サッカー部主将の狼DKがラグビー部主将の虎DKと恋人同士になるまで(試し読み版)

あべ泰斗

第一章(前編)

空には、雲ひとつ浮かんでいなかった。



四方を囲うように建てられた重い灰色のフェンスは身長よりも高く、頭の高さから少し上のあたりで内側に曲がっている。絶対に乗り越えられないように、安全のための工夫なのだと思う。


交差する金網の隙間から、街を見渡す。見覚えのある店や住宅がいくつか見つかる。その前を歩く小さな小さな人影を見つめていると、いつかの自分を俯瞰しているような不思議な気分がした。


遠くに目を向けてみると、一際目を引く建造物がある。巨大な輪の形をしたそれは、隣町にある大型ショッピングモールに隣接した、観覧車である。きっと向こうからも、この場所が見えているだろう。気づかないだけで、誰かと目が合ったりしているのかもしれない。そんなことを思った。


空を見上げる。雲ひとつない、淡い青色で一面が覆い尽くされている。ふと微風が来て、顎の下でふさふさしている白い毛を撫でていく……。

思わず、ため息が出た。青空の気持ちよさが、今は「お前の気持ちなんて知ったことか」という嫌味のように思えて、ちょっと不愉快だった。


顔をしかめながら、出口へと向かおうとして……足が止まる。教室に戻って、午後の授業の準備を……と思ったが、あの居心地の悪さを思い出してしまった。じろじろ見られたり、ひそひそ話されたり……誰も声にはしないが、なんとなく皆に意識されているような雰囲気が息苦しかった。とはいえ皆にそうさせているのは、誰かと喋ったり笑ったりするような気になれず、一人きりで小さくなっているこの態度なのだから、皆の視線も仕方ないと割り切るしかなかった。授業の合間の十分くらいなら我慢できるが、昼休みの四十分はさすがに辛い。だからあれ以来、弁当を食べ終えた後はこうして「誰も来ない」この場所に来て、過ごしていた。


午後の現国の課題はもう片付いているし、急いで戻る必要もない。教室に戻るのは、授業五分前のチャイムが鳴ってからでもいいだろう。

……だけど、先生に見つかったりすると厄介だから、できれば早めにここを離れた方がいいのだが……いいや、別に構わない。怒られたっていい。立ち入り禁止の割に、鍵をかけない方が悪いんだ。


俺はその場に座り込み、そのままごろんと仰向けになった。手も足も投げ出して、大の字になる。浸食ぎみの暗いコンクリートは、日光の熱でほどよく暖かかった。もちろん直接浴びる日光も、やはり暖かかった。

骨格の凸凹を断固として弾き返す、その固すぎる質感さえ除けば、ことのほか心地のいい塩梅だった。目の前に広がるのは、また青空だ。フェンスに縁取られていると、なんだかその広大さが余計に際立って見える。俺は、目を閉じることにした。


誰に邪魔されることもなく、大の字で横たわって、目を閉じて日を浴びる。こんなことの出来る場所が、この学校にいくつあるだろう。俺は、そこはかとない優越感、そして僅かばかりの後ろめたさに浸った。

視界は真っ暗だが、日光が瞼を照らしているのが分かる。ぼんやりと明るい暗闇の中で、俺が思い出したのは、あの男の顔だった。


「……………」


ここに来る途中、廊下でいつもの連中と喋っているのを見かけた。すれ違う時、思わずその顔に目を向けてしまった。

まず、目が合ったことに驚いた。そして……まるで親しい仲のように、あの厳つい虎の顔を緩めて、気さくな表情を向けてくれたことに、さらに驚いた。驚きすぎて、思わず目を逸らしてしまった。

あの男については、そんなに誰にも彼にも愛想を振りまく人物、という印象ではなかったし……正直これまで、ちょっと冷たい態度をとってしまっていた自覚もあって、なんなら「嫌な奴」と思われている想定だったものだから……本当に、思いがけないことだった。だけど、素直に嬉しかった。それだけに、動揺して咄嗟に俯いてしまった自分がちょっと情けなくて、悔やんだ。


