第五話:緋色の角を持つ少女

 緋色の双角は、顕在であった。


 少女は依然として、その鮮烈に美しくも異形である双角を額に君臨させて、阿可夜の顔を窺っていた。昼間にも見た、幼くも色気を滲ませた、調和のとれた愛らしさ。それと、健康的な小麦色の肌。しかし昼間に見たにも関わらず、異なっているものもあった。

 まず、髪色だ。

 昼にコンビニの前でアイスを食べていた愛らしい少女は、艶やかな濡羽色を――、それこそ、アヤメの髪色を彷彿とさせる髪であったはずだ。

 だが、目の前にいる鬼の少女の髪色は。

 「――、緋色だ」

 緋色だった。

 角と同じ、緋色の髪。

 染髪剤では決して表現できない、遺伝子レベルで生み出された、燃えるような髪。

 炎よりも焔を模した髪。性質よりも性格がその髪に宿っているようだ。

 何故、髪色が濡羽色から緋色に変化しているのかは分からないが、少なくとも平然と髪を耳に掛ける彼女にとって、その髪色の変化はイレギュラーではなくデフォルトであるらしかった。

 髪を耳に掛けるそのあどけない仕草に、再び心を奪われる。

 少女の服装にも言及しておきたい。

 昼に見た時は、オーバーサイズの白シャツと淡い茶色のハーフスラックスだった少女は、この部屋では、アヤメと同じく和服であった。しかし和服の中でも、その種類が違う。

 というより、格が違う。

 アヤメの和服は、正装である唐衣裳であるのに対して、鬼の少女が着ている服は、湯帷子の類であった。生地の薄い、動きやすい浴衣をイメージすると分かりやすいだろう。橙色をベースとして、その上を赤色が波打つ様に、紋様を描いている。

 幻想的な緋色の髪に、可愛らしく美しい顔つきを持ち、そして猶、それらを霞ませる程に存在感のある緋色の双角を額に生やした少女は。

 

 「吾輩の名は秋霜童子だ!季節の秋に、霜焼けの霜で、秋霜。そして、音に聞こえし七大妖怪本山が一つ、『大江山』を統べる大鬼神、酒呑童子様より拝命されし眷属の鬼に与えられる末の名、童子を以て、秋霜童子と読ませる!」


 鬼の少女は、高らかな声色と共に、秋霜童子と名乗り上げた。

 秋に霜と書いて、秋霜。

 日本にある四字熟語に、秋霜烈日という言葉がある。意味としては、「秋の冷たい霜と、夏の照り付ける日光の様な気候の厳しさ、転じて刑法・権威の厳そかであることの例え」であり、日本の検察官が付けるバッジの呼称でもある。

 そこに由来しているのであろう事が窺えるが、何故、秋霜という名前であるのかは、今は大して重要ではない。今後重要になるかも分からないし、敢えて言及するものでもない。

 それよりも気になるのは。

 「髪……、なんで、緋色なんだ?昼は黒だっただろう」

 今、もっとも重要なのは、秋霜童子と名乗るこの少女の髪色の変化だ。艶やかな濡羽色からここまで明るい緋色に髪色が変わっているのだ。気になって気になって仕方がない。

 「やはり莫迦か阿呆なのか……、いや、莫迦で阿呆なのか、おまえは」

心底呆れた様子で、秋霜童子は阿可夜を詰る様に見つめる。

 「今、そんな事を聞いてどうするというのだ」

 「……、それもそうか」

 次から次へと色々な事が起きて、次から次へと色々な情報が頭に入ってくると、どうにも理性的な判断というものが難しくなってくる。脳の疲労というものは、自分で思ったよりもずっと深刻に、思考に影響してくるものだ。マルチタスクが脳に大きな負担を強いるというのは本当らしい。

