第2話 お姫様はどうしたの


 8月30日快晴。

 小笠原気団が列島をおおう気圧配置が続くらしい。天候については明日も何の懸念もない。早起きしてしまったのでいっそ登校してしまうことにする。風に涼しさを感じる。もう夏が……、とか思ってたら学校まで至る坂道で汗だくになった。

 正門扉がゴロゴロと音を立てながらスライドされる音が聞こえる。今ならできそうだ。お祭り気分だからか。思い切ってやってみようと決意を固めた。


「守衛さん、おはよ――」


「おはようございまぁす」「はい、おはよう」

「おはようございます!」「はい、おはよう」


 背後からの大勢の声に驚いて私の言葉は中途半端に止まって、やたら親しげな感じになってしまった。追い抜いて行った集団の背中を見送る私に。


「はい、おはよう。岩井朱背さん、仮装行列がんばってね」


 朗らかに声をかけてくれた守衛さんは、開き切った門扉がロックされていることを指先確認してから守衛所の方に去ってゆく。生徒の顔と名前を覚えることは不審者への警戒のために必要であるのかもしれないけど、そういうのとは無関係な気持ちがこもっていたと思うな今のは。明日はしっかりしようと心の中で唱えてみる。


 駐輪場まで自転車を押していると、猫のぬいぐるみを背負った男子が私を追い抜いて行く。

 校内は自転車を押して歩け。校則の「7 通学等について」を読み上げようか?

 ようやく私に気付いて振り返る春雨。追い付いた私は、正門で挨拶をしたかどうか彼に聞いた。会釈とか「うーっす」とかじゃなくだよ。ちゃんとしたと言う春雨がはっと気付く。


「おはよう朱背」

 

 先を越された。守衛さんに少し似た、朗らかな挨拶だ。

 私たちが駐輪場手前で留まっているうちに、何人かが声が掛ける。たしかに春雨はちゃんと返事をしていた。


 ずいぶん遅れて挨拶を返してから、自転車を置く。

 こんなに早く登校してしまったが今日は稽古はない。午後からの仮装行列、明日の本番に備えて体力をできるだけ使わずに温存する予定である。

 

 仮装行列では、創立祭の前日に高3生が野外劇の衣装を着たまま街中を練り歩く――旧校舎が新築された頃、当時の学生たちがK城近くにあった石碑を現在の位置まで運んだという歴史にちなんだ伝統行事である。昔から8月末はお祭り騒ぎだったのだ。


 教室に向かいながら、私たちはこれまでの稽古について話をはじめた。


 **


 3日前――8月27日の朝。

 

 変なことを言い出した左織を私はちゃんと説得できたはずだが、実際のところどうだろうかと教室内を覗き込んでみる。既にみんなはほぼ全員集まっていて、説明に耳を傾けている。

 

 左織の横顔には昨日の淀んだ気配はない。いつもどおり……か?

 普段よりみなぎる覇気。みんなが真剣に聞いている話に耳をそばだててみた。


 通し稽古は一日一回だけにする。

 グループを分けて別の場所で音響に合わせた稽古をする。


 どうやらそんな方針でゆくらしい。大丈夫そうだな、と思ったところで教室後方にいた春雨と眼が合った。なぜか自慢げな表情である。


 両手が使える彼は私にハンドサインを送る。


 拳をつくって立てた親指――なんかいいことあったのかな?

 宙にふらふらとする指先――蝶々? 弱ったセミ。

 飛んでいた指が真っすぐ落ちたのを掬い上げる仕草――え?



「左織っ! ホタル見に行ったのか! 春雨と!」


 驚いた勢いで声を上げたので、稽古の流れを説明していた左織も、他のみんなも一斉にこっちに注目する。


「そうそう、網で掬ったら光ってた。朱背は大丈夫って言ってたけど巡回してた警備の人に見つかって怒鳴られたんで二人で走って逃げたよ」

 

 教室が和む中、まだ扉の廊下側に立っていた私も笑いながら教室に入って集団に加わる。

 

 春雨、ちゃんと言ったんだろうな? 思念を送ってみた。

 ああ、間違いない、という感じで彼は頷いた。そうかぁ。


 なんだか安心してぼうってしているうち。


「というわけで、1班は旧校舎、2班は教室。3班は生徒ホール。残りは衣装の仕上げでよろしく」


 指示が発令された。私は何の班かな? 衣装班で合ってる?


 聞いたら何言ってんのという顔をされた。


「朱背と私は30分おきに三つの班を順番に巡って各班で稽古に参加するんだよ」


 誰の代役でもできるでしょ朱背は、という感じで軽く重大な任務を担わされる。


 1班 左織  1班 ――  1班 朱背

 2班 朱背  2班 左織  2班 ――

 3班 ――  3班 朱背  3班 左織

 

 順にスライドしていけば、少人数で集中的な稽古ができるらしい。薄っすら気づいていたが、結局、各班を巡ると常に公女プリンセスはいないわけで、私はほぼ公女プリンセスの代役をすることになった。


 左織に昨日の意図――私に公女プリンセスをさせようとする気配はもうない。稽古の効率を考えてのことだろうが、鬼のような仕打ちだと思う。

 3回ほど班の移動を繰り返したらひどく疲れて動けない。喉は慣れているけど、踊りを続けた結果、全身の筋肉が痛む。


 地獄だと思ったが、翌日にはなぜか楽に感じている。

 人間とは何にでも慣れてしまうものなのだ。


 夕方に行うグラウンドでの通し稽古は本番に近い緊張感が漂いはじめた。間違いなく精度が上がっている。


 そんな稽古を3日続け、私たちは最終リハーサルを終えた。

 衣装も大道具も完璧に仕上がっている。


 準備できることは全てやって、誰もが浮かれる気持ちを抱いてて集合写真を撮ろうになったのだ。


 

 集合写真を見て笑いながら教室に入ると開門直後だというのに既に何人かが集まっている。

 私は春雨の声真似をして挨拶したらみんなも笑った。


「左織遅いねえ」

 

 誰かが言った。


 いつも時間どおりに来る彼女は今日は遅い。


「左織遅いねえ」


 時間は9時を過ぎている――


 別の誰かが言った。

 時間が経つにつれてみんなは黙って、教室は静寂する。

 

 仮装行列の準備に取り掛からないといけないのに左織がいない――

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