新田先生
津多 時ロウ
新田先生
この
ろくすっぽ定職に就いていないこの身の上で、更にには
そうなれば
ねえ、あなた。もうペンはとらないのですか。
空を眺めてばかりいる空っぽの心を見透かしたように、ある日の女房がそう言い放ち、それはまったく
何かと理由を付けてペンを握らなくなってから、それはもうどれだけ星が回り霜が降ったことだろう。
家内の問いには、うん、と小さく頷いた。あれのことだから気がついてはいるのだろうけれど、人の意見で今までの
さて、家内にばれないよう、夜ごとにペンを握り締めて書いた小説は、しかし、突然に長編など書けるはずもなく、だが、自画自賛できる内容にはなったと思う。
そうとなれば、とうの昔に忘れてしまった青雲を見る青い書生の真似事などして、この
ちょいと散歩に行ってくる。
そう告げて家を出て、家内に内緒で
いつもなら
それにしても家内とはもう随分と長い付き合いで、まだ女学生だったあれが、当時、
あのときのことは今でもきっかりと覚えている。ろくに鍵もかからぬ木戸をノックもせずにバタンと開けて、叫ぶように
その当時の
その時分はもう、暮しの手帖やあちこちで洋服の裁縫が載っていた頃だったから、銘仙を着ているのも珍しく、またいきなり知らぬ男の部屋で大声を出すなど、実に珍奇だと思ったものだが、
暮しの手帖と言えば、あそこは神田にオフィスを構えていただろうかと、そんなことを考えながら、麒麟の横を通り、高島屋を横目に眺め、京橋を過ぎて首都高速道路をくぐれば、そこはもう出版社のある銀座である。
いつか世話になった伊東屋を懐かしみながら歩き、時計台に行きついたあとは、本通りから外れて、喫茶店などが多い昔からのオフィスビル街を歩いた。やがて
やあ、ここだ、と久し振りに中に入れば、
年季の入ったのが
「はい、いらっしゃい」
気怠い顔を正そうともせず、浮薄そうに若者が言う。
「
「あ、原稿の持ち込みっすね。いいっすよ、どうせ暇だしw 僕が見るっすよ。媒体はなんすか? メール? USB?」
「ばいたい、ゆーすびーだと。何を言っているのかさっぱりだが、原稿と言えば紙に決まっているじゃあないか。君は本当に出版社の人間なのかね」
「あー、はいはい。紙っすね。大丈夫っす。ワイ、そういうのも嫌いじゃないっすw じゃ、
「よろしく頼む」
二つ折りにした二センチ弱の厚みの束を彼に渡すと、表情を崩すことなく席に戻り、
四万文字にも満たない原稿である。嗚咽のような声を漏らしながら読み進める先ほどの若者とて、いや、橋本と言ったか。橋本なにがし君であろうとも、すぐに読み終わるはずである。元より用事などないのだから、気長に待とうと腹を決めたが三十分も経たずして、向かいのソファーにどっかりと腰を下ろした彼が開口一番に言ったセリフは、「こんなんじゃ駄目っす」だった。
久し振りに書いたとはいえ、目の前の浮薄な若者に軽薄に全否定されれば、いかに年月を得て棘がすっかりと削れて丸くなった温厚な
「どこが駄目だというんだ。言ってみやがれ、この
「ちょ、ま。まず、文章が古臭すぎますねー。これじゃ、誰も読めませんw」
「
「
同じ言語を話しているはずなのに、もうこの若者には何を言っても通じないのだと思えば、一旦は哀れに思い、しかし師匠までをも馬鹿にされた怒りの
「
「ひ……ぴえん」
「まあまあ、
気付けば奥にいた男が、いつの間にか隣に立っているではないか。しかし、どこかで見たことがある顔だと思えば、右手の拳をぽんと左の掌に軽く打ち付けた。
「ああ、君は古井君か。随分と久しぶりだね」
「どうもお久しぶりです、先生。先ほどはうちの若いのが至らず申し訳ありませんでした」
「いや、なに。
「ええ。今、こうしていられるのも先生のお陰です」
「そうかそうか。お互いに随分と年をとったもんだが、それなら良かった」
「それで先生。お預かりした原稿なんですがね」
「おお、もう読んでくれたのか。で、どうだった?」
「それはもう、家族の愛情が滲み出ていて大変すばらしいお話でした」
「そうだろう、そうだろう。やはり読むべき人間が読むと分かるものだな」
「けれど、先生」
「やはり何かあるのかね。君と
「お話は素晴らしいのですが、文章が今の人間には読み辛いのです。これは如何ともしがたく、当社からは出すのは難しいと言わざるを得ません」
「むむ、そうか」
「しかし、そこだけなのです。そこさえ直せば良いのです。
「うむ、うむ、君がそう言うのであれば間違いないのだろう。あい分かった。この
「ええ、お待ちしております」
「また来るぞ」
「原稿は八月十六日までにお願いしますね」
こうして
「古井さん、あんなこと言っちゃって良かったんすか?」
「君は今年からだったから分からないのは仕方がないけれど、あれでいいんだよ。随分前に亡くなった奥さんのために小説を書こうだなんて、素晴らしいことじゃないか」
「けど八月十六日までに出来上がるんすかね?」
「それも別にいいんだよ。私も君も、そして先生も時間はいくらでもある。せめてお盆の時期だけでも、
【新田先生 完】
新田先生 津多 時ロウ @tsuda_jiro
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