あんなふうに笑顔を見せてくれたのは、はじめてのことだったかもしれない。そもそも顔を合わせたり、言葉を交わしたりする機会がないのだから、当然だ。


いや……本当は俺だって、もっと仲良くなりたいし、いろいろ喋ってみたい。だけど、仕方ないのだ。お互いの都合を考えれば、今みたいな関係性が一番なんだ……自分に言い聞かせるべく、心の中でそんなことを呟く。


「…………?」


いきなり、瞼の裏が暗くなった。反射的に、目を開く。


「……………」


日光が遮られて薄暗くなった視界に、まだ、あの「厳つい虎の顔」がぼんやりと浮かんでいた。あの笑顔ではない。よく目にする、いつもの仏頂面だ。見方によっては怒っているようにも見える、あの相変わらずの強面が、青空をバックにして俺をじっと見つめていた。


「……………」


その顔は逆さまで、薄暗くぼんやりとして見えた。つい先ほど見た顔だったが、記憶の中ではすでに明瞭さを欠いていた。


「…………?」


……待てよ。

違う。逆光のせいだ、薄暗く見えるのは。燦々と降り注ぐ日射を遮って、その背中に陽の光のすべてを受けることで、彼の顔はシルエットのように浮かび上がっていた。


つまり……目の前にいるのだ。今まさに、そこに立っているのだ、彼が……?


「…………えっ」


思わず、声が漏れた。ようやく、目の前の光景が、記憶の残像ではないことに気付いた瞬間だった。






「ショッピングモール?」


昼休みの廊下は、いつものようにがやがやと賑わっていた。聞き返した俺に、猿獣人の野尻が得意げな顔で続ける。


「この前、新しく出来ただろ。ホラ、でっかい観覧車があるとこ」


「ああ……なんか、言ってたな」


「そう、あそこ。行こうぜ、みんなで」


「……多いんやろ、人」


犬獣人の夏川が、相変わらずの気怠そうな表情と低い声で言う。腕を組み、バスケ部らしい背の高い身体で窓際にもたれかかるその様は、表情とも相俟って一種のふてぶてしさを感じさせる。


「それがいいんじゃん」


「嫌やって、人混み。アタマ痛なるし……だいたい、何しに行くん」


「だからいろいろ、買い物とかさ。ゲーセンとかもあるってよ」


「お店は結構、いろいろあるみたいだよ」


隣に立っていた熊獣人の浜石が、野尻の言葉に付け加える形でそう言った。丸々とした顔に浮かんだにこやかな表情とともに、まさに彼の温和な人柄を象徴するような、いつも通りの穏やかな声だ。


