六月に回帰する秋からはまだ水の匂いがする

虚言挫折

六月に回帰する秋からはまだ水の匂いがする

喉がちぎられたようなか細い鳥の絶叫が遠くの山の向こうから聞こえる。僕は教室で一人、自分のノートを眺めている。真っ白な、正確にはあらかじめ印刷された罫線だけが整列しているノート。なんとなく、そうすればあのタイミングに浸ることができるような気がしているだけだ。血に浸かったような陽の光が暮れそうな教室を隙間なく満たしていく。影の黒は一層強く緋色を跳ね返している。冴えわたる空気の澄明を吸い込む。

彼女は戻らない。

多分、しかし確実に戻らない。

期待しているつもりではなくても、期待は生まれてしまうものだ。ノートを閉じてカバンにしまった。軽くなったのか重くなったのか判別もできないままでカバンを持ち上げて肩にかける。それから、椅子を机の下へ動かす。ぎい、と床と椅子の足が擦れる大きく甲高い音がして、椅子がつっかえる。人が誰もいなくてよかったと思った。しかしすぐ、誰かがいて笑い飛ばしてくれたらとも思った。

「ねえ、ルツキ君。週末のホールでの神話の講演会、一緒に来てよ。こういうの好きでしょ」

連絡事項の印刷されたプリントを乱雑に挟んだクリアファイルの中に、パンフレットが入っていたのを思い出す。僕は色々な感傷の幼子を抱え込んだまま教室を出た。帰路は遠かった。それが今日は幸いした。自分の頭の中をまとめるには、いくら時間があっても足りそうになかったからだ。夏の暑さは少し残ってアスファルトや金属のフェンスにこびりついていたが、きっと間もなくやってくる秋の嵐に流されてしまうはずだ。

校舎を出て校門へ向かう。夕日に似合わない色褪せた青の作業服を着た用務員さんに挨拶すると、にこやかに一礼された。部活動が終わるにはまだ早いが、単に下校するには遅い時間のせいか、校門までの道に僕以外の生徒の姿はない。

体育の先生に挨拶して学校を出る。目の前に横たわる広く平坦な道を右に曲がる。ラーメンのチェーン店の傍らを過ぎ、まともに使われていないであろう倉庫の前を過ぎる。

昔ながらの散髪屋のカラーバーが見えた。ここには店を営む夫婦と、その一人娘が住んでいるはずだ。別に髪を切ってほしいわけではなかったが、珍しく財布には余裕がある。髪を簡単に整えるというメニューもあるようだ。目的に対して時間が適切であることのほうが、僕にとっては重要だった。

吸い寄せられるようにドアを開ける。人はおらず、がらんとしていた。ドアの上端に取り付けられた鈴が鳴り、奥から女性が出てくる。ピンクのエプロンを身に着けた細身の女性だ。この人は僕のことをきっと覚えていないが、僕はこの人を覚えている。

にこやかに出迎えられて、ちょっとした居心地の悪さと違和感を抱えて椅子に座る僕の様子を伺いながら、女性は注文を聞く。髪を整えてほしいです、と告げると、笑いながら僕の首にタオルを巻く。想像よりも硬い指先が頭の皮膚に触れる。

「あの」

「はい。どうしましたか?」

少しだけはさみの音が聞こえた後、確認したいことがあって口を開く。

「娘さんは今どこにいるんですか?」

「娘?」

きょとんとして、一瞬だけシャンプーを用意する手を止めて僕のほうを見る。微妙な緊張感が僕に向けられていた。

「私たちに娘はいないけど…」

予想していた通りの返事だ。狼狽えているような恰好をして、内心では手ごたえを感じる。

「あ、すいません…違う人でした。雰囲気が似てるのでつい…」

また手が動き始める。その指先は不信から解き放たれて軽やかだった。

「そうでしたか。そういうことありますよね。雰囲気で間違えることとか…私もこの間、自分の家だと思ってドアをノックしたら、門構えの似た二つ隣の家だったんですよ」

散髪屋さんは笑顔で話を繋ぎ、僕の座っている椅子を倒して顔にタオルをかけた。一連の動きは見事で、流れるようだった。水の音とシャンプーの香りが漂ううちに、それ以外の会話が他愛もない内容で埋め尽くされた。僕は他人と会話を交わすことが苦痛だとは思わなかった。きっと彼女と話す前までは、もう少しぎこちない言葉を使いこなせもしないままでぐずぐず話してしまっていたはずだ。

すぐに整髪は終わった。時間もお金もそこまでかからなかった。背後からのあいさつにお辞儀を返して店を出る。風が強く吹き始めたら髪型は簡単に崩れてしまうだろうが、店の外に風は吹いていない。

コンビニの横を通り過ぎ、デパートの前にあるバス停まで来て立ち止まった。この方向にやってくる人はいたが、この方向が帰路の生徒は滅多にいないらしかった。デパートのさらに奥は、道路と、やたら平坦で広大な用途不明の土地があるだけで、水平線に張り付く掠れた山と、そこに突き刺さる送電塔が虚しい。

