第三話:亡者の群れ
角を持つ少女は、思った以上に足が速かった。
一定の距離を保って追っているつもりだったが、少女の歩幅が想定よりも大きかったのか、或いは陽炎に曲げられて、少女の駆け足に気が付かなかったか。少女はいつの間にか、雑木林の蛇行した細道を抜けた先の、更に細い枝道の下り坂に沈んで、姿を眩ませてしまった。
阿可夜が枝道の手前に来た頃には、人がいた気配すらとうに霧散して、自然だけが阿可夜の周りの空気を犇めき合って満たしていた。
少女は、どこにもいなかった。
狐に化かされた様な気分だ。
そう思って、ふと、大学の民族文化の講義で習った、怪談伝承の節で取り上げられた、妖狐伝説の事を思い出した。
妖狐。
中国に於いては、仙狐、狐仙とも呼ばれていたりする。これは、修行によって神通力を得た狐の事を指すそうであるが、こういった術を修めた仙狐は、時に人に大きな力をもたらしたりする。狐は後に瑞獣として中国では重要で神聖な獣として重宝される存在となる訳だが、日本に於いてもその考え方は概ね変わらずに伝わっていたりもする。
ただ、中国と違う所は、狐に対する認識が、日本では地方によってかなりの差異がある所である。
阿可夜の地元では確か、狐は皆、九尾の末裔にして、悪辣なる妖狐の傀儡であるとされていた。
例えば、平安の世を惑わせた傾国の美女にして、鳥羽上皇の寵姫であった、玉藻前。
彼女は……、いや、奴の正体は九尾の妖狐であり、人の世を惑わして、文字通り国を傾ける事を野望としていたとされている。
実際には、保元・平治の狂乱の渦中にいた、太政天王の皇后である藤原得子、或いは美福門院が玉藻の前という妖狐のキャラクターを作り出したモチーフになっているとされているが、兎にも角にも、狐という獣は多角的な解釈によって神性も悪性も獲得しうる、両義的な象徴であったと考えられる。そして阿可夜には、地元の伝説がベースとなって、狐=妖狐というイメージが、悪性というイメージが未だに強く根付いていた。
あれほど強く照り付けていた日差しも、この雑木林の中では淡い木洩れ日に希薄する。
明暗のはっきりとしたこの自然の中で、一人ぽつんと取り残された阿可夜は、自分が爪はじきにされた異端であるかのような錯覚に陥っていた。茫洋とした不安が、孤立に襲い掛かろうとしている。
こんな時、下らない思考をして落ち着くのが阿可夜である。
狐は、人に化け、人を化かす。
玉藻の前は、妖艶なる姫に化け、平安の人々を化かした。
中国なら、妲己も有名な妖狐だ。奴も殷に住む人々を化かし尽くした。
平安は乱れ、殷は滅亡した。
妖狐は、無為に化かすのではない。対象を破滅させる為に、化かすのだ。或いは、何か己の中の大義に従って化かし、その過程で破滅を呼ぶのだ。その大義が何であるかは、知る由も縁も、つてもない。それが通説。それが概要。それが、規範。
ただ、阿可夜は、知っている。
時に皆が盲目的に信じる常識は、一般は、普遍は、ふたを開けてみれば統計的に優勢である数字上の産物でしかなく、純然たる事実に直面した時、その数字は大衆の向いている方向、指標でしかなく、正解に辿り着く最適な磁石の針には為り得ない、という事を。人は、己を通じてしか人を理解できはしないのだから。
だから、阿可夜は恣意的に妖狐を解釈する。人ではないけど、理解しようとする。
妖狐は、化かしたいから、化かしたのだ。
化けたいから、化けたのだ。
要するに、純粋な悪性とは、大義の為に人を襲う者ではなく、快楽の為に他者を貶める者の事である。分かりやすく言い換えるなら、過程に破滅を組み込む者ではなく、目的に破滅を選ぶ者。そして妖狐が純粋な悪性だと断じる阿可夜にとって、それはある種の不都合の容認でもあった。なぜなら、快楽の為に他者を貶める者を純粋な悪性だと断じるのであれば、それは妖狐なんてマイナーでマイノリティな存在よりずっと多くの者達……、詰まる所、有象無象のメジャーでマジョリティたる人間達にこそ、ぴったりと当てはまるからである。
怖いくらいに、面白いくらいにぴったりと不気味にハマってしまう。
畢竟、怖いのは人間である、なんて。
つまらない帰結である。
詰まる所のつまらない、どうしようもない唾棄すべき思考だ。明言した通り、下らない思考をしてしまったわけだ。ただ、どんな形であれ、落ち着きはした。
落ち着いたところで。
所要時間一分弱、体感三十分程。
その場で突っ立っていた阿可夜は、軽快にくるりと踵を返していた。
元々、軽い気持ちで始めたストーキングだ。それが失敗すれば、猶の事、背徳感も罪悪感も薄まるものだ。そもそもこのストーキングは何を以て成功とするのか定義し難い、曖昧な悪行でもある。阿可夜はただ好奇心の赴くままに、何か不思議が一つでも解消されれば良かれと思って後を付けただけである。
さて、元の山道に戻ろう。そしてそのまま、雁廿郎の屋敷まで向かってしまおう。
そう思って、返した踵に体重を乗っけたあたりで。
―― 判者や判者……。判詞や如何に…… ――
阿可夜は、亡者の群れに襲われて、紫の蝶を見て――、気絶した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます