蛍火
@chotchatcat
第1話 終わり。
「あ、螢……?」
――螢を見たのはそのときが初めてだった。螢は意外なほどはっきりとした碧色の光を放ちながら、不規則な軌跡を青白く闇に記していた。
それを目で追う僕らの繋いだ手と手は緊張に少し汗ばんでいた。
「……」
「……」
あの夏、群舞する螢のかげで、僕らは消え入るようなキスをした。
下校する生徒達が西日黄昏色に染まる校庭をつっきっていく。
衣替えしたばかりの紺のブレザーの背中はどれも同じようにみえる。ただ、男子と女子とはズボン、スカートの違いでかろうじて見分けることができた。
「……」
僕は四階の教室の窓辺で、そんなふうにたくさんの背中から実に正確にある一人の後ろ姿をさがしあてていた。
「……」
隆史。
あの背中は隆史だ。隆史はいつだって背筋をぴんと伸ばしてまっすぐに歩いていく。
「――そうやって見送るくらいなら一緒に帰ればいいのに」
さっきまで本を読んでいた斉野がいつのまにか側に来てつぶやく。
斎野も僕と同じように放課後よく教室に残っている一人だ。僕には僕の帰りたくない理由があるように斎野にも斎野の帰りたくない理由があった。ただし、僕たちは決してお互いのそれに触れようとしなかった。
「――宮原は、川野のこと好きなんだろ」
「……うん」
斎野は僕と隆史が恋愛関係にあることを知っていた。おぼろにではあるが、プラトニックでないことにも気づいていだと思う。それでも斎野は嫌悪や驚愕を示さなかった。それは斎野がいい奴であるとかそういう以前に(もっとも斎野は実際のところいい奴ではあったが)、彼が彼自身抱えている問題に手一杯で僕らのことにまで余計な気を割いている余裕がなかったせいといえる。義父とか義妹とか。そんな単語だけが残酷な好奇心とともに一人歩きしていた。そんなわけで僕は僕で斎野の事情をなんとなく知っていた。
「好きだからこそもう一緒にいたくないってこともあるんだよ……」
「ふうん。そんなもんかね」
斎野はわかったようなわからないような無表情で頬杖をついた。宿直の先生が追い出しに来るまではまだ少し教室にいられる。斎野はいつものように広げていた本に目を落とした。たいしておもしろくもなさそうに字面を追いはじめる。僕は再び、日暮れて薄闇に覆われている校庭に目を落とした。
もう、隆史の姿は見えない。
「……ただいま」
玄関に踏み込むや否や、台所から母さんの声がとんでくる。
「ゆづるー。隆史ちゃん来てるわよー」
「……うん」
のろのろと靴を脱ぐ。隆史はいつものように僕の部屋で待っているのだろう。そして僕がドアを開けると、
「ん……っ」
――キス。
隆史のキスは嵐だ。僕を巻き込むようにして激しく求める。僕は息もつけなくてただなすがままになってしまう。
「……」
いつから隆史はこんなふうに奪うようなキスをするようになったんだろう?
