救われたために

三鹿ショート

救われたために

 彼女が学校に姿を見せることがなくなってから、二週間以上が経過した。

 交通事故に遭って入院しているのか、厄介な病気に罹患したために療養しているのかは不明である。

 いずれにしても、勤勉である彼女のために、欠席している間の授業の内容を伝えるべく、私は彼女の自宅へと向かった。

 呼び鈴を鳴らしたことで出てきた人間は、彼女だった。

 私が授業の内容を記録した筆記帳を渡すと、彼女は感謝の言葉を述べた。

 口元を緩めているその様子から、どうやら事故や病気の類で欠席していたわけではないようだ。

 私が安堵していると、不意に室内から怒鳴り声が聞こえてきた。

 私は驚きを隠せなかったが、彼女は怯えたように身体を震わせた。

 だが、努めて笑みを浮かべながら私に頭を下げると、家の中へと戻っていった。

 結局のところ、彼女の欠席の理由は不明だったが、先ほどの怒鳴り声が気になって仕方が無かった。


***


 私は知らなかったのだが、彼女には兄が存在するらしい。

 彼女とは異なり、出来はあまり良くないようだが、兄と妹の仲は良いという話だった。

 しかし、私はその話に納得することができなかった。

 先日の怒鳴り声は若いように聞こえたため、彼女の兄である可能性が高いからである。

 仲が良いとはいえ喧嘩もするだろうが、彼女の怯える様子や怒鳴り声から、一方的に攻撃されているのではないかと考えた。

 だが、そのことと彼女の欠席に関係があると断言することはできなかった。

 その学業成績から、彼女は順風満帆の人生を送るに違いなかったが、それを何かが邪魔をしているのならば、微力ながら助けになりたいと考えた。

 実力のある人間が相応の人生を送ることができないことほど、残酷なことはないからだ。


***


 呼び鈴を鳴らした私に応じた彼女の顔には、痣や傷が存在していた。

 何事かと問うたが、彼女は自身の傷のことに気が付いていないような態度を見せるばかりだった。

 そこで、私は先日の怒鳴り声と彼女の顔面の傷を繋げ、まさか兄に暴力を振るわれているのではないかと訊ねた。

 その言葉を耳にした瞬間、彼女は目を見開いたが、即座に首を横に振った。

 しかし、双眸から流れる涙を誤魔化すことはできなかった。


***


 居間に案内された私は、彼女から事情を聞かされた。

 私の推測の通り、彼女は兄に暴力を振るわれているらしい。

 その切っ掛けは、兄が妹を事故から救ったことだった。

 家族で外出している際に、彼女が自動車に轢かれそうになったため、兄は彼女を突き飛ばして難を逃れさせたが、自身が事故に巻き込まれてしまった。

 その結果、兄は片足を失うことになった。

 妹である彼女は感謝の言葉を毎日のように告げ、兄は気にすることはないと笑うばかりだった。

 日常生活に不便が生ずるようになることは明白だったが、兄が気を落とすことはなかった。

 だが、兄は自分が想像していた以上の過酷な日々を過ごすうちに、心が荒んでいったのである。

 家族に向かって物を投げ、暴言を吐く毎日だったが、中でも彼女に対する仕打ちは酷いものだった。

 それは、原因が彼女に存在すると考えていたためだろう。

 妹を部屋に呼び出すと、血液が流れ出るまで殴り、さらには性的欲求を満たそうとしたのである。

 殴られることは我慢することができるが、己の身体を捧げることに抵抗感を示すと、

「今生きていられるのは、誰の助けによるものなのか。私があのとき助けなければ、この世を去っていたことも考えられるのだ。ゆえに、その人生は私が与えたものであり、それをどう使おうと、私の自由である」

 そのようなことを告げられては、彼女も返す言葉が無かった。

 結局、彼女は幾度も兄に身体を捧げることになった。

 両親の前だとしても構うことなく、兄は欲望に身を任せていたのである。

 事情を語り終えると同時に、彼女は力なく笑った。

「あなたの気遣いには感謝していますが、おそらく私は今後も学校に行くことは出来ないでしょう。ゆえに、今後は此処に来る必要はありません」

 それは、己の人生を諦めた人間の言葉だった。

 私は、会ったこともない彼女の兄に対する怒りで、全身が燃えてしまいそうだった。

 勢いよく立ち上がると、話をするために、私は彼女の兄の部屋へ向かうことにした。

 後ろから彼女が制止するような声をかけてくるが、気にすることはない。

 上階の扉を一つずつ開けていき、やがて、彼女の兄の姿を目にした。

 好き勝手に生きている影響だろうか、その肉体は豚のように肥えている。

 見知らぬ人間の登場に目を丸くしていたが、私の背後に困惑した表情を浮かべた妹の姿が存在していたことから何かを察したのだろう、その顔を嫌悪感で満たした。

 彼女の兄が何かを言おうとしたが、それよりも前に、私は相手の首に手をかけた。

 苦悶の表情を浮かべる相手に対して、私は低い声を出した。

「かつて彼女を救ったのは、純粋に妹を助けようと考えたからではなかったのか。それを今では欲望の捌け口の口実に使うとは、醜悪にも程がある」

 反論しようとしたのか、彼女の兄は口を動かしているが、私が首に手をかけているためか、明確な言葉を吐くことは出来なかった。

 私は彼女の兄に対して、続けて言葉を放つ。

「同じような状況でも、精一杯に生きている人間も存在するのだ。他者に迷惑をかけるためだけの人生ならば、失われるべきは、そちらの人生ではないか」

 私は彼女の兄の一物を掴み、段々と力を込めながら、

「たとえ誰に救われようとも、彼女の人生は彼女のものである。それを阻害するのならば、事故で生命を失っていた方が良かったと思うようなことを、私が実行するまでだ。分かったか」

 そう告げると、彼女の兄は苦しげな表情のまま、何度も頷いた。

 解放すると、相手は目に涙を浮かべながら咳き込んだ。

 私がやるべきことは済んだために、私は彼女の家から出て行くことにした。

 困惑を隠すことができない様子だったが、すれ違い様に、彼女は感謝の言葉を吐いた。


***


 やがて、彼女は学校に姿を現すようになった。

 話を聞いたところ、彼女の兄は心を入れ替えたらしく、短時間だが近所の店で勤務するようになったらしい。

 私に会う度に、彼女は感謝の言葉を述べるようになった。

 正直に言えば鬱陶しいのだが、彼女が己の人生を再び歩むことができるようになったことを考えると、それくらいのことは我慢するべきだろう。

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