第一章(後編)

「……………」


突き抜けるような青い空。雲ひとつない快晴。


まるで観光写真のような美しい空をバックに、大柄の虎獣人の迫力ある顔面が、逆光に翳りながらじっと俺を見下ろしている。


「……つ、じ……?」


その名を呼びかけたところで、ほとんど発作的に、俺は慌てて飛び上がっていた。

もつれた足で立ち上がれなかったが、ひとまず辻田の足元からは跳ね退いた。崩れた体勢のまま、虎の顔を眺める。いかんせん理解は追いつかなかった。

記憶の残像のようなものだと、本気で思っていた。だが今、確かに目の前に、その男が立っている。腰に手を当てた仁王立ちで、ぱつぱつのカッターシャツに包まれたがっしりとした身体は、下方から見上げると一層に頼もしく見えた。


俺をじっと見つめる辻田は、しかし何も言わない。その顔には表情さえない。いや、少しだけ口元を緩めているように見えた。俺もまた、その顔を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。

数秒間、お互いに押し黙ったまま、見つめ合う時間が流れたのち……少し落ち着いて、口から漏れたのは素直な疑問の言葉だった。


「……な、なにしてんの……?」


ずっと黙っていたくせに、俺がそう言ったら間髪入れずに辻田は答えた。


「お前だろ」


「……え?」


「何してんだよ、こんなとこで」


もっともらしい顔でそう言いながら、辻田は両手を腰から胸の前へ、ゆっくりと腕組みをした。その声は、いつも教室で耳にしている、低くて野太いけれど不思議な穏やかさのある、まさしく辻田の声だった。その低い声は、動揺のせいで細くなった俺の言葉とは違って、誰もいない屋上のコンクリートによく響いていた。


「立入禁止だろ、ここ」


辻田が続けた。その貫禄のある出立ちといい、よく通る声といい、下手をすれば本物の教師よりも教師然としていた。


「まあ、うん……」


「なんだ、人に会いたくなかったか?」


一発で図星を突かれたので、少し口籠もってしまった。


「……んん」


うつむき、肯定でも否定でもなく曖昧に答えたつもりだったのだが、辻田は「肯定」と受け取ったらしかった。


「まあ、そうだよな……なんか、嫌な感じだもんな」


顔は見ていなかったが、苦笑いのような表情を浮かべている感じだった。口調の方も、どこか口ごもったような雰囲気だ。どうやら、俺に同情してくれているらしかった。


「邪魔しちまったな。来ない方がよかったか」


「い、いや……そんなことないよ」


そんな言い方をされたら「来てほしくなかった」なんて、言えるわけがない。でも実際、俺は嫌な気持ちなんかじゃなかった。むしろ嬉しかった。いま、会えて素直に嬉しいと思える人物といったら、この男くらいしか思い浮かばなかった。とはいえ、そんなに仲が良いわけじゃないから、会えるわけがないと……思っていたのだが。


辻田は、低い声で一言だけ「そうか」と答えて、少しだけ目を細めた。


「なっ……どうか、したの?」


「何が?」


「いや、なんでわざわざ、ここまで……?」


俺は、だいぶ落ち着いてきていた。改めて辻田に尋ねながら、俺はゆっくりその場に立ち上がった。グラウンドから舞い上がった砂埃が溜まるのか、俺のズボンはすっかり埃まみれになっていた。


「見えたんだよ、窓から」


「見えた?」


「そう、お前がここにいるのが……もう真っ白じゃねえか、ズボン」


ズボンの埃を払いながら聞いていたら、辻田が言った。そして、少し笑いながら近づいてきて、一緒に埃を払ってくれた。


「いや、いいって、大丈夫……」


辻田の叩く手は少し荒っぽくて、何度か足にまで当たって痛かった。でも、やはりそれだけの力があって、辻田が叩くたびに沢山の砂埃が舞って、落ちた。


「……いいか、これくらいで」


「うん……ありがとう」


しばらくぱんぱんと叩いて、目立つ埃はすべて落とすことができた。黒いズボンはまだ全体的に灰色がかっていたものの、これくらいだったら学内で目立つことはないだろう。


ひと段落したので、もうそろそろ屋上を立ち去ろうと思った。こういう状況になれば、もはや屋上にいる理由はないのだ。もうじき、昼休みの終わり五分前を知らせるチャイムも鳴るはずだった。