 「まあよいか……。吾輩はアヤメ様と主従契約を結んでいる。故に、アヤメ様のお力を一部限定的に、また一部は恒常的に借りる事が可能なのだ。昼は人里でも浮かぬ様にと、アヤメ様より賜った霊札の御加護によって黒い髪である様に見せていたのだ。」

 仕方ないといった表情で、しかし律儀にも秋霜童子は説明してくれた。

 「なるほど、そんなものがあるのか」

 「そんなものがあるのだ。そして貴様を押さえつけたのも、その契約に因んでいる。『三相罰』といって、来訪者による礼を欠いた行為が三度行われると、吾輩が直々に、清算できるまで罰を下す仕組みだ」

 『三相罰』。

 その言葉は知らないが、恐らく失礼・無礼・非礼の順に罪が蓄積されていき、臨界点で罰が発動する仕組みであったのだろう。見立ては間違ってはいなかったのだ。

 だが、阿可夜は助けてもらったことに礼をしたものの、浅い見栄を張った事やアヤメを急かした事に対しての謝罪はまだしていない。寛容なる温情から許されたのだろうか。或いはその契約上、三相罰というシステムを便宜上発動させる必要があっただけで、その内実に関してはそこまで本格的ではなかったのかもしれない。いづれにせよ、阿可夜にとっては有難いことである。

 「ん……?そういえばなぜおまえは、吾輩の髪が昼に黒であった事を知っていr」  

 「アヤメさん、お聞きしたい事があります」

 都合の悪い事に気付かれる前に、アヤメに質問の許可を乞う。

 「なんだい、言ってみたまえ」

 余裕に満ちた態度で、毅然とした態度で。或いはそれは、感動を忘れた、無機質で冷たい態度で。アヤメは阿可夜に質問を促す。

 「俺を襲ったあの化け物たちは……、一体なんですか?」

 その質問への返答を、少しだけ躊躇うかの様な素振りを見せる、アヤメ。

 気のせいだったかもしれないが、少しだけ儚げに遠い目をしてから、彼女は答えた。

 「化け物などと言ってやるなよ、少年。あの者達は……、嘗て平安を生きた、様々な歌仙達の亡者だよ」

 歌仙。

 歌の名手、和歌に優れた者達の事であろう。とりわけ有名なのは、清原元輔辺りだろうか。

 「そこまで有名な者達ではないよ。三十六歌仙に数えられるような者達は、あの亡者の群れの中には誰一人としていないさ。寧ろ……、そこにあぶれた者達だよ、あの群れは」

 憐憫ともとれるような声色で、追悼の意を言霊に乗せるかの様に、どこか申し訳なさそうに喋るアヤメ。

 「歌合、というものを知っているかい?」

 うたあわせ?

 合唱か、デュエットみたいなものだろうか。

 「絶妙に違うね。間違えるのが好きな男だな、君は」

 冷笑を以て、阿可夜の無知を詰るアヤメ。鬼にも美女にも詰られて、散々である。

 「左と右に歌人達を分けて、和歌を詠み合って優劣を決める、という平安貴族の遊びの事だ。遊びとはいっても、宮廷や貴族の屋敷で行われる公的なものが多く、参加する歌人の地位にも直結する、重要な行事でもあるんだ。それが歌合」

 淡々と説明するアヤメ。不思議とその落ち着いた艶やかな声に、阿可夜は自然と聞き入ってしまう。

 「歌合とは、要するに相手の歌人よりも優れている事を証明する事で、政治的権威を得る、政略的行事でもある訳だったのさ。その歌合に於いて、評価されなかった者達はどうなると思う?」

 それは、問いかけの形をしてはいたが、アヤメは阿可夜に何かを問うた訳ではなかった。

 「《あいつは歌詠みだが、誰々よりも劣った歌詠みだ、大した歌詠みではない》こんなレッテルを貼られて、貴族社会で生きていける歌詠みなどいないのさ。それは死も同然だ。そして社会的な死は、平安の世に於いては、肉体的な死と殆ど同義だ」

