空見下げ どこか遠くに いきたいな そう言う君の 手を引いた 


どこにもいかないで






















★★★



 ひどく暑い夏の日のことだった。


 どこからどうやって侵入したのか、鍵がかかっているはずの屋上にいた君は、手すりに背中を預けた姿勢で高い空を見上げていた。

 私は足音を立てないように気を付けながら、そっと近づく。

 きっとそんな私の存在になんて気がついていただろうに、君はなんの反応も見せないで、ただ空を見上げたままでいた。


 まったくおかしな気分。


 君は確かに空を見上げていて、空は君より高い位置にあるはずなのに、どうして君はそれを――見下ろしているように見えるのだろう。

 雲の浮かぶあの遠い水色に、ともすれば君は吸い込まれていってしまうように見えるのは、どうしてなのだろう。


「……ねえ」


 私は話しかけてみる。

 その一言がきっかけでなにかが壊れてしまわないように、恐る恐るといった口調。

 しかし、何が壊れてしまうのかはわからない。


「……なに」


 君の声が帰ってくる。私は安心する。

 よかった、いつもの声だ。

 いつもの聞きなれた、君の声だ。


「こんなところで何してるの?」


 その声に勇気をもらって、私はさらに踏み込んでみる。

 

「立ち入り禁止でしょ、屋上は」

「……どこか遠くにいきたいな、と思ってさ」


 君はそう言って見上げていた顔をこちらに向ける。と、私は驚いてしまう。

 何が驚いたって、いつもは真っ黒なはずの君の瞳が、に変わっていたのだ。


「……」


 私は声を出せない。

 君は「何よ」と、そんな私を訝しげな表情で見る。


 でもその瞳は、やっぱり空色だ。


 澄んだ水色のそのなかに雲が浮かんでいて、きっとその大気圏の向こうには昼間の星があり、月があり、銀河がある。そんな世界。


 そう、君の目は、宇宙に変わってしまったのだ。


 私は慌てて君のもとまで駆け寄った。


 こんなに近づいても、君の目には私の姿が映っていない――そう思うと怖かった。理由はわからないけど、酷く酷く怖かった。

 私を置いて、君は一体どこにいくつもりなのだろう。

 どこにいってしまうつもりなのだろう。


「ねえっ」


 自分の声が震えているのがわかった。

 私は君の手を引いた。

 こんなに暑い夏の日なのに、君の手は冷たかった。


「どうしたの、そんな顔して」


 呆れたように君が笑う。何をそんなに慌てているんだ――とでも言いたげなその口調。

 いつもと変わらないその声が、今度は私を安心させなかった。


「……」


 言うべき次の言葉が出てこない。もどかしくて涙が出そうになる。

 一体何を怖がっているのか――そんなの私にだってよくわかっていないのだ。

 でも、ここで何かを言わないときっと後悔する。絶対に後悔する。それだけはわかった。


 だから私はせめて、君のその手を離さなかった。


 絶対に君に言うべき次の言葉を見つけられるまで、ずっとその手を引いていた。


 ひどく暑い夏の日のことだった。 

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だいたいいつも――  第1回カクヨム短歌・俳句コンテスト短歌の部 きつね月 @ywrkywrk

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