094 もう先延ばしはしない ―アイリスside―

 あれこれ紙に書き出して行くと、溜まってたな、とアイリスは苦笑するしかない。ここまでペンが軽快に進んだのは初めてではないだろうか。

 しかし、おかげで気持ちの整理が出来た。


 旦那のヘンリーは不在勝ちで生活費をロクにくれず、嫁だからと仕事は増やしても安い給料のまま、こき使う。

 アイリスは気持ちの余裕がなかったので、突き詰めて考えたことはなかったが、給料の査定をしているのも出すのも会頭である義父。

 これも『嫁イビリ』だったのでは。


 道理で時々、従業員たちに気の毒そうな目で見られていたワケだ。

 ヘンリーが不在勝ちだからかと…いや、それもあるだろうが、色々と理由はあったワケだ。


 ちなみに、アイリスが他の従業員の給料を知っているのは、従業員の一人が欲しい物があって、どのぐらい貯蓄してどのぐらい月に使っているのか、というやりくりの話で、お互い見せ合ったからだ。

 給料の件もヘンリーに言おうと思っていたのに、中々いないので言い難くなり…というパターンだった。



 もう先延ばしにはしない、思い立ったが吉日、とアイリスはすぐに義両親を夕食に誘い、夕食後に「仕事を辞めて旅に出たい」と話した。

 アイリスが色々とどう言われているのか、どう思っているのかも話して。

 最初は「またまた~」と全然本気にしてなかった義両親だが、次第に顔色が悪くなって来た。


「…アイリスちゃんを放って置き過ぎだとはわたしも思ってたのよ…。ヘンリーにも何度も言ったのだけれど…」


 女同士、気持ちが分かったのか、義母も働きかけてくれていたらしい。

 それでもヘンリーは変わらなかったということか。


「それにしても、あなたっ!アイリスちゃんをそんな安い給料でこき使ってたとは思わなかったわっ!」


 義母は関知してないことだったらしい。


「いや、でも、アイリスは若くて可愛いし、あまり金を持たせると、ヘンリーなんか捨ててどこかに…」


「やり方が酷いのよっ!もうっもうっ!若いアイリスちゃんが全然服や雑貨を買わないと思ってたらっ!買わないじゃなくて、買えないんじゃない!ヘンリーも生活費をロクに渡してないなんて……ああ、もう、そっくりなバカ親子……」


 怒り過ぎて血圧が上がり、具合を悪くした義母の背中をアイリスがさすった。


「退職金に今までの不足分をプラスするのなら、兄には黙っていますが、どうします?」


「お、脅すのか?今までよくして…」


「よくしてないからダメなんでしょ!…ごめんなさい、アイリスちゃん。わたしも気付かなくて」


「お義母さんが謝ることではないです。わたしを飼い殺しにしたかったのはお義父さん…いえ、会頭でしたし。兄はかなり賢いですから、もう色々と察していると思いますよ。幸せに暮らしている妹には、金目のものや護身用のあれこれを内緒で渡しませんから」