「……」
「……」
隆史がゆっくり離れた。僕の反応を確かめるみたいにじっと目を凝らしている。隆史の瞳は濡れた黒曜石みたいだ。光が入るとものの像がなまめかしく映る。今その瞳には、呆けて立ち尽くす僕のだらしのないが映っていた。
「……おかえり」
隆史は低くつぶやいた。僕の反応に満足したのだろうか。わからない。
「……夕飯食ってくだろ?」
僕は平静なふうを装いそんなことを言って、実に一方的に気まずさを取り繕った。
隆史はただ短く頷いた。
「隆史ちゃんはよく食べるから小母さん、作りがいがあるわあ。弓弦ったら男の子なのに食が細いんだもの」
「だからチビでやせっぽちなのよ」
わかったような口を利いているのは妹の梓だ。まったく僕の妹らしくなく、この春から通い始めたばかりの高校ではすでに弓道部女子部の期待のエースの座に君臨したとかでなんとも勇ましい限りだ。
「隆史ちゃん、あとで宿題見てよ」
よく食べて、よく笑う。特に隆史がいるときは、元気と明るさという自分のチャームポイントを心得て見せつけてるみたいだ。
「――いいよ」
隆史は梓に応えながらちらり、と僕を見た。あの瞳が、僕を射抜く。
ソレデモ、行クカラ。
僕は躰の芯がじんと火照るような感覚にいたたまれなくなって、もぞもぞと身じろぎした。
「……ごちそうさま」
「あら、弓弦、もういいの?」
「言ってるそばからお残ししてるし」
梓が僕の残したトマトをひょい、とつまみあげる。
「これ、お行儀の悪い」
肩をすくめる仕草。梓にはそんなふうに茶目っ気があるから母さんも本気になっては叱れない。まったく梓はしかたがないわねえ、なんて苦笑しているだけだ。隆史も可愛い妹を見守るような笑顔を浮かべている。こんなとき、僕は梓に嫉妬する。僕には母さんを微笑ませることはできないし、隆史にあんな暖かい安らいだ表情をさせることもできない。僕が隆史にさせる表情といえば、追い詰めたか追い詰められたか、その二つに一つしかなかった。
そして隆史は僕を抱く。
「……」
僕を抱こうとする隆史の表情は獲物を追い詰めた獣の表情だ。
飢えている、ケモノケダモノ。
「……」
夕食後、隆史は梓につかまって結局宿題ばかりでなく他愛もないお喋りにつきあわされることになった。これはいつものこと。じきに父さんが帰ってくると、今度は母さんともども、もちろん梓も交えて食後のデザートをつまみながらリビングで他愛もないお喋りをすることになった。これもいつものこと。そして僕はといえば二階にある自分の部屋のベッドで階下から洩れ聞こえる楽しそうな談話を遠く聞いていた。これもまたいつものこと。
そしてそのうちトントンという規則正しい足音と、跳ねるような足音とが二階にあがってくる。
「弓弦に聴かせてもらう約束をしていたCDがあるんだ」
梓が不満げな声を挙げる。また自分の部屋でお喋りとしけこみたかったらしい。ああ、そう。梓は隆史が好きなんだ。ただ、隆史のちょっとした視線に躰を火照らせることなんかはない――僕みたいに。
「またね、梓ちゃん……弓弦、入るぞ」
隆史が扉を開けて、廊下の光が射し込む。僕は相変わらずベッドにうずくまっていた。
僕には何かをしているということがほとんどない。ただベッドにうずくまってぼんやりとしていることが多い。たまには本当に眠っていることもある。でもたいていは眠ってさえいなくて、ただ道ばたの石ころみたいにそこにあるだけだった。英作文でいうならbe動詞だけでその後がない。そんなわけで僕の部屋のあらゆるものはほとんど使われることがなかった。椅子や机やコンポ、そして電気さえも。ブラインドは昼夜を問わずいつも下りたまま開いていて、陽光やら往来の外灯の光やらが縞模様にぼんやりと室内の輪郭をうかびあがらせていた。
隆史は僕の部屋に踏み込むと、まず言葉通り、コンポにCDをかけた。約束なんてしていなかった。隆史にしてみてもCDはその辺にあったものを適当にかけたに違いなかった。スピーカーからは単調なピアノの音が流れだしていた。僕が最近気に入っていた映画音楽だった。隆史はそれから窓に向かって、ブラインドを閉めた。カシャッ、とウィングが重なる音に僕は身を竦ませる。それは隆史が僕を抱くという合図でもあった。
「――弓弦」
隆史の手が僕をさぐる。
弓弦、弓弦、とせつなげな声が低く響く。
そして僕は隆史に抱かれる。
抱かれながら悲しいと思う。
僕を抱こうとする隆史の表情は獲物を追い詰めた獣の表情だけれども、僕を抱いている隆史の表情は獣に追い詰められた獲物の表情だからだった。
……僕らの恋はそんなふうに悲しい。
放課後。
「弓弦いるか?」
