第2話 いま、このとき。――夏
「――それで?」
「……それだけだよ」
たばこの煙で室内が白くけぶっている。缶ビールの飲み残しからアルコールのつんとした匂いが漂う。
会社帰り、後輩に呑みに誘われた。僕は勧められるままに強くない酒を呑み、後輩の意図に半ば気づきながらも酔いつぶれた。そして後輩は僕を抱いた。類は友をってことだろうか。僕の周囲には男を抱ける男が集まるようにできているのかもしれない。
「それだけだ」
情事の終わったベッドの上で隆史のことを話した。
「隆史は幼なじみで、恋人だった。好きだった。でも別れた。――今でも好きだ。でも、あれから隆史には会ってない」
酔うと、頭の芯がじんと痺れたように痛くなる。
「……先輩、泣いてるんですか……?」
「――ああ、これ?」
頬をつたう涙はそれとわかるくらい枕元を濡らしていた。
「気にしないで。酔うといつもこうなんだ」
僕は酔うと泣く。悲しくて泣くのでも嬉しくて泣くのでもないから顔色一つ変えずにただ涙だけ流す。感情の伴う涙には表情がある。よくもわるくも顔のどこかしらが歪むものだ。僕は無表情のまま、泣く。ただ涙だけが別物のように後から後から溢れでる。
僕はサイドボードを手探りしながら半身を起こした。
煙草とライターを鷲掴みにしてから、灰皿のないことに気づく。
「……」
全裸のまま起き出してダイニングのビール缶を手にとる。軽く振ってみるとちゃぷちゃぷとまだ少し中身が残っていた。
「もう飲まないだろ?」
「……」
「まだ飲むの?」
「……いえ」
「あ、四谷、煙草嫌い?」
慌てて火をつけたばかりの煙草を缶のふちでもみ消す。
「別に……そういうわけでは……」
四谷は僕の方を見ようともしない。明後日の方向にそっぽをむき膝を抱えている。
「……僕が男慣れしてて失望した?」
「……」
肩がびくんと震える。図星、か。僕は大きく息をつき、わざと大きな音をたてて缶をゴミ箱に放り込んだ。大股でベッドに戻って四谷の背中に話しかける。
「言っただろ。僕なんてこんなもんだよ。昔男がいた。抱かれてた。別れた。でも今でも男に抱かれることはできる。一度身体で覚えたことなんてそうそう忘れるもんじゃないからね」
「……か」
四谷は泣くような声を絞り出した。
「え?」
「……キスさえも、ですか?」
四谷はそう言うといきなり振り返って僕に口づけた。噛みつくような強いキス。
「こうしてキスしてもそいつを思いだすんですか?そいつのことはもう忘れられないんですか?」
「い、痛」
僕の両肩を掴んだ四谷の指がくいこむ。
「……何でッ」
四谷は僕を突き飛ばすようにして離れると壁に拳を叩きつけた。
「何でッ。好きなのに別れたりしたんだッ」
四谷は怒りながら泣いていた。
「……それじゃあ、わりこめやしないじゃないか……」
昔何があったかなんて、構わない。
今あなたが誰を好きでいてもいい。
そう言って四谷は僕を抱きしめた。
そして僕は四谷のキスを拒まなかった。
「……四谷ってさぁ」
「え?」
見かけによらず四谷は家庭的だ。僕のインスタントにたよりっきりな食生活を見かねてこうして三度の飯を作りに来てくれる。昼間は会社だろうって?いやいや、手のこんだ弁当をありがたく頂戴している。
「……下の名前、何?」
「はぁ?」
「四谷ナニっていうんだっけ?」
「……」
菜箸からぽろりと天ぷらが落ちる。
「ひ、」
「……アスパラ、落ちたよ」
「――ひっでー!」
顔面を真っ赤にして怒っている。ああ、これはヤバイ、かなりマジに怒っている。握りしめた両手がぶるぶると震えている。
「そりゃないでしょ、先輩。オレが入社してから二年もたつのにッ。しかもいまやこんなに尽くしてるのにッ」
「……興味ないんだよ、人の名前とか」
「オレは先輩の名前知ってますよ、ちゃんと。ミヤハラユヅル。ね、ほら!」
「……だから」