「えっと、じゃあ……」


教室、戻ろうかな……と言おうとしたその時。

突如として俺の身体は、あらぬ方向へと引っ張られてしまった。


「…………!?」


先ほどまで屈んで埃を払ってくれていた辻田の手が、俺の肩に回されていた。半ばぶっきらぼうに身体を抱き寄せられ、そのまま辻田の向かう先へと引っ張られていく。辻田は階段へと出るドアに背を向けて、屋上のさらに奥、グラウンドを見渡せるフェンスの方へと向かっていった。首の後ろに回された太い腕に押されて、俺もまた歩を進めざるをえなかった。


「いや、戻……」


俺が言いかけたのを、辻田は「まだ大丈夫だろ」と言って嗜めた。低い声は、まるで密着した身体を伝って響いてくるように聞こえた。おそらく、まだ時間はあるという意味だろう。


俺は緊張した。言葉を交わしたことさえ数少ない相手に、いきなり抱き寄せられてしまって。

カッターシャツの薄い布地越しに、肩には辻田の掌の感触、そして右半身の全体で、自分を丸ごと包んでしまうようなガタイの分厚さと、そのぬくぬくとした体温を感じた。決して悪い居心地ではなかったはずなのに、俺の身体は強張って、ぐっと縮こまってしまっていた。すっかり密着していたはずなのだが辻田は、俺が硬直してしまっていることには気付いていないようだった。


「へえ、こんな感じなんだなあ」


フェンスの前まで辿りついて、金属の網目からグラウンドを見下ろした辻田が感嘆の声を上げた。彼にしては珍しく、声のトーンが少し高くなったような感じで、はじめて見た屋上からの景色に、本当に興奮したらしかった。

他にどうしようもなく、俺もグラウンドに目を落とした。野球部と思われる面々が、グラウンドの整美のために走り回っていた。


「へへ、サボったんだな。野尻は」


辻田が少し笑いながら呟いた。それを聞いてようやく、先ほど廊下で辻田とつるんでいた面々の中に、野尻の顔があったことを思い出した。


「しっかし、いい天気だなあ」


辻田は右手でフェンスを掴み、軽くもたれかかるような姿勢になった。左手は変わらず、まだ俺の肩の上にあった。


「屋上なんて、初めて来たなあ。よく来るのか?」


俺の顔を覗き込むようにして、辻田が尋ねた。虎族らしい強面をふさふさと覆う、その茶色がかった毛並み一本一本まで見えそうな近さだった。さすがに目を見ることはできず、初めてだよ、とグラウンドを見つめたまま応じた。素っ気ない態度をとってしまったが、辻田はさして気に留めるようでもなく「ふうん、そうか」と、あっさり答えた。


「正直、慌てたよ。最初、お前が見えた時」


「……慌てた?」


「そうだよ、なんか……変なことするつもりじゃ、ねえだろうなってさ」


意味が分からず、思わず辻田の顔を見た。いつのまにか辻田もまた、グラウンドに視線を戻していた。


「……変な、こと……?」


辻田は何も言わなかった。俺の相槌を無視したというより、言葉にするのを躊躇っているような雰囲気だった。しばらく、その横顔を見つめて……ようやく、辻田の言わんとした意味が分かった。


「ああ、いやいや……」


思わず苦笑いしながら、かぶりを振った。


「そこまで思いつめてないって。大丈夫」


「……なら、よかったけどさ」


そう言ってから辻田は、俺を抱き寄せたその左手で、俺の肩をぽんぽんと優しく叩いた。じっと見ているとその横顔は、どこか晴れ切らない複雑な表情を浮かべているように見えた。