 正直な所、現代社会に於いて和歌という存在があまりにも古典である阿可夜にとって、歌合の話はピンとくるものではなかった。頭の良い人であれば、現代のスポーツやら文化やらに今の話を落とし込んで上手く理解するのだろうが、阿可夜には無理な話だ。

 「……つまり、自分の詠んだ歌を認められなかった事が悔しくて、今も彷徨う亡者となった、という事ですか」

 「認識としてはあながち間違いでもないな。ただ、彼等の様な亡者達は、ただ心残りがあって分別なく彷徨っているのではなく、明確に何かを求めて彷徨っているのさ」

 分別なく彷徨っているのではなく、明確に何かを求めて彷徨っている。

 あの歌詠みの亡者たちに襲われた時に、阿可夜は何を感じたか。

 「歌合は、判者という存在によって、和歌の優劣、判詞が言い渡される。だが悲しいかな、判者という者は時にその政治的立場から、人を選んで和歌の優劣の判定をしてしまう事があるのさ。権力者に媚び諂う判者によって、不当な判詞を言い渡された歌詠みからすれば、たまったものではないな。故に、正当な判詞を求めて……、《優なり》の一言を求めて彷徨っている歌詠み共が、あの亡者の群れという訳だ。社会的に死んで、肉体も死んで……、それでも、和歌が魂を、業深くも繋ぎとめる」

 ——、死して猶、生に固執している。

 そう、追われている時に思った。

 でもそれは、随分と一方的な解釈であったのだと、今になって思う。

 要するに、あの歌詠みの亡者達は、死んでも猶、自分らの和歌の優位性を確立したかったのだ。抽象的な生になど、初めから固執していない。ただ、自分という存在の肯定の為だけに、亡者となって現れたのだ。

 「なるほど、よくわかりました」

 「よく分かられてたまるか。君は、襲ってきた対象が何であったか分かればそれで良いのかい?」

 呆れた表情で、ため息をつくアヤメ。

 純粋に頭の上にクエスチョンマークを表示することでしか応答できない自分が情けないばかりである。

 「何故、歌詠みの亡者達が君を襲ったのか。この問題の方がずっと重要だ」

 「……、確かに。なんで彼等は、俺を襲ったのでしょう」

 判詞を求めて彷徨っているというのなら、阿可夜を襲う理由はない。なぜなら、阿可夜に判詞など言い渡せるはずもないからである。それに、無差別に襲う怪物の類であれば、阿可夜がこの豊溢町に来るよりずっと以前から、何らかの形で事件になっていなければおかしいのだ。

 つまり。

 「歌詠みの亡者達は、死後に彷徨ってから時間が経過するにつれて、その魂の自我の様なものを失っていき、俺が雑木林に足を踏み入れる頃には無差別に人を襲う怪物になり果ててしまった、という事ですね」

 そういう事である。

 「違うね。全然違う」

 全然違った。

 「……、因みにどのくらい違いますか」

 「九割間違っていて、一割大間違いと言ったところだよ」

 絶望的な誤答であった。これなら答えない方がまだ正解に近かっただろう。

 一周回って、正解になりはしないだろうか。

 ……、いや、一周回っても間違いは間違いだ。

 「圧倒的な莫迦だな、貴様」

 アヤメの傍に控えている秋霜童子が、詰まらないものでも見るかのように、阿可夜に視線を向けていた。

 「……、正解をどうぞ」

 今度は阿可夜自身がため息を吐いた。こんな訳の分からない状況に苛まれている上に、人外にまで自身の頭の足りなさを指摘されては、たまったものではない。

 気を取り直す様に、アヤメが顔にかかる前髪を手で整える。

 「そもそも、彼等は無差別に人を襲いはしない。まあ要するに、歌詠みの亡者達にとって、君は正当な判詞を授ける能力のある判者だと認識された、という事だね。それが、君が襲われた理由だよ。……、いや、亡者達は君を襲っている認識すらもないんだろうがね」