「映画館もあるってよ。あれ観ようぜ、この前話してた、あの実写化のやつ。ほら、二部作の……なんだっけ、イッシー?」


「……え。ぼ、僕……?」


「漫画、詳しいんじゃないの?」


「いや……小説は読むけど、漫画は、そんなに……」


「あ、そーなの」


「うん……」


そう項垂れかけた浜石が、あっと何かを思い出したように顔を上げた。


「……でも、確か、辻ちゃん……?」


浜石が俺を見る。俺は、少しだけ得意な気持ちになって、それに応える。


「『刃の催眠術師』だろ」


俺の顔を見て、野尻は一瞬だけ、驚いたというか意外そうな顔になったものの、やがて「……あ、そっか」と腑に落ちたらしい様子を浮かべた。


「辻ちゃん、好きって言ってたな。そういえば」


「まあ……アニメはあんま観てねえけどな」


そこで、俺たちの様子を見ていた夏川がふたたび、口を開く。


「ええやん、三人で行ったら。俺、パス」


「……はあ?」


「いや、しばらく忙しいんやって、実際。大会も近いし」


「知ってるけど……みんな一緒だろ、それは。俺だって野球だし、イッシーも柔道だし、辻ちゃんだって……辻ちゃんなんか、主将なんだから。なあ?」


「……まあ俺も、行けるか分かんねえけど」


俺が苦く笑うと、野尻は躊躇いなく落胆を顕にして、ため息をついた。


「……嘘だったんだな」


「え?」


「辻ちゃん、この前は『オープンしたら行こう』って言ってくれてたじゃん。嘘だったんだ、あれ」


これ見よがしに蔑するような野尻の口ぶりや眼差しに、わざとやっていると解っているはずなのに、胸の奥を逆撫でされたような気持ちになる。横で夏川が、呆れたように笑いながら小さく「またそれかよ」と呟いた。


「嘘……じゃねえよ」


「じゃあ、行くよな?」


「……行くよ、当たり前だろ」


その途端、野尻の表情はふっと雲が晴れたように明るくなる。というか、得意げに破顔する。


「だよなー。辻ちゃん、嘘つくやつ大嫌いだもんな」


それは確かに……野尻の言う通りだ。ただ、正確に言えば「嘘をつく奴」と「約束を守らない奴」である。


「辻ちゃんは行くってよ。お前らも来るだろ?」


いつもこうして、気づくと二対一のような構図に引きずりこまれている。当然、とでも言うような自信満々で二人を見る野尻に、浜石も夏川も、よく似た苦笑いの顔を浮かべた。


「僕はたぶん、行けると思うけど……」


「てか何なん、そのいつものやつ。困ったら辻ちゃん味方につけるの、やめえや」


「味方とかじゃないから」


突然、隣に立っていた野尻が腕を絡めてきて、ぴったりと身体を密着させてきた。更には、まるで恋人にでも甘えるような表情で「なあ、辻ちゃん?」などと、俺の顔を覗き込んでくる。

夏川はため息をついてから、呆れた声で、今度は俺に向けて言う。


「だいたい、辻ちゃんも辻ちゃんやろ。なんで毎回、ちゃんと乗ってやっとんねん」


「……いや、乗ってやるっていうか、んん……」


「ていうか、お前らが冷たすぎるんだって。最後の夏なんだから、思い出つくりたいじゃん。なあ辻ちゃん?」


「……まあ、それは確かに、そうだな」


「だよなあ?もう、解ってくれるの辻ちゃんだけだよ。俺の気持ち……」


そう言って野尻は、俺の肩に頬を寄せてきた。頭半分くらいの身長差があって、野尻が頭を傾けると、ちょうど俺の肩の位置でしっくり落ち着くことになるのだ。

されるがままにしていると、夏川が眉をひそめて言った。


「……できとんのか、お前ら」


「あ、知らなかった?」


野尻がいきなり俺の手を取り、指同士を絡めながらそれを繋いだ。いわゆる「恋人繋ぎ」だ。


「ちょ、やめろよ」


思わず吹き出し、握られた手を引っ込めて身体を押しやると、野尻は悪戯っぽくけらけら笑った。冗談だよ、と俺の肩をぱしんと叩いてから、二人の方を向き直り「とにかくさ」と、改めて言葉を始めた。


「行こうぜ、楽しいから。せっかくだから、他の奴とかも誘ってさ」


「他の奴?」


「だから、あんま遊び行ったことない奴とかさ。例えば……」


野尻が言いかけた時、正面に立っていた夏川の視線が、不意に泳いだ。ドーベルマン系特有の細長いマズルは、変わらず俺たちの方を向いていたが、その半開きで眠たそうな目は、俺たちではなくその背後を見つめていた。彼は何も言わず、その視点をどこかの一点へ向けたまま動かない。


「…………?」


続いて浜石も、夏川の見つめる方向を素直に振り向いた。浜石もまた同じように、口を開くことなく、じっとその何かを見つめている。ただ、きょとんとしていた浜石の表情に、少しだけ影が差したような気がした。