そして辻田は急に黙ってしまった。俺も何を言えばいいか分からず、口をつぐんだ。二人きりで黙ったまま、グラウンドを行ったり来たりする野球部の小さなシルエットを見つめていた。


「……なあ、武倉」


口火を切ったのは辻田だった。頭の中で言葉を探していた俺は、すぐさま聞き手の頭に切り替えた。


「俺は尊敬してるよ、お前のこと」


「……尊敬?」


「ああ」


そこまで言って、また辻田はしばらく黙った。思いがけない言葉だったので、俺もまた返事をすることが出来なかった。ただ、なんとなく切なげな辻田の顔を見ているのが居た堪れなくなって、目線を再びグラウンドに戻しただけだった。


「大変だろ、あんだけ部員がいたら、まとめるの」


「……ああ、まあ……」


「よっぽど人望のある奴じゃないと、無理だよ。俺にはできない」


「いや、そんなこと……」


「しかも、強豪だし。プレッシャー、半端じゃねえよな」


「それは、そっちだってそうだろ」


「いや、うちはまだまだだよ」


そんなことはない。確かに以前は、校外において認知さえされていなかったラグビー部だが、ここ数年の目覚ましい活躍によって今や地域屈指のチームとして名を馳せ、県外からも注目を集めるようになっていた。もはや強豪と呼ぶにふさわしいチームと言って過言ではないはずだ。


「まだまだ、これからだ」


辻田はそう言って、少しだけ笑った。

素直に、すごいと思った。そして同時に、自分もそんなふうに「これからだ」と、そんなことを言える人間であったら、チームはまだ勝ち続けることが出来ていたのかもしれないと、そんなことを思った。


「……すごいな、お前」


俺はつぶやいた。この声が、辻田の耳に届いたかどうかは定かではなかった。

すると突然、辻田の左手に力がこもり、ぐっと抱き寄せられた感触がした。


「お前だって、すごいよ」


「……………」


「……よくやったよ、お前は」


「……ありがとう」


小さく感謝を伝えてから、しかし反射的に、頭の中から言葉が溢れ出してきた。


「でも、負けちゃったからな。ダメだったんだ、結局」


ずっと抑えていた、誰にも言えなかった本音が、思いがけず口から漏れてしまった。


二人の空気が、少しだけ張り詰めるのを感じた。いや、俺の気のせいだったのかもしれない。だけど、辻田がぱったりと押し黙ってしまったのは事実だった。

こんな言葉、誰にも言うべきではないと分かっていた。ただの甘えでしかない。俺はひとりで黙って、すべてを飲み込むつもりでいた。きちんと自分の責任をとるつもりだった。それがリーダーの役目を背負った者として出来る唯一の、そして最後の仕事だと思っていた。


「俺はそうは思わない」


辻田が突然、きっぱりと言い切った。どこか迫力さえ感じさせる声だった。


「……俺はさ、武倉」


「……………」


「この立場になって、はじめて『主将』って肩書きの重さが分かったんだ。それまでは何も、先輩の気持ちとか何も分かってなかった。でも多分、こういう立場になった奴じゃないと、分からないんだと思う」


辻田の落ち着いた低い声は、まるで密着した身体を伝って直接、響いてくるように聞こえた。


「リーダーでなきゃいけないし、何があってもチームを勝利に導かなきゃいけない。確かに、あの結果はお前の責任だったかもしれない」


自分の中で何度も言い聞かせてきて、分かり切っていた事実のはずだったが、他人から言われるとやはり胸に刺さった。いや、辻田から言われたからこそ、心に迫ったのかもしれない。


「でもな、武倉」


そして辻田は、さらに俺の肩をぐいと抱き寄せた。俺はされるがまま、頭を辻田の大きな胸元へと預けることになった。


「俺は、お前が『負けた』とは思わないぞ」


辻田の胸は暖かく、そして思ったよりも弾力のある感触だった。そして、何度かすれ違った覚えのある、辻田の男っぽい匂いがした。俺は立ったまま、それを枕にしているような気分だった。