 答えを言われても猶分からない。当然ながら和歌の素養はおろか、平安期に於ける教養も高校時代の古典が更新履歴の一番上に出てくる阿可夜にとっては、正解すらも遠く理解に及ばないものであった。

 それこそ、高校の時の授業を思い出す。数学とかで、必死に数式を計算して問題を解くのだが、自信たっぷりに解答しても、模範解答と全く違う数字であったりする。質が悪いのは、模範解答を見ても、その答えにピンとこない時だ。

 「……、なんで、平々凡々ですっぽんで泥で一里塚で鰯の俺に、そんな大層な能力があると、亡者達は判断したんですかね」

 「確かに吾輩も気になります。天下無双にして月にして雲にして富士にして鯨であるアヤメ様にこそ、その能力も素養も気品も資質も権威もあれど、この凡夫の一人間如きに、亡者達の積年の遺恨を晴らす事など出来ぬと愚考致しますが、アヤメ様」

 「なんだ、君も分かっていないんじゃないか。圧倒的な馬鹿はもう一人いたようだな」

 「なんだとこいつっ!」

 鋭く尖った左右上下、計四つの八重歯を見せつけて怒り散らす、秋霜童子。

 コンビニで初めて見た時の様に、ただ黙ってアイスでも食べていれば文句なしに比類無き絶世の美女であるはずなのだが、この、凡そ人間の女性が人前でする蓋然性の著しく低い挙動を見せつけられては、ある種の怖さの方が目立ってしまう。

 ただ、その八重歯でさえも、非現実が生み出した幻想的産物であると考えると、途端に美しく可愛らしいチャームポイントになってしまうのだから、不思議なものである。この気持ちは俺だけの歪んだ感性から来るものなのか、或いは万人に与えられた根源的な感性から来るものなのか、いつか解き明かしてみたいものだ。

 「少年」

 その一言で、唾棄すべき思考の濁流を塞き止められる。

 日本国憲法によって思想の自由が保障されている筈なのに、頭の中の思考を批評されているかのような、そんな感覚を彼女は脳内に直接植え付けてくる。彼女の存在は、ある意味に於いては幽霊や妖怪よりもずっと尋常ならざる存在だと、そう感じさせる何かがある。そんな、ある種不気味な感覚を喚起させる、艶やかな声に撫でられて。

 「はい」

 阿可夜は自然と、呼応してしまう。

 「君は、鏡を見たことはあるかい」

 唐突に、脈絡のない質問を投げかけられた。いや、ここまでで自分の無知さを嫌と言う程に詰られたばかりだ。きっとこれにも脈絡があるのだ。正しくは、意図の分からない質問を投げかけられたと言うべきか。

 「あ、ありますけど……、それが何か」

 「そこに映る自分を、自分の顔を、注視した事はあるかい?」

 顔。

 普段の生活の中で、鏡に映る自分の顔を見る機会など、頻繁に出くわす。

例えば朝の洗顔の時。例えば大学の手洗いの時。例えば風呂場で洗っている時。

 「あります……、ね。注視という程かはわかりませんが、自分の顔を見る機会はまあ、人並みにはあると思います」

 「そうかい。では、眼は?」

 「……、目?」

 目は、どうだろうか。

 阿可夜の視力は左が一・五、右が一だ。要するに、眼鏡やコンタクトを付ける必要が無い。

 そしてそれは詰まる所、目に対して特別何かしらのケアや意識をする必要が今まで無かったという事でもある。眼鏡やコンタクトを普段から使用している人と比べると、目に対する意識はずっと低いと考えられる。

 「目は……、記憶にないですね。漠然と、鏡を見た時に自分の目も映るのを認識はしていると思いますが」

 「つまり、自分の眼を、しっかりと観察した経験はない訳だ」

 自画像を描く機会でもあれば、自分の目をしっかりと観察していたであろうが、記憶が正しければ、小学生の頃に図工の授業で行われた、自画像を描くという授業内容の日は、インフルエンザを患ってしまったせいで自宅療養となり、休まざるを得なくなってしまったはずだ。とても楽しみにしていたから、その日の無念さはよく覚えている。