普段より一本後のバスが目の前で停まった。既に年老いていることが一目でわかる緑色で、体を震わせて黒い排気ガスを吐き、学校側からやってきた。痩せてやや猫背の、くたびれたブレザーに着られている学生だけがバス停にいたのを見つけて停車した。高い段差を登ると、右肩の荷物の重さを嫌でも意識しなければならない。バスの中には、花束を持った老婆一人と、新聞を読んでいる中年の男性一人しかいない。僕はこのまま終点まで向かうだけだ。後ろから二番目の座席に座る。

カバンを足元におろし、パンフレットを取り出す。大学生向けの講習も兼ねた講演だったが、メールで予約すれば一般人でも参加できるということが執拗にアピールされていた。

六月の部と八月の部があり、前者に参加した。最初は神話関係の講習によくある嘘くさい宗教関係者の集まりかとも思ったが、主催はホールの近くの国立大学だった。適度に退屈な講演であろうことがパンフレットを見ただけで推察できた。このホールには何回か足を運んだことがあるが、六月の時点では初めて入る場所だった。

僕を誘った張本人であるウタナシさんと行った。

一言でいえば、ウタナシさんは変わり者だった。どこかに属しているようなタイプではなく、かといって調和を欠いてまで行動しているわけでもなかった。

その点では僕と似ているかもしれなかった。僕は僕で誰か特定の人物と関わることを避けていた。高校を卒業すれば、友達だった人たちとは別れてきっと会わなくなる。その寂しさに耐えられない気がして、僕は一人でいることを選んだ。だからと言って、他の人が楽しそうにしているのを壊してしまうことも苦しかったので、声をかけられたら応じて、相手の気分を害さないくらいの反応は示した。

彼女が一人でいるのには、全く理由らしい理由がなかった。ウタナシさんが特異なのは、彼女のことが噂の種になっている状況を見たことがないということだった。僕ですらも、他に誰も提出していない任意の感想文を一万文字書いた時には流石に噂された。理由をもって一人でいる僕でもそういう行動をとるのに、彼女は理由らしい理由がなくても徹底して自分の行動を抑制していた。彼女は僕とは違うクラスにいたが、休み時間になると僕に会いに来た。一日のうち、学校で最も多く会話を交わした人物はウタナシさんだと断言できた。

最初のきっかけはもう覚えていない。でも、神話に関する話題だったことはノートに書いてあった。そのノートが今は白紙だ。彼女と一緒に、彼女の痕跡も消えてしまったようだ。彼女は存在しなかったことになっている。

最も印象に残っているのは、彼女がローマから見たガリア人とガリア人から見たガリア人に相違点があり、それらは矛盾しないと主張したことだ。

「例えばさ、瀕死のガリア人の石像があるでしょ?ほら、紀元前一世紀後半くらいに作られたあれ。あれは『ガリア人が野蛮』っていう先入観に基づいて作られたものだと思うの。でも、ガリア人の祭司の像は身なりも整ってるものがある。なんでこんなに違うんだろう?」

「価値観の違いじゃない?自分の味方のことはよく見せたい気持ちが働いたんじゃないかな」

僕の答えに、彼女は少し不服そうな表情を浮かべた。不服そうな表情なのに、普段より冷静で理知的に見えた。僕が瞬きをすると、ウタナシさんは一人で話し始めた。

「私はね、ローマとガリアが戦争をしていたことに起因していると思ってるの。戦争にドルイドや貴族階級の人は出てこないでしょ?つまり、身分の低い兵士とかが戦場に出てきてローマ人と戦っていたんだよ。ということは、ローマ人は身分の低い人たちの姿を見てたことになる。見えているものがただ違うんだと思ったんだ」

なぜこの会話が頭に残っているのか分からなかった。そういう会話はずっとしてきた気がしていた。嚙みしめるように彼女の表情を思い出す。思い出せること自体が不思議だった。

親しくなったとか、そういう気持ちで接したことはなかった。ウタナシさんはウタナシさんという絶対的な人でしかなく、僕との関係性は彼女の前では灰燼に等しかった。

ウタナシさんは何度か、神話が関係しない会話を試みた。僕もそれに応じた。そして、大体がつまらないままで終わった。無理をしてお互いの長所まで言い合おうとしたのに、会話に山場はとうとう来なかった。わざわざ長所を言語化したところで、お互いにとって目新しいことは何もない。

最も無茶なとき、自分たちは恋人同士であるという前提の下で会話を進めようとしたこともあったが、どちらも恋人がいた経験がないので、キューピッドの話題から、神話が歴史の一部と対応しているという説に関しての話にもつれ込んで終わった。ウタナシさんはこの説に肯定的で、神話はそれを信じる人たちにとって真実として考えられており、事実とは異なることであってもそれまでの歴史として神話を組み込んだ可能性はあると言った。僕は否定的だった。神話は事象の理由づけのために作られたもので、いわばルールであり、それは発生した出来事を記したものである歴史の性質と折り合いがつかないと思った。

結局この件はうやむやになった。だからと言ってウタナシさんが僕を嫌うようなことも、僕がウタナシさんを嫌うこともなかった。

それからすぐ、ウタナシさんは「話し足りない」とつぶやき始めるようになった。僕はあまりそう思わなかったが、言われてみるとまだまだ話すことは尽きないことに気づいた。

「私の頭の中の全部を君に話し終えるまでに、私たちは寿命を迎える可能性が高い」という暴論の中の暴論を振りかざすウタナシさんに負けて、僕たちは初めて学校の外で会うことになった。時間帯は夕方から夜の間、場所はデパート前を発つバスの終点から十分ほど歩いた大きな円形の公園。ウタナシさんが僕の家になるべく近づくことができて、かつ帰りやすい場所を選んだ結果だった。もちろん僕たちは部活動に所属していなかったので、下校時刻は簡単に揃えることができた。