「あんなふうに泣ける奴が『負け』だとは、俺は認めないよ」


不意に、心の弱い部分をぐっと掴まれたような感じがした。


「しんどかったんだ、見てて。お前の気持ち、分かる気がしたから」


「……………」


「今も、お前が一人きりになってんのとか見ると、辛いんだ。よくねえよ、余計落ち込むだろ?」


分からない。自分が一人になりたいのか、本当は誰かと一緒にいたいのか、最近はもう自分でも分からなくなっていた。誰かと分かち合いたいのか、それとも一人で噛み締めていたいのか……そもそも、自分には「分かり合える人」が、いるのだろうか。あの日以来、そんなことばかり考えていた。


「お前が俺のこと、どう思ってるかは分かんねえけど……俺はさ、お前のこと、同じ主将って立場の人間として……仲間だって、思ってるから」


気持ちがじんわりと暖かく、解きほぐされていくような感じがした。そして同時に、鼻の奥がつんと熱くなるような感覚を味わった。


「だから、よかったらさ……もっと仲良くしようぜ、友達として」



………友達。



その言葉を聞いて、なかば感傷的になっていた俺の心は、さっぱりと冷たくなった。

甘い夢の中から、いきなり現実に引き戻されてしまったような、そんな気分だった。


「話だって聞くし、俺に出来ることだったら、なんでも……」


そう言いかけていた辻田を、俺は反射的に押し退けてしまった。

それは、誰の目にも明らかな「拒絶」だった。俺は辻田の懐から脱け出し、二人の身体は離れた。強靭な足腰で、ちょっとやそっとの衝撃では体勢を崩さないであろう辻田の身体が、俺に突き飛ばされてぐらりと傾き、二三歩の後退りをした。


すぐにはっとして、辻田の顔を見た。咄嗟のことに、呆気に取られて驚いた様子だったが、すぐに悲しそうな、寂しそうな表情になってしまった。


「……あ、いや……」


なんとか弁明しようと思ったが、言葉がまったく浮かばなかった。


「……俺、なんかやっちゃったかな、お前に」


先ほどまでとは打って変わって切なげな声で、辻田が言う。その不憫な様子に、俺はますます狼狽した。


「いや、違うんだ。その……」


言いかけた俺の言葉を、辻田は「いや、いいよ」と遮った。


「……悪かったな、邪魔して」


弱々しい苦笑いを浮かべてそう言い残すと、踵を返し、ドアに向かって歩き出そうとした。


「い、いや……待ってくれ、辻田」


数歩のところで、辻田は立ち止まってくれた。でも、振り返ってはくれなかった。


「その……嫌いなわけじゃないんだ。お前のこと。ただ……」


「……何だよ」


背中越しに聞こえる辻田の声は、先程までの優しい口調から打って変わって、ずいぶんぶっきらぼうな口調に聞こえた。


「いや、その……とにかく、お前のことは良い奴だと思ってるし、俺だって……できるなら、仲良くしたいって思ってるし……」


その時、辻田が振り返った。


「そう思ってるなら……もうちょっと愛想よくしてくれても、いいんじゃないのか」


その目つきは鋭く、厳しい表情だった。当然の憤りを、もはや隠そうとさえしていなかった。


「あんなふうに避けられたら、誰だって……悲しいし、嫌われてるって思うさ。分かるだろ?」


「……ごめん」


「いいって、もう」


辻田は、ゆらゆらと首を振りながら言った。すっかり諦めてしまったような言い方だった。


「もう話しかけたりしねえから。無理させて、付き合わせて……悪かったな」


「いや、辻田……っ」


辻田は、今度こそ立ち去ろうとした。慌てて「待ってくれ」と声をかけたが、その足は止まらなかった。どうしようもなくなった俺は、咄嗟に辻田の両肩に手を置いて、背後から無理やり引き留めた。さすがに辻田も、俺を引きずりながら歩を進めようとはしなかった。


