Side

第1話

 別に大した動機なんてない。強いて言えば海が綺麗だったから。

 空の青さとも違うその色に惹かれて一歩また一歩と足を進めた。

僕は裸足だった。日光によって熱された砂浜はとても暑く、僕の素足をひりひりと焼いた。ざぶんと打ち寄せる波が足にかかると冷たくて気持ちよかった。それに気を良くして僕はまた歩みを進めた。足から太もも、腰から肩へどんどん水位は上がっていった。

 「あ、深い」と思った時にはもう遅かった。ガクンと足がもつれて僕は水中へ倒れた。上下がわからなくなる感覚に本能的な恐怖が湧き上がってくる。自然と水面を目指そうとする身体を理性で抑える。

 怖くなんかないはずだろう?ずっと待ち望んでいたじゃないか。それにこんなに綺麗な青の一部になれるのだとしたらそれはそれで素敵な終わり方ではないか。

 息苦しさで目に涙が浮かんだ気がした、なんせ水中なので僕の視界をぼやけさせているのが涙なのか海水なのかわからない。

 口の中がしょっぱい。開いた口からごぼりと二酸化炭素の塊を吐き出すと交換するように水が体内に入ってくる。

 溺水は比較的短時間で死に至らせてくれる。僕は朦朧とする中、安心して意識を手放そうとした。なのに、誰かが僕の腕を掴んで力強く引っ張る。あっという間に海中から地上へ戻され、そのまま砂浜に向かって腕を引かれる。いまだに体に力が入らない僕をずるずると引きずるように沖から遠ざける。波がやってこない砂浜までやってくると彼は僕を地面に突き飛ばした。僕はその場にうずくまってしばらく水を吐き出していた。咳き込む僕を彼は眺めて「…危なかった」と呟いた。

 ようやく息も落ち着いたあたりで僕は彼に文句を言う。

「…また邪魔された」

「あんな浅瀬で死ねるわけない。本当に沈みたかったら重石くらい括りつけろよ」

「安心してるくせによく言うよ。僕がちゃんと喋り出してほっとしたって顔に書いてある」

 ただの揶揄いのつもりだったのに、彼は罰が悪そうに目を逸らす、図星かよ。沈黙が気まずいので仕方なく僕が話し始める。

「どうして分かったの?僕が家を出る時、君がちゃんと眠っていることを確認したのに」

「睡眠薬混ぜたコーヒー出してくるなんて幼馴染のやることじゃない。」

「なるほど、こちらの手の内はお見通しってわけね」

 飲んだふりをして狸寝入りをし、彼が眠ったと思って家を出た僕を追いかけてきたのだろう。

「とりあえず、帰ろう。帰ってお風呂に入らないと二人とも風邪ひいちゃう」

 自分で言って可笑しくなってしまう。さっきまで死のうとしていたのに風邪をひくことは防ぎたい?なんて矛盾だろう。彼はそれには気づかず「そうだな」と力のない声で言い、僕の手を引いて家のある方向へ歩き出す。地面が砂浜からアスファルトに代わり、僕たちから滴り落ちた塩水が足跡を作っていた。

 半年前から僕たちは海沿いの古い民家を借りて二人で暮らしている。それまではお互いに都会の雑踏の中で普通に仕事をして忙しく生きてきたのに、今は彼と二人で息を潜めるように毎日を送っている。


 僕たちはもともと三人だった。昔からずっと、物心ついた時から僕と彼と彼女がいた。親同士の仲がいいとか家が近所だとかきっかけは忘れたが、幼稚園から大学までずっと一緒だった。何かで悩んだ時は親なんかより先に二人に話すのが当たり前だった。就職先こそ違ったもののやっぱり近所に住んでいて、しょっちゅう会っていた。わざわざ一人暮らしをしなくても、ルームシェアすればいいのに、なんて提案があがったことも一度や二度じゃない。

 男二人に女が一人だったけど、僕と彼のどちらかが彼女と特別な仲になるような事はなかった。いつまでも昔と変わらない三人組でいるためだ。きっと彼も同じ考えだったであろう、暗黙の了解というやつだった。

 それなのに彼女は突然居なくなった。僕たちが長年守ってきたものは一瞬で、具体的に言えば酒に酔って暴走した自動車によってあっけなく壊された。即死だったらしい。事故の衝撃で物理的に崩れ、エンバーマーさえ匙を投げ出して布に包まれたままの彼女に「…せめて苦しむ時間が短くて良かった」と声をかけたのは僕だったか彼だったか、それさえわからないほど僕たちは憔悴していた。

 分かりやすくショックを受けたのは僕のほうが先だった。僕は仕事をやめた。まともに出来なくなったからだ。一応、何かしらの精神疾患の名前がついているらしく、僕は療養のためにこの長閑な土地にやってきた。全く知らない土地を選んだのは都会には彼女の影が多すぎるからだ。度々、自殺未遂を起こす僕を監視する目的で彼も付いてきた。彼は家でもできる職種に切り替えたらしく、PCの前で何やら難しい顔をしている姿をよく見かける。

 終わりの見えない奇妙な二人暮らしはこうやって始まった。


 順番にお風呂で体を温め、濡れた髪をドライヤーで乾かしてからソファに座った。彼がマグカップを二つ持ってきて隣に座る。片方のカップを僕に手渡してくれた。顔を近づけると林檎のように甘く、干し草の独特な香りが鼻腔を蕩かす、カモミールだ。暖かい液体を一口啜ると彼が僕の肩に頭を預けた。

「…なあ、置いて行くなよ」

 彼は泣いていた。でも彼自身気づいていないようで、嗚咽もなく雫だけがはらはらとその両眼からこぼれ落ちていた。

「置いてかれるのはもう沢山だ」

 その気持ちは痛いほどわかった。ただでさえ三人が二人になった絶望に耐えられない僕が、彼まで失った世界で生きていけるはずがない。

はたから見れば僕だけ病んで、彼が世話を焼いているように見えるかもしれない。しかし彼が僕と同じだけの喪失を抱えていることを僕はちゃんと知っている。当たり前だ、僕たちの間で隠し事なんてできるわけがない。

 僕は無言のままカモミールティーをまた啜り、以前よりずいぶん痩せて軽くなった彼の重みを肩に感じていた。

 ふとある事を思いつき、カップをテーブルに置いて彼の顔を覗き込む。深い隈が刻まれたやつれた顔を正面から見る。

「…じゃあ一緒に死んじゃう?」

 僕の提案に彼は少し口角を上げたものの、今度こそしゃくり上げて泣き始めた。泣きじゃくる彼を抱きしめて背中を撫でてやる。

 窓の外を見ると日が傾きかけていた。だんだんオレンジ色の光が部屋に満ちてきて僕たちの影が長く伸びていくのを眺めていると、腕の中の彼の泣き声が小さく弱々しくなってきた。

「おやすみ」

 腕の中の彼を再度、抱え直して僕もソファに体を預ける。そこら辺にあったブランケットでお互いの体に被せ、目を閉じる。僕も眠ってしまおう。

 明日も僕たちは恐怖と不安の中で寄り添いあうのだろう。だから今だけは、眠っている間だけは安寧の世界でありますようにと願う。彼の薄い身体と体温を感じながら僕は意識を手放した。

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Side @sinonome_shikimi

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