 「ないと思います。ところで、俺の目がどうかしたんですか?」

 一向に要領を得ないままに会話が続いていく事に痺れを切らして、阿可夜はまた、恐れ知らずにもアヤメに質問をする。

 「どうかしてるのさ、君の眼は」

 俺の目が、どうかしているときた。

 散々頭の悪さを詰られた次は、目か。随分な仕打ちである。人間性に多少の特異性があるのはまだ個性として認められるだろうが、目にまで異質さを求められてしまったら、もうどうしようもない。

 「むむう……?」

 先程までアヤメの傍に控えていた秋霜童子は、阿可夜の眼をじっくりと見て、観察していた。

 そして、三秒と待たずに。

 「あぁっ!」

 秋霜童子が、文字通り飛び上がって驚いていた。

 その大袈裟な仕草に、思わず阿可夜も小さく飛び上がる。

 「これは驚いた!貴様、『籠目紋』の眼をしておるのか!」

 籠目紋?

 なんだそれは。

 皆目見当もつかない紋である。

 「『籠目紋』というのはね、六芒星の事さ。君の眼にはね、正三角形を上下に重ねて現れる、六芒星の紋様が刻まれているんだよ」

 突拍子どころか、拍子すらなく、不意打ちの様なその事実に、阿可夜は頭痛を覚えた。

 「そんなバカな」

 吐いた言葉と裏腹に、表情は笑っていない。

 六芒星の紋様が、俺の眼に刻まれている?

 意味不明だ。誰が刻んだというのだ。それとも生まれつきか。オッドアイの親戚か。よく分からなさすぎるし、そんな派手な紋様に今まで気づかなかった俺も俺だ。いや、後天的なものの可能性だってある。でなければ、誰からもそんな異質な眼に対して指摘が無かったのは不自然だ。

 「アキ、『馬原の黒銅鏡』を持ってきてくれないかな」

 「はっ」

 アヤメが命令すると、秋霜童子は間髪入れずに早すぎず遅すぎずの歩みで、左隅の調度類置き場の様な所に向かっていった。そして、白い布を軽く被せられていた、それなりに大きな鏡を、両手で抱えて持ってきた。

 その鏡は、黒曜石の縁でできていた。深く沈んだ黒色の縁に、薄い円形の鏡が内側にはめ込まれている。

 「この鏡を正面から覗き込んでみたまえ、少年」

 這うような声に促されて、阿可夜は思わずアヤメの顔の方を窺ってしまった。

 自然、目が合う。

 その目は、その眼は、虚無と紫が入り混じった、双子の合いの子であった。

 透き通った黒の中に、確かに淀んで沈んでいる、揺らめく紫。

 浮世離れしたその幻想的で退廃的な眼に、阿可夜は見惚れてしまう。

 「鏡を見ろといったはずだぞ、私を見つめてどうする」

 「あっ、いや………、鏡なら先程、見たことがあると答えましたけど」

 「見てわかるだろう、これはただの鏡ではない。ほら、鏡の方を見たまえ」

 それは、アヤメに見惚れている事をごまかす為の出まかせであったが、例によってあっさりと片づけられてしまう。

 体感にして一分程、時間にして二秒弱の、視線の交わり。

 現実に引き戻された阿可夜は、すぐに秋霜童子が持っている鏡、馬原の黒銅鏡とやらの方に目を向けた。

 「何をしておるのだ貴様は……」

 相も変わらずデフォルトで呆れた表情をする様になってきた鬼の、至極真っ当な指摘を無視して、阿可夜は鏡を覗いた。

 「……、なんだこれ」

 鏡を見ただけで、「なんだこれ」という感想が出てくるのも変な話だろう。

 だが、変な話なので特に問題はない。

 鏡は、鏡の正面に顔を向けている阿可夜を映していなかった。

 鏡の前に立っているというのに、阿可夜の顔も、姿も、何も映っていないのである。何も映っていないというと、少し語弊がある。正確には、阿可夜を無視して、背景はしっかりと鏡にも映っているのである。