「い……嫌だよ、そんな、絶交……みたいな」


すると辻田は勢いよく振り返り、肩の上の両手を跳ね除け、俺の顔をきっと睨みつけた。


「じゃあ、なんで俺のこと避けるんだよ」


「それは……」


「嫌いだからだろ」


「違うって……!だから、その……」


「いいよ、今さら気にしてねえから」


「いや、そんな……」


「はっきり言えばいいじゃねえか。お前のこと嫌いだから、仲良くなんかしたくないって……」


「だから、違うって言ってるだろ……!」


きっぱりと言い放つと、辻田は一瞬、息を呑んだように黙った。俺はもう、自分の言葉を止められなくなっていた。


「……嫌いじゃねえよ、俺は……好きなんだよ。好きだからだよ」


辻田は何も言わなかった。俺は下を向いて、吐き出すようにして喋り続けた。


「好きなんだよ、お前のこと。友達として、とかじゃなくて……付き合いたいとか、恋人になりたいとか、そういう気持ちで俺は……好きなんだよ、お前が」


「……………」


「二年の時、はじめて見かけてからずっと……だから同じクラスになれて、嬉しかった。仲良くなりたいと思ったよ。でも、普通の友達になっちゃったら……仲良くなればなるほど、なんか惨めっていうか、寂しい気持ちになるって分かってたから……だから、ずっと……距離、置いてたんだよ……」


思わず感情的になり、口が滑ってしまったものの……最後の方にはすっかり我に返って、声もどんどん小さくなってしまった。にわかに、すーっと背筋が涼しくなるような感じがした。今、目の前で起こっている出来事にリアリティを感じなかった。足元のコンクリート、そこに伸びる自分の影も幻みたいで、まるで夢の中にいるようだった。だが、背中に照りつける太陽の放射は確かに熱く、吹き抜ける微風は確かに涼しかった。


「……………」


背筋に続いて、手足の先まで冷たくなってくる。たった今、自分が犯した失敗の大きさを、俺はだんだんと理解し始めていた。頭はとっくに真っ白だった。おそるおそる、顔を上げてみる。辻田は……穏やかでもなく、憤っているでもなく、なんとも言い難い神妙な表情を湛えた顔で、じっと俯いていた。逃げ出したくなるほど居た堪れなかったが、逃げることも言い訳をすることも、今の俺には無理な話だった。ただ学生ズボンの生地を握りしめて、じっとその場に立っているほかなかった。ただ、辻田の顔を見つめているのはさすがに耐えられなくて、俺はがっくり項垂れて、履きつぶしたスニーカーに視線を落としていた。


「……………」


長い長い沈黙だった。俺の心はじわりじわりと、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていって、そしてついに耐えきれなくなった。二度と開かないでおこうとさえ思ったこの口から、震える声が溢れ出した。


「……ごめん」


「……………」


「い……言うべきじゃないって、分かっ、てたんだけど……」


「……………」


「忘……れてほしい、なんて言っても……無理、だよな」


「……………」


「……ごめん、本当……気持ち悪いよな。もう……顔合わせないようにするから」


「……………」


「ただ、その……ほ、他の人には、その……言わないで、ほしいんだ。それは、お願い……」


ただでさえ項垂れていた頭をさらに下げて、辻田の情けを乞うた。それが、今の俺に出来るすべてだった。


「…………っ」


頭を下げていたら、ふと肩をぽんぽんと叩かれた。続いて、あの低くて静かな声が響いてきた。


「……顔、上げろよ」


心なしか、いつもよりも低い声のような気がした。顔を上げると、辻田はじっと俺を見つめていた。鋭い眼差しに、一文字に結ばれた口元……いつもより険しい表情なのか、それとも普段からこうだったか、今の俺には判断がつかなかった。ただ、辻田の強面な顔立ちを「怖い」と感じたのは、これが初めてのことだった。思わず目を逸らしたくなったが、頑張って堪えて、その細い目をしっかりと見つめた。