校門前で彼女を待っていると、すぐに下駄箱にその姿が見えた。

「お待たせ。行こうか」

体に似合わない大きな黒いリュックを背負い、右手に図書室から借りたらしい古めかしい文庫本を持っている。

「その本は?」

「神話をベースにした小説。でも…あんまり、神話の考証がちゃんとしてなくて、みんな知ってるようなうわべだけ撫でたような…敢えて文献やモノを無視してるでもない、ただ物語に都合のいいものだけ選びとったみたいな話だったから、あんまり好きじゃない。だってほら、小説にとって都合のいいことばっかりが神話にあるわけじゃないでしょ?そういう苦悩が見えなくて、最後まで読んでも釈然としない」

彼女の評価は常に容赦なく公平で平等だった。そこまで言われると、大した作品でなくとも読んでみたくなる。

「ふーん…それ、図書室に返したら教えてよ。借りて読むから」

「うん。おすすめはできないけど」

僕たちは並んで校門を出てバス停に向かう。制服を着た姿は少ない。彼女と歩みを揃えて歩く。だんだん歩調が揃ったところで、バス停につく。

梅雨の最中だったが、今日は曇天程度に落ち着いている。夜になれば完全に晴れるらしい。天候に関しては僥倖としか言いようがない。僕もウタナシさんも、天気のことなんて考慮に入れていなかったからだ。

「天使の梯子だ」

ウタナシさんが空を見上げて呟いた。一筋の光が分厚く重い薄灰色を柔らかく切り裂いて遠景に降り注いでいた。そのまま雲が裂けて、そそくさと地平線の向こうに隠れた。これから訪れる夕暮れの前触れのような、元気のない太陽の黄色がぼんやりと地表を照らす。

「こんなにすぐに晴れることがあるんだ…」

僕が呟く。ウタナシさんは穏やかな表情で空を見ていた。目の奥が青く光を放った気がして、呆然と彼女の横顔を見ていた。僕の視線は気づかれないまま、バスがやってきた。いつもよりも鮮やかさが衰えているようにも見えた。財布の中の定期券を思い浮かべながらバスに乗り、彼女がそのあとに続く。母親らしき女性と、その娘と思われる五歳くらいの女の子が前から三番目の座席に静かに座っている。僕の右、窓側にウタナシさんが座る。

「ルツキ君は、多重現実ってわかる?」

「多重現実?」

座るなり問いかけられて、聞こえた言葉を跳ね返す。

「うん。極東神話にある概念で、基本的には並行世界みたいな考え方だと思ってくれればいいよ。多重現実という概念が並行世界と違うのは、現実が幾重にも重なる場合があるという点。ほら、エヴェレットの多世界解釈だと、世界は分岐してそのあとは二度と重なり合わないってことになってるでしょ。でも多重現実はそれぞれが交点を持つ場合がある。分かる?」

「んー、ぼんやりとなら」

ウタナシさんは僕の返答に不完全な理解を感じ取ったらしかった。少し不満げに僕に指示を出す。

「人差し指、出して」

圧に負けて、言われるままに人差し指を出す。ウタナシさんも自分の左手の人差し指を出す。

「この人差し指は、いくつもの現実を表してる。並行世界って言うのは、これが交わらないでこのまま存在してる。並行世界間を行き来することはあっても、世界そのものは交わらない。分岐して世界が分かれる場合は、君の手がくっついている。私の手も」

彼女が僕の両手に自分の白い左手を添える。

「多重現実は、この独立した現実そのものが交差するの」

僕は第二関節のあたりで人差し指をクロスさせる。彼女の細長い象牙のような指の腹がその交点に乗っかる。

「これ。これが多重現実。分かった?」

「うん。よくわかる」

僕の返事を聞いて、彼女は満足したように自分の手を自分の膝の上に置いた。表情がコロコロと変わる様子を見ると少し心が安らいだ。

「でもなんで今この話を?」

「公園で話したいことに関わってくるからだよ」

彼女の声は少し陰り、視線を自分の膝に置いた手の甲に向けていた。

「でも、神話の話とは少し違うから、がっかりさせちゃうかもしれない」

「そう?僕は楽しみだよ」

ウタナシさんは徐々に下がっていた顔をはっと上げて僕のほうを見た。彼女の背後で流れる街並みが、時々彼女の表情を照らす光を遮り、また輝きを与える。ゾートロープのようだ。次に光が射したとき、彼女の表情は穏やかで柔らかく、明るくなっていた。昼下がりの温い水面によく似ていた。

