第一話:籠目紋の少年
「はぁっっはぁっっはぁっっ」
深い山の中を、一人の少年が、激しい呼吸と共に駆けていた。
阿可夜は、黒い髪を靡かせて、額にびっしりと滴る汗を無造作に拭いながら、深い山奥の獣道を走っていた。
既に五分余りは全力で獣道を走っている。
爪先は痛むし、踵はより鈍い痛みが膨れ上がる。太腿も、異様に気持ちの悪い熱を帯びているし、肺は空気を取り入れる度に鋭い痛みを走らせる。
昨日の五月雨のせいか、凹凸の目立つ山道に生い茂る足元の雑草は、どこも露を蓄えており、走り抜けると、キュッキュッと、甲高い音と共に靴底を湿らせた。
足首も濡れている。靴下が感触の悪い張り付き方をして、走り辛い事この上ない。
この通り、阿可夜のコンディションは劣悪を極めていた。
しかし、足を止める訳にもいかない。
―― 判者や判者……。優劣や如何に…… ――
精一杯、不格好にも必死に走っている阿可夜は、無論ただ無意味に走っている訳ではなく、必要に駆られて、走っていた訳である。
走っていると言うよりも、追われている。追われていると言うよりも、逃げている。
要するに、阿可夜は今、後ろを付いてくる化け物の群れから逃げていた。
化け物と表現したものの、その様相は怪物の様な猛々しく物々しいものではなく、不気味さと怪しさが先行して印象を与える、幽霊の様な類のものであった。
ズォォォ——。
不気味な重低音は、群れが這って進む音であった。
それらは、言うなれば亡者の大群であった。
( どうしてこんなっ、くそっ、ふざけんなっ、くそっ )
口に出さない分、頭の中では無茶苦茶に罵詈雑言を吐いていた。それと並列して、なんとかこの状況を脱する為の一筋の光明を血眼になって探している。
そもそも、どうしてこんな事態になったのか。根本から洗い出そうとするが、どうにも無意味な思考を巡らせているようにしか感じられない。
亡者の群れは、距離を少しでも離そうと必死に走る阿可夜の努力を食い散らかすかの様に、不気味な動きでその距離を縮めていった。
まるで阿可夜そのものが亡者の群れにとっての指標であるかの様に、執拗に、強引に、木々をなぎ倒してでも追ってくる。
( ——こんな話を聞いた事がある。
死して現世を彷徨う亡者は、生きている人間が、とても美しく、輝かしいものに見えると。
奴らもまた、輝きを追っているのだろうか。死して猶、生に固執するのだろうか。だとしたら、生のどこが美しいのだろう。生きようともがく姿を美しいというのなら、こうして死ぬまいと必死に走り続けている俺は、彼らにとっては追い続ける理由そのものじゃないのだろうか。であれば、生に固執する事を諦めて、足を止める俺を、奴らは美しいとは思わないのではないだろうか—— )
ここにきて、とうとう意味の無い、消極的な思考が脳のリソースを大々的に占め始めていた。
いかん、ここらで気合を入れ直す必要がある。
しかし、頭より先に、身体が音をあげた。
「はぁっっ!かはっっ!はっっはっっ、うくっ」
口の中に溜まっていた唾液がとうとう飽和してしまい、意図せずして喉を通ってしまったのだ。唾液によって気道が塞がれて、空気と衝突する。それに呼応して、思わず咽てしまった。呼吸が乱れるのを契機に、横隔膜が激しく不規則に震え、酸素が循環しなくなり、身体中に溜まっていた気持ちの悪い熱が、一気に全体に広がった。
ぶわっと、嫌な汗が湧き出て、身体がずんずんと重くなっていく。
気が付けば、太い木に寄り添って、足を止めていた。
( くそっっ、走れないっ足がっっ、うごっっかないっっ )
頭の中で叫ぶ言葉も先程から汚い。一切の余裕がなくなっている証拠だ。
―― 判者や判者……。判詞や如何に…… ――
気が付けば、必死に離していた距離は十数メートルと無い所まできていた。
亡者の群れ達が、その不気味で仰々しい風貌で、囲むなんて回り諄い事すらせずに、勢いよく直進してくる。
ここにきて、亡者たちの顔がはっきりと見える。
虚ろな眼窩に、爛れた皮膚。生地の汚れた麻布を最低限にしか身に付けていない亡者もいれば、人としての原型を殆ど保っていない亡者もいた。ただ醜いという訳ではない。全体的に、暗く、悍ましく、汚らわしく、恐ろしいのだ。
( あぁ……、最悪だ )
恐らく、このままであれば死ぬ。
生の輝きがどうとか下らない事を考えていたが、どうやら走れなくなった阿可夜にでも、興味は尽きないらしい。
亡者の群れが、阿可夜に向かって次々と薄黒い手を伸ばし始めた。
無数の手は、蕾が花となって咲く流れを早送りしたかのように、ぶわっっと、視界を覆うように広がっていく。阿可夜はあっという間に、影に覆われていた。
——、これで……、おしまいなのだろうか。
まだやりたい事はあった。勤勉で真面目な人生を歩んできた訳ではなかったが、少なくとも自分の中でやりたい事ははっきりとしていて、その為に今、努力している最中であった。
それを、こんな簡単に、呆気なく、意味の分からない異常な理不尽によって踏みにじられるのか。
随分と酷い結末だ。でもこの結末は、誰が望んだものでも、誰かに仕組まれたものでもないのだろう。ならば、仕方ないと割り切るしかないものだ。俺は無念にも、超自然によって事故死してしまうのだ。そう、割り切ろう。
酸欠と疲労で視界がブラックアウトし、意識が遠のいていく中。
ふと——、匂いがした。
線香の様な、懐かしくて、暖かくて、少しだけ……、冷たい匂い。
指先に辛うじて引っ掛けていた意識が滑り落ちる直前、最期に阿可夜が見た光景は、亡者の群れと阿可夜の間に割って入る、紫色の、光り輝く妖艶な蝶であった。
( あれは……、蝶—— )
意識が、滑り落ちていった。
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