第四話:紫の蝶

――、知らない天じ

 「起きたな、少年」

 思考より先に、艶やかな女性の声が鼓膜を震わせた。

 定番のあれを思考の中でも言えなかった事に一抹の悔しさを抱えて、阿可夜は勢いよく其の場から上体を起こした。

 「なんだ、随分と不満そうに起きるんだね、少年。業の深い人生でもおくっているのかい」

 目覚めざまに、随分な言われようである。脳が働き始めて早々に、罪深さを説かれるとは思いもしなかった。そう思いながら、阿可夜はぼやける視界を、一度両目を手で押さえて揉んでからクリアにしていった。

 目の前には、紫の蝶がいた。

 「――、紫の蝶……」

 否、目の前にいたのは女性であった。

 心奪われる程に鮮やかな、黒を超越した鴉の濡れ羽色の長髪。古風なアームチェアに腰かけていた為詳しくは分からないが、恐らく立てば、後ろ髪は踵まで伸びている。

 髪に目を奪われた次は、服だ。平安時代の女性貴族を彷彿とさせる、朱色と桃色の花の紋様に、ベースとなる下地は妖艶な紫色の、唐衣裳。見た目からはあまり分からないが、恐らく袿をいくつか重ねているのであろう、重層的な色合いの袖口が、その手元から窺えた。

 そして容姿だ。浮世離れした白磁の肌に包まれた、尋常ならざる、美。

厚い唐衣裳越しでも分かる、すらりとした長身。恐らく、百八十前後はあるであろう身長。

 そして、その顔。

 大きい双眸は、長いまつ毛によってより艶やかで妖艶な雰囲気を自然に演出する。高い鼻の下には、膨らんだ緋色の唇。

 何もかもに目が行ってしまうが故に、なにもかもを見る事ができないような、妙なもどかしさが鬱陶しい。それでいて、見れば見る程に自分が削られていくような、刹那的で制限があるような強迫観念に駆られる。

 「私を虫けら呼ばわりか。非礼を通り越して万死に値するな」

 再び声が、空気を艶めかしく這って、阿可夜の鼓膜を震わせる。対峙する彼女の、大きくも鋭い双眸に睨まれて、阿可夜は弁明を余儀なくされる。まるで、下々を睥睨する王……、いや、その神妙な様相からして、神の如くである。

 「いや、そういうつもりでは……」

 あの時、亡者の群れに襲われて、気を失う寸前に見えた……、紫の蝶。

 人を蝶に例える事はあるが、人を蝶と見間違うのは、勘違いしてしまうのは初めて出会った。

 兎にも角にも蝶にもこれは失言である。取り消さなければ。

 「ふふっ、いや冗談だ。非礼は通り越さなかったから安心しろ。だが無礼の隣にはいるな」先程までの鋭い目つきをひそめ、彼女はすぐに砕けた笑い方をした。砕けたと表現したが、実際にはその笑い方ですら、人類史上最も美しく正しく清い笑い方なのではないかと錯覚する程に、彼女の一挙手一投足一呼吸一鼓動一瞬きが、ただ、美しかった。

 さながら鱗粉の様に、きらきらと輝いて見える。

 だが、彼女の発言には先程から要領を得ない所がある。

 「無礼の隣というと、僕はやはり無礼を働いた事になる訳ですか」

 「そういう事になるな。この働き者め」

 ここまでの非常に短い会話(?)の中で、彼女がどういった人間なのか、少なくとも人と為りが垣間見えた気がする。

 阿可夜はここまでの会話の間に、回復した視界で周りを軽く見まわしていた。

 部屋と大広間の中間くらいの広さをした、和風の空間だった。広間と言って差し支えない広さではあるのだろうが、この空間の性質上、客など人を迎える空間というよりは、私的に使われる部屋と捉えた方が正確な気がする。