二人の挙動に、野尻も「……なんだよ?」と、振り返った。そして、小さく「あっ」と、声を漏らした。


「……………」


なんとなく、嫌な予感がしたが……渋々、俺も振り返った。


予感は的中していた。

皆の視線の先にいたのは、同じクラスの狼獣人、武倉友也だった。


「……………」


武倉は、廊下の向こうからこちらへ歩いて来ている。その表情は暗く、ぴんと上を向くはずの長い耳は、くたっと悄げて生気を失っている。ポケットに手を突っ込み、俯き気味に背骨を曲げて下方を向き、まるで人目を避けようとするように小さくなっていた。しかし、その態度がかえって思い詰めたような重苦しい雰囲気を醸していて、かえって目についた。普段の明るくて穏やかな武倉との温度差を知っていれば、尚更のことだ。


すれ違ううちの何人か……つまり普段の武倉、あるいは最近彼の身に起きた出来事を知っていると思われる生徒たちが、二度見をするようにその背中を振り返る。ただ案じるように見送る者もいれば、連れとひそひそ喋り出す奴もいた。しかし、誰一人として声をかけようとはしなかった。


思わず、ため息が出た。俺は元の姿勢に戻り、腕を組んで窓際の手すりに寄りかかった。他の三人はまだ、武倉の方を見つめている。それでも、その光景は何というか、他人の不幸を肴にしている構図のようで、眺めているだけでもうんざりしてしまい、耐えられなかった。


「……………」


だが、暫くして……三人はほとんど同時に、おもむろに目を逸らしてしまった。目を伏せた、という表現の方が正確かもしれない。程なくして、すでに別の方角を向いていた俺の視界に、その姿が入って来た。他の三人はあれだけ目を向けておきながら、実際すれ違う段になった途端に気まずくなってしまったらしい。気持ちは分からなくもないが……正直「情けない」と思った。


今まさに目の前を、武倉が通り過ぎようとしている。普段は凛々しいあの狼の顔に、この上なく寂しそうな表情を浮かべて。その憔悴しきった様子は、近くだと余計に不憫に見えた。


……と、その時。


「……………」


不意に、武倉が顔を上げた。


「……………」


不思議な感覚だった。一瞬のことだったはずなのに、まるで映像が数秒の間止まったような感じがした。そこにいた四人の中で、目が合ったのは俺だけだった。


「……よっ」


軽く声をかけると、武倉は驚いたように目を泳がせた。


「……っ、お、おう……」


突然のことにたじろいだようで、声は小さく、表情もぎこちなかった。それは少なくとも、俺の知っている武倉に相応しい振る舞いではなかった。


「元気か?」


「……ああ、うん。元気……だよ」


口元は控えめに緩んでいたものの、眼差しにはどこか怪訝そうな表情が浮かんでいた。いきなり話しかけられて困惑しているらしい。困らせていると思うとちょっと気まずかったが、気付いていない振りをして言葉を続けた。


「武倉、あの……さ、この前、新しくできたショッピングモール、あるだろ?」


「えっ、あ……うん」


「今度、みんなで行こうと思うんだけど、来るか?」


「……えっ……?」


隣に立つ野尻が小さく顔を上げた気配を感じた。それまで微妙な表情を浮かべていた武倉は、一転にわかに目を丸くして、今度は純粋な驚きの顔になった。まったく思いがけない展開だったようだ。


「ほら……俺たち、高校最後の夏だろ。思い出になるかなって思ってさ」


「あ……ああ。確かに、そうだね……」


「どうだ、来るか?」


「……んん、えっと……」


そう小さく呻き、武倉は俯いた。しばらく下を向いて固まり、考えを巡らせているらしき沈黙が流れた。途端に我に返ったように、気まずさを覚える。一瞬だったか数秒だったのか分からないが、俺にはもっとずっと長い時間のように感じられた。