「…………」


 義父…カーデナル商会会頭は大きく目を開いて、何か言いかけたが、何も言えなかった。

 言質を与えるとマズイ、とでも考えたのだろう。

 会頭だけに、呑気に見えてしたたか、ということか。


「退職金は商業ギルドのわたしの口座に入れて下さい」


 アイリスは会頭に言うとこの家の鍵を出して、義母に渡した。


「この家はヘンリー名義ですが、わたしまでいないと荒れるだけでしょうから管理してあげて下さい」


 ふふっ…とアイリスは思わず笑ってしまった。気付いてしまえば、もう笑うしかなかった。


「わたし、限界だと自覚するより先にやたらと荷物整理をするクセが付いてて、改めて荷物をまとめる必要もないんですよ。そこまで荷物もありませんけどね」


 兄に旅行に誘われた後、マジックバッグも通信収納バングルもあるので、必要な物は既に収納済み。後は普段の着替えを入れるだけでいい。

 おかげで、二ヶ月ぐらい前に、キーラの街の温泉に連れて行ってもらった時も旅行荷物をまとめるのがかなり楽だった。

 二ヶ月後の今はもっと家の中がすっきりしている。ヘンリーも義両親も気付かなかったようだが。


 そもそも、アイリスと兄の瞳の色と同じエメラルドグリーンの石が付いた銀色のバングル(通信収納バングル)を左手首に着けていても、気付いていたのかどうか、だ。

 いくら、長袖を着ているとはいえ、少し暑くなる日も多いので袖をまくっていた時もあったのに。

 まぁ、詮索され過ぎても困るが、無関心過ぎないか。


「い、今すぐに出て行くつもりなの?」


 アイリスが自室に着替えを取りに行くと、義母が追いかけて来ていた。


「はい。先延ばしにしても、まるでいいことなんてないと思い知りましたから。

 …わたし、早くに両親を亡くしたので、お義母さんたちと一緒にいるのは本当に楽しかったんですよ。もやもやすることがあっても見ないフリをしていたぐらいには。会頭がしたことは酷いですが、嫌いにはなれません。甘いんですかね、わたし」


「アイリスちゃん…」


 義母の目がどんどん潤んで来る。

 今更、スッキリし過ぎた室内に気付いたのかもしれない。


「湿っぽいのは勘弁して下さい。兄に連れて行ってもらってヘンリーとも話し合います。離婚するかどうかは分かりませんが、どうなるにしろ、お義母さんとはいい関係を続けて行きたいです。どこかに落ち着いたら手紙を書きますから」


 手早く収納したアイリスは、さっさと部屋を出ると、リビングのソファーに呆けたように座っていた会頭に声をかける。


「では、これで。退職金の件、頼みますね。遅いのなら取り立てに来ます。兄と一緒に」


「待て!待ってくれ!何もこんな夜にすぐ出て行かなくても…」


「ご心配なく。外に兄が迎えに来てますから」


 兄からとっくに到着したという連絡はもらっていた。念話通話で連絡を取っていたのである。

 アイリスが外に出ると、兄はホッとしていた。泣くと思っていたのかもしれない。

 ほとんどが無表情な兄だが、さすがに妹なので少しの違いで感情が分かる。

 

「忘れ物はないか?」


「大丈夫。言いたいことは全部言ったし」


 慌てて外に出て来た義両親に、アイリスは笑って手を振って見せる。

 兄はアイリスの手を取り、右手でアイリスの目を塞ぐと、さっさと影転移した。



 目を塞いだのはめまい対策のようだ。気付けば、どこかの宿の室内にいた。


「え、もう?」


「ああ。影転移は二回でよかった。…お疲れさん」


「いや、全然疲れてないから


「話し合いが決裂したんじゃないのか?」


「新事実が判明しただけだよ。お兄ちゃんが怒りそうだから詳細は今度。ヘンリーと話し合ってからね。スールヤの街の南、馬車で三日のイルーオの街に行ってるんで、明日、連れて行って欲しい」


「分かった。行ったばかり?」


「二日前に。明日の夕方に着くかどうかって所」


「なら、明後日でもよくないか?初めて行く場所でも気配探知で、ヘンリーさんがどこにいるか分かるぞ」


「先延ばしはよくないと学習したので」


「それもそうか。まぁ、まずは温泉を楽しもうか」


「賛成!」


 そうだ。

 ここはもうキーラの街の温泉宿なのだ!

 テンションが上がって来たアイリスは、いそいそとバッグから着替えを出してバングルのマジック収納に移した。

 そうじゃないと【チェンジ】で個別に出せないのだ。


 大浴場の温泉はやはり素晴らしいもので、もやもやしていたものも今しばらくは忘れていられるような気がした。




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新作☆「番外編58 新しい風を運ぶさすらいの修理屋」

https://kakuyomu.jp/works/16817330656939142104/episodes/16818093082087156009

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