 彼女と対峙する阿可夜から見て部屋の左隅には、物々しい骨董品染みた調度類が、年季の入った大きな木製の棚に丁寧にしまわれている。軽く見ただけだからよくは分からないが、埃や目立った汚れは無いように見える。他にも何か、本当に骨董品の様な物も部屋の周りに置いてあったが、それが何なのかはよく分からなかった。ただ、それらは使う為に置かれているというよりは、展示しているかのように置かれていた。

 部屋の右隅には、横にも縦にも長い本棚が、壁に寄り添う形でずらりと並んでいた。その本棚の中には、無数の本がぎっしりと詰まっていた。左上から右下まで、何の本なのか皆目見当もつかない。ただ、その分厚さと如何にも古びた背表紙からして、ここ最近の書物ではない事だけは明らかだった。

 阿可夜が今いる場所は、その部屋の、殆ど中央である。そこに軽く蒲団が敷かれており、寝かされていた。

 中央には、彼女がいた。古めかしいアームチェアに堂々と、悠々と座る、彼女。アームチェアの下は台座の様になっており、木張りの床と一段、隔てている。この一段の差が、阿可夜と彼女の差を大きく隔てている様に感じてならなかった。台座の上に乗る形でアームチェアが置かれている訳だが、そのアームチェアの両端、もう少し詳しく言うと、両端の、丁度台座から降りた一段下がった床の所には、部屋を仄暗くしている要因である細長い角行灯が置かれていた。

 阿可夜から見て左の角行灯は、淡い藍色に光っている。中に窺えるのは、薄暗く揺れている藍色の炎。阿可夜から見て右の角行灯は、淡い黄緑の炎が灯っている様である。どちらも、空間を明るく照らす仕事は十分に果たせていなかったが、彼女を美しく映えさせる上では、正しい働きをしているのかもしれなかった。彼女に、映えさせる装飾など必要ないであろうが。

 「ここはどこですか」

 至極普通で、起きてからずっと抱えていた質問を、阿可夜は彼女に投げかけた。恐れ多くも、恐れ知らずにも。

 「まずは名前だ、少年」

 彼女は阿可夜の質問を軽くあしらうと、病的なまでに白い右手をゆっくりと前に突き出した。それに呼応するように、阿可夜は其の場から立ち上がった。なぜ立ち上がったのかと言われれば、そうしないと非礼を今度こそ通り越してしまうのではないかと、漠然とした不安に駆られたからとしか言いようがない。その白磁の指先に促されて、阿可夜は声を絞り出した。

 「僕は、阿可夜です……、紀ノ継 阿可夜。漢字は――」

 「あぁ、いい。漢字は分かる」

 漢字は分かる?

 そんなことがあるだろうか。かなり特殊な読み方をしているし、それに伴って漢字も特殊だ。苗字でさえ何通りかありそうな書き方なのに、下の名前は何十通りもありそうだ。

 なのに、なぜ分かると言うのだろうか。

 「私は――」

 疑念に思考をジャックされている阿可夜だったが、彼女の声が聞こえてくると、すぐに耳を傾けた。聞き逃してならないという、本能のような働きによって、思考がリセットされる。