 「……、俺は鏡にも無視される程の人間ってことですか」

 何気なく自虐的な発言をして顔を背けると、少しだけ丸く目を見開いたアヤメが、軽く手を叩いた。

 「おや、珍しくも正鵠を射た事を言ったな」

 「ひどすぎる」

 「ん……?あぁ、いや違う、そういう意味ではないよ、阿可夜。君は鏡に無視される、といったね。君は無意識に言ったのかもしれないが、その感覚は大事だよ」

 「……?」

 「この鏡はね、確かに君を無視しているんだ。君という肉体を無視して、もっと別のものを見ようとしているのさ。だから君の身体、器は鏡に映らない。そもそも、映してはくれないようになっているんだ。ほら、鏡に顔を向け直してくれ」

 言われた通り、再び鏡に顔を向けると。

 「おわっ」

 どこからともなく青白い霞が湧き出てきて、鏡の表面を薄く覆いだした。

 ——が、すぐに弾けて霧散してしまった。

 「……、なんだったんだ」

 「なるほどね」

 アヤメが秋霜童子に顎で促すと、その仕草を確認した秋霜童子はすぐに鏡を元あった場所に置いて、戻ってきた。

 「よくわかった。少年、君のその眼は後天的なものだ。間違いない」

 今のやり取りのどこでそう判断したのか全くもって不可解だが、彼女がそう言うのであれば、そうだと思い込む事しか、今の阿可夜にはできなかった。

 「さて、端的に言うと、君の眼は『籠目紋』の眼をしている訳だが……」

 「……」

 アヤメが、少し目を瞑る。

 「……、ふぅ」

 途端、アヤメは脱力し。

 「……、んっ」

 身体をぐっと引き延ばし。

 「ふわぁああぁぁっ」

 なんとも間の抜けた欠伸をし始めた。

 「!?」

 唖然としている阿可夜を一瞥もせずに放置して、秋霜童子がアヤメの下に寄る。

 「随分とお疲れでしょう、アヤメ様」

 「あぁ、喋りつかれたあ。久しぶりに人と喋って、疲れてしまったよ私は」

 先程までの、ゆとりある威厳に満ちていた雰囲気の栓が抜かれて、代わりにふわふわとした何とも言えないぬるま湯空気が満ちていく。

 「そうでしょう、そうでしょう。足をお揉みいたしましょう。その次は肩です」

 秋霜童子が嬉々とした表情で、膝辺りまであるアヤメの靴下を慎重に脱がせて、その足の裏を丁寧に揉み始めた。

 その仕草たるや、昇華された細工職人を彷彿とさせる。

 「あぁ~、心地良い~」

 妖艶であるが故の威厳、不自然であるが故の威厳。妖しく美しく、不自然で不思議であるが故に、威厳を以てこの場を支配していたアヤメであったが、この状況下に於いては、完全に彼女の威厳と高潔さは損なわれていた。

 「……、あのー、結局俺はどうすれば……」

 ここにきて、宙ぶらりんだ。頭の悪いなりに、必死に会話についていこうと脳を酷使していたのに、ここにきて放り出されてしまった。これでは頑張って非現実と向き合っている自分が馬鹿馬鹿しいではないか。

 「その通りだよ、阿可夜」

 不意に、芯の通った声でアヤメが言葉を放った。

 「そも、非現実と馬鹿正直に向き合っていること自体が、愚かしいのさ。馬鹿馬鹿しい。くだらない。意義も意味も無いものだ」

 依然として秋霜童子のマッサージを受けながら、アヤメはリラックスした声色で話し続ける。その様子に、ほんの少しだけ親近感を覚えた。恐れ多くも、恐れ知らずにも。

 「久しぶりに人とこうして言葉を交わしたものだからね、私も随分と無駄な説明が多くなってしまったよ。だから、簡単にまとめよう」

 少しだけ体を整えて、アヤメが口を開いた。

 「君は、雑木林の中を歩いていたら、歌詠みの亡者の群れに襲われた。亡者に襲われた理由は、君の眼が歌詠みの亡者達が求める籠目紋であったからである。いつかは分からないが、籠目紋は後天的に君に宿ったものである」

 いつかは分からないが。

 それは俺にも分からないが……、心当たりはある。

 でもそれは、今言ったところでなんら変わる訳でもない。過去も、今も、変わるものではない。だから言う必要はないし、彼女の言っていた通り、俺も疲れてしまった。

 「そして君の籠目紋の眼は、簡潔に言うと、この世の産物ではない」

 ここにきて、漸く本題だろうか。閑話休題とは言い難い。余談は打ち切られず、走り切っての本題にきてしまった感じだ。

張り直し過ぎて緩みきっていた緊張を、もう一度だけ、なんとか張り直す。

 「君のその眼は、とある別の世界から流れてきたものの一つなのさ」

 「別の世界……?」

 何かの比喩だろうか。住む世界が違う……、みたいな。

 怪訝そうにする阿可夜を一瞥して、それでもアヤメは続けた。

 「その世界は、この現実世界と密接なところに、薄い膜の様な境界線を通して存在している。空に張り付くように、或いは大地に這うように。そして頻繁に、その境界線の乱れや解れを契機に貫通して、現実世界に影響を及ぼすのさ。ただの都市伝説から、天変地異まで、その世界から影響を受ける事象は少なくない」

 都市伝説から、天変地異まで。

 それはつまり。

 アカデミズムの敗北であり、オカルティズムの勝利を表す。

 非科学的と断じられたそれは、文字通り非科学的なモノとして存在していたのだ。

 その存在を、科学という、ある種とっても狭い観点からしか価値判断されてこなかったから、この世界を席巻する体系として居座る事が出来なかったのだ。

 だが、それでも猶、オカルトはその存在を主張していた。

 人の口から噂へ、噂から文字へ、文字からインターネットへ、その媒体を時代と共に変容させて、主張していたのだ。それを、深く考えもせずに軽視してしまったのは、他ならぬ自分だ。

 今更嘆きはしない。だが反省するとすれば、それはやはり、科学への妄信だ。

 スマートフォンがどう動いているかを、インターネットがどう形成されているかを知らない己を、いざという時に役に立たない「普通」にカテゴリーしてしまうのだけはやめよう。既に、自分が唯々諾々と従っていた普通には、自分の身を守るすべがなかった事を実証済みなのだから。これからは、なるべく科学もオカルトも徹底的に疑って、その上で受け入れよう。

 日常がこれから少しストレスになるだろうが、まぁ、これも良い刺激だと考えよう。

 「混沌のマンション、形而上の世界、或いは——、異形の幻夢郷」

 つらつらと、その世界を様々な語彙で例えるアヤメ。

 そのどれもが、一言で本質を言い表しているとは言い難かった。

 それほどまでに、その世界に対する説明は難しいのだ。しかし、そんな不十分な説明に限って理解力があるのが、紀ノ継 阿可夜の目を見張る特殊性でもあった。

 「異形の幻夢郷……、クトゥルフ神話に登場する、ドリームランドみたいな?」

 「どうしてこんな圧倒的に不足している説明に限って、鋭い理解力を発揮する事ができるのかな、君は」

 呆れている様で、誉めている様で。

 どちらともとれるその声色から様子を深く探る気力は、阿可夜には無かった。アヤメが疲れたと先程口にしたが、阿可夜もまた、かなり疲れていた。歌詠みの亡者の群れに追われて気絶した訳だが、気絶は睡眠とはその本質が違う。