「本当に、君は優しいなあ…」

安心したようにふにゃふにゃと微笑み、つられて僕の口元も緩む。

「そうかな、そうでもないと思ってたけど…ありがとう」

バスが徐々に減速し、一瞬の黄昏が訪れようとしていた。終点だった。親子は随分手前の駅でバスを降りていたらしかった。

僕は定期券を運転手に見せた。彼女は財布からあらかじめ取りだしておいた小銭を運賃箱に投入した。

急なステップを足が離れてすぐ、バスのドアは閉まってロータリーを出ていく。

「このあたりの道ってわかる?」

彼女は僕に問いかける。事前に調べては来ているのだろうが、それでもなお道には不安が残っているようだった。

「分かるよ。帰るついでに公園に寄ったこともあるから」

梅雨が嘘であると思えるくらいに雲は命を落として、強い西日が僕たちの背後に影を産み落とす。

「私、結構道に迷うから、誰かの後ろについて歩くのが一番楽しいよ」

「知らなかった…方向音痴なの?」

「私はそうは思ってないんだけどね…知ってる道なら迷わないよ」

「それ、方向音痴ってやつじゃないの?」

「そんなことないよ」

彼女は膨れた。僕は反応に困って少し笑ってしまった。思いがけず、初めて他愛もない会話を交わしたことに内心では驚いていた。

背の低い民家と街路樹の並ぶ道を歩き続けると、すぐに公園についた。円形の平べったい広場で、地面は石のタイルで覆われ、遊具も何もない。縁に沿うようにベンチが並び、大きな時計の足元に赤い自動販売機が立っていた。

夕日が見えるベンチに僕たちは座った。驚くほど誰もここを通らなかった。この後予報されている天気を考えると、半袖では少し肌寒く感じるかもしれなかったが、西日が熱を運んでいたせいで暖かい。

「多重現実の話なんだけどさ」

ウタナシさんは話し始めた。

「現実が重なった時、確率的に起きる出来事が選ばれると思うんだ。例えば、Aという現実では雨が降ってるけど、Bという現実で晴れていて、その二つが重なり合っていたら、私たちは晴天と雨天を同時に認識することができないと思う。でもそれは、多重現実ではない。確率で決まるというだけで、ある時間において現実が同時存在するということにはならない。そしてAとBの現実はどちらも、比較可能な要素があるのに比較できない。どちらも絶対性を持った基準ではないから」

「逆に、何か基準となる絶対的な現実が存在したら、その現実とAを、或いはBを比較できるってこと?」

少し考え込んだ後、溜息を吐いて彼女は笑った。

「そういうことになるね。うーん…多重現実というよりも、別々の現実の比較の話になっちゃったね」

「現実がもう一度重ならなくなったとき、別の現実の痕跡は残るの?」

「痕跡が残す影響が小さければ残るんじゃないかな…」

僕はそれを書き留めておこうとノートとペンを取り出した。メモ帳みたいなものを買おうと思っていたのに、結局忘れてノートを使い続けている。

「何か落したよ」

僕のノートの隙間から落ちた薄いプラスチックを彼女が拾い上げる。

「はい」

「ありがとう」

彼女に渡され、再びノートに挟み込む。

「それは栞?」

「そうだよ。去年くらいに公園の花壇からはみ出して千切れていたアヤメを押し花にして、プラスチックの板で挟んで作ったんだ」

天空は星で満たされた濃紺に変わっていた。月の輝きが栞に跳ね返る。青と黄色を混ぜ合わせたような月光は紫色を刺し貫くようだった。大気の流れは止まっている。彼女は月を見上げていた。白い衛星の静かな光に照らされた彼女の瞳が海のように染まらない青に染まっていた。

僕たちは、初めてお互いに沈黙した。

翌日のニュースで、雲の動きが早くなったために周辺がいきなり晴れるという変わった現象を確認したと知らされた。

それから一週間が経過して、僕はなぜか彼女の散髪に付き合うことになった。唐突な提案だったので断る隙も無かった。

彼女の家は学校の近くで理髪店を営んでいた。髪は肩まで伸びていたが、ショートヘアにするとかそういうことではないらしかった。散髪するのは彼女の母だった。温和な雰囲気を纏う、ピンクのエプロンを身に着けた細身の女性だった。ウタナシさんにあまり似ていなかった。

「友達を連れてくるなんて初めてのことだから戸惑うわねえ。まあのんびりしていってくださいな」

「ありがとうございます」

用意された古いパイプ椅子に座り、楽しそうに準備する彼女の母に出された温かいお茶を飲みながら、彼女の髪が整えられてゆくのを見ていた。自分の散髪の時はあまり鏡を見ないので、どんどん他人が綺麗になってゆく過程を見るのは不思議な感覚だった。隣を歩いていたはずなのに歩幅が大きくなって、彼女がとても遠くに行ったような気持ちになった。

「この子はね、今まで全然友達も作ってこなかったし、勝手に心配していたんだけどね…」

てきぱきと髪にはさみを入れる。黒い髪が光を吸っては吐きながら地面にゆらゆら落ちる。

「でも何か揉め事を起こしているわけでもないから、何か言おうにも言えなかったんだけど…」

感慨深い様子の自分の母の様子に、彼女が照れる。

「恥ずかしいなあ…」

自分の表情が見える正面の鏡から視線を逸らしていた。ウタナシさんが照れているところを初めて見た。僕はお茶を飲み終えて、湯呑みをただ持ちながら話に耳を傾けていた。

「この子は悪い子じゃないし、むしろ誰よりも優しい子だと思ってるけど、そうだと分かってくれる誰かがきっと必要なんじゃないかって…おせっかいだけどね。」

ぱちん、と小気味いいハサミの音が響く。散髪はすぐに終わった。

「綺麗になったでしょ」

「なったけど…」

出来栄えを尋ねられた彼女はすっかり顔を赤くしてうなずき、小声でしおらしく自慢げな母に答える。僕は音をたてないように傍のテーブルに湯呑みを置いて、その様子を眺めていた。ウタナシさんが僕の視線を感じてこちらを見る。