四谷はふわふわとカールした茶色っぽい毛を肩くらいまで伸ばしている。それは彼の甘めの彫りの深い顔立ちによく似合っていた。
僕は四谷を見ていると、従兄の家にいた犬を思いだす。しっぽをちぎれんばかりに振っていた可愛い茶色い子犬。
「……だから、四谷のことは知りたいんだ」
だから、というのは。四谷は僕の恋人だから僕のことを知っている。僕は四谷の恋人なんだから四谷のことを知っておくべきだろう。そういう意味だ。
「先輩……」
「で?下の名前はっ?」
なんだか照れくさくてぶっきらぼうになってしまう。
「タイキです。四谷大樹」
大樹はしっぽを振った。
風呂が壊れた。
「うわー、浴槽いっぱいの水」
「……ガス点けたよね?」
ガス湯沸かし器を何度もカチカチいわせていじってみる。それでも火のつく気配がない。
「そういえば今日、皿洗ってる時からお湯でなかったんですよね」
「じゃあそのときから壊れてたんだ。まいったなあ。この辺銭湯なんてないし。明日業者呼んで早々に直してもらわないと」
「直らないかな?」
「無理だって……ちょっと、大樹、なんかガス臭い。変にいじるのよそうよ」
あわてて家中の換気扇を二人してつけてまわる。
と、
「あ、そうだ」
「何?」
「先輩がウチにくればいいんですよ」
「大樹ん家?」
「車で一〇分くらいですよ」
「だめだよ、僕らさっきビール飲んだだろ?」
「じゃあ、歩きで」
さっさと上着を着はじめている。
「ええーっ?」
「三〇分くらいですよ。食後の散歩、食後の散歩。川沿いに近道すればすぐですって」
「……川?」
「こんな近くに川が流れてるなんて知らなかった」
僕の安アパートから少し歩くと小学校を中心に林立するマンション群がある。川はそのマンションの裏手を密やかに流れていた。
「早朝だとけっこうジョギングする人とか犬の散歩する人とかでにぎやかなんですよ」
「……って、おまえなんでそんなこと知ってんの?」
「先輩の家から朝帰りするときによく使うんです、この道」
「……」
大樹はこんな恥ずかしいこともしれっといってのける。いまどきの若いモンだということか。
「――」
「――」
それっきり会話は途切れて僕らはひたひたと暗い川縁の道を歩き続けた。
僕らが歩いているところは川そのものより四、五メートル高く造られているコンクリートの壁の上で、その壁はどうやら堤防の役目も兼ねているようだった。ちょっとのぞきこんでみると、川自体はほとんど水たまり程度で、雑然と生えている葦やなんかと、釣りをするために座るのもやっとであろう、これもまたコンクリート造りの岸が見えた。
「……」
「先輩?」
僕が立ち止まったのに気づいて前を歩いていた大樹が振り返る。
「……ちょっと川を見たいんだ。いいだろ?」
「え、そりゃまあ……?」
怪訝そうな顔をしながらもきつめの勾配のついたコンクリートの壁をつたって、僕についてきてくれる。斜面には規則正しい凹凸があってそれが暗闇ではかえって歩きづらかった。もともと敏捷とはいいがたい僕はよろよろと、それでも意地みたいに岸まで降りた。
「……」
降りきると、情けないことに息がすっかり切れてしまっていた。大樹が笑いながら少し休みましょうか、と岸に腰をおろした。僕は底知れぬ闇をたたえている川に足を投げだす気になれなくて、小学生のように膝を抱えて座った。
「……」
「……」
二人して座ってぼーっとしているうちに、涙が出てきた。
大樹がめざとく見咎める。
「泣いてるんですか?」
「――あー、なんか動いたらさっきのビールがまわってきたみたい」
僕は、嘘をついた。
あの日の僕らも、こうして夜の川を眺めていた。
僕ら。
僕と、隆史。
「……」
「……」
僕の嘘に気づいたのか、気づかなかったのか、大樹は何も言わず何も聞かず、僕の気の済むまで一緒に河原に座っていてくれた。
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