売られた花嫁(その10)

目黒の権之助坂をだらだらと下った先を左に折れてすぐの、白亜のマンションの5階が、木下社長の住まいだった。

マンションの前の通りは駐禁だったが、夜間は取り締まりはきびしくなさそうだったので、マンションの斜め向かいの神社の手前に車を停めた。

木下社長と夫人は、それぞれの携帯にお互いのGPS位置情報アプリを入れていた。

お互いがお互いを信用していないのか、それだけ相手のことを気にかけているのか、それは分からない。

だが、じぶんの携帯にも同じアプリを入れたので、夫婦の所在は手に取るように分かった。

20時ごろ、木下社長のGPSポインターは銀座あたりにあった。

たしか、社長は銀座で接待のあと、今夜は新宿で飲むと秘書が伝えてきた。

木下社長が動くまで、まだ時間がありそうだったので、近くのファストフード店で買ったハンバーガーを車の中でかじった。

21時過ぎにm木下社長のポインターが、銀座から新宿方向へ動いた。

夫人のGPSポインターに動きはなかった。

ところが、30分ほどすると、黒いワンピースに黒いカーディガンを羽織った夫人らしき女があたふたとエントランスを出て来た。

夫人は、ちょうどやって来たタクシーを手をあげて止め、乗り込んだ。

あわてて、オンボロ車をUターンさせ、タクシーのあとを追った。

タクシーは恵比寿、代々木を抜けて新宿へ向かった。

木下社長のGPSポインターは新宿で動かなくなったが、夫人のポインターは目黒から動かない。

・・・携帯を自宅に忘れたのか、それとも意図的に置いてきたのか?

木下社長に言われたように、夫人がマンションを出て新宿方面に向かっているとメールを入れたが、社長の携帯アプリは既読にはならず、返信もなかった。

夫人の乗ったタクシーは歌舞伎町のセンター街の入り口で止まり、夫人はタクシーを降りた。

侵入禁止ではないので、センター街を徐行で進み、目の前を急ぎ足で歩く夫人のあとを追った。

ビル全部にレストランやバーやクラブが入る大きな雑居ビルの入口に立ち、流れるようなネオンの光を浴びながら、夫人は店の看板をひつひとつ確かめていた。

その風俗ビルの真向いのファストフードの店の前のテーブルにいったん腰を下した夫人は、店内に入ってハンバーガーとコーヒーを手にしてテーブルに座り、ビーズのハンドバッグから大きなサングラスを出してかけた。

どう見ても歌舞伎町の女ではなく、山の手の品のよい若奥さまにしか見えなかった。

・・・時刻は23時。

木下社長にメールを入れると、今度はすぐに既読になり、

「ご苦労さん。帰っていいよ」

と返事があった。

車を近くの駐車場に入れ、可不可を連れて同じファストフードの店に入り、夫人の背中が見える席を確保して、今夜二つ目のハンバーガーをかじった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る