しばらくの黙考ののち、武倉はゆっくりと顔を上げた。


「……予定次第、かな。ちょっとまだ、分かんないから」


「そうか。まあ、そうだよな」


「……ごめん」


「いや、全然。また、日程とか決まったら聞くわ」


「ああ、うん。そうだね」


「おう。じゃあ、またな」


「うん……じゃあ」


小さく笑ってから、武倉はふっと瞼を伏せて、もともと向かっていた方へと廊下を歩きはじめた。


「……………」


相変わらず、小さく丸くなったままの淋しげな背中を、俺は見送った。


「……………」


遠くなる背中を見つめながら、たった今の出来事が頭の中で反復していた。ほんの一瞬……取るに足らないような言葉と仕草だったのだが……あの去り際の、ふっと目を逸らした瞬間の陰った表情。ぽつりと言った「じゃあ」という一言……そこに何というか、普通ではない暗さを垣間見てしまったような気がして、どことなく胸がざわつく感じを覚えた。それが一体どんな類の予感、というか不安なのか、俺自身さえよく分からなかった。


「……おい」


狼の背中をぼうっと見つめていた俺を、野尻の声が現実へと引き戻した。


「んっ……?」


「何だよ、いきなり。勝手に誘ってさあ」


「……だって、お前が言ったんじゃねえか」


「何が?」


「他の奴も誘って、って」


「いや、まあ、言ったけどさ……」


野尻は答えに窮した様子で、苦い表情を浮かべて後ろ頭をぼりぼりと掻く。困った時の奴の癖だ。


「別に問題ないだろ、誘ったって。アイツだって……ちょっとは気、紛れるだろ」


「まあ……そうだけど」


頭を掻く手を止めて、野尻は小さなため息をついた。


「……落ち込んでたな、アイツ」


「そりゃそうやろ」


関心があるんだかないんだか分からない、素っ気ない口振りで夏川が言う。


「声、かけてあげたほうがいいのかなとは、思ったけど……」


浜石の控えめな声が続く。その丸っこい顔には、なんとも言いがたい複雑な表情が浮かんでいた。


「まあでもさ。変に構うより、そっとしといた方がいいんじゃないの」


野尻が言った。そっとしておく、という言い回しに対し、心の中で「何も言わなかっただけで、ずっとジロジロ見てただろ」と、反射的に反論した。



彼……武倉は、この赤阪高校において有数の強豪チームであるサッカー部で、主将を務めている。いや、正確に言えば一週間前まで務めていた。先週末の地区予選の決勝戦において惜敗し、サッカー部を引退したのだった。


相手はこれまで敗けたことのないチームで、大局的にもこちらが勝つと予想されていた試合だった。しかし、PKまでもつれこんだ激戦の末に、我らが赤阪高は敗北を喫してしまったのだ。しかも、最後のPKでシュートを外してしまい、結果として勝敗の分け目を決めてしまったのは、他でもない武倉であった。


翌週の月曜日。登校してきた武倉は、まだまだ傷の癒えていない様子だった。普段の人懐こい穏やかな笑顔も、誰にでも愛想のよい、明るい立ち振る舞いもすべて忘れてしまったように、一日中「心ここに在らず」の雰囲気だった。授業の合間の休憩時間もひとりで塞ぎ込み、誰かと口をきくこともなく、休み時間になると教室を出て、どこかへ消えてしまった。クラスには、純粋に彼を案じる者も少なくなかったが、その一方、単なる会話の話題として彼を持ち出したり、本人の不在をいいことに好きなように噂したり、あまつさえ下世話な推測まで働かせる者もあった。


