第二話:白昼夢と緋色の鬼


 陽炎の中、緋色の鬼を見た。




 開拓の進まない自然豊かな山岳地域に這って広がる、内陸の山脈と太平洋に挟まれた、環濠集落を想起させる田舎の町。

 〈 豊溢町 〉というのが、この田舎の正式な名称らしいが、地元の者達は老若男女問わず、「はざまちょう」と呼んでいる。

 内陸の連なった東の山々と、西側に茫洋と広がる太平洋。山と海に挟まれた町であるがゆえに、「はざま」と冠した名で親しまれているそうだが、実際の所、名前の由来は定かではない。

 山沿いになだらかに広がる町の人口は、凡そ一万人弱。舗装されていない畦道が毛細血管の様に田畑の間に走り抜けて、人が通る事の出来る道を辛うじて形成している。平坦で広大な田園風景を僅かに彩るのは、田畑を囲む内陸側の山々と、そこに沿って形成される町並み、そして大らかな海。古来より人が信仰と畏怖を捧げてきた、山と海という二つの大自然に囲まれたこの町は、そこに住む人々にとってはある種の聖域でもあった。

 五月中旬。

 日本という島国は、四季がはっきりしている事で度々外国人から関心を寄せているが、いい加減詐欺として訴えられても仕方がないのではないかと常々疑問に思ってしまう。五月中旬と言えば、桜の花が殆ど散りつつも、初夏を想起させる涼しい風と暖かな日差しが心地良い、絶妙に気持ちの良い時期の筈だ。

 「……、あっつ……」

 阿可夜は、額から湧き出る汗をタオルで一度しっかりと拭くと、色の落ちた赤褐色のレトロな電車に乗りながら、窓に映る景色を眺めていた。

 ガタン、ガタン、と、規則的に揺れる電車に合わせて、阿可夜もその体を揺らしていた。窓の縁に置いている爽健美茶の入ったペットボトルがずれて落ちそうになるが、先程から縁に引っかかって落ちない様になっている事を確認済みなので、特に気にも留めず、田舎の明るく開けた景色を眺める事に腐心する。

 雄大な青空と、均等に整地された黄緑の田畑、そしてその奥に聳える、連なる深緑の山々。高層ビルがすし詰めで林立している都市部に住んでいる阿可夜としては、見上げずとも視界に入ってくる大きな青空が、随分と新鮮だった。

 思えば、空というものを意識してみた事は久しく無かった。こうしてみてみると、意外にも、こんな昼でも月が見えるものだ。流石に星は見えなかったが、今日の夜空が気になる程には、田舎の生活に期待を膨らませていた。

 曾祖父の邸に阿可夜は招待されて、態々辺鄙な片田舎、豊溢町に来ていた。曾祖父の雁廿郎は、この豊溢町で唯一の医者である。また、嘗ては医療経済学の権威として、名だたる医療大学の特別派遣講師として多くの名門大学と契約している程の、医学界の重鎮であった。

 そんな彼が、還暦祝いと共に医療界隈の第一線から退き、地方の医者として地位を落ち着かせた事は、一時期の世間に大きな動揺をもたらした。

 だが、医療経済学に興味を持つ人間など、それこそ同職の人間か、金儲けに腐心する輩くらいなもので、雁廿郎が田舎に引っ込んだというニュースは、七十五日ともたずに、人々の関心から外れていった。

 田舎で悠々自適にセカンドライフを送っていた曾祖父であったが、どうやらここ最近、遺産相続の件で揉めているらしく、一応相続権を有している阿可夜にもお呼びがかかったわけだ。

 しかし、阿可夜はまだ高校一年という身分であり、相続権といった話にはどうにも疎いし、積極的に関わりたいとも思えなかった。顔つきが妙にだるそうなのは、若干の憂鬱が尾を引いているからだろう。

 今更、相続権の事で揉めることもないだろうと思っていたが、どうやら揉めている渦中が曾祖父自身らしく、財産の中でもとりわけ不動産の相続に対して、異議を唱え続けているらしい。

 大きな屋敷を拵えたと聞いていたから、維持費の問題で揉めているのかもしれない。

 いすれにせよ、相続権の話は高校生である阿可夜にはあまり関係ない。体裁上、呼ばれただけだろう。

 滞在期間は二週間。長くもなく、短くもなく。田舎での生活を楽しむには、丁度良い期間だ。

 

