095 色々とマヒしてたけど、とっくに冷めてたわ ―アイリスside―

「…ええっ?若奥様っ?」


「に、似てるだけじゃ…」


「いや、こんなに鮮やかな緑の眼の女の子…女の人は他にいないだろ」


 既婚者に女の子呼ばわりはないが、アイリスも兄のエアと同様、成人(十五歳)しているかどうか、ぐらいに見える。


「そう、本人よ。まぁねぇ。これだけ不在勝ちでヘンリーも男だからを買うこともあるとは思ってたけど、街に着いて早々ってのはどうなのよ?しかも、かなり馴染みな感じだったよね?そこら辺のこと、教えて欲しいなぁ。お兄ちゃんにもね」


 ここは酒場兼売春宿である。

 エアが認識阻害アイテムをオンにし、ヘンリーが娼婦を買う所を見ていたアイリスだが、止めなかった。止めようとも思わなかった。

 買う金はどこから?といえば、生活費から、だろう。

 馴染みの従業員に話が訊きたかったので、ヘンリーが上の部屋に行った後、認識阻害をオフにして姿を見せたワケである。


「若奥様は意外と商売女なら許容派、だったんですか?」


「質問してるのはこっちよ。で?」


「…口止めされていました。あの女とヘンリーはもう数年のつき合いで、結構、貢いでます」


「『好きに使っていい』って若奥様が言ってくれるから問題ないって言ってましたが…やっぱり、嘘ですよね?」


「当然よ。生活費もロクにくれなかったし」


「へぇ?」


 低く相槌を打つ兄が怖い。

 しまった!ついうっかり言ってしまった。


「ええっ?若奥様、給料も平店員以下じゃないです?」


 ヘンリーがそれなりに生活費を渡しているから、大丈夫だと思っていたらしい。


「そこ、もっと詳しく」


 兄が淡々と促した。


「あーええっと、会頭が、ですね。身内なんだから働いて当たり前っていう仕事には厳しい人で…嫁イビリも入ってるかもしれませんが…」


「若奥様、誰よりも働いていたのに、入ったばかりの店員よりはマシってぐらいに給料が低くて…知った時には驚きました…」


「ヘンリーも加担してるのか?」


 さん付けで呼んでいたが、兄はもう敬称は付けたくないらしい。


「気付いてないんじゃないかと。安物のアクセサリーや服で喜んでる嫁は安上がり、とかは言ってましたが」


「い、言えなかったんですよ!会頭に雇われてる身ですし、クビになったら同業ではもう働けないですから!」


 アイリスと兄の冷たい視線に耐えられなかったかのように、従業員がそんな弁解をする。


「会頭にはヘンリーの行動を伝えてるんでしょ?…やっぱりね。『ヘンリーなんか捨てて』とか会頭が言ってたから、不在勝ち以外にも何か後ろ暗いことがあるとは思ってたのよ。安い給料なのは、どこにも行けないようわたしを留めたかった、みたいなこと言ってた」


「放って置き過ぎですしね…」


「…はっ!若奥様がここにいるってことは…」


「うん。その呼び方はもうやめて。義両親と話して仕事を辞めて家を出たの。離婚しようと思う。ダメね。色々マヒしてて気付かなかったけど、とっくに冷めてたわ。何とも思わないなんて自分でも思わなかった。今までは逃げ場がなかったから『まだ好き』だと思い込んでたのかもね」


「好きの反対は無関心、らしいぞ」


「そうなんだ。正に、だね。じゃ、明日、お役所で書類をもらって来て書いてもらおうっと。ヘンリーはお金がなさそうだから、もらえなかった生活費は会頭に出してもらうことにして」


「出る所に出れば、慰謝料も取れるぞ?証人もたくさんいるし」


 兄はアイリスを心配して調べていたらしい。スールヤの街はエアも数年は住んでたのだからツテもあるのだ。


「…裏付けを取ってたの?」


「多少、な。親切にも役所の書類一式も用意してくれてたりもして」


 ほら、と兄が書類を見せてくれた。


「…こうなると思って取って来たんじゃないの?」


 兄は賢いので。


「いや、本当におれじゃない。ヘンリーの後釜を狙ってる連中もいるんだよ」


「あーはいはい、あの辺りですね」


「何度か喧嘩になってても、ヘンリーは態度を改めなかったんで、余程、アイリスさんに好かれてる自信があったんじゃないですか。勘違いだったみたいですけど」


「あ、お兄さん、何か仕返しをするなら店は関係ない所でお願いします」


「別に何もするつもりはない。自業自得でしばらく噂の的だろうし、そんな時間すら無駄に思える。アイリスと楽しく旅する予定だしな」


「うん!さっさと書類提出してスッキリしないとね。協力してくれる?」


「いい酒奢るぞ」


「是非とも!」


「おれも協力します!」


 その夜は、少々高めの酒場に場所を移して、アイリスとエアは従業員たちと飲んだ。


 ******


 翌朝。

 従業員たちにも協力してもらったので、ヘンリーに離婚手続き書類を書かせるのは、至極簡単だった。


「不在勝ちで生活費も渡さず、身内だからと仕事を増やされても給料は入ったばかりの平社員並の安さ。しかも、周囲からは子供はまだまだ?と責められて、離婚したくなって当然ですって」


「え、あれだけ貢いでたんだから、本命はあっちじゃないんですか?」


「今更、何言ってるんですか。離婚したくないのなら、どうして、中々家に帰らなかったんです?仕事?おれたち従業員はどうしているんですかね?」


「自慢出来る若くて可愛くて働き者の嫁が欲しかっただけで、アイリスさんじゃなくても別によかったんじゃないです?」


「世間知らずな十五歳の少女なら、色々と誤魔化せたでしょうが、今はもう無理ですって」


 そんな風に従業員たちがヘンリーの反論を封じ、離婚手続き書類の見届け人欄にも進んでサインした。

 兄のエアからは凍るような冷たい視線を向けられ、女と一緒だったヘンリーを見ても平然としているアイリスに、ヘンリーももうダメだと諦めたのだろう。

 渋々だったが、ヘンリーはちゃんと書類にサインをした。

 すぐにミスがないよう不備がないよう、兄がざっと書類をチェックする。


「ああ、そうそう。今までヘンリーにもらった安物のアクセサリーや服や雑貨色々、手紙その他はぜーんぶ家にあるから。置いて来た時点で、わたし、離婚を決めてたみたい。色々とマヒし過ぎだったわ。残ってる物も全部いらないから処分して」


 思い出したのでアイリスはそう言っておいた。


「…え?ちょっと、ちょっと待ってくれ!アイリスはもう家には帰らないってことなのか?」


 ヘンリーは離婚を何だと思っているのだろう……。


「何言ってるの?そうじゃなければ、離婚しないよ。おかあ…会頭夫人に鍵は預けてあるから。…さて、お兄ちゃん、お役所に行きましょ」


「ああ。さっさと手続き完了してさっぱりスッキリと」


 アイリスが先に立って外に出ると、兄が追い付いて来て、すぐ物陰から影転移した。

 スールヤの街の役所で離婚手続き書類を提出すれば、離婚完了。


 約二年の結婚生活は、あっさりし過ぎた幕切れだった。


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