俺は、みんなのそういう雰囲気が嫌だった。



「……でも、さ」


あくまでも控えめな口ぶりで、浜石が言った。


「僕たちと一緒に行って、楽しめるかな……なんか、気遣わせちゃいそう」


んん……と、夏川が唸る。隣で、野尻が「そうだよな」と頷いた。


「そうだよ。そりゃ辻ちゃんはさ。仲良いかもしれないけど……」


「いや、別に仲良くねえけど」


「……えっ?」


「ほとんど話したこともねえし」


呆気にとられたような顔で、野尻は「……いや、でも」と続ける。


「今、なんか仲良い感じだったじゃん」


「別に普通だろ。お前らが目、逸らしただけだろ」


「いや、まあ……」


一瞬だけ苦笑いを浮かべたものの、野尻はすぐに話題を引き戻した。


「でもなんか、繋がりあるのかと思ってたけど。キャプテン同士で」


それはよく言われる。あっちはサッカー部の主将、こちらはラグビー部の主将。しかも同じクラスだから、当たり前のように交流は深いと思われていたりする。もっと言えば(向こうが気づいているのかどうかは知らないが)通学の電車も同じ路線に乗っていて、何度か顔を見かけたりもしている。だが実際、俺は武倉とほとんど話したことがない。部長が出席する会議とか講習の場で数回程度、言葉を交わしたことがあるだけで、膝を交えたことなどは一度もないのだ。


野尻が言う。


「まあでも、俺もほとんど喋ったことないわ。なんか、女子とよく話してるイメージ」


確かにその印象はある。武倉は男の友達に加えて、女子とも普通に楽しそうに喋っている。俺からすれば、信じられない話だ。異性となんて、いったい何を話せばいいのか分からない。その一方で、言われてみると、男子同士の繋がりの場などでは、あまり顔を見ないという印象もあった。


とはいえ、教室などで見かける武倉の振る舞いは誰に対しても気さくで、和気藹々としていた。いつだったか浜石も「武倉くんは話しやすい」というようなことを言っていた記憶がある。そんなふうに人柄が良くて、おまけに凛々しい端正さもあるから、男にも女にも好かれる……ということだと思う。


その人柄を踏んだ上で、正直……もう少し仲良くなれるかな、と思っていた。立場も同じだし、武倉は男女先輩後輩問わず誰とでも上手くやれる懐の深い男……少なくとも俺は、そう思っている。正直、俺はあまり外交的な性格ではないから、初対面の誰かに話しかけるのはあまり得意ではないのだが……武倉であれば、何となく友達になれそうな気がしていた。


しかし、淡い期待が叶うことはなかった。基本的には誰にでも話しかける武倉なのに、俺に声をかけてくれることはほとんどなかった。教室でも、部活絡みの場においても。そこでこちらから話しかけてみたら、すぐに話を切り上げて、立ち去ってしまったりして……もしかしたら、気のせいなのかもしれない。だが、思うに……どうも俺は、アイツから「避けられている」節があるのではないかと、そう感じるようになった。


俺の一方的な思い込み、なのかもしれないが……さすがにちょっと、悲しかった。虎族で大柄で、こんな風貌だから怖がられたり避けられたりするのは、まったく珍しいことではない。それはもう仕方のないこととして、最近は気にしなくなったつもり、だったのだが……改めて「俺ってそんなに近寄りづらいのか」と、思いがけず久しぶりに堪えてしまった。


「まあ、モテるんだろうな、どうせ。サッカー部の主将だし」


野尻が口を尖らせて、僻みっぽい口調で言う。これまであまり話題にしたことがなかったが、言い方からして武倉のことはあまり快く思っていないらしい。


「……でもさ。アイツあんまり、キャプテンって感じしないよな」


相変わらず勝手な物言いをするなあと思いながら、一応「そうか?」と、相槌を打ってみる。野尻は「うん」と頷いて、平然とした口ぶりで言葉を続ける。


「俺、ずっとあの人が部長だと思ってたもん。あのホラ、なんか、怖そうな人……」


興味のなさそうな雰囲気だった夏川が、にわかに口を開いた。


「岩瀬やろ。三組の」


「ああ、そう、たぶんその人」


岩瀬……いちおう、面識はある。部活動生の集会などで武倉の隣にいたので、何度か三人で喋ったことがあった。体格のいい獅子獣人で、肩書きは副部長、ポジションはキーパーだと言っていた。威圧的な風貌に見合った、いかにも厳格そうな感じの男だった。確かに野尻の言う通り、いわゆるキャプテンっぽい存在感があるのは、どちらかというと彼の方かもしれない。ぱっと見かけた人がそう思い込むのも、無理はないように思う。


