売られた花嫁(その16)
木下社長は、マンション3階の半分のスペースの3LDKを贅沢に使っていた。
玄関を入ってすぐの廊下の右手が広い居間で、その先にさらに部屋があるようだった。
シャギーな絨毯を敷き詰めた居間のソファーで、忠実な犬のようにかしこまって待つと、花柄のカップになみなみと注いだコーヒーをガラスのテーブルに置いた夫人は、L字のソファーの左端に座った。
・・・気まずい沈黙が流れた。
ひとと会って話すのが苦手なうえに、知的でエレガントな雰囲気を漂わす美女に隣に座られては、頬が上気して何のことばも発することができなかった。
それに火事騒ぎだ。
「主人に頼まれて探偵ごっこですか?」
夫人は、柔らかくことばを投げかけた。
「ごっこ」と言われるのはつらかったが、夫人はすべてお見通しのようだった。
「はい、・・・しょせん、素人探偵です」
自虐のことばなら、すらすらと口にできるのが不思議だ。
木下社長は、奥さんがじぶんを尾行しているのを知っていて、さらにその奥さんを素人探偵が尾行していることを隠そうとはしなかった。
・・・だから、安く使える学生アルバイトでよかったのだ。
だが、少し腹も立った。
「等々力で何があったのです?」
と勇気を出してたずねた。
夫人は、眉根に皺を寄せ、からだを固くした。
長く沈黙していたが、
「お屋敷に呼ばれて行ったら、先生は縛られて床に転がっていました。そこへ突然炎が上がり、恐ろしくなって逃げ出しました」
とっくに用意していたであろう答えを、夫人はすらすらと口にした。
事実はそういうことなのだろうが、それだけでは何の説明にもならない。
こっちが学生アルバイトだと軽く見て、夫人はほんとうのことを言おうとはしない。
・・・だが、それ以上何をたずねようというのか?
携帯を取り出して、犯罪ニュースをチェックした。
『等々力で火事。半焼で消し止めたが、この家の主らしい老人の焼死体を発見』
と一行で火事の情報を流していた。
「あのお屋敷の火事で、ひとが死んだようです」
携帯の画面を向けると、夫人は寒気を感じたように両腕でからだを抱きすくめた。
「今から、警察に届け出ますか?」
ひとを見くびった仕返しに、夫人をいたぶってやろうという気がどこかにあった。
唇を噛んだ夫人は、俯いて黙り込んだ。
「・・・もっとも、届け出なくとも、警察は明日にでもここへやって来ます。あのお屋敷の通りには防犯カメラが設置されているはずです。奥さんが、屋敷に入ったのも出たのも、私が車に乗せてここまでやって来たのも、通りのビデオカメラにすべて記録されています」
この部屋に入って、見え見えの尾行の話をした時のおだやかな雰囲気は、今ではすっかり消え失せ、とげとげしいものになっていた。
「木下社長に、奥さんの行動をリアルタイムで報告することになっています。どうされます?」
・・・今では、こっちが、この年上の美しい女性を支配していると思った。
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