 眠くなるような、男の人の声の低い車内アナウンスが、目的地である「東飛鳥帖駅 ( ひがしあすかちょうえき )」への停車を知らせてくれる。

 ペットボトルをリュックの中にしまい、阿可夜はスマートフォンで時間を確認した。

 12:47。

 この時間なら、一度、駅近くのコンビニで軽い昼食を買ってもいい。

 何せ、「東飛鳥帖駅」から、曾祖父の邸まで、徒歩で三十分の畦道ときた。

 一カ月の滞在を予定しているが、流石に滞在数週間後には、田舎の閉鎖環境に癇癪を起こしている自分が想像できる。

 電車が減速し、車輪が甲高い金属音を鳴らし始める。

 阿可夜はスマートフォンの電源を落とすと、立ち上がる事に億劫な性根に喝を入れて、ゆっくりと椅子から腰を上げた。

 電車が止まり、ぷしゅーっ、という気の抜けた音と共に、扉が開いた。

 扉から体を乗り出すと、外気が流動する熱の塊となって、阿可夜を包んだ。

 「あっつー……」

 どうせ誰もいないので、それなりに大きな声で、異常気象に文句を言った。

 電車の中の静かな空間と一転して、田舎の駅のホームは、大自然の秩序が生んだ、落ち着いた静謐が形成されていた。

 こうして田舎の駅に降りてみてしみじみと感じるのは、やはり田舎ならではの、公的施設に対する総体の意思の統一感だ。都会の駅は、無数の不特定多数の人間達によって雑多に埋め尽くされて、カオスな空間の中で、必死に仮初の秩序がメッキとなって不細工に張り付けられている。忙しなく色々な改札口から出入りして、頻繁に人と人が、物と物が、人と物がぶつかる。

 駅の中には色々な種類の売店があちこちに置かれていて、色々な種類の飲食店があって、色々な種類の広告があって。

 電車に乗り降りする、という大前提が、都会の駅からは透けてこないのだ。多くの人間の要望を寛容に受け入れた都会の駅は、その代償として、多くの人間に一律の不幸も強制させるのである。互いの一方的な押し付け合いが、歪な相互補完となっている都会の駅に、阿可夜はあまり好感を持てないでいた。

 対して、田舎の駅はどうだろうか。

 阿可夜は、今立っているこの無人駅、「東飛鳥帖駅」を軽く回って見てみた。

 ホーム内側には屋根と二つのベンチが並んでおり、屋根を支える壁には、交通安全の看板に、内科クリニック( 雁廿郎が経営するものとは別の内科である )の広告、水道管工事の業者手配広告に、八月末の夏祭りの案内が貼られている。

 ホームを下って一つしかない改札口まで行くと、警察署の注意喚起の広告と、町内イベントを知らせるボードが掛けられていた。

 そして、切符売り場の横にある、自販機。

 一つのコスモが、駅という形をとっている様に感じた。みんなによって支えられて、綿密に作られた、「駅」という感じがする。誰かの都合じゃなくて、誰かの願いが透けてくるような気がするのだ。

 ジリジリと、照り付ける陽射し。

 季節外れの、蝉時雨。

 額から再び垂れ落ちる汗を雑に左手で拭うと、改札を抜けてコンビニに向かった。

 ここに至るまで、車掌を除いて、誰とも会っていない。

 周りは、左手側に伸びている未舗装路を遮断する踏切以外に、目立った人工物が見当たらない。ぼこぼこと盛り上がる木々が、山の麓を形成して、縦にも横にも広がっている。延々と緑が続いてゆき、それに這う形で、砂と土の道が流れている。

 改札を出て右側、弧を描いたような下り坂になっている道の方に向かう。

 ここから五分程かけて緩やかな下り坂を下っていけば、ここらでは唯一のコンビニに辿り着ける。そうすれば、飲み物と昼食を補充して、曾祖父の家までは体力を持たせる事ができるだろう。


 下り坂は、森の足元に這う巨大な蛇の様に、蛇行した道のりだった。

 漸く、コンビニが見えた。

 コンビニは、この豊溢町の外周に位置する山の麓に建っている。コンビニを更に下っていくと、豊溢町の住宅街に出る。

 だが、目的地は生憎と上の方だ。一度下り坂を下りたのは、コンビニに寄りたかったのもあるが、単純にこの道しか、まともな道が無いからでもある。

 上に登っていくと、雑木林に迎えられる。その雑木林を抜けた先の離れにあるのが、曾祖父の大きな邸らしい。阿可夜は今回訪問するのが初めてだからどんな邸なのかは知らないが、とにかく大きいのと、武家屋敷をモチーフにした、昔ながらの古風且つ和風の造りになっているらしい事だけは聞いた。

 正直、少し楽しみではある。都内のマンションの一室に追いやられている身としては、壮大な田舎の邸は儚くも大きな憧れだ。


 この距離だと、陽炎でコンビニが揺れ動いている様に見える。

 ( いよいよもって、夏の風物詩が出揃ってきたな…… )

 蝉時雨が強まって、鼓膜に入る情報が限られてくる。

 紫外線を視認できるのではないかと錯覚してしまう程の強い陽射しによって、視界は光と陰の強弱を主張する。

 だから、最初。

 コンビニの屋根の陰に入っている少女に、阿可夜は気づかなかった。

 ( 人だ…… )