「…今日は、ありがと…」

「いえいえ、どういたしまして」

彼女は帰ってほしいに違いなかった。椅子を立ち上がり、伏し目がちなウタナシさんの姿に見送られて、僕は理髪店を出た。


講演会に誘われたのはその翌日だった。まだ恥の残る表情のウタナシさんが、例のごとく休み時間の僕の机にやってきた。

僕は突っ伏していたが、彼女に頬をつつかれて体を起こした。焦点の合わない目で彼女を見ていると、なんとなく笑っているらしいことだけは分かった。

「起きてる?」

「あー、起きたよ」

彼女は僕の様子をなんとなしに見ながら、鮮やかな色のパンフレットを差し出した。

「ねえ、ルツキ君。週末のホールでの神話の講演会、一緒に来てよ。こういうの好きでしょ」

「…え」

僕は二枚のうちの一枚を手に取った。題目は『極東神話と認識』というものだった。

「メールフォームから申し込めるみたいだから君も申し込んでよ」

「あー、うん。わかった」

中身をぱらぱらと眺める。見覚えのあるホールの写真がある。僕の気持ちがどうであっても、行こうと思った。

それから週末はすぐだった。集合する時刻は午後一時、場所は僕がいつも使うバス停の終点に近い地下鉄の駅から三駅目。そこから乗り換えて五つ進んだ駅がホールに近い。

セミの声は聞こえない、わずかに肌寒さを感じるような快晴だった。人通りはそう多いわけではなかった。あまり通学の途中で電車を乗り換えることがないので、新鮮だった。

駅の改札前で待っていると、ウタナシさんがやってきた。

「お待たせ」

ひらひらした薄手の長袖を着て、肩からカバンを下げ、薄桃色の丈の長いスカートを履いていた。揃えたばかりの黒髪の先端が白い光に飽和する。

「行こうか」

僕たちは改札を通った。事前に仕入れてきた知識を互いに確認しながら電車に乗る。降りてすぐの駅の入り口で、自動車事故の現場にパトカーが停まっていたので、予定の道を大きく外れることになった。

「最近、ああいう事故が多いね…」

ウタナシさんが口の中で呟く。

「そうだね。この間もヘリポートでヘリが横転したって話を聞いたよ」

「そんなことが…」

少し黙った後、なぜか重くなった口調で話す。

「なんか、自分に関係ないはずなのにちょっと申し訳ないね…」

「申し訳ない?何が?」

「えっと…」

口ごもり、誤魔化すように言葉をつなげる。

「そういうニュースを、自分が求めてしまっているのが…背徳感というか、罪悪感というか、さ」

視線を伏せる。僕は声をかけることができず、彼女の様子をただ見ていた。

「ルツキ君?黙っちゃってどうしたの?」

「え、あ、ウタナシさんって、世間のことに興味あるんだって…ニュースとか見ないのかと思ってた」

とっさに疑惑をでっちあげる。僕の言葉にウタナシさんは仕方ないとでも言いたげに笑う。

「ニュースくらい見るよ。私からすれば君のほうがニュースを見ない人だよ」

「そんなことないよ。僕もニュースとか…うーん…見ないかも…」

会話しながら歩けばホールまではすぐだった。受付で係の人に受信したメールを見せて通される。ホールは広く、大学の講義室らしい固定された椅子と机が後列になるにつれて高い位置に並んでいた。最前列は占領されていて、後ろの列に座るしかなかった。冷房が効いていて、僕は僕の半袖を後悔しつつあった。

互いに話し合う間もなく、ホールに三十代くらいの男性が入ってきた。よれよれの襟付きの服を着て、丸メガネをかけている。公演台に立って、彼はマイクの調子を確認してから口を開いた。ざらざらした渋い声が響く。

