第3話 いま、このとき。――冬

冬が来た。 


「!」


 隆史に会った。


「――弓弦」


 それはまったくの偶然で、それでいてどちらかが先に見つけたというのでもなかった。会うべくして会った、そんな感じ。


 隆史はまぶしそうに目を細めて僕の名を呼び、


「弓弦」


 そしてもう一度呼んでこちらにまっすぐ歩きだした。


 僕たちは五,六メートルも離れていたのにお互いを見つけてしまった。都会の雑踏の中の五、六メートルなんてそうそう見通せるもんじゃない。


 それでも僕らは再会を果たした。


「……眼鏡、かけてるんだ」


「ん?……ああ」


 隆史は微笑った。


「仕事、あるからな。嫌いとかいってられないし」


 変わってない。


 ちょっと痩せたとか、眼鏡をかけているとか。その程度のことはともかく、隆史は僕の中の隆史と寸分違わずそこにいた。訥々と喋る少ない言葉とか、はにかむように笑う表情とか。僕を見下ろす柔らかい眼差し、とか。そういったすべてが隆史だった。


「……立ってると冷えるな。今、帰りか?」


「うん」


 ちょっと胸の奥がちくんと痛んだのはいつものように僕の部屋で待っているであろう後ろ姿のせい。


「どこかで呑まないか?」


 それでも。


「……うん」


 僕は隆史について歩きだしてしまった。










 僕たちは大通りからちょっと奥まった小さな居酒屋に入った。まだ時間の早いせいか、客は僕たちから離れたところに二,三人いるきりだった。僕たちはカウンターではなくテーブル席についた。


「会社、この近所なのか?」


「……うん。小さなデザイン事務所」


「へえ」


 隆史はちょっと意外そうな顔をした。


「……合ってないかな」


「いや、わからんよ。……ただ俺は弓弦は教師になるような気がしてた。大学、教育学科だったんだろ?」


「……何で知ってるの?」


 高校卒業の頃、僕らは別れた。僕らはそのときかなり追い詰められてしまっていて、お互いの進路なんて気にする余裕もなかった。 


「同窓会」


 隆史は短く応えてグラスをあおった。隆史は昔から酒が強かった。まったく平静のままくずれない。


「……同窓会、いつも行ってたの?」


 ならば僕は行かなくてよかったということになる。


「いつもってほどでもない。大学の時に一回と就職してから二年目ぐらいに一回。あとは行ってない」


 そういえば高校時代の同級生に同じ大学に行ったやつが何人かいた。あまり親しいほうではなかったけど、隆史はその中の誰かから僕のことを聞いたに違いなかった。


「一人暮らし?」


「え、あ……、うん。何で?」


「さっきから時計を気にしてるから。」


「……そんなことないよ。」


 無意識に腕時計をいじっていた。大樹のことが気にかかっていたわけではない。


 僕はそんなに器用な人間じゃない。ただ目の前に隆史が座っていることにとまどっていた。


「……隆史は?」


 とはいえ大樹のことに話が及ぶのをなるべくなら避けたくて、僕は何の気なしに質問返しという手段をとった。


 ところが。


「――」


 隆史は表情を強張らせて呑む手を止めた。


 僕は息を呑んだ。




 コノ先ハ聞イテハイケナイ。


 聞キタクナイ。




「――結婚したんだ」


 ……情けないことに、僕の心にはそれだけでぽっかりと穴があいてしまった。だから隆史の次の言葉はその穴をするっと通り抜けてしまって現実感さえ湧いてこなかった。


「子供もいるんだ。女の子と男の子で、今年四歳と二歳になった。」


 僕の持ったグラスの中で琥珀色の液体が不安定に揺れた。


「……へえ。全然知らなかった」


 僕は自分の表情の乏しさに感謝した。でもさすがに隆史の瞳はみる気になれなくて、テーブルの上のおつまみやなんかに視線を泳がせた。


「……相手は?」


「弓弦の知らないだよ」


 僕の知らない……。


 そうだ。高校卒業のあの春に別れてから、僕には僕の人生があったように隆史には隆史の人生があったのだ。


 僕の知らない隆史。


「もう酔ったのか?変わってないんだな」


 隆史がそう言ったのは僕が泣いていたからだった。いつから僕は泣いていたのだろう。酔ったから泣いているのか、それとも別の理由か、僕自身にもわからなかった。


「……弓弦と別れて」


 僕の知らない隆史は。


僕と別れてから一浪して地元の国立大学に進み、大学卒業後は伯父さんが横浜で経営する貿易会社を手伝うようになったらしい。


「その伯父に勧められて見合いしたんだ。彼女は大手の取引先のお嬢さんだった。断る理由もなかったし……」

「だから、結婚したの?」


 まあな、と隆史は苦笑した。隆史の言葉を鵜呑みにするわけではないけれども、『愛していたから結婚した』と言われなかっただけ僕は救われた。現実をつきつけられるよりも、やさしい嘘をついてもらうほうがいい。


「変わったんだね、隆史」


「……」


 隆史を一見して、変わってないと思った。でもそれは僕の勝手な願望でしかなく、離れて生きてきた分だけ隆史は僕の知らない隆史になっていたのだった。そしてきっと僕も、隆史の知らない僕になったのだろう。


「ひとつ、教えて」


「……?」


 僕は相変わらず無表情に涙を流していた。


「……あのとき、僕を愛してた……?」


 あのとき。


 僕らの若かりしとき。


 色褪せても色褪せない、ひかり。


 ひかり。


 ひかる。


 ひかる、螢。



















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る