「夏川、知り合いなの?」


「まあ、仲はええ方かな。二年の時、同じクラスやったから」


「へえ」


「アイツは副部長。でも実際、二人で分担して……みたいな感じ、やったらしいけどな。部員多いし、あの二人だとたぶん、ちょうどええんやろ」


ちょうどいい、というのは推測するに、岩瀬の厳しさ(あくまでイメージだが)と、武倉のもつ温和さが上手く調和する、という意味だろう。


「やっぱな。そんなことだろうと思ったよ」


……そんなことって何だよ、と思うが、もちろん口には出さない。


「ずるいよな。イケメンで優しくて、しかもキャプテンとか。ずるいわ」


さすがに呆れて、思わず「何だ、それ」と言葉が漏れた。隣の浜石も、困ったような苦笑いを浮かべている。


「嫉妬すんなって。彼女おれへんからって」


意地の悪そうな笑みを浮かべながら、夏川が言った。


「はあ?そんなんじゃねえよ!」


野尻がムキになって言い返す。四人の中で唯一、彼女(しかも高校に入ってから二人目)のいる夏川は、余裕の笑みを浮かべたまま平然としている。それがますます気に入らない様子で、野尻は「彼女がいる=偉い、ではない」ことを主張する御託を、一方的に並べはじめた。浜石はそれを、変わらず苦笑いしながら聞いている。野尻の言葉を聞き流しながら、まだ俺は武倉のことを考えていた。


俺個人としては、あれだけの部員数をリーダーとしてまとめている武倉に対して、尊敬の念を抱いている。部長という立場の過酷さは、その立場を経験したことのある人間にしか分からない……と、日々感じる。俺自身、この立場に就いてようやく、先輩の苦労を微塵も理解できていなかったことに気付かされたのだ。それはきっと、武倉も同じではないかと思う。そういう意味で、尊敬とはまた別に、共感をする気持ちもある。


主将はリーダーであり、皆を率いる立場だ。簡単に愚痴をこぼすことは出来ないし、弱音を受け止めてくれる年長者もそう多くない。まして武倉が率いているのは、県内屈指の強豪として知られているサッカー部なのだ。その気苦労が計り知れないことは、想像に難くない。


先週末、試合が終わった瞬間。俺は友人たちと座った応援席で、グラウンドで武倉が泣き崩れるのを見た。はじめて、アイツが泣いているところを見た。いつも穏やかな武倉の、溢れ出た本物の感情を、その時はじめて目の当たりにした気がしたのだ。そしてその気持ちが、何だか俺には分かるような気がして、気づけば目頭がじんわりと熱くなっていた。


帰り道。惜しかったよな、などと、言葉少なに試合を振り返っていた仲間の会話に、俺は入っていくことが出来なかった。うっかり口を開くと、気持ちが抑えられなくなってしまう気がした。まして、武倉の気持ちを考えると、猛烈に胸が痛んだ。黙って歩きながら、チームの仲間と最後の時間を過ごしているだろうか、それとも落ち込んでひとり塞ぎ込んでいるのではないか、そんなことばかり考えていた。そんな想いもあったから、噂話に勤しむ奴らの神経など俺には到底、理解できるものではなかったのだ。


そもそも元来、他人のことを噂するのは言うのも聞くのも嫌いだ。あんなのは陰口と変わらない。子供じみた、くだらないことだと思う。つい先程も、ある女子の集団が「なんか試合の後、彼女とも別れちゃったんだって」とかいう噂話で盛り上がっているのを耳にして、思わず胸がむかむかした。


表面的には心配しているような言葉を選んでいるあたりも、余計に腹立たしい。もし自分が言われたら、とか考えないのだろうか?俺だったら、何も知らない連中にさした根拠もなく知ったような口をきかれるのは、俺の耳に届こうが届かまいが、心底頭に来る。お前に何が分かる、と言ってやりたくなるだろう。