「……分かった」


辻田はそう短く言って、小さくため息をついた。


「……悪かった、俺の方こそ……その、無理に訊いちまって……」


「……………」


「……思わねえよ、気持ち悪いなんて。他の奴にも、言わない……分かってるよ」


「……あ、ありがとう……」


小さく言うと、辻田は少しだけ口元を緩めた。それに合わせて、同じように表情を崩してみせる……そこまでの余裕はまだなかったものの、俺の気持ちは少しだけ楽になった。


「……ひとつ、訊いてもいいか」


辻田は、その僅かな笑みを引っ込めて真剣な表情に戻って、言った。再び、周りの空気がぴんと張り詰めるのを感じた。


「……う、うん……?」


「……その、本当……なんだな?」


「……へっ……?」


「だから、その……」


ここまで動揺を感じさせなかった辻田が、にわかにその眼光を曇らせて、どこか恥ずかしそうに目を逸らした。


「その……俺のこと、好き……だって」


まるで辻田のが伝染してきたように、俺はたまらなく恥ずかしくなり、辻田の顔を見られなくなった。言葉で答えることなんか出来ず……俺は下を向いたまま、首を縦に、小さく振った。辻田の言葉が続いた。


「……付き合いたいって、言ってたな」


「ご、ごめん……」


「……いいよ」


「本当に……もう、忘れて……」


「違えよ」


「……………?」


「……付き合うかって、言ってんだよ」


思わず、辻田の顔を見た。相変わらず感情の読みづらいその顔は、しかし先程までとは違って、幾分の緊張で固くなっているように見えた。


「……お前は、友達じゃなくて……そっちの方が、いいんだろ……?」


言っている意味が分からず、答えあぐねていると、辻田が戸惑った様子を見せた。


「……違う、のか?」


「えっ……い、いや……」


「……俺はいいよ、別に。相手もいねえから」


「……いや、でも……」


「何だ?」


「……男、好き……なのか、お前……?」


「はあ?俺は違えよ」


辻田が笑った。


「……だ、だろ。違うんだろ……?」


「ああ」


「じゃあ……無理だろ、付き合うなんて……」


「いや、だから可能な範囲でな」


「……可能な、範囲……?」


「そうだ」


「……………」


なかなか釈然としない俺に、辻田が少し苛立ったような口調で、問いただしてきた。


「……何だよ。お前が、友達は嫌だって言ったんだろう」


「い、いや……」


「それより……付き合いたいって、言っただろ」


「……そ、それは」


「ああ?」


「ひとつの、その……ものの喩えっていうか……」


「じゃあ何だ、嫌なのか?」


「えっ、いや……嫌じゃ、ないけど……」


「だったら、いいだろ。明日から恋人だ、俺たち」


そう言って辻田は、口元を緩ませたが……俺はその時、二人の間に横たわっていた認識のギャップが、ようやくはっきりと見えたような気がした。俺の両肩を掴もうと伸びた辻田の腕を、俺は反射的に振り払った。


