋の炎に己が身を焦がし輝く、恋螢になりたかった。
高校三年生の初秋。
煙草が手放せなくなっていた。
「――弓弦、煙草よせよ」
「……」
逆らうように目の前で煙草をくわえ火をつける。
屋上は風が強くて、なかなかライターの火がもたない。僕は苛つきながら何度もカチカチとライターを鳴らした。
「あきらめろって」
隆史がまた顔を近づけてくる。僕は腕でそれをおしのけて意地になって煙草に火をつけようとし続けた。
「……」
ようやくついた煙草を一服して一息つく。
「……何で?」
僕を扱いかねている隆史にぶっきらぼうに訊ねる。
「何で煙草やめろっていうんだよ?未成年だから?先生にみつかるとヤバイから?まさか子供産めなくなるからなんて言わないよね」
自嘲気味なひきつり笑い。間接喫煙のほうが発癌率が高いのよ、と迷惑そうにわめいていた梓を思いだした。
「ねえ、何でさ」
僕は意地悪く迫った。隆史はあの濡れた黒曜石みたいなじっと僕をみつめていた。すべてを見透かすようなその瞳がその頃の僕は苦手で、そのくせ以前よりもずっと愛おしかった。
「――ら」
「え?」
隆史はすっと立ち上がり、僕に背を向けた。もう一度、一語一語区切って発音する。
「――キスが、苦いから」
僕はヤケみたいに煙草を吸った。
隆史が嫌がるから煙草を吸った。
煙草は好きじゃない。
煙草を吸うときはいつだって苦しい。
「お兄ちゃん、また煙草吸ってたでしょ!やめてって言ってるのにー!」
梓が僕の部屋にずかずかと乗り込んできて、大袈裟に騒ぎ立てながら窓をバタバタと開け放った。
「何よこの部屋、白くいぶってるじゃない!換気くらいしなよ。廊下まで匂うよ、煙草!」
「……」
僕は灰皿代わりの空き缶にろくに吸ってない煙草を押しつけて、もそもそとベッドにもぐりこんだ。
「お兄ちゃん?聞いてる?」
「……」
ベッドが少し沈んだ。梓が隅にちょこんと腰掛けたのだ。
「お兄ちゃん、お父さんもお母さんも心配してるんだよ。最近のお兄ちゃん、傍目から見てて怖いくらい荒れてるんだもん」
梓はそこで少し言葉をきって、僕の応えを待った。
「……」
僕は貝のように掛け布団をまきこんでいた。当然、応えない。梓は仕方がない、とため息をついてから言葉をついだ。
「お兄ちゃんて、自分の中に気持ちをためこんじゃうタイプでしょ?自分で自分を追い詰めちゃうっていうか。――私たち、家族なんだしさ。高校三年生で受験勉強とかイロイロ大変だろうけど、何でも話してよ。一人で抱え込まないでさ、ね?」
「……」
――僕は声をたてずに笑っていた。何でも話してよ、か!僕が全てをぶちまけたら梓はどんな顔をするだろう?お兄ちゃんはね、おまえの初恋の隆史ちゃんとドロドロの肉体関係で、もうこんな関係はやめようと思ってるんだけど、犯されるのが気持ちよくてやめられないんだ。そんなふうに言えば梓を傷つけられるだろうか?
「お兄ちゃん……?」
「……」
僕は狂気的な衝動を内に抱えたまま、声だけは平静に感情を押し殺して応えた。
「……心配かけて、ごめん。でも、大丈夫だから」
明るく軽い白々しいセリフ。梓はそう、と腑に落ちない様子で部屋を出ていった。
「……」
梓が嫌いだ。
梓は僕が欲しいものすべてを持っている。そしてそれを僕にみせつけていた。それは愛されるふさわしさ、とでも言うべきものだった。
梓は愛される。
父母や祖父や――隆史に。
僕は……。
だからこそ、せめて僕は僕を守る。意地でもちっぽけな僕という砦には踏み込ませない。
梓が嫌いだ。
――梓になりたい。
「僕が僕でなかったなら、もっとうまく隆史を愛せたと思う」
隆史は愛撫の手を止めた。僕は僕の胸に唇を這わせていた隆史の頬に両手を添えて上向かせた。子を抱く母のようなカタチになる。
「俺は、」
隆史はすぐに僕の後を受けた。
「――俺は、弓弦が弓弦だから好きになったんだぞ」
「……僕なんて何もないよ」
どうして僕を愛してくれるの?いつまで僕を愛してくれるの?
「弓弦」
「……大人になりたい」
「……」
僕は泣いていた。さっき呑んだビールが今頃身体を火照らせていた。……いや、隆史のじらすような愛撫のせいか。涙をぬぐう僕の下腹部で、再び自由になった隆史が動き始めていた。
「……ん、んっ」
涙が喉の奥にながれこむ。僕はむせかえりながら途切れ途切れに喘いだ。
「弓弦が満足するなら大人にでもなんにでもなればいいよ」
隆史はそう、あやすように僕の耳元でささやいた。
――この一ヶ月後、僕は隆史に別れを告げた。
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