「あっ、でも」


なお続いていた「彼女論」の駄弁を中断して、野尻は何かを思い出したように声を漏らした。他の二人とともに、思わずその顔を見た。だが同時に、嫌な予感がした。


「……そういや。ちょっと聞いたけどさ。アイツ……あの試合の後、彼女と別れちゃったらしいぜ」


妙なひそひそ声になって、野尻がそう言った。


反射的に、小さなため息が漏れた。表情が険しくなるのが自分でも分かる。いったい何処の誰から聞いたのか……と呆れる気分だったが、噂話が好きな野尻の性格を鑑みれば、無理もない。野尻は陽気で楽しい男だが、こういう下世話で無神経なところがたまに癪に触った。しかし野尻は、俺の仕草なんか気に留める素振りもなく、前のめりになって噂の続きを語り続ける。ついさっきまで「そっとしておけ」などと言っていたのは、どこの誰だったか。


「なんか、聞いたんだけどさ。あの試合があった、次の日に……」


俺は、頭の上の小さい耳をくるりと後ろに向けた。野尻の声が少しだけ遠くなる。こういう時、ネコ科でよかったな、と思う。


怒って空気を悪くするのは嫌だから、噂話が始まった時はいつもこういう態度をとる。しかし、野尻は一向に気付く様子がない。いや、気付いた上で無視しているのかもしれない。浜石はなんとなく察してくれて、それとなく話題を変えようとしてくれる。夏川に至っては、そもそも話を聞いているのかさえよく分からない。興味のある話題の時だけ口を利いて、あとは「寝てるのか?」と思うことも珍しくない。


やりきれない気持ちで、視線を窓の外へとやる。なんとなく、理科棟の方へと目を向けてみた。そういえば、先ほど武倉は理科棟の方へと向かっていったが、どこに行くつもりだったのだろう。建物のほとんどが実験室とか資料室で埋め尽くされている理科棟は、特別な用事がない限り立ち入ることはないと思うが。


……待てよ。


「……………?」


今、何かが動いた気がした。理科棟の屋上だ。


なにかの鳥だろうか?いや違う。人影のように見える。やはり、もぞもぞと動いている。

誰かいるのか。生徒は立ち入り禁止のはずだから、何かの業者の人……とかだろうか?


設備点検とかだろう。よくあることだし大したことではない。見つめている理由なんてなかった。だが、何故だかその人影から目を離すことが出来なかった。いや、一瞬見えた気がした白色のシャツと黒いズボンが、学生の格好のように見えたのだ。だから、もしかして生徒なのではないかと思っ……。


その時、人影がすっくと立ち上がった。


「…………!」


屋上を囲うフェンス越しに、その顔がはっきりと見えた。

俺が、というか俺たちが、よく知った顔だった。というより、たった今、目の前で見た……。


「……………」


その顔は、すぐにまた奥に引っ込んで、見えなくなってしまった。どうして。何のために屋上なんかにいるんだろう。そう考えた瞬間……すっと血の気がひくような、嫌な予感がした。


『うん……じゃあ』


つい先ほどの、あの言葉、あの表情、あの仕草が、ありありと目の前に蘇ってきた。あの胸がざわざわする感覚が、ますますはっきりとした不快感としてぶり返してくる。なにか点と点が線で結びついたような、合点のいった感じがした。しかし、感じるのは「腑に落ちた」とかいうような感覚ではなく、むしろ胸がつかえるような、えも言われぬ苦々しさが一気に胸中を充たしていくような、そんな不安感だった。


まさか。

まさか、だが……変なこと考えてるんじゃ、ないだろうな。


「……………」


そんな訳ない、と思う。とはいえ、可能性としては……無きにしも非ず、ではある。


「……ちょっと、トイレ行ってくる」


屋上を見つめたまま、意識するよりも先に口がそう言っていた。仲間達の返事も待たずに、見失ってしまったあの背中を追いかけて、俺は理科棟へと早足で歩き出した。


他の三人は、その場に立ったままだったと思う。トイレあっちだろ、辻ちゃん——そんな野尻の声が、遠くで聞こえた気がした。

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