 気絶とは、詰まる所、脳貧血である。様々な要因によって脳に送られるはずの血流の量が減少し、結果として意識を奪われる。睡眠とは意識をなくすフェーズが全く違うのだ。

 要するに、意識を手放していたからといって、体は睡眠の時程休めてはいなかったのだろう。

 「誉め言葉として受け取っておきます」

 適当な返しに、アヤメも食い下がる様子は無い。

 「君の言う通り、その世界はクトゥルフ神話に登場する異世界、ドリームランドに近いものだ。夢という、儚い糸口の様なものから、迷い込むようにして接触できる、不確かな異世界。だが一つだけ、ドリームランドと本質的に違う点がある。秩序が無限に近くあることだ」

 「秩序が無限に近くある……?」

 「秩序の乱立だよ。その世界の中には、数多のマナーとルールと法則と規則と観念と概念と制度と体制が跋扈しているんだ。現実世界など比にならないくらい。しかも、それらはほとんどが差別化、区別化されておらず、どこでどう適用されるかは未知数と言ってもよい。それを無秩序と呼ぶのかも知れないが」

 秩序が無限に近くある。

 確かにそれは、無秩序とは一線を画すニュアンスとなるだろう。

 無限に近い秩序があれば、それらを全て把握するのは不可能と言える。そしてそれを把握できないという事は、同時に起こり得る特定の事象に対する、一定数の無理解をも意味する。

 そして、特定の事象に対しての無理解は、時に観測者の違いによって生まれる。

 それが、人と人との対立に発展する。

 世界中で争いが絶えないのは、こういった理解の擦り合わせの限度で表象する無理解の衝突にあると、阿可夜は考えていた。

 現実世界だって、秩序が無限に近くある。どれほど小規模であってもコミュニティが形成されれば、その時点で他との無理解の因子を孕む事になるのだ。コミュニティの規模の拡大と共にその無理解も強い意味を持って行き、やがては別のコミュニティと、無理解の壁をぶつけ合うことになるのだ。

 そういう意味では、アヤメの言う異形の幻夢郷とやらは、現実世界とさほど変わらないものなのではないかとも思えてくる。

 「君の考える通り、その世界も、現実世界も争いが絶えない。だが大きな違いがあるんだ。先程も行ったが、現実世界の比にならないくらい、多くの秩序が存在している。例えば——、そう、〈同族は殺すものだ〉とか、〈仲間が苦しんでいたら他人を三倍苦しませろ〉とか」

 ——、それは。

 「倫理が無い、道徳が無い、というのでは?」

 「いいや、違う。倫理や道徳なんだよ、これが」

 そう言われて、微かだがニュアンスを理解した阿可夜。

 あぁ、そうか。

 畢竟、その世界は、個人至上主義なのだ。

 『人間』は、個人では成立しない。必ず他者との関わりがあって成立する存在だ。 

 そして倫理や道徳は、『ヒト』が『人間』であるために必要な要素だ。

 しかし、その世界は関わりを重視していないのだ。故に、小さなコミュニティが無数に秩序を形成して、日々衝突しているのだ。その世界に恐らく、大きなコミュニティは存在しない。同じ考えを持つ者同士で助け合う、という考え自体がそもそもマイノリティなのだろう。

 少しだけ、阿可夜はぞっとした。

 その世界には、『絶対』が無いのだろう。

 そして仮にあるとすればそれは、残酷なまでに、冷酷なまでに、優劣や甲乙、善悪でカテゴライズされる事のない、ただの結果のみが絶対なのだろう。

 その世界は、起こった事のみが、道理なのである。

 アヤメは、夢想の風景を眺望するかのような遠い目で、その異世界の名を口にした。


 「その世界の名前は——、『ナラカラ』」

 ナラカラ。

 不思議な響きだ。

 「君の眼は、そこからやってきた産物だ」

 本題に行き着いたところで、まずは息つきたいものだ。


 ふう、長い永い副題が、漸く終わった気がした。


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