「えー、どうも。はい、単位を落としそうな大学生諸君は見事に最前列に座っていますね。結構なことです。単位を取れさえすれば完璧ですね」

スクリーンが下りてくる。プロジェクターの光が照射され、講演のタイトルが表示される。

「早速始めていきましょう。私の専門分野は極東神話の研究です。極東神話というのは非常に最近その存在を提唱された神話です。提唱された、というのは、存在を提唱するまで神話として認められなかった神話です。提唱者はマルセロ・レシュミットという学者です。彼は元々考古学や古生物に関する知識を持っていたので、地中の遺物などから神話に関する情報を集めることを得意としていました。彼は去年亡くなりましたが、極東神話に関する研究は続いています。この極東神話に関して最も重要な点は、多重現実の容認という点です。信仰対象は名前を持たない唯一神です。以降は唯一神と呼びます。現実は数多く重なり合っているが、唯一神のいる現実はひとつだけだと言うのが信仰する人たちの見解でした。対象の現実にアクセスするため、彼らは条件を整えました。その一つがこの画像です。…はい、見えますね。チベットで発見されたエディアカラ生物群の化石です。信仰者…ここでは彼らと呼びます。彼らは基本的に東アジアの高山地帯に住み、発見される化石を重要視していました。なぜ重要だったかということは、極東神話のおおまかな流れを考えると分かることです。極東神話には固有名詞を持つ登場人物が存在しない代わりに、役職や行動によって呼ばれます。極東神話本編が記すのは、神が唯一の現実に存在するまでの過程の話です。出てくるのは、唯一神と導師と三名の弟子のみです。導師がこの三名の弟子に、唯一神のいる現実に向かうためにどうすればいいのか、正確には多重現実を一か所に集合させることで、神のいる現実と自分のいる現実とを重ね合わせて神を認識する方法を確認する場面があります。一人の弟子は『神格を絶対のものにすることで、神は神として目の前に現れる』と言いました。別の弟子は『時間的な要素を考慮させないことで、時間という条件の制約を受けることなく神と相対することができる』と言いました。最後の弟子は『多重現実は五通りに分類できる。そのため、五本の線を書いて全ての多重現実が存在することを示すべきだ』と言いました。導師はそれ以上答えがないのを見て取ると、穏やかに弟子たちに告げました。『すべて正しい。だが、そもそも我々がどのように神を認識するのかということが問題になる。神を認識する術こそが儀式に眠っているのだ』前述の生物群の化石の中には、不自然に欠損しているものが見受けられます。持ち去られたというのが一般的な見解ですが、誰に持ち去られたのかという点が事態を複雑にしています。化石を売ればお金になるという盗掘者に盗まれた、というのは一般的な見方です。しかしこの画像では、盗掘されてから一定量の堆積物の存在が見られます。そしてここから盗掘されたと思われる化石はのちに平行な五本の線のかすり傷が付いた状態で発見されました。つまり、これは盗掘して金銭を得たりすることを目的とした人が盗掘したのではなく、かつて極東神話を信じる人の儀式に用いられた化石であると考えることも、一応可能ではあります。化石である理由は、先ほど神話の中に示された条件の『時間的な要素を考慮させない』という点に関わります。大昔に存在したものが現在にも存在する、ということが、時間的な要素の排除につながると考えたのです。他の条件について考えてみましょう。『多重現実がすべて存在することを示すために五本の平行の線を書く』という条件ですが、これは規模を問いません。この化石のように小さいオブジェクトに書くのでも、地上絵のように大規模なものでも構いません。完全に並行であるということこそが最重要事項です。あと一つ、『神格を絶対化する』という点、これが非常に難しいものだとされています。論理に則って観点をこねくり回すだけでは神格を絶対化できず、我々を相対化する必要があるのです。我々を相対化するために、極東神話における儀式が存在します…ですが、この儀式のために極東神話はその存在を近年まで見出されませんでした。なぜこの神話が長く発見されなかったのかということについて説明していきます。神話とは、口伝や韻律を持つ歌、テキスト、儀式、遺跡や遺物などによって後世に伝えられていきます。極東神話もそうでした。テキストと儀式、口伝による伝承がメインということになっています。オブジェクトによる伝承は拒まれていますが、これは扱う神格が非常に概念的であることによると考えられています。問題は、このテキストが非常に膨大であるにもかかわらず、それぞれが各地の伝承に寄生しているという点です。極東神話本編は短い神話ですが、サブテキストは分量が多く、しかも世界各地に眠っています。実は極東神話本編では導師は口を開かず、発言はサブテキストにまとめられています。そもそも極東神話の本編は口伝で、実体を持たなかったので、いくらサブテキストが見つかっても何についての文書か分からずに放置されていました。しかも、それらのサブテキストは他の神話の中に紛れ込んでいました。極東神話のサブテキストが寄生元から分けられたのも大昔の話ではありません。最も面倒な問題は、儀式もそれぞれの神話に依存し、寄生した形で存在したらしいということなのです。神話の本質は損なわれていないのですが、形態は絶えず変化を続けてきました。例えば、古代中国で極東神話の相対化の儀式が行われた場合、相対化の儀式は古代中国の生活様式を取り入れて行われます。相対化の儀式に必要なのはテキストではなく声による祝詞であり、しかもその地域の言語を用いて行われたとされています。古代ケルトで相対化の儀式が行われるとすれば、Pケルト語やQケルト語などを用いた祝詞を用いて祝詞が読まれたでしょう。裏返せば、現代のこの場所でも日本語を用いた祝詞で相対化の儀式を行えるということです。もっとも、祝詞が失われて久しいのでこれはあくまでも理屈の話です。相対化の儀式がどのようなものであったかも具体的には残っていません。ですが自分に相対性を求めるのが儀式の本質です。極東神話において最も重要視されたのは、認識です。極東神話とは、人間でも神でもなく、現実と名付けられた世界を中心とした、抽象的な神話なのです」

そこで男性はふうっと溜息を吐いた。

「えーでは、ひとまず休憩します。後半の時間は質疑応答に使おうと思います」

予定の時刻よりも大分早く前半が終了した。ノートはあらかじめ書かれた既存の知識に、講師の言っていたことを緑色の細いゲルインキボールペンで書き加えてある。ウタナシさんもメモを取っていたようだが、手元以上に頭の中が目まぐるしく動いているようだった。