 「アヤメだ」

 アヤメ。

 「紫尉 アヤメ。漢字は――」

 「大丈夫、分かりますよ」

 「紫に、四等官第三位、半官の尉で、紫尉。アヤメは片仮名で覚えてもらって結構だ」

 阿可夜の浅い見栄を無視して、アヤメと名乗った彼女は名乗った。

 「ところで少年……、君はどこまで覚えている?」

 その質問だけで、何かと邪推してしまう。

 どこまで覚えているか。

 どこから覚えていないのか。

 どこまで覚えていればこの人に良くて、どこから覚えていると悪いのか。

 或いは、どこから覚えていなければ良くて、どこまで覚えていないと悪いのか。

 いや、そうではないか。

 どこまで覚えていれば、俺にとって良いのか、か。ああ、もっと言えば。

 どこまで覚えていなければ、俺にとって良かったのか、か。

 「どこまで、というと……、気絶するまで、ですかね」

 今度は、正直に答えた。

 先程、無駄な見栄を無視されたばかりである。ここで何かカマをかけようものなら、それこそ無礼を通り越してしまうだろう。

 「そうか。ならもう一つ阿可夜に聞こう。君は、どこまで信じる?」

 その文字足らずな質問はこの場で、彼女と対峙する阿可夜にとっては十分に事足りて理解できる質問でもあった。そして何を問われているのかは、十二分に分かる。

 核心を突いた質問だ。彼女は、アヤメは、どこまで見ていて、どこまで見通して、この質問をしているのだろうか。少しだけ気になった。

 阿可夜にとって豊溢町での生活に求めていたものは、「非日常」である。都会では得られないような、適度な異常があれば、それだけで満足であった。二週間で得られる刺激など、たかが知れている。

 だが、実際に阿可夜の目の前に現れたのは、「非現実」だ。

 マクロの予定調和に、ミクロの予定崩壊があれば、それでよかったのに。

 マクロもミクロも関係なく、生と死の境界線に立たされて、走らされて。

 劇的な生を望んだことはあったが、劇的な死を望んだ事はない。

 同様に、平凡な生を望んだことはないが、平凡な死を望んだことはある。

 そんな、死生観に半端な答えしか出していなかった阿可夜にとって、唐突に眼前に現れた非現実は、甘くはなかった。

 亡者の群れは、悪意を、殺意を持っているかは別として、結果的に阿可夜を「死」に至らしめる為に、阿可夜に襲い掛かった。死を直前まで意識させられた阿可夜にとって、もう、よそ見はできない。

 もう、現実によそ見はしていられない。非現実が襲い掛かってきたからには。

「どこまでも、どこからもないですよ。全部です。」

 苦し紛れの本音しか言えないが、阿可夜ははっきりと答えた。

 「うん……、まあ、そうだろうね」

 特に顔色も変えず、依然として、毅然とした態度でアヤメは足を組みなおした。その何気ない仕草にすら、人を惹きつける魔性が垣間見える。

 「さて、君には選択の余地がある」

 そういうと、アヤメは白磁の右手を阿可夜の眼前に出して、手の甲を見せる形で、手を広げた。五本の指をぴんと立てる。

 「その中から選べと」

 「いや」

 アヤメは左手をおもむろにだすと、右手で立てた指を次々左手でしまっていき、人差し指だけ残した。

 「私が推奨するのはこの一択だけだ」

 こんなに彼女が美しく無ければ、人差し指の代わりに中指で俺も一本立てている所だ。いや、この際美しさなんて関係ないか。今からでも立てるか。

 「選択の余地無いじゃないですか……」

 流石に中指を立てる蛮勇など持ち合わせていなかった。そんな勇気があれば、これほどの非現実の襲撃に、憂鬱になどならない。

 「余地はあるさ、でもこの一択以外はお勧めしないよ」

 けらけらと笑うアヤメ。

 「で、その一択って何ですか」

 そこまで言ったところで。

 がっ!

 視界の端に一瞬、緋色の閃光がちらついて。

 懐に、何かが

どごっ!


 「っ!?」


 阿可夜は、その場に倒れていた。

 倒れていたというか、倒された。勢いよく突進してきた何かによってうつ伏せに倒されて、押さえつけられている。下に蒲団が敷かれていたから助かったが、敷かれていなければ肋骨がバラバラになって砕けていたかもしれない。

 「そんな訳あるか!頭の悪い男め、なぜ下に蒲団が敷いてあるか分からないか!」

 阿可夜に突進した挙句、背中から押さえつけているのは、どうやらこの声の持ち主らしかった。その声色からして、女性である。それも、荒々しい語気の割にはかなりトーンの明るい、幼さの入り混じった可愛らしい声だ。

 しかし、腑に落ちないのは押さえつけてくるその力である。背中に像か象でも乗っているのかと勘違いするくらい、重い。ぴくりとも体が動かないのだ。少女に出せる力の域を桁違いに超えている。このまま黙っていると、終いには圧死させられそうなので、取り敢えず剛速球で問いかけられた質問に答えることにする。