 陰で涼んでいるその人を、十代半ばくらいの少女だと認識するのに、さほど時間はいらなかった。

 つば広の麦わら帽子を被っており、その下には、濡羽色の艶やかな長髪がそのまま流してあり、腰の辺りまで、かなり長く伸ばしている。オーバーサイズの白シャツで、淡い茶色のハーフスラックスに入れている。かなり夏を意識した服装だ。この暑さだから、納得の服装ではある。或いはここらではそういう動きやすい服装の方が好まれるのだろうか。小麦色の健康的な肌は、ただただ少女の快活さを如実に表していた。

 背丈は、大体、阿可夜より頭半分程低いくらいだから、百六十センチ前後、といった所か。

 少女は、半透明のビニール袋を右手に下げて、恐らくソーダ味のアイスを食べている最中だった。

 表情こそ無表情だが、そこにはどこか、安心と悠長が見て取れた。

 目の前のアイスを食べる事に腐心していて、それ以外の事に余念がない、そんな表情。

 こちらにも全く気付いていないようだ。

 夢中にアイスを食べており、時折眉間に皺を寄せてこめかみに指を持っていく。きっと、勢いよく食べすぎた弊害に苦しんでいるのだろう。

 その、愛らしく純粋な仕草に釘付けになっていた阿可夜は、幸か不幸かその少女に対する認識を一度破棄しなければならない程の、大きな問題に目をやってしまった。

 こめかみに指を持っていく仕草。

 その動作の中で、阿可夜は確かに、少女の「それ」を見てしまった。


( ……、緋色の……、角……? )

 角。


 少女のこめかみの、少し上辺りに、緋色の角があったのだ。

 それも、かなり長く、大きい。

 僅かな時間の視認であったが、それは確かに、緋色の角だった。

 近づくまでは坂の上から見ていたから、つばの広い麦わら帽子のせいもあって、よく見えなかった。

 しかし、コンビニ手前のこの位置までくれば、こめかみに注視すれば分かってしまう。無論、普段であればこめかみに注視などしないが、今回は話が別だ。

 コンビニの自動扉を通過する直前、阿可夜は確かに、緋色の角に気付いてしまった。

 依然としてアイスにかぶりつく少女を横目に、出来るだけ自然な態度を心掛けて、コンビニの中に入った。

 コンビニの中は、過剰な程に涼しかった。

 汗が冷える感覚は少し嫌いだ。バックに入れておいたタオルで軽く汗を拭うと、窓越しに、外に目を向けた。

 少女は、まだそこにいた。

 こうしてみると、やはり麦わら帽子のつばが広く見える。

( 角を隠す為……、なのか……? )

 あの角は、なんだ。

 ただのおもちゃか何かだろうか。にしては、作りこみが異様にリアルな気がする。それに、余程注視しない限りあの麦わら帽子に隠されて、緋色の角は視認できなかっただろう。

 いずれにせよ、少女には何かがある。

 そう思いながら、依然としてコンビニの内側から少女を見ていると、小女はアイスを漸く食べ終えた。

 しっかり、当たりの棒かを確認していた。そのあどけない仕草に心惹かれる。

 ( 傍から見たら、俺、俗に言うストーカーじゃないか……? )

 少女は、印の無い棒をあっさりとゴミ箱に放ると、そそくさとコンビニから離れていった。

 本来であれば、ここで阿可夜の浅い興味は尽きる筈だったのだが。

 小女は、コンビニを下った先の住宅街ではなく、よりにもよって上側、雑木林の方へ向かっていった。

 少女が向かっていった、雑木林側。

 そっちには、祖父の雁廿郎の屋敷以外に、特に人が向かう理由になるものは無かった筈だ。

 とは言え、別段神経質になる事でもない。ここらの地理に詳しいわけでもないのだ。雑木林を抜けた先に、雁廿郎の屋敷しかないというのは、殆ど勝手な思い込みだ。実際には、雑木林を抜けた先にも、少ないながら住宅があるのかもしれない。いや、もしかすると、小女も阿可夜と同じく雁廿郎によって呼び出された親族の内の一人なのかもしれない。

 また単純に、阿可夜の知り得ない要因によって少女が雑木林に向かった、と考えるのも妥当な話であった。まあ要するに、少女が雑木林に向かう理由の追及など、深く考えなくとも良い話であり、深く考えられるだけの深度を持った話でもなかったのだ。

 そう、別段気を張るような、気に掛けるような事ではない。

 ( ――、 傍から見る人もいない。……、よし、追いかけるか )

 何を以てよしとしたのかと問われれば、それはきっと、不思議に対する例外的罪悪の許容、だと言うほかない。このストーキング決行は、社会的規範ではなく、阿可夜の内在的な規範によって可不可が問われる。そして、オーケーが出たわけだ。

別段気を張らず、気にも掛けず、ただ浅ましくも好奇心に駆られて、軽い心持ちで阿可夜はコンビニで昼食を買うという目的を放棄して、少女の後を追った。


 

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