隆史は結構な近眼で、そのくせ眼鏡が嫌いだったから、捜し物をしているときはいつも怒ったように顔をしかめていた。
「……もう帰ったよ」
斎野が機械的に応える。
もう習慣化してしまったやりとり。
隆史は一瞬、何かもの言いたげにしたけれども思い直したように首を振ると邪魔したな、とつぶやき身を翻した。
「……」
「……」
あの規則正しい足音が遠ざかっていく。それをすっかり聞いてから僕はのそのそと教卓の下から這いだした。
そして、定位置。
アルミサッシの窓枠に腰掛けて校庭を見下ろす。
――隆史をさがす。
「あのなあ」
ふいに、斎野が言った。本に向かう姿勢のまま窓辺の僕に声を投げる。
「わざわざ言わんでもわかってるんだろうけど川野は宮原がここで待ってることを知ってて、しかも待ってるくせに居留守をつかうことまでわかってて毎日毎日お出迎えにくるわけだ」
「……」
僕のどこかがズキズキ痛む。
「愛されてんなあ」
僕は胸をしめつける痛みのかたまりを吐き出すみたいに息をついた。
「……うん」
僕は自分の考えをまとめるのが苦手で、ましてや弁のたつほうではないので、斎野にも隆史にも、何より自分自身にも自分の行動の理由を説明できなかった。ただ言えることは、相変わらず僕は隆史が好きで、その感情は悪意のある植物のように僕の中に深く根を張ってくいこんでいた。
「もう、会わない」
――それなのに、高校卒業の早春、僕は隆史に別れを告げた。
「弓弦……?」
いつもみたいに隆史は僕を抱き、僕は隆史に抱かれた後で、僕らは裸のまま抱きあって窮屈なシングルベッドの上で折り重なっていた。
「…東京の大学に行くことにした…私立だけど父さんも母さんもいいって言ってくれてるし。たぶんもう帰ってこない…」
「――そうか」
僕がもう家に戻らないというのはちっとも意外なことではなかった。物心ついた頃から僕ひとりはどうにもこの家族に馴染めなくて、遅かれ早かれ僕はこの家を出て行くべきだった。血だけでは補えない溝というものが歴然とそこにはあったからだ。
「で、『もう会わない』って?おじさんやおばさんや梓ちゃんにか?」
たぶん隆史は僕の言いたかったことを知っていてわざと聞き返した。臆病な僕がくじけてしまうのを見越して。
でも、僕はその日、いつもの僕らしからぬ強さで意志を曲げなかった。
「ううん、……隆史に」
でも、さすがに隆史のあの瞳を見ることはできなかった。
あの瞳、まっすぐな瞳。
僕は隆史の裸の胸の中で小さくくりかえした。
「……隆史に、もう会わない」
そして隆史は僕を抱いた。
怒りも悲しみもなく、ひとつの儀式のように僕を抱いた。
抱かれているとき、一瞬隆史と瞳があった。
「――」
「――」
その一瞬でわかってしまった。
隆史もまた、こんな終わりを予期していたのだ。
僕らの恋はこんなふうに終わるしかないと気づいてしまっていたのだ。
「……宮原ぁ、第二ボタンどうした?」
卒業式後の放課後さえ僕と斎野は教室に残っていた。
黒板には、〈PM七〇〇 駅前時計広場に私服で集合 卒コン!〉とあり、その周りに最後の一言と称してたくさんのメッセージが色とりどりのチョークで書きなぐられている。
「――ん?」
「……おまえ、またもや人のハナシ聞いてなかったな。ボタンだよ、第二ボタン。どうした?」
「どうしたって……ここにあるけど?」
自分のブレザーの前を見る。高校三年間、仕立て直しもしなかったブレザーはだいぶくたびれていた。アイロンをあてた跡がつるつると光ってしまっている。
「おまえ、寂しいヤツだなー」
あきれたように笑う。
「?」
「よくある風習だよ。ほら、好きな先輩の第二ボタンを後輩がもらいうけるってやつ」
「……ああ」
思いつきもしなかった。僕からはとてつもなく遠い世界のおだ。
だいたい僕はその前日の夜、隆史と別れたばかりで、未練たらしく傷心をひきずっていたりなんかしたのだ。
「――よ」
「えっ、わっ」
視界が真っ暗になった。と、同時に前身ごろがひっぱられてプチ、とボタンがちぎりとられた。
「い、斎野――?」
僕にかぶせられたのは斎野のブレザーで、僕のブレザーから引きちぎられたのは第二ボタンだった。
「……」
ようやくブレザーからはいだしたときには斎野は教室から出ていってしまっていた。出ていきがけに、何か言っていたような気がしたけれども、よく聞き取れなかった。
「……」
西日黄昏色に校舎が染まっている。僕のとどっこいにくたびれた斎野のブレザーのボタンも鈍く西日を映していた。
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