「……やっ、やめてくれ」


「はあ……?」


呆れたような、苛立つような声だった。度重なる拒絶に、辻田はさすがに腹を立てているようだった。だが、仕方なかった。


「……恋人とか、やめてくれ。いいから、もう……忘れてくれ」


とにかくもう、一刻も早く話を終わらせたかった。そのためには、この場から立ち去るしかないと思った。


「おい、武倉」


「もう、いいんだ。バカにしないでくれ」


「……ちょっと、待て」


そして、階段へと戻ろうとした、その時……いきなり乱暴に、腕を掴まれた。

辻田はそのまま俺の腕を引っ張り、力ずくで俺を引き戻した。その力には、一切の手加減が感じられなかった。


「……どういう意味だ」


辻田は、ぬっと俺の顔を覗きこんで、低い声で尋ねた。いやに厳しく、凄みさえ感じさせる表情だった。気圧されて何も言えずにいると、辻田はもう一度訊いてきた。


「バカにしてる?どういう意味だ」


「……もう、いいんだ。俺が、余計なこと喋っちゃったから……」


「訊いてんだよ」


掴まれた腕をさらにぐっと握られ、鈍い痛みを覚えた。


「なんで俺が、お前をバカにしてることになるんだ」


「……軽々しく、言わないでほしい」


「何を」


「恋人とか、付き合うとか……そんな適当に、言わないでくれ」


「適当になんか言ってねえよ。本気で言ってる」


「いや……」


「お前が凹んでんの、見てらんねえから。友達じゃなくて、恋人がいいんだろ。いいよ、分かったよ。出来る範囲でいいんなら、全然いいって。本気だよ、俺は……勝手に決めつけんなよ、何でもかんでも」


「……違うよ」


「何が違うんだよ」


「……無理なんだって」


「ああ?」


「……違うんだよ、俺と……お前とは」


「だから『出来る範囲』で、だって」


「違う」


「何が」


「俺は……その、異性として……好きなんだよ。お前が女子を好きになる、そういう気持ちで、さ……」


「解ってる」


「いや、解らないんだよ、お前には。だから、もう忘れ……」


「解ってる、つってんだろ」


口調からして辻田は、少し苛立っているようだった。


「いや、だから……俺が、お前のことを好きなのは、もっと、真剣な気持ちで……」


「俺は真剣じゃねえって言うんだな」


「違う……!そうじゃなくて、だから……」


「……俺は真剣だぞ、武倉」


「いや、俺が言いたいのは、その……俺の真剣と、お前の真剣は、そもそも、モノが違っ……」


「これで良いのか」


「……えっ、なん……」


その瞬間。

俺はもう片方の腕まで掴まれ、そのまま強引に辻田の身体へと引き寄せられた。

それと同時に、見たことのないくらい近くまで、辻田の顔が迫ってきたのが一瞬、見えた。


(……………!?!?)


次の瞬間。

俺は、両腕を掴まれたまま、目を見開いていた。俺の口先が、確かに……触れていた、辻田に。

辻田は、目を閉じていた。真剣な顔だった。その表情を、俺は文字通り「目と鼻の先」で見つめていた。


「……………」


まるで罰ゲームで強要されたときのような、口吻同士をくっつけているだけの、浅い接吻だった。しかし、そこに照れ笑いなどはなかった。感じられたのは、辻田の真面目な想い、ただそれだけだった。キスをしている事実よりも、その誠実さが、俺の心を揺さぶり、脈拍が高まった。


「……っ」


何秒間だったのか、考えるような冷静さはとっくに吹き飛んでいた。しばらく経った後、辻田はおもむろに口吻を離し、ぐっと握っていた俺の両腕から手を離した。解放されてはじめて、腕に残った鈍い痛みを感じた。気が回らなかったが、相当な力で掴まれていたらしかった。

呆然としたまま、辻田の顔を見た。気まずそうに背けられたその顔は、いつもと同じ強面のはずなのに、どこか幼げに見えた気がした。


「……………」


俺も、辻田も、何も言えなかった。お互い、とても茶化せるような雰囲気ではなかった。というより何より、恥ずかしかった。いたたまれなかった。初めてのそれを、ここで……辻田と迎えるなど、思ってもみなかった。不慣れな雰囲気からして、あるいは辻田も……同じようなことを思っている、そんな気がした。


「……すまん」


たった一言、辻田の低く、小さな声が、突き抜ける青空に空しく響いた。


(キーン、コーン……)


ちょうどその時、授業開始五分前を知らせる予鈴のチャイムが鳴り響いた。


「……………」


俺は、まるで突き動かされるように、早足で歩き出した。

下を向いたまま、一目散にドアを目指す俺を、今度は辻田も、引き止めようとしなかった。

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サッカー部主将の狼DKがラグビー部主将の虎DKと恋人同士になるまで(試し読み版) あべ泰斗 @abetaito3121

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