 「そうか、こうやって俺を押さえつけても肋骨がバラバラにならない様に敷いてくれたのか」

 「そうだ!感謝しろ!んっ?……、違う!そんな訳あるか!」

 回答を間違えたらしく、圧力が強まった。

 「がはっ」

 一瞬、呼吸困難に陥るが、……、すぐに一瞬じゃなく継続的に現在進行形で呼吸困難になった。このままだと劇的な死とやらだ。非現実に殺される。

 「感謝しろっ!」

 猶も、語気と力を強める暫定少女。このままでは本当に肋骨がバラバラになりかねない。

 普段、無駄に使っている脳のリソースを、今、ただ生きる為に、ただ死なない為にフルに使う。

 ――、感謝、何に。

 ――、何を間違えた。

 ――、相手を、間違えた。

 ――、この場には、三人。

 ――、自分を除いて、間違えた相手を除けば、必然的に感謝するべき相手は一人。

 ――、蒲団が敷いてある理由。

 ――、間を、違えた。何かを、してしまった。何かを、しなかった。

 ――、この……、この――、


 この、働き者め。



 「アヤメさんっ」

 聞き苦しい、ヒキガエルの断末魔と聞き違えそうな不細工な声で、阿可夜は声を絞り出した。

 「んっ?何かな」

 どうしてこんな状況で平然としていられるのか分からないが、アヤメは毅然とした態度を一ミクロンも変えず、威風堂々と腰かけていた。

 阿可夜は、振り絞る。

 「亡者の群っれから僕を助けてくっ…くぅっれて、ありがとっかっはっっ、ございました、かいっ、介抱もしてくれて……っ、あっ、あうっ、ぐっ、ありがっございましっった」

 思えば、俺は疑念や不安に怯えるあまり、ひとときの安念ともとれる現状に対しても目を背けていた。亡者の群れに襲われた後。気絶して――、目が覚めた。そう、目が覚めたのだ。

 つまり、生きている。

 絶体絶命で、超自然に襲われているのに、超自然に助けられる事はないだろう。であれば、この「生」は、人為的な保護、救助によって成立していると考えるのが妥当である。

 そして、目覚めた場所はあの雑木林でも病院でもなく、この和風な広間に敷かれた、蒲団。

 純粋に考えて、順当に考えて、「助けてもらい、介抱してもらった」と考えるのが妥当である。

 だというのに俺は、まだ、何もこのお礼を口にしていない。

 なるほど、無礼の隣にいるわけだ。

 そして、続けざまに俺は、アヤメさんの名前が分かると、浅い見栄を張った。見栄を張ったというよりは、ほんの冗談にも近い気まぐれの出来心だったのだが、無礼を通り越す失礼である事は明白である。そして最後に、指を折る仕草をする前に、そしてアヤメさんが勧めた一択を説明する前に、事を急いて先に二度も口出ししてしまった。俺はアヤメさんからの説明を待たずにアヤメさんを急かしたことになる。

 ここで、一気に非礼を通り越した。

 即ち、「万死に値した」訳だ。

 予告はアヤメさんから既に受けていた。これは俺の責任だ。

 「アキ、もう良いよ、下がって」

 アキ、とアヤメに呼ばれたその少女は、こくりと頷くと。

 「……、よし、これで清算できたな。どいてやる」

 瞬間、圧力がふっと消え、阿可夜の身体は一気に解放された。

 「……っ、死ぬかと思った……っ」

 正常な呼吸を意識しながら、阿可夜はぎりぎりと不自然に痛む上体を起こした。

 「こっ、殺すかと思ったーっ」

 先程まで圧力をかけて殺そうとしてきた暫定少女が、何か後ろでほざいている。

 「明確に圧死させようとしていただろっ」

 そう言って阿可夜が振り返ると。

 その目に捉えたのは。


 緋色の双角を額に拵えた、あの、鬼の少女であった。

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