3
暗い廊下を歩いている。
研究員の先導で廊下を往くと、少し進むたびに、壁に等間隔で設置されたランプが点灯する仕掛けで、節電のためだろうか、後方のランプは僕たちが通り過ぎるとすぐに消えていった。遠くからこの光景を見たら、巨大生物の腸の中を蛍が飲み込まれていくようにも見えるのだろうか。そんな妄想をしていると、こちらを見ないままで、おもむろに研究員は言を発した。
「機関は、同一時間に同一人物が二人存在することを良しとしていません」
「機関?」
タイムマシンを管理しているのは政府機関であるからからそのことだろうか。
男はその質問を無視して続けた。
「D•A•A理論の説明をしましょうか。一本の糸を想像してください。貴殿が生きている時間軸を意味する一本の数直線です。この糸の両端を持って、ぴんと張ったのが通常の状態、タイムマシンによる介入はありません。ここで、糸の中心のあたりを両手で持って、その指を近づけてみましょう」
こつ、こつと靴の音が響く。この廊下はいつまで続いているのだろうか。
「——ひとつの輪ができたと思います。例えるなら、一回転するジェットコースターのような輪っかです。ここで注意すべき点は、我々がその糸を断ち切る方法を思いついていない、ということです。創作であるような、過去の一時点に瞬間移動するということができないのです。結論、タイムマシンで過去に行くには、その分だけ時を逆走する必要があります」
白衣の背中をずっと見つめているせいで、だんだんその白が遠くなったり、近くなったりして見えた。同時に服が皺を作る様や、裾の揺れる様子が速くなったり、遅くなったりして見えたので、僕は眩暈がして、一度目を閉じ息を吸った。何度深呼吸をしても、目一杯吸った気がしない。
「人類は座標軸を切断できない。これは空間的な座標軸に置き換えた方が解りやすいかもしれません。その場合、物体が瞬間移動してしまいますからね。——糸の話に戻しましょう。一番重要なのは、手で輪っかを作った状態では、糸の両端が自立性を失ってしまうという点です。これは時間軸でも同じ論理が適用できて、現に過去に戻った人間固有の時間軸の両端、つまり幼少期と高齢期において、時間が不安定な挙動を示すことが確認されています」
「そして、我々としてもそれは望ましくありません」
我々。頭痛と倦怠感の正体は、この響きが持つ不透明な構造に違いないと確信した。
「そこで考案されたのが、立候補した研究員数名をタイムマシンに乗せ、その他の人間に関しては精神記憶のデータを過去に送信し、『過去の本人』の脳に記憶を移植する、という方法です」
つまり一部の研究員以外は記憶だけが擬制的にタイムスリップするということらしい。
「自意識のイニシアチブはどうなるんですか。その理論だと、自意識を持った人間が二人存在することになりますが」
「当然の疑問です。しかしもちろんこれに関しても、我々は解決策を用意しています。簡単にいうと、二人の人間に同じ記憶をインストールした場合、自意識のイニシアチブは両方の人間に現れます。例えていうならひとつのコントローラーでふたりの人間を操作しているようなものです。別の時間軸でふたりが同時に同じ動きをするので、周りからは奇妙に見えますね」
僕はとあるパズルゲームのことを思い出していた。そのゲームの場合ではひとつのコントローラーを用いて同時にふたりを操作する。では、片方を犠牲にしてゴールする必要があった。
「さて、そろそろ移動は終わりです」
研究員はそういうと立ち止まった。靴の音が止まり、僕の耳には直に鼓動する心臓の音が聞こえている。両脚にはそれなりの疲れがじんわり染みていた。
研究員は振り向いてこちらを見た。それはこの廊下を歩き始めて初めてのことで、彼のおでこに汗が光っていて、その紋様を見ていると何故か心が落ち着いてきた。
「ここからはご自分でお歩きください。私の案内はここまでです」
そういうと、廊下の先をの闇へ僕を促した。遠目に、厳重そうな鉄の扉が見える。妖しい雰囲気が立ち昇っていて、研究員はここまでしか案内できないというより、ここまでしか近づけないのだ、というような雰囲気がしていた。
僕は頷くと、扉に向かって歩き出した。
「最後に、疑うようなら言っておきますが」
離れていくその言葉を、僕は背中で受けていた。
「私は未来の貴殿ではありませんよ」
鉄のドアは変わらず大きかったが、もう大きさは変わらなかった。
僕は息を吸って、吐いた。
振り返らないで聞いている 木谷 @xenon_xenon
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