「ウタナシさん?」

何回か呼び掛けても、目は空を泳いでいる。

「ウタナシさん」

ようやくはっと気づいて僕に答えた。

「ごめんね、ちょっと考えを整理させて」

そう言ってウタナシさんは難しい顔をし始めた。僕も話しかけなかった。公演の後半は目新しい質問もなかったので、ひどく退屈だった。ウタナシさんは公演など聞いていない様子で、一心に何か考え続けていた。ただひたすら音が流れていく。

そのまま講演の終わりまで、彼女は一言も言葉を発することはなかった。彼女の機嫌が悪いのではなく、ただ本当に自分の考えに深く沈んでいるようだった。

帰り道は果てしなく長く感じた。先の見えない緩やかな上り坂を無限に歩き続けるようで、落ち着かない気持ちが心を締め上げるようだ。

駅前に辿り着いた。僕たち二人以外は誰もいなかった。風は吹いておらず、乾いた大気が少し冷たく沈みこんで夕日をかすかに柔らかく落ち着ける。

「ルツキ君」

「はい?」

ウタナシさんはまっすぐに僕の目を見た。僕も見つめ返した。

「しばらく、昼休みに君のところには行けないかもしれない。考えたいことが…いきなり増えてしまったから」

「考えたいこと?」

「うん。ごめんね、私が誘ったのにこんなこと言って」

彼女に質問したいことはいくつもあったが、質問するのは彼女を尊重することにはならないような気がした。

「分かった。考え終わったら、話しに来てくれる?」

「そのつもりだよ」

僕たちは別れを告げた。バスに乗り込みながら、彼女の小さな背中が改札の向こうに消えるのを視界の端に捉えた。

それから、休み時間は一気に退屈になった。

僕はいつでも寝る以外のことをしなくなった。彼女は彼女の言葉を守っていて、しかも守ろうという意思は強固だった。姿すらも見なくなったような気がしたが、人混みを探せばちゃんと姿を認めることができた。

彼女の沈黙が破れた。掃除が終わって、自分のノートを見返していた。何冊目のノートなのか分からなかったが、内容は神話に関する情報で埋め尽くされていた。

ドアが開いて、何の前触れもなくウタナシさんがやってきた。

「あ」

「…ルツキ君」

少し焦っているように見えた。彼女は勢いよくこちらに来て、すぐに僕の机の前に立った。

「もうすぐで、私の相対性は閾値を下回る。その前に聞いておきたいことがあるの」

僕は状況を飲み込もうとした。考えなくてもそんなことはすぐにはできないと分かった。

「変だと思わないで聞いてね。私に神格があるとして、一体どんな神様だと思う?」

「どんな…って」

僕は何かを無理やり答えようとした。しかし彼女のことを自分やほかの誰かと比較することはできない、と思った。外は真っ青だった。月の終わりの熱波がまもなく襲い掛かろうとしていた。

ウタナシさんは僕の目の前で、質問だけを残して消えた。

見えないくらいの速度で彼女が溶けたと思った。一つの痕跡も残っていなかった。彼女に関する全部が見間違いで、聞き間違いだったとでも言われたように空っぽだった。

凪が風に化けて、近いような遠いようなどこかで唸り始める。体温を忘れさせないくらいの温度で、空白の教室を駆け巡った。そこで初めて、僕は彼女がいなくなったということを思い知らされた。もはや知らないふりなどできなかった。口は半開きで呆然として、前に右手を伸ばした。空を搔いた。ウタナシさんはやはりいなかった。

「なんで」

ようやく零れた言葉が思考を震わせる。自分の見ているものを信じていいのかわからない。

『下校時刻五分前になりました。生徒の皆さんは下校準備をしてください』

音に反応して、機械的に体が動く。自分の体を操っている感覚はないままで、下校の準備を始める。教室を出る。生き物がいない。血も吐息も脈拍も失われた、僕一人だけの空間で、校庭から響く怒鳴り声を聞く。階段を下りる。足はただ動いているだけで、前にずれる重心に体が引きずられる。校舎を出る。校門を通る。

彼女がいない。どこにも、彼女がいない。現実が掠れる中で、それは確たる現実だった。歩いているといつの間にかバス停にいた。すぐにバスが来て、後ろから二番目の席に座る。

バスが大きく揺れる。

もうすぐ終点だった。最後の質問に、僕は正確に答えなくてはならなかったのに、何も言葉が出なかった。だからこそ、今日に向けて準備を進めてきた。

僕には勝算があった。

ウタナシさんがこの現実にいたということは、裏返せば別の現実からウタナシさんを連れてくることはできないということだ。しかし今は違う。彼女は違う現実にいる。

相対化するということが重要だった。僕はウタナシさんが消え、この仮説に辿り着いてからずっと、思い起こせる限りの彼女との会話をノートに書いた。比較対象を作るのだ。この場合、テキストの整合性を比較する。彼女なら、テキストの正解例を持っている。そして僕が不正解を持っている。その時点で比較可能なものになる。比較にも値しないものを作るのではなく、できるだけ正確であろうとしなければならない。そして、正解こそが絶対のものとなる。

僕はバスを降りた。例の公園に向かう。ノートには押し花でつくった栞が挟まれている。

彼女と座ったベンチに向かう。彼女と座ったという条件が重要なのではない。ベンチの背もたれが、六枚の木の板で作られていることが大事だ。板の間の空白は丁度五本の線になる。そしてそれらはおそらく並行だ。

あとは委ねるだけだ。ベンチに座り、ノートに書いたことを小声で読み上げる。西日に襲われる。こちらを真っ白い光が睨む眩しさに耐えられずに目をつぶった。風の音がする。雨の音がする。虫の鳴き声、カラスの鳴き声、虫の鳴き声、風。

目を開ける。光が瞼をこじ開けて視界を傷つける。雨が降っているが、赤い光が山並みから覗いている。信号機が水平線に向かって無限に並んでいる。地面は空に横断歩道が浮いているように見えた。枯れ葉の匂いも、鉄の匂いも、温い泥の匂いも全てが存在した。

現実が無数に重なり合う場所で、僕はベンチに座ったままだった。僕の正面の十字路の真ん中に椅子がぽつんと置いてある。

そしてそこに、ウタナシさんがいた。

「え?」

彼女は狼狽していた。瞳の奥に澄んだ青をたたえ、あの日と同じ夏服を着て立っている。

「久しぶり…」

予想外の反応に戸惑って恥ずかしそうにもごもごと口を動かす。無様ともいえる僕の姿を認める彼女が、状況を徐々に飲み込み始める。目の前で海が割れた様を目撃したかのように、彼女の全身が震えていた。

「なんで…なんで」

ウタナシさんの視線が僕を見ながらも泳ぐ。

「いや、講演の終わりに言ってたから。考えてることを教えてくれるって」

彼女は何か、不満のような喜びのようなものを喉の奥から吐き出そうとして、やめた。全身の力が抜けたように、すとんと椅子に座った、というより椅子の上に落ちた。

「教えてくれる…かな」

おずおずと話題を切り出す僕の反応を見て、視線を落としてぽつぽつと語り始める。

「…多重現実の祝詞は過去に条件を整えられて読み上げられ、そして成功して私と会話した。でも、何回目かの儀式で私は君の世界において相対的な存在になった。そして、儀式が終わると多重現実はそれぞれの現実に戻る。でも私は相対化されて比較対象としてこの現実に組み込まれ、絶対性を失った状態になった。人間と一定以上の関わりを持ってしまった。だからまず、極東神話が忘れられて私と人との関係性を断絶させなければならなかった。そして私というこの個体も、だんだん人間との関係を絶たなきゃいけない。あの六月は、いろんな人との関係を断ち切って、あの現実との関係も徐々に途切れて、私が相対化され始めた時期だったんだよ。完全に関わりを絶たなくても、相対化の閾値を下回れば、私は自力でこの現実に戻ってくることができる」

彼女の言葉はそこで途切れた。雷鳴が鳴り、並ぶ信号と標識が青白く光を割る。彼女が大きく息を吸うのが見える。僕の体は動かない。

「私はただ迷い込んだんだよ。でも私は、この現実の心地よさに、君のいる現実の心地よさに甘えてしまった。本当は長く君の現実にいてはいけなかったのに。情けないよね…私はここにいなきゃいけないのに」

「君が君を情けないと思うなら、僕はそれでもいいと思ってるよ」

全ての現実の雲が消えた。雨は依然降り続けていたが、僕の体は濡れなかった。彼女は目を開いた。

「だから、その…情けないとか、自分をそう思う神様も、いてくれたらいいって…思うんだけど」

声が意味と感情を伴って落ちる。率直な気持ちだったが、彼女に届いたかどうか不安だったせいで徐々に声は小さく不確かになってゆく。どれだけ驚いてもどこか毅然とした面持ちだった彼女が、口許を震わせた。

「そんなの…そんなの、ずるいよ」

ウタナシさんの声は震えていた。強い、温い風が一筋吹いて、彼女の顔を長い髪が隠した。

晴れた雨が散り散りになった後、ウタナシさんは僕に尋ねた。

「もしかしてさ、君はどの現実に戻るか、どの時間に戻るかも考えないで来ちゃったの?」

「えっと、うん」

ウタナシさんの瞳が青く揺らいだ。予想通りという気持ちと、できればそうであってほしくなかったという気持ちが混ざり合って波をたたえた。

「何してるの…」

呆れたように微笑んだ。

「どうしようかなあ」

「呑気だね、君は…まあでも、多分戻れるよ。君は制服を着て、ノートを持っている。タンパク質が外部の水環境に合わせて折りたたまれるのと同じ原理だよ。戦国時代とか、大きく元からずれた時間には戻らないよ。適した場所に戻るようになってる。少し外れるかもしれないけど」

彼女は少し真面目な表情になった。顔をすっと近づけて僕を見る。

「目を閉じて」

言われたとおりに目を閉じた。

青と赤が瞼の裏で明滅して、無風を感じ取る。

「さよなら」

それ以降、彼女の声が途切れた。

光にならすよう、ゆっくりと目を開けると、教室の周囲では秋が始まろうとしていた。夏だったらきっと、まだ日は高く昇っていたはずだ。

パンフレットを取り出す。仏教関連の講演に内容が変わっている。

もはや極東神話というものはこの現実には存在しないはずだった。それでも、彼女との会話が、彼女の言葉が、目の前のノートには書かれていた。持ち上げてカバンにしまうと、カバンが重くなったような気がした。

彼女は絶対性をもって存在する。

それだけでよかった。

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六月に回帰する秋からはまだ水の匂いがする 虚言挫